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それからさらに数日が経ったところで、紗菜が美瑠と連れ立って礼の事務所を訪れた。
いつもなら意思の強さを感じさせる表情でハキハキと受け答えをする紗菜が、今は別人のように暗い表情で口数も少なくなっている。
普段の様子を知る美瑠は、それだけで紗菜の抱えた問題の深刻さを理解できた。
(んほおおお~~! 姉妹そろって可愛い顔してるじゃねーか!)
そんな少女たちの憂鬱などお構いなしに、絵莉の写真と目の前の紗菜を交互に見ながら、礼は内心小躍りしていた。
この依頼をうまく解決すれば、スポーツ少女と文学少女というタイプの違う二人の女子高生とお近づきになれるのだ。いや、それどころか、二人から好意を寄せられ、両手に花という可能性も十分ありえる……
絵莉と紗菜に両側から抱きつかれ、ダブルピースしている自分の姿まで想像したところで、礼の妄想は美瑠に遮られた。
「……ちゃん! お兄ちゃんっ!! ねえ、ちゃんと聞いてるの!?」
ニヤけ顔で上の空だった礼を、美瑠が上目使いでにらみ付ける。
「……ん? あ、ああ、ちゃんと聞いてるぞ」
「っていうか、なんで両手がチョキになってるのよ」
「え? いや、これは……、ハハハ……」
笑ってごまかすと、礼はわざとらしく咳払いをして、キリリとした表情で紗菜に向き直った。
「では柏村さん、この一週間、お姉さんがどんな様子だったか教えてもらえますか?」
うながされて話しだした紗菜に気づかれないように、礼は手元のスマホでオカルトコミュを呼び出した。
珍しく帰宅が遅くなったあの日から、絵莉は「変わってしまった」と紗菜は言った。それも、悪いほうにではなく、良いほうに変わったのだと。
それ以前の絵莉は、暗く沈みがちで、何か悩みごとを抱えている様子だった。
それがあの日から、まるで自分が悩んでいたことなど忘れてしまったかのように、絵莉は以前の明るく穏やかな姉に戻っていた。このままでは受験にも影響が出かねないと心配していた両親も、元気になった絵莉を見て安心したようだった。
「……それはそれで、いいことだったんですけど……」
そこまで言うと、紗菜の表情が暗くなった。
そこから先は、思い出すのも恐ろしく、辛いことだった。
◇
「新しい友達ができたの」と教えてくれた姉は、あの日から次第に紗菜と顔を合わせなくなっていった。
学校の帰りが遅くなり、紗菜は一人で夕飯を食べるようになった。姉は食事や風呂のとき以外は自分の部屋に引っ込み、いつも『友達』と電話で話をしているようだった。
最近では、朝の慌ただしい朝食時ぐらいしか顔を合わせることがなくなり、紗菜はすっかり疎外感を感じていた。
確かに、絵莉が元気なったのはその友達のおかげかもしれない。
だが、その事を感謝する気にはとてもなれなかった。その時の紗菜にとっては、姉を取られたという思いの方が大きかったからだ。
数日前、家の中でたまたま絵莉と顔を合わせた紗菜は、ささやかな嫉妬を口にした。
「お姉ちゃん、新しい友達もいいけど、受験生なんだからつきあいもほどほどにね」
当然、絵莉は穏やかに笑って、「うん、気を付けるね」とこたえてくれるはずだった。
不思議そうな顔で紗菜を見返した絵莉は、曖昧な笑顔でこうこたえた。
「あなた、誰?」
次の瞬間、絵莉の両目が焦点を失ったかと思うと、眼球がまるで早送りのようにガクガクとすさまじい早さで動き出した。
「ひっ……!」
あまりの恐怖に、まばたきも忘れて紗菜はその様子を凝視した。
しばらくして眼球の動きが収まると、絵莉はすっかり元の様子に戻り、優しく紗菜に笑いかけた。
「紗菜……さん? 確か……、お母さんの知り合いの娘さんで、うちで預かることになったのよね? これから、よろしくね」
紗菜は微笑む絵莉をそのままに自分の部屋に駆け込むと、ドアに鍵をかけてベッドに潜り込んだ。
以前に、NHKの番組で見たような気がする。
人間の脳は、記憶の欠落があると自動的にそれを埋めようとする、つまり『つじつま合わせ』をするのだと。
ならば、姉の記憶は消えてしまったのか。自分のことを忘れてしまったのか。
目の前で起こったあまりに恐ろしい出来事に、紗菜は子供のようにベッドの中で丸くなり、ガタガタと震えていた。
「あなた、誰?」
いつか街中でそう聞いた、もう一人の絵莉を思い出しながら。
◇
「帰ってきた両親に話しても、意地悪されてるだけだって、最初は聞いてくれませんでした……。でもそれが本当だってわかると、今度は受験のストレスだろうって、病院にいけばすぐに治るって……」
うつむき気味で語る紗菜が顔をあげ、まっすぐな目で礼を見つめた。
「そんなわけ、絶対ない……。原因は、あのニセモノです! 友達なんて、嘘っ……! あいつが、お姉ちゃんから私の記憶を奪った……。私から、お姉ちゃんを奪ったんです……」
おさえていた感情があふれだし、紗菜の唇がわなわなと震えだす。
「力に、なってあげたいと思ってたのに……、こんなことになっちゃうなんて……」
紗菜の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
顔を真っ赤にしながら、涙もぬぐわずにまっすぐ前をみつめる紗菜の姿がとてもいじらしく、美瑠はもらい泣きしながら、その手を取って握りしめようと手を伸ばした。
だが、紗菜の手を先につかんだのは、礼のほうだった。
いつの間にか紗菜の前に立っていた礼は、紗菜が拒めない完璧なタイミングで手を取り、両手でしっかりと握りしめた。
「はっはっはっ! 心配無用ですよ! この天才退魔師、末堂礼にかかれば、そんな事件なんぞあっという間に解決です!」
「お兄さん……」
礼がキリリとした表情を作り、紗菜の目をじっと見つめる。
「礼と呼んでください」
行き場をなくした手をわきわき動かしながら、美瑠はあきれ顔で二人を見ていた。
紗菜が返事に困っているのをいいことに、礼は紗菜の横に回り込むと体をピタリと寄せ、片手を背中に回す。
「いやあ、僕は人の真似をする奴とか大キライなんですよ! 可愛いお姉さんの真似をするなんて、人間だろうと妖怪だろうと僕が許しませんよっ!」
「は……、はい……」
まっすぐ伸びた紗菜の背中を、礼の手が徐々に腰のほうにすべり下りていく。
「ところで……、紗菜ちゃんは彼氏とかいるのかな? お姉さんと同じ人を好きになっちゃったりとかは? いやいや! 僕はそういうの全然アリだと思うなあイデデデデッ……!」
礼の手を思いきりつねり上げ、美瑠は二人の間に強引に割って入った。
「はい、そこまでっ! ったく……、本当に油断も隙もないんだから!」
「こらっ、美瑠っ! 何をする!」
「私の大事な友達を、これ以上お兄ちゃんの好きにさせるわけにはいきません! 話は私が聞いておくから、お兄ちゃんは早く調査を始めてよね! さ、行こっ、紗菜ちゃん」
兄妹のやり取りを呆然とした表情で聞いていた紗菜の背中を押し、二人はそのまま事務所を後にした。
◇
雑居ビルの玄関から出たところで、美瑠は前をいく紗菜の背中に声をかけた。
「本当にいいの? あんなので?」
振り返ってうなずいた紗菜の顔は、真剣そのものだった。
「うん……、もうお兄さんしか、頼れる人がいないの。あのニセモノは……、あれは、人間かどうかもわからないから。なのに、いくら言っても、お父さんもお母さんも全然信じてくれなかった」
「私は、信じるよ……。だって私、退魔師の助手だもん」
大きくうなずいた美瑠の明るい笑顔に、紗菜の顔にもようやく小さな笑みが浮かんだ。
「ありがとう、美瑠……」
美瑠に背を向け、照れ臭そうに紗菜が続ける。
「それに、お兄さん笑ってた。こっちがびっくりするくらい明るく……。私の家さあ、最近、泣いたり怒ったりばっかりだったから……」
「紗菜ちゃん……」
「美瑠が信じてくれたように、私も、信じてみようと思う……。お兄さんの笑顔を……」
「うん……!」
笑顔でうなずきながら、美瑠は心の中でまったく違うことを考えていた。
(紗菜ちゃん、ゴメン。あれただの女好きの顔だから……)