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登場人物
末堂都 (すえどうみやこ) 72歳 礼と美瑠の祖母
※以下、順次追加
「『美瑠……さん? やめて……ください』って、もう、その時のお兄ちゃんの顔といったら……」
そう言って美瑠はまた腹を抱えて笑いだした。
祖母である都の日本家屋に、今日もまた美瑠はやってきて美味しいお茶うけにありついていた。
友人の多い都ではあったが、先に夫を亡くし、また礼と美瑠の両親である息子夫婦をも失った彼女にとって、孫が訪れてくれるこの時間は何にも変えがたく、目の前の無邪気で明るい少女をとても愛おしく感じていた。
「あらあら、じゃあいつも困らされている礼に、やっと仕返しできたというわけね」
「うんっ! さっすがお祖母ちゃん、わかってる! 最近、お兄ちゃん調子に乗りすぎだから、たまにはいい薬だよ」
そう言って美瑠は黒蜜のたっぷりかかったわらび餅をひと切れ口に入れると、「ん~~~」と幸せそうにその甘味を味わった。
そんな楽しげな美瑠を見ているうちに、思わず都にもむくむくと茶目っ気がわいてくる。
「そういえば……」
「ん? 何なに?」
「美瑠も小さいころよく言ってたわねえ、大きくなったら、礼のお嫁さんになるって……」
「……!?」
驚きのあまりゲホゲホとむせた美瑠は、あわててお茶を喉に流し込んだ。
都の言ったことは嘘ではない。確かにあったのだ。美瑠には、そう言っていた時期が。
今の今まで忘れていた、いや、封印していた記憶が徐々に解放されていく……
「普通はそういうことって、お父さんに対して言うものよね? だから、どうしてって聞いたら、『パパなんかよりお兄ちゃんがいいの! だって、私のお兄ちゃんは世界一かっこいい……」
「イヤーーーッ!!」
ついに耐えきれなくなった美瑠が両手で耳を塞ぎ、都に背を向けた。
「あらまあ……」
顔を真っ赤にしてブンブンと首を振る美瑠を見て、都は初めて自分が少々やり過ぎてしまったことを悟った。
「うう……、ヒドイよ、お祖母ちゃん……。それだけは絶対に思い出してはならない私の黒歴史なんだよ……」
目に涙を浮かべ、むくれた美瑠が恨めしそうに都を見た。
「くろ、歴史……? そう……。なんだか知らないけど、ごめんなさいね?」
微妙な年頃の兄妹の関係を理解してやれなかったことに、いや、むしろ兄妹をまだまだ子供だと思っていたことに、都は素直に申し訳なさを感じた。
「ん……、もういいよ……」
都に素直に謝られて、それ以上美瑠に何も言えるわけがない。
美瑠は慌てて話題を変えようと試みた。
「そういえば、お祖母ちゃんにもあるの? 思い出したくないような過去って?」
「ああ、そういう思い出を、くろ歴史っていうのね? そうねえ……」
と言って思案顔になった都は、やがて何かを思い出した。
途端に、都の顔が能面のように無表情になったかと思うと、口の端だけをくいと持ち上げ、少しだけ開けた口から恐ろしい笑い声をもらした。
「うふふふふ……」
まるでゴゴゴ……という効果音がしそうな、年輪を重ねたものだけがたたえる凄みに、美瑠も思わず青ざめる。
(ひ~~~)
このままでは、聞いてはいけないことを聞いてしまうような気がして、美瑠は必死で都の黒歴史の復活を止めた。
「いいですっ! もういいですっ!! お祖母ちゃん、もう結構ですからっっ!」
それを聞いて、都の恐ろしい表情が徐々にいつもの柔和な顔に戻っていく。
「あらそう? じゃあ、この話は美瑠が大人になったらね?」
「う、うんっ、そうしてっ! ね? お願いだから!」
都に念入りにお願いすると、美瑠は額の汗をぬぐい、大きく息を吐いた。
(ああ~、怖かった)
どっと疲れた美瑠は、今日はもうここから退散することにした。
「じゃあ、今日はもう行くね?」
「何だか、悪かったわねえ」
「ん~ん、いいっていいって。……ただし!」
「?」
「私、今はもうお兄ちゃんのお嫁さんになりたいとか、そういうのはいっさい考えていませんからね!」
「はいはい、わかりました。……そうだ、お詫びに私のわらび餅も食べない?」
都はそう言ってまだ手をつけていなかった自分の皿を差し出した。
「え? ほんと? ラッキー!」
またもや美瑠はたやすくお菓子の誘惑に負けてしまう。テーブルにつき直すとさっそくわらび餅を口に放り込んだ。
「(モグモグ……)」
「……」
「(モグモグ……)」
「……」
二人の間に流れる微妙な空気は、よくない方に作用した。
美瑠と都のそれぞれの頭に、追いやったはずの黒歴史がたちまちよみがえってくる。
「イヤーーーッ!」
「うふふふふ……」
楊枝を持ったまま両手で頭を抱え、ブンブン首を振る美瑠の横では、都があらぬ方を見つめながら恐ろしい冷笑を浮かべていた。
◇
忘れたい、もう二度と思い出したくないようなことがあった気がする……
絵莉はゆっくりと目を開けると、もうひとりの『絵莉』に自分が膝枕をされていることに気づいた。
二人はまだすすけた明かりのともる廃品集積場のなかにいたが、外はもうすっかり暗くなっていた。
「私……、泣いてた?」
自分の目に残る涙の跡に気づいた絵莉は、しかしその理由をまったく思い出せなかった。
「大丈夫……、もう、何も心配しなくていいの」
絵莉を優しく抱き起こすと、もうひとりの『絵莉』が優しい笑顔をたたえて正面から絵莉を見つめた。
「何か、悩みごとがあったんでしょう?」
「……」
そう言えば、自分は何かを思い悩んでいた気がする。原因はとてもつまらないこと。でも、すぐにでも忘れてしまいたいようなことが。
そして、絵莉は今まさに、その悩みごとを忘れていた。どうやっても思い出せず、まるで記憶からすっぽりと抜け落ちたようだった。
不思議な感覚ではあったが、胸につかえていたものが跡形もなく消えてくれて、悪い気はしなかった。
「あなたが、やったの?」
「フフ……」
質問に笑顔だけで答えて、『絵莉』は再び絵莉の手を優しくとって両手で握りしめた。
「私はあなた……。あなたの嫌なことや、忘れたいことを、私が預かるだけ……。記憶は消えることはないの、決して……」
「あっ……」
目の前の自分がかけている眼鏡……、失恋の思い出と共に捨てた眼鏡が、今そこにあるのを見て、絵莉はその言葉を信じられる気がした。
「ありがとう……」
絵莉がおずおずと礼を言うと、優しく握りしめられた手が今度はそっと離された。
『絵莉』の穏やかな応対に不安はさらに減ったが、さすがに夜になってもこの場所に二人で居続ける気にはなれなかった。
「遅くなっちゃったから、帰るね……」
そう言ってコンクリート塀の穴に向かう絵莉の背中に、『絵莉』が声をかける。
「また会ってくれる……?」
驚いて振り返った絵莉だったが、この不可思議で、そして有益な体験をこれで終わりにするのはもったいないと感じていた。
小さく微笑んでこくりとうなずくと、絵莉は塀の穴をくぐり抜けて街の中へと戻っていった。
◇
玄関のドアが開く音で絵莉の帰宅を知った紗菜は、自分の部屋を出て玄関に迎えに出た。
両親が共働きの柏村家は今日も夕飯時、家にいるのは姉妹だけで、紗菜はいっしょに晩御飯を食べるために絵莉を待っていた。
「お姉ちゃん、お帰り!」
絵莉の動きが止まる。
目の前にいる少女が誰なのか、わからない。
いや、そんなはずはない、よく知っているはずだ。この顔を、自分の家族を……
「お姉ちゃん、お帰りってばっ!」
「あ……、ああっ。ただいま、紗菜っ!」
すぐに紗菜のことを思い出し、絵莉は慌てて返事を返した。
「どうしたの? 遅くまで居残り勉強で、お疲れ?」
心配する紗菜の言葉を、絵莉は素直に受け入れた。
「うん、ちょっと、疲れてるのかも……」
小さいときから、いつもいつもお世話になってきた姉だ。紗菜はこんなときぐらいは自分が力になってあげたいと、絵莉に微笑んだ。
「大丈夫、少し休んだらすぐに元気になるって! さあ! ご飯用意してあげるから、座って座って!」
そう言って紗菜は絵莉の背中を押してダイニングの方へと連れていった。
そんな紗菜の気持ちは最悪の形で裏切られることになった。
その日から一週間後、絵莉は紗菜のことを完全に忘れていた。