子猫は姫に寄り添う
日が沈んで夜となり、セフィアは横になって休んでいた。侍女達はすでに下がらせているため、部屋は異様なほどの静寂に包まれている。
(……たった一日で、崩れてしまうなんて――)
傍に置いていた二人の侍女がいれば、他愛も無い話をしている時間を一人で過ごすことに、天蓋を見たまま表情を曇らせる。
彼女の心の内は穏やかではなく、雷鳴が響いて大雨が降っているようだ。
夕方頃に顔を合わせたシャルルという騎士は、明朝に様子を見に来てくれることを約束してくれたが、それでも蟠る不安の全てが無くなったわけではない。
(グランが信用した相手だもの、きっと大丈夫なはずだわ)
言い聞かせながら、自分の近衛を務める青年の顔を思い出す。そして、その瞬間を狙ったように再び不安が湧き上った。
神秘的な紫色の瞳を持ち、自分の知らないことを知っている五つ年上の異性。どういう事情なのかは伝えられていないが、彼は切迫した状態に置かれている。
シャルルより伝えられた伝言を信じないわけではないが、どうしても無事を祈ってしまうのだ。
コン、コン
不意にノックの音が響き、物思いに耽っていたセフィアの鼓動が止まる。
コン、コン
再びノックの音が響いて鼓動が戻り、ゆっくりと体を起こしてドアの方に目を向けた。
(こんな時間に訪ねてくるなんて、いったい誰かしら?)
侍女二人は謹慎中で、グランにいたっては城内にいない。
仮に三人のうち誰かだったとしても、ノックに何の特徴も無いというのはおかしい。
セフィアは逡巡した後に、ベッドに体を横たえた。
そもそも、こんな時間に訪れるなど非常識だ。このまま放っておけば、来訪者も諦めて帰ると判断しての行動だ。
コン、コン
三度目のノックが響くが、シーツを頭まで被って無視する。
コン、コン、コン、コン
無視し続けると、ノックの回数が増えた。さすがに心中穏やかではいられなくなり、怒りと共にそれを超える恐怖が支配し始める。
「……どうやら、眠ってしまったようですね。…本来なら出直すべきなのでしょうが、スワードが不在の今は誰かが護衛をすべきでしょう」
まるで誰かに説明するような言葉が、ドアを挟んだ向こうから聞こえてきた。
それに聞き覚えはあったが、決して近づかせたくない相手のものである。
「そうであるならば、それは本来なら近衛の任についていたはずの我が身を置いて他は無い。僕がやるしかないよねぇ」
口調の変質に背筋が震え、セフィアは逃げ出そうと起き上がった。
施錠し忘れていたドアが、僅かな音を立てて開く。
「おや、まだ起きていらっしゃったのですか? てっきり就寝なさっているかと思っていたのですが……」
部屋に入ってきた壮年は、獰猛さを滲み出させながら笑いかける。
まるで体が石になってしまったように、体を動かすことができなくなった。
「スワードが不在だと耳にしたものですから、騎士団で最も腕が立つ私が姫君の護衛をしに来ました」
聞きもしていないことに理由を述べながら、獲物を追い詰めるようにアルバートはゆっくりと歩み寄った。
理性は逃げるよう訴えかけるも、本能の感じ取った恐怖から逃れることはできない。腕を伸ばせば届いてしまう距離まで接近を許してしまう。
「貴女の気高き柔肌に、何者も触れさせることはしません。……僕を除いてね」
軽薄な仮面の下に隠していた獰猛さを露にし、その視線で怯えるセフィアを射竦める。獣が食事にありつく前のように舌なめずりし、その手で彼女の頤を掴んで上を向かせた。
「この時を、どれほど待ちわびただろう。以前は奪うことのできなかった唇を、ここで貪らせてもらうよ」
その言葉を耳にして悲鳴さえ上げることも許されず、顔が近づいて来て吐息がかかる。せめてもの抵抗に目を強く閉じた。
ドッ
重く鈍い音が聞こえたかと思うと、呻き声と共に触れていた手が離れる。
何が起こったのか困惑しながら目を開くと、視界に入ったのは頬を押さえているアルバートの姿。その視線の先で――
「セフィア様が嫌がってる。さっさと出て行って」
見慣れない服装に身を包んだ少女が、圧倒的な気配を纏って立っていた。
セフィアは突如として現れた彼女が何者かと考え、その小柄と声に覚えがあることに気がつく。記憶を辿って思い当たる人物の名前を口にした。
「……アンリ?」
すると、それを聞いた少女が振り向く。その横顔は、間違いなく自分に仕える小さな侍女だった。
「…たかが侍女ごときが、主の逢瀬を邪魔するなんてね。こんなことが許されると思っているのかい?」
「どう見たって無理やりだったし、貴方の言ってたことは全部聞いた。どんな嘘をついても無駄」
脅しを跳ね返し、セフィアを庇う立ち位置へアンリは移動した。気配がはっきりしているにも関わらず、無音の動きに理解するのが遅れたアルバートが後ずさる。
「……ここで騒ぎを起こせば、君も困ったことになるだろう? だったら、僕らの情事を大人しく見守ってくれないかい?」
目の前に立つ少女が異常だと察し、手元にある弱みを利用して懐柔の言葉を発した。
「それは、できない相談。それに、私は追い出されても平気」
頑として背後に立つ主を守るよう立ち、自分よりも上背で力のある男を前にしても怯えた様子を見せない。
通常なら城仕えから外されることに取り乱すものだが、平然として言い切った少女に対してアルバートは歯噛みした。
睨みつけながら脅しをかけても無駄だと理解し、彼は追い返される形で背を向ける。
「……そうか、それなら仕方が無い。今日は退却させてもらうよ」
言葉の端々に苛立ちを露にしながら、速やかに部屋から出て行った。
それと同時に、猛獣の放つ威圧から解放されてセフィアが息を吐く。
「セフィア様、大丈夫? あの男に変なことされなかった?」
気配が消えそうなほど薄くなったアンリが、心配するよう覗き込んで尋ねてきた。
「……ええ、大丈夫よ。それよりも、どうやって出てきたの?」
謹慎は見張りもつく厳重なものにされていたはずで、容易に抜け出すことができないようされているはずである。
それをどうやって潜り抜けて来たのか、アンリはセフィアの元にいるのだ。
「屋根裏を通ってきました。侍女服だと埃まみれになって困るから、街で買った動きやすい服に着替えたんです」
感情的だったセフィアの頭が、話を聞いたことにより冷えていく。
自分を助けてくれたとはいえ、こんな小さな少女が騎士団の警備を掻い潜ることができるとなれば、このことが誰かの目や耳に留まることは避けなければならない。
各国とも怪物への対応に追われているとはいえ、攻め入る機会を待っている可能性は充分にあるのだ。
心の支えになる少女のおかげで、余裕が生まれて淑女の一面が表へと出て来た。
(私は王族。国を統治する血族。ここでアンリを口止めしておかないと、民を守ることはできない)
同時に湧き起ってくるのは、小さき侍女に対する愛着。数年前に行き倒れているのを拾い、自分の庇護下に置いて仕えさせている。
ここで騎士団に突き出せば、間違いなく牢に閉じ込められるか刑に処されるだろう。
「……そう。私のために来てくれて、ありがとう」
どうするにせよ、まずは労いの言葉を先にかけた。自分のために働いてくれたのであれば、主人として従者を労う義務がある。
「私はセフィア様に拾われ、今を生きることができています。私にできるのは、生涯を通して役に立つこと」
澱みなく紡がれる言葉に感情は無いが、嘘を言っているとは思えない。そして、彼女の強い決意をセフィアは肌で感じる。
「その気持ちは受け取っておくわ。でも、一つだけ約束して」
グランと誓約を行った時と同様、セフィアは彼女の覚悟を受け入れることに一つの条件を提示する。
「どんなことがあっても、命を捨ててはいけないわ。たとえ、それが誰の命令であろうとも従わないで」
侍女の多くは商人や下流貴族の出身の者。彼女たちの中には、上流貴族の血脈を受け継ぐ者もいる。
自分を含む上流階級の者は、従者を身代わりとして差し出すことがある。その相手によっては慰み者にし、死へと追いやることさえあるのだ。
待ち受ける死を拒むのは、人として当然の権利である。誰かに命じられて投げ捨てる理由は、この世のどこにも存在してはならない。
理不尽な世界の仕組みに疑問を持ち、自問自答い続けた彼女ならではの命令。
「アンリ、貴女は私の大切な友人で妹のような存在なの。だから、決して命を捨てることはしないで」
拾ってきてしばらくは、力無く怯えたようだった。そんな少女を見たセフィアは、命の儚さと尊さを思い知り、父親への反発もあって淑女を演じるようになったのだ。
いつしか偽りの仮面は、彼女とその周囲を守るための盾となった。それを今になって理解しながら告げる。
「だから、貴女が見つけた王城の抜け道については、絶対に誰にも知られてはいけないわ」
抜け道が知られるということは、内通者がいることと同義である。
もし抜け道の存在を知った者が問題を起こした場合、出自不明のアンリが最初に疑われる。そうなったら最悪の結果として、疑いも晴れないまま処刑されてしまうだろう。
「ん。わかりました」
小さな侍女が頷いてくれたことに安心しながら、セフィアは彼女を手招きして膝の上に乗せる。
そして、ようやく心に平穏を取り戻す。
「朝には他の侍女たちが来るから、私が眠ったら部屋に戻ってね」
「ん」
この場にいない二人のことを考え、心細くなったことを誤魔化すよう自分を抱き締める主に、アンリはされるがままになりながら頷いた。
たまたま入り込んでしまった子猫が寄り添うかのように、その小さな体を預けて落ち着くのを待ちながら考える。
(……さっきの男がまた来るからわからないけど、セフィア様が私のせいで泣くのは嫌)
警備の目を掻い潜って来ることはできたが、定期的に部屋へ入られると抜け出したことがばれてしまう。そうなった時、アンリは城から追い出されてセフィアが悲しむことになる。
自分の行動が軽率だとは思いながらも、彼女は自分のしたことに後悔していなかった。空腹で倒れていた自分を拾い、受け入れてくれたことに対しての恩に比べれば大したことではないからだ。
だからこそ、守れないことを歯がゆく思う。
(グランがいたら、セフィア様を守ってくれるのに)
自分が唯一慕う騎士の顔を思い浮かべ、小さな侍女は文句を言いたげに顔をしかめるのだった。




