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狼シリーズ

花の好きな狼の話

作者: 紫蘇原

 その日、悪魔を見た。

         ◇

 今日は世話になった師匠の葬式が教会で行われているので、もちろん俺は出席していた。身寄りをなくした俺を引き取って育ててくれた女商人は、意外なほどあっけなくこの世を去った。病死だと言われている。豪商と呼ばれ、魔女狩りにもひっかからず一代で財を築いた大商人―何しろ庶民は生きていくだけで精一杯という時代に人間一人を余裕で育てられる額の金を持っていたのだ―も、病には勝てなかったらしい。

「……では、みなさん外へどうぞ。彼女を神の国へお送りいたしましょう。」

そんなことを考えていたら、牧師の説教が終わった。この辺りの風習では、この後出席者が棺桶に花を投げ入れてから土をかぶせることになっている。俺の花はどこにしまっていたかな、と思いながら屋外に出た。人波に押されて足がふらつき、建物の脇に入り込む。ちょうど日陰になっている所だ。その時、何者かの声が聞こえた。押し殺したような、啜り泣く声。背筋が冷える。振り向いてはいけない、と感じつつも、つい声のする方へ振り向くと、そこに悪魔がいた。

 右半身は獣のような赤茶色の毛で覆われていて、頭の右側には犬によく似た耳まで生えている。獣と人の混じった姿はどう見ても悪魔か化け物でしかない。そんな見るもおぞましい存在が教会のすぐ横で涙を流しているなんて光景は、もはや悪い冗談のように思えた。顔を伏せてしゃくりあげていた悪魔が、ふっと顔をこちらに向けた。どこか歪な灰色の目が俺を見据える。

「ああ。おれが見えたのか」

しわがれた声がその牙の見える口から漏れた。

「ちょうどいい。これを持って行ってくれ」

と、悪魔はどこからか花飾りを取り出しながら言った。花飾りは白い花をつけたクローバーと、名前も知らない青い花で編まれている。

「持って行ってくれたら礼はする。おれが行くわけにはいかないから」

礼? 冗談じゃない。悪魔の頼みなんて、聞いたらどんなことになるか…。

「断る。悪魔の言うことを聞いたらどうなるかぐらいは分かっている。……と言いたいのだろう」

「なっ…!」

「そう思われているのは百も承知だ。だが、あの娘には恩がある。どうか同じ相手に世話になった義理でこれを供えてはくれないか」

こいつ、俺が彼女に養われていたことを知っているのか? 俺から言ったわけはないのに。

「…わ、分かった。これを入れてくればいいんだな。」

早くこの場を離れたいという一心で悪魔の左手から花飾りをひったくった。そいつの左半身は普通に人間の姿で、それが逆に気持ち悪い。悪魔は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ありがとう」

その言葉を最後までは聞かず、俺は人のいる方へ走った。棺へ自分の分の花と悪魔の花飾りを投げ込む。

俺の様子に、周囲の出席者が目を白黒させていた。

 夕暮れ時、葬儀が終わって自宅に帰りついた時、悪魔がまた俺の前に現れた。というか部屋にいた。

「お前、なんでここを知っているんだ!」

「…独立していたのか。あの娘とは比べるまでもないが、若手にしてはなかなかだな」

商品や書類が山と積まれた机などをぐるりと見回しながら悪魔は言った。まったく話がかみ合わない。

「なんでここにいるって聞いてるんだ、出ていけ!」

「そう声を荒げるな。害を与えに来たのではない。礼を言いに来た」

確かにそんなことを言っていた。しかし、それなら

「どこかに消えてもらうのが一番ありがたいと思うのはもっともだが、おれの話は聞いた方がいい。なにせあの娘があれだけ稼げたのはおれがもたらす情報があったためだからな。…もっとも、おれにはこれ以外にできることはないのだが」

また読まれている。しかも、こいつの情報で稼いでいただと? 普通じゃないとは思っていたが、まさか悪魔の力を借りていたとは気づかなかった。魔女狩りからよく逃れられたものだ。いや、それこそこの悪魔から情報をもらえば避けられるのか。

「……何を教えてくれるって言うんだ。」

悪魔はにぃっと笑った。

「一週間以内に領主が代替わりして、酒や嗜好品の取引がしやすくなる。次の奴は酒好きだからな。だが、お前が現在酒を仕入れている所とは手を切った方がいい。今年出す分は腐って量が減ったからといって水を混ぜている。保存方法が悪いせいだから来年以降も改善しないだろう」 

「おい、後継ぎは酒嫌いの堅物だって評判、」

「長男は確かにそうだが、後を継ぐのは次男だ。最近は色々な技術が発達しているし信仰心が薄い人間も多いから、後腐れなく相手をどうにかする手段には事欠かないものだ。他に質問は?」

なんて奴だ。知っている理由どころか知る方法さえも見当がつかないような情報までこんなにすらすら語れるなんて、本当に超常の力を持っているように思える。

「でも、それが本当かはまだ分からないだろ?」

俺の疑いの言葉にも、悪魔は笑みを崩さなかった。

「では一週間待ってみろ。そうすればおれの言葉が事実だと分かる」

「お前はそれと引き換えに何がほしいんだ。俺の魂でも奪うのか?」

「くだらない」

吐き捨てるように悪魔は言った。俺としては切実な話だった。なにしろこいつに頼っていた師匠は実際に命を落としているんだ。悪魔は続ける。

「魂などいらん。これは礼だ。それに、おれに必要なのは暖かくて雨風がしのげる寝床ぐらい……。そうだな、それを提供してくれるのならお前に力を貸してやろう。この悪魔が必要ならさっきの教会へ来るといい。おれはしばらくあそこにいる」

教会に滞在する悪魔ってどうなんだ。そう言おうとした時にはすでにその生き物は目の前から消えていた。だが「おれもどうかとは思う」という声が、どこからか聞こえてきた気がした。


 一週間が経った。兄の突然死により急きょ就任の決まった新領主様は今日も今日とて酔っぱらっているそうだし、仕入れ先を覗きに行ったらちょうど酒樽に水を足しているところだった。

「お前の言う通りだったよ。」

「もちろんだ。…それで、どうする?」

俺は教会の陰で悪魔と向き合っていた。月明かりが赤茶色の毛並みを照らし、奇怪な姿を際立たせている。もちろん、質問の答えは決まっていた。

「俺はお前の力を借りる。屋根のある部屋を一つと、情報を一度聞くごとに何らかの報酬を約束する。」

考えた末に、欲が恐怖に勝った。師匠のことはあるが、彼女もこいつから情報をもらってすぐに命を落としたんじゃない。栄える程度の期間は空いていた。ならこの悪魔と手を組んでもしばらくは大丈夫なはずだ。この前こいつも言っていたように、いざとなれば相手をどうにかする手段はその辺にいくらでもある。大した力のないらしい悪魔の一匹くらいは簡単だ。

「じゃあ、お前をなんて呼べばいい? さすがに人前で悪魔と呼ぶわけにはいかないだろう。」

「何でもいい。ずばり悪魔とか化け物と言われていた時もあったが、強いて言えば狼と呼ばれるのが一番多かったな。あの娘も…お前の師匠もそう呼んでいた」

「そうか。なら、狼。これからよろしく頼んだ。」

「こちらこそ、住処を頼む」

悪魔とそれを利用する者は、互いに笑った。


 それからというもの、面白いほどに―あるいはつまらなくなるほど―儲けだした。どんな弱みでも知っているし何が流行るかも予見している悪魔を味方につけるとこんなにも楽勝なのかと呆れてしまう。あの日に狼と会ってから八か月しか経っていないのに、今すぐ何もかも放り出してしまっても四、五年くらいはゆうに暮らせるほどの資産ができていた。何が豪商だ、狼の話を聞いて少し何かするだけで金が入ってくるんじゃないか。つい去年まで貧乏商人だったのが嘘のようだった。今日も視察がてらの船旅から帰ってきたところだ。自室―家も広くなって部屋が増えた―に戻ると、狼のやけに整った字で書き置きが残されていた。新しい情報が入ったのかと慌てて狼の部屋へ向かう。いつの間に部屋に出入りしているんだあいつは。使用人に見られたらどうする気だ。

「狼、何かあったのか?」

「ありすぎて困るくらいだ。まず、大臣が変わって締め付けが厳しくなる。潔白だから賄賂でどうこうもできない。黙って従うのが得策だ。その代わり…と言ってはなんだが、三か月後くらいに遠方で病気が流行る。今のうちに薬を仕入れておけ」

「どんな薬が要る?」

装身具の流行以外にも、こいつは病気の流行も予測できるそうだ。流行自体は防げないため、今はできるだけ早く薬を届けられるよう努めている。流行範囲も聞くと、丁度俺が旅行してきた辺りだった。


 話を聞いてから四か月後、なんとか疫病の流行が落ち着き、俺はふうっと息をついた。もちろん大量に仕入れた薬は売り切ったので、手元には多額の金が舞い込んでいる。と、狼が堂々とドアを開けて部屋に入ってきた。いつも見ているのに、まだその奇異な姿には慣れない。しかも今は真夜中なので余計に不気味に見える。

「…って、普通に入ってくるなよ。誰かに見られたらどうするんだ。」

「緊急で、しかも内密の話がある。人払いをしろ」

姿はともかく、この高圧的な物言いには慣れた。あの女に対してもこんな態度だったのだろうか? この狼がしおらしくしているところなんて想像もできないが。

「人払いも何も、みんな寝ちまってるよ。」

「そうか、それならいい」

そう言って狼は周囲を見回した。口元に薄く笑みを浮かべながら続ける。

「今日はあの娘の命日だ」

「あの娘……ああ、あの豪商か。そうか、月日が経つのは速いな。ついこの間のことみたいだ。」

「…………そう、だな」

こんな日付も変わったような真夜中に、こいつはわざわざ何を言いに来たんだろうか。まさか、

「あの女の話をわざわざしに来たのかという推測は当たっている」

相変わらずの見透かした言い方に、妙な迫力がある。

「お前、一体どうしたんだ。あいつのことは内密にする必要もないし緊急にもならないだろ。だって、」

「俺が殺したんだから………と、心の中では思っているな。おれの推測も当たっているだろう?」

狼の笑みは、いつの間にか消えていた。

「本当に何を言ってるんだよ、そんなことするわけないだろ………などという言い訳は無駄だ。お前がやったのは一年前から分かっていた」

「え、あ、…り、理由は! 育ててくれた師匠を殺す理由なんてないだろ!」

「理由ならある。魔女狩りから逃れる最良の方法は、今も昔も変わらない。密告だ。あの娘が自分が助かるためにお前の身内を告発したからだ。薬草やまじないに詳しい家系だったな。どうやって殺したのかという問答が面倒だから先に言っておく。お前が飲み物にでも毒物を混ぜていたのだ。弟子ならば小間使いのようなこともしていただろうし、機会は山ほどある。毒性を持った草花なんかはその辺にいくらでも生えているからな」

「なら、なんで…お前は気づかなかったんだ。」

「そう、それがこのおれがお前に復讐する理由につながる」

復讐。ひどく現実味のない言葉だ。自分が確かにやったことのはずなのに。

「あの娘が言ったからだ。あの、平気で他人を売る、悪辣で、損得勘定しか信じられないような娘が、

『新入りの子は信頼できそうだから弟子にした』

と言ったんだ。

『一度人間ってものも信じてみたいから、狼は絶対あの子の心を読んだりしないでね』

 なんて、馬鹿なことを言っていた。人を騙す奴が他人を信じたいなんて、そんなことを思うから。

一番信じてはいけない相手を、愚かにも信用しようとしたせいで、あの娘は死んだ。おれもまた愚かだった。疑うべきだった。そして、お前はあの娘に信じられることがどれだけ稀かも気づかないままにその幸運を見事に活用した。あの時最も賢明だったのは間違いなくお前だ」

俺を、憎悪に歪んだ灰色の目が見据える。

「……それで、お前は俺をどうするんだ。」

「裏切る。信頼して、頼り切ったところを突き放して破滅させる。…つもりだったがさすがに逆恨みが過ぎると思ったから、少し加減はしてやった。結局、花もお前が供えてくれたのだしな」

加減はしてやった。やった。つまり。

「お察しの通り、復讐はすでに終わっている。お前はだいたい破滅した。使用人から港の客にまで、とある話を吹き込んでおいた。朝にはたぶん町中がお前の噂をしているはずだ。おおよそこんなようなものだろうな。

『あの男が儲けるために病を振りまいたんだ』

 町中どころか取引先にまで知られているかもしれないな。一年足らずで築いた信用なんて、崩れるのは一瞬だ。魔女裁判もありうる。だがよかったな、元手の金は残しておくから再出発はできるかもしれんぞ。この金が花を供えてくれた礼だ」

疫病の流行範囲は、丁度俺が旅行してきたあたりだった。あの視察の予定を立てたのは、誰だ? 

狼だ。  

そう、きっと最初から、すべて計算ずくで―

「この、悪魔っ!」

叫ぶと、狼は―悪魔は陰鬱そうに言った。

「気が合うな。おれも今、同じように思っている」

その言葉を最後に、悪魔の姿は消えていた。

自分の資産の額を思い出す。逃げ出しても四、五年はゆうに暮らせる―到底、人間一人を死ぬまで養うには足りない金額。

 意味の分からないうめき声が、口から漏れ出る。

 夜が、明けようとしていた。  



             ◇


「ねえ、それからどうなったの?」

「どうもこうもない。これで終わりだ」

「ふうん……。狼の話って、本当か嘘か全然分からないのばっかりね。今の話はどっち?」

さあな、と狼は肩をすくめた。

 私の主な話し相手は、この奇妙な姿をした悪魔。そこそこの名家の何番目かの娘に生まれた私は、将来はどうせどこぞの貴族に嫁入りするしかないんだとすっかり人生を諦めていた。そこに現れたのがこの狼だ。現れたなんてかっこいいものじゃなくて、雨の日に家の壁にへばりついてぶるぶる震えていたのを私がこっそり部屋に入れてあげたのが始まりだったんだけど。でも、それからは私の部屋が殺風景なのを見かねて毎朝きれいな花を持って通ってくれている。これは毎日の楽しみになった。

家の中はとても退屈だから。

「狼、私もお父様みたいに遠いところに出かけたりいろんな人とお話ししたりできるかな?」

「女が商業か…。夫が理解のある奴ならできるかもしれんが、どうだろうな」

「そうじゃなくて、お父様の後を継ぎたいの。」

「難しいだろう。だが、もしそうできたのならおれが手助けしてやってもいい」

狼の話し方ってすごく偉そう。言ったら気にしそうだから、言わないけど。

 今日持ってきてくれた花は、クローバーと…見たことのない青い花。

「ねえ狼、この青い方って何て花?」

「ああ、それはワスレナグサだな。花言葉も名前の通りで、『私を忘れないで』という意味がある。」

「あ、知ってる。なんか伝説があるんだよね。

 女の子と騎士が一緒に川に出かけて、そこに咲いてた花を摘もうとしたら騎士が落ちちゃうの。それで、花を女の子に投げて『私を忘れないで』って言った……みたいな話。」

「……それは初めて聞いた」

「えっ、ほんと?」

狼が知らないことを知っているなんて、少し気分がいい。いつもは教わるばっかりだから。

「だが、普通は言われなくても忘れないと思わんか? 自分が救えなかった相手のことなんて」

「女の子が騎士を助けるのは無理でしょ。まあ、言われなくても忘れないよとは私も思ったけど。」

言いながら、青い花を見る。そうか、これがワスレナグサなんだ。そんな湿っぽい伝説があるなんて想像できないようなかわいい花。

 ふと思いついて、聞いてみた。

「じゃあさ、クローバーにも花言葉ってあるの?」

「もちろんある。有名なのが『幸福』で、これは花が白い種類だから『約束』とか『私を思って』、変わったところで『復讐』といったところだ」

『復讐』。私には縁のない言葉だな。少し考えて、私はくすくす笑った。

「何がおかしい?」

「だって、花言葉に詳しい悪魔なんて変でしょ。あなたって本当は悪魔じゃないのかもね」

狼は困った顔をしている。私はひとしきり笑ってから、狼に聞いた。彼なら知ってるかもしれないから。

「ねえ、狼。私にもいつか、あなた以外に信じられる人ができるかな?」

「…きっと、見つかる。見つかるに決まっている」

「そうかな?」

「当たり前だ」

この悪魔は本当に優しいな、と思いながら、私は持ってきてくれた花を眺めた。


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