18
呪いの発動から16日目。月光市は今日も日常を忘れ、どっぷりと祭りの喧騒につかっていた。
日中、祭りの主役は子供たちであり、往来の賑わいも夜間とはまた別の華やかさがあった。
色とりどりの浴衣を着た女子学生たちは、木立で遊ぶ小鳥のように、あちこちの露店を駆け回っては黄色い喚声を上げた。
財布がわりに祖父や祖母を従えた幼児たちは、両手に綿あめや風船ヨーヨーなどの戦利品を抱えながら、なおも目ぼしい獲物を物色する。
通りには若々しい声がぶつかり合うようにあふれかえり、空へと抜けて響きわたった。
「ふ~ん、みんな楽しそうだねえ」
笑顔の人々の間を縫うように歩きながら、礼は自分たちがこの祭りを止めようとしていることを、ひどく奇妙に感じた。
「お」
「?」
礼が急に足を止めたので、後に続いていた理夢も立ち止まる。
理夢(の肉体)誘拐計画を実行するため、礼と理夢の二人は徒歩で総合病院に向かっていた。千霧と美瑠は事務所に残り、計画の細部を詰めている。
「嬢ちゃんとは、ここで会ったんだったな」
3日前、狐の面を獲りあったお面売りの露店を、礼と理夢は肩を並べて眺めた。
「そういや、なんであんなにそのお面を欲しがったんだ?」
理夢は今日もまた、狐の面を頭にちょこんとのせている。
「これは、私が嫌いなお面だから」
「確か、前もそう言ってたよな?」
「今にして思えば……、あれは悪気のないいたずらだったと思う」
「?」
「両親と行った何度目かの夜祭で、トイレに行きたくなった私は、両親と離れて近くのトイレに走ってた。その時、物陰から突然男の子が飛び出してきた。この、狐のお面をつけて」
「おお、そりゃびっくりするな」
「その時の私にはまだ、夜の暗がりに白く浮かび上がる狐の顔が怖かった。それで、尻もちをついて……、あ……」
何の気なしに話し始めた理夢だったが、その後の顛末をはっきりと思い出し、急に口ごもる。
「あ? それでどうしたんだよ?」
「ん……、それで、あんまり怖くて……」
「うんうん」
「あの、出ちゃったから……」
「ん? 出たって、何が?」
「……」
「?」
口をつぐんだ理夢を不思議そうに眺めていた礼は、その理由に気づき、そして、当然のように墓穴を掘った。
「ああ! 漏らしちゃったのか! はははっ!」
「~~~~!」
一瞬で顔を真っ赤に染めた理夢は膝をまっすぐに上げ、かわいらしい桐下駄で礼の足をガスガスと踏みつけた。
「いででででっ!!! 木っ! それかったい木だからっ!!!」
「礼はデリカシーなさすぎ」
「悪かった! 悪かったって!」
眼にうっすら涙を浮かべながら、理夢はふくれっ面でふいと顔をそむけた。
「……それからずっと、私は狐のお面が嫌い」
「え? じゃあ、なんで……」
「あの人も、それを知っているから」
言われてみれば、あのビルに侵入した時、森嶋は理夢の狐の面を見て不快な表情を浮かべていた。
「なるほどね、そのお面と犬の名前を名乗ったのは用心のためか。確かにあのおっちゃんにバレたら次は何されるかわかんねえからなあ」
露店には新たに補充された狐の面があの日と同じ場所に飾られていた。
先ほどからお面に目をすえて動こうとしない理夢に、礼は肩をすくめた。
「ほら、もう行くぜ」
ふたたび歩き出したふたりの前に、不意に猛スピードの男児が飛び出してくる。
はしゃぎながら脇をすり抜けていく男児と肩がぶつかり、理夢はバランスを崩してよろめいた。
「あ」
足をついた拍子に、履いていた桐下駄の鼻緒が切れる。
「ありゃりゃ、やっちまったなあ」
下駄を手に取り鼻緒をあらためると、理夢は表情を曇らせた。
「直すのはちょっと難しそう」
横から思案顔で見ていた礼がおもむろに理夢の前に背を向けてしゃがみこむ。
「?」
「履物屋ならすぐその先だ。おんぶしてやるから、そこで新しいの買いな」
「!? い、いいっ! そんなこと、しなくて……」
長い間眠っていたため、理夢には思春期の心の変化はまだ訪れていない。
だが、さすがに若い男性と体が密着するようなことは遠慮したかった。
白い頬をみるみる紅潮させながら、理夢は前に突き出した両手を必死に振って拒絶した。
「いいからいいから。すぐそこまでなんだから、この方が早いんだよ」
「でも……。そ、そうっ! 礼はお尻触るから……」
「さわるかーっ!! 俺はなあ、中学生なんぞにこれっぽっちも興味はないんだよ! って、ヘンな事言わせやがって、周りの視線がいてえじゃねえか……。ほら、俺たちには時間がないんだから、さっさと乗んな」
周囲の注目を集めてしまったこともあり、礼の勢いに押された理夢はしぶしぶ背中に乗った。
それを確認した礼が両足に力を込めて立ち上がる。
「あん?」
「? なに?」
「い、いや……、何でもねえや。じゃあ行くぞ」
前を向いたまま、礼は足を踏み出した。
理夢は軽かった。
背中に当たるふたつの小さなふくらみや、わきに抱えた細い太ももに、柔らかで心地よい弾力を感じることができる。だが、そこには骨や肉、流れる血の重みがなかった。
どうみても普通の人間にしか見えないこの愛くるしい少女が実は超常の存在であることを、礼はその身をもって、改めて理解した。
混乱の極みの中この世に放り出され、それでも、たった一人この祭りを止めようと考えた少女は、魂も肉体も、吹けば飛んで消えてしまいそうなほどか細く、はかなげだった。
照れ隠しにつけたお面の目出し穴の向こうで、祭りに興じる人々がゆらゆらと揺れている。
理夢を背負う礼の足取りはしっかりしていた。
思ったより頼もしい背中に身を任せるうち、おだやかな揺れが理夢に幼いころの想い出をよみがえらせていく。
祭りの夜、父の肩は理夢の特等席だった。森嶋に肩車をされ、誰よりも高い位置から祭りの様子を眺めると、理夢は自分を、その夜を、特別なものだと感じることができた。
(でも、すべては変わってしまった)
「……だいたい女の魅力っていうのはなあ、若さだけじゃなくてなあ……」
中身のない持論をとうとうと語る礼を無視して、ぽつりとつぶやく。
「もう、怖くない」
「ん?」
「狐のお面を見ても、今はもう、何も思わない」
「まあ、嬢ちゃんももう子供じゃないからな」
確かに自分はもう子供ではない。では、子供ではない『何』なのだろう?
今の自分は、生きているとも、人間であるとも言い難い存在ではないか。
そもそもこの特異な状態がいつまで続くのかさえ、誰もわからないのだ。
「私はこれからどうなる?」
その言葉は、わざと周囲の喧騒にまぎれこませた。
「は? 何か言ったか?」
「なんでも、ない」
押し寄せる不安を振り切るように、理夢は礼の背中に顔をうずめた。