19
森嶋はもぬけの空となったベッドを言葉もなく見つめていた。
病院の間取りと人員の配置に詳しい理夢の手引きにより、彼女の身体はまんまと院内の滅多に人の来ない一室に移されていたのだ。
「せ、医師、これは一体……」
森嶋とともに病室を訪れていた中年の女性看護師は、隣に立つ痩身の若い医師を仰いだ。
「そんな……。脳波や心拍数などを見るかぎり、理夢さんが目覚めるような兆候はなかったはずだ。いや、たとえ目覚めたとしても、すぐに起き上がって移動できるはずがない!」
ベッドの上に置かれたメモ紙に気付いた森嶋が、拾い上げ目を通す。
「娘は、さらわれたようだ」
メモ紙には理夢の身柄をあずかった旨と、指定の時間にデーモン・デバイスが置かれている例のビルに来るようにとの指示が書かれていた。
森嶋の目がメモの最後に書かれた名前の上で止まる。
(末堂、礼……)
尻尾を巻いて逃げたと思っていた男が、今度は森嶋の懐の最も深い部分を攻めてきたのだ。小癪にも会見の場をあのビルにすることで、警察への通報もしづらくしている。もっとも……
「こっ、これは誘拐事件だ! 君っ、警察に連絡を……」
「ならん!」
蒼い顔で看護師に指示する医師を、森嶋が一喝した。
「警察など、誰があてにするものか! これは私の問題なのだ。これ以上、無能な人間に関わってほしくない!」
「しっ、しかし森嶋さん、これはれっきとした犯罪です! それに、当院の保安上の問題でもありますし、警察には通報しないと……、うわっ!」
猛禽の足のように筋張った森嶋の手が、若い医師の前頭部を鷲づかんだ。
途端に医師の頭に正気を見失うほどの凄まじい痛みが巻き起こる。
「ぐがっ、ががが……っ!」
「いいかっ、もし貴様が余計な真似をすれば、死ぬまでこの痛みが続くと思え! 娘は私がすぐに取り戻す。それまでお前たちは何もするな!」
頭皮に食い込んだ鋭い爪が抜けると、医師はぐにゃりとその場にへたりこんだ。
「ひ、ひい……っ!」
重そうな腰で思い切り尻餅をついた看護師は、恐怖のあまり顔を上げることができずにいた。
それでも大股で病室を出ていく森嶋を何とか横目で盗み見る。
「……!」
憤怒の形相が刻み込まれた森嶋の相貌は、もはや人間のそれではなかった。たぎるように赫く光る眼を見たとき、看護師は盗み見などしたことを激しく後悔した。
「ど、どうやらうまくいったみたいだな……」
森嶋が去って数分後、礼が廊下から病室を覗き込むと、まだその場に座り込んだままの医師と看護師が見えた。
「しかしおっちゃん、ぶったまげるどころか眼まで真っ赤にして怒ってたなあ」
「あの人は私のことになると、普通じゃなくなるから」
「た、確かにフツーじゃなかったな……」
「……」
理夢にとって森嶋の反応は予想の範囲内だった。だが激昂した森嶋は何をしでかすかわからない危険な存在でもある。
これ以上礼と美瑠を危ない目にあわせられない。
目立たぬように病院を後にしながら、理夢は同時にそんなことを考えていた。
それは、自らが森嶋と直接対峙しなければならないことを意味していた。