Separation - 2
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1986年8月10日
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夕刻に差し掛かっても容赦なく蒸しつける西日の中、相変わらず騒がしく蝉が鳴いていた。
無遠慮に、トップギアで疾駆するスタリオンが撒き散らした排気ガスが、ぴったりと背中に張り付くほど汗に濡れたシャツに染み込んでいく。
課せられたノルマを消化して、今日の写生の題材としていた河原からの帰路。
家の周りを高く囲うカーキ色のブロック塀に沿って最後の角を曲がると、ゴールドマリーとアイリスが等間隔で整然と並ぶ植え込みの脇から、中を伺っている少女が見えた。
「なに。人の家に。ここ、俺んちだけど」
帰りしな、思うまま楽しそうに遊んでいる子供達を2組見かけたせいで虫の居所が悪かったため、博治はことさらぶっきら棒に声をかけた。
「え? あ、ごめんなさい!」
思いがけず、振り向いたその顔が可憐だったことに、博治は少し戸惑った。
しかし、博治もいくらか年かさであれば絵のモデルとして相当の美人を見てきている。その驚きを表に出すことはなかった。
「別に。……なんか用あるの?」
「用とかじゃなくって、あのぅ……」
博治も、真似するように門から自分の家を覗きこんだ。
薄い水色で塗られた家屋の外壁の4隅には、上端から下端まで色の異なる灰のタイルがあしらわれており、同じく灰色の屋根が一つ一つの窓の上からせり出している。
西洋風の様式もそうだが、なにより3階建ての建物は、この辺りではかなり珍しい。
すぐ横の大きな車庫には、第3世代と第4世代のマスタング・クーペが並んでおり、一目で持ち主が裕福であることが分かる。
実際にこのようなことは茶飯事だったが、だからといって博治は見過ごすことはしなかった。
「なんなの?」
詰問するかのような調子で尋ねる。
まっすぐに自分を見据える博治の態度に少女は面食らった。どうにか細く声を上げる。
「あの…お姉ちゃんを探してて、こっち行ったと思って……」
「お姉ちゃん? うちに?」
意外な答えに、博治は少し考えてからアトリエの方に目を向けた。
新しいモデルだろうか?
窓にはカーテンがかかっており、中の様子はここからでは伺えない。
しかし、この考えはすぐに否定した。自分と同じ頃の子の姉ならモデルにはならない。
そもそも、今日父が絵を描く予定はなかった。やはり間違いだと結論付けた。
「だけど、ここにはいないと思うけど」
「うん。ごめんなさい。ごめん」
ばつが悪そうに少女は繰り返した。小さく頭を下げて謝ると、足早に去ろうとする。まだこの辺りを探すつもりなのだろうか。
「ねえ! お姉さん、まだ探すの?」
小走りに遠ざかっていく背に、博治は声をかけた。
「え……うん」
足を止め、振り向いた少女の顔には訝しむような色が滲んでいたが、構わずに尋ねた。
「俺も一緒に探していい?」
南第一小学校が夏休みに入ってから、既に二週間が経っていた。
博治にとって、長期の休みは平素以上に苦痛でしかなかった。
ただ毎日、義治の与える一定の課題に向かう。外に出る時も、食事のための必要最低限の金額のみが渡された。使途が分かるようにレシートは残すように言い付けられ、もし異なった使い方をすれば罰が与えられる。絵を描くこと以外の自由を一切許さない、偏執的な管理を受けていた。
隠れて友達に連絡することも博治はしなかった。過去に外で友達と遊んでいることが義治に見つかった時、父はその場にいた全員の名前を問いただすと、嫌がる博治を引きずって各家庭に赴いては責めつけて回った。
学年が上がり、クラスの顔ぶれが変わってもそのことは殆どの生徒に知れ渡っている。忌避されるのは目に見えていた。また、仮に付き合ってくれるものがいたとして、次に見つかった時には一体どうなるだろうか。
自発的に顔を見せる変わり者も中にはいたが、思い立ったときだけ現れる性質で、この休みには始めの一度切り姿を見せていない。
たった10数日で、既に十分博治はうんざりしていた。新学期までの残りの日数、これが続くのかと思うと気が滅入った。
知らない子とでも、少しでいいので話がしたいと思った。
少女は、博治の意図を図りかねているようで、何も答えなかった。
その表情から歓迎されていないことだけは博治にも察せられたが、それでも近くに駆け寄った。
「どこから来たの」
少女は東の方に指を差した。方角的には、ここから数分歩くと莇野駅に着く。
「駅から? 電車?」
「ううん。歩いて来た」
「なんで? じゃあ、家も近いの?」
「え、うん」
歩いて来られる距離だという答えが引っ掛かっていた。
この近くの学区の小学校には、博治の通っている南第一小学校しかない。
「うそぉ。 小学生でしょ。学校は?」
博治は今5学年である。同じ学校で知らない生徒だとしたら年の離れた低学年しかないが、この少女は低学年には見えなかった。
「夏休みで引っ越して来たから。まだこっちでは、行ってないけど」
「なんだ、そうか。じゃあ、どこから引っ越して来たの」
しばらく俯いてから、少女は博治の方を見返した。
その視線は鋭く、警戒と敵愾心に染まっていた。
「答えたくない。なんでそんなこと聞くの。関係ない」
見咎められてしおらしくなっていた少女も、答えるうちに平静を取り戻していた。
無自覚にではあったが、立場の強さから浅慮に質問を繰り返していただけの博治は、少女のいきなりの態度の豹変に動揺する。
「え、なんでって……。だって、僕の家を勝手に見てたから」
「なにそれ。もう謝ったよ」
もはや軽蔑の念すら含まれている視線を切ると、少女はくるりと向き直るや否や、先だって彼女が指差した方向へと駆け出した。
曲がり角に消えていく後ろ姿に、動揺が逆上へと一瞬で塗り替えられる。
反射的に後を追うと、角の向こうに見えた少女に向けて大きく叫んだ。
「はぁ!? 謝ったら済むわけ!? 待てよ!」
それ以上追いかけはしなかった。
それでも、次の角を曲がって見えなくなるまで、博治はどんどん小さくなっていくその背を睨み続けた。
部屋に戻ると博治はリュックを床に投げだした。
乱暴な扱いに画材入れの蓋が開き、リュックの口からビリジアンの絵の具が飛び出す。
ややくたびれた馬毛の筆が、広がった開け口からその頭を覗かせていた。
一声唸って、転がった深緑のチューブを蹴り飛ばすと、博治は机に両肘を付いて拳をこめかみに押し当てた。
――ちくしょう。
嫌な奴、性格が悪い。学年が上がるに連れて、言われることが増えていた。
お前らみたいなやつが馬鹿を言うな。
そう直接口に出しはしなかったが、博治も言われる度に反発した。ますます沼にはまっていくようだった。
自分を見るクラスメイトの目と、さきほどの少女が博治の中で重なった。
――先にそっちが勝手に家見たろ。見んな、馬鹿。
悪態を突くことで無意識の自己防衛を図る。
初めて会った同年代の子供にも、そのような態度を取られたことは博治を痛く傷付けていた。
夜の帳が落ちて暫く経ったころに、ようやく博治は落ち着いていた。
微かに漏れ込む廊下の灯もすっぽりと闇に飲まれていたが、博治は暗い中を真っすぐに横切った。
ドア横のスイッチにたどり着くと、蛍光灯を点す。明るくなった室内を、眩しさに目を細めながら一望する。
驚くほど早く、博治は箪笥の脇に緑色のチューブが転がっているのを見つけた。
今以て画材の扱いは良い方だと自分では思っている。今度蹴るなら壁を蹴る。この家なら何も痛まない。
「ごめん」
絵の具を拾い上げると、リュックの中に収め、部屋を後にした。
念のためにそこら中を注意深く見回してみても、上階のアトリエが今日利用された様子はやはり何も無かった。
博治はため息を吐くと、リュックの中の画材を取り出し、それぞれ所定の場所に戻していく。
最後に一角を占める大きな木机にスケッチブックを置いた。義治に確認させるためだ。
窓の外では、光に誘われて現れた大小2匹の蛾が、体を壁面にぶつけては小さな音を立てていた。




