幸せな独り暮らし
僕がこの世に生まれてから、今日で二十と五年が経った。
お金持ちの子ではなかったし、勉強も運動も人並みだった。
だけど貧乏な家に生まれたわけでも、病気がちな身体でもなかった。
中学も高校も地元の普通高。周囲からの評判とやらは知らない。気にしたことが無かったから。
だけど世間一般からすれば、おそらく僕は『普通』の子どもだっただろう。
このあいだ上司の結婚式に参加したとき、周りからは「お前もそろそろ結婚したらどうだ」なんて言われて、少しだけ笑ってしまった。
いまどきは晩婚化だって進んでるのに、何をそんなに焦る必要があるのか、と。
「いつまでも独り暮らしじゃ、家に帰っても寂しいだろう」って、笑いながら社長さんが言ってたっけ。
知らないからそんなことが言えるんだね。
僕にはちゃんと、大切な人がいるのに。
だってほら。今もこうして、すぐ隣で僕を見てくれている。
僕の、一番大切で。
僕の、大好きな人。
この部屋で一緒に暮らしているのは誰にも言ってないから、知らなくても無理はないけど。
彼女は、とても素晴らしいんだ。
仕事で帰りが遅くなっても、先に布団に入ったりせず、この部屋でずっと僕の帰りを待っててくれるんだ。
電話するのを忘れても、それを怒ったりせずに。
突然の出張が入って数日帰れなかったときだって、君は出て行くことなく、この部屋で待っててくれたね。
いつだって僕を支えてくれて。
いつだって僕を見ていてくれる。
だったらそのまま、結婚してしまえばいいじゃないかという人もいるだろうけど。
僕は今のままでもいいと思ってる。
だって一番大切で、一番好きな人が、こうして隣にいてくれているんだから。
わざわざそんな手続きをしなくったって、いいじゃないか。
夫婦にならなくったって、彼女と僕はつながっているんだから。
子どもの頃から、ずっと一緒にいたよね。
公園で、プールで、山で、森で、川で、海で。
僕の家で遊んだのも……ほとんど毎日がそうだった。数え切れないな。
初めて出会ったのは、いつだったかな。
なにせ毎日一緒だったからね。
思い出がありすぎて、思い出すのも大変だ。
あぁそうだ。
最初に君と会ったのは、僕のお母さんが死んだ時だ。
僕はあの時、ただ泣いていて。
そんな僕を、君は励ましてくれたんだった。
涙を拭ってくれて。涙は止まらなかったけど、嬉しかったんだよ。
その日からだね。僕達は毎日一緒にいるようになった。
君は少し恥ずかしがり屋で。
近所の子どもや大人達に会うと、いつも僕の後ろに隠れてしまってたよね。
あの時の僕は、子ども心に『お姫様を守る騎士』の気分だった。
思い出すと恥ずかしいけどね。
それから、どれくらい経ったかな。
小学校になる時か。
同じ学校には通えなかったんだよね。あれは寂しくて、悲しかったな。
だけど君は、学校が終わるとすぐに僕に会いに来てくれたよね。
同じ学校じゃないけど、一緒に帰る通学路。
うん。楽しかったし、幸せだった。
中学も高校も、同じ学校には通えなかったけど。
それでも帰り道では、毎日僕に来てくれていた。
けど君の恥ずかしがり屋は治らなくて。
人とすれ違うときには、いつも僕の背中に隠れてたね。
実を言うと、小さかった頃と違って、あの時ちょっとドキドキしてたんだ。
いま思えば、恋の始まりってやつかな。
自分で言ってても、ちょっと恥ずかしいね。
受験前も、毎日応援してくれたね。
つきっきりで勉強も見てくれたりして。
二人して頭を抱えたのも、今ではいい思い出だなぁ。
それで無事に高校も卒業できて、僕は就職を機に家を出たんだ。
あの時は突然だったから、きみを驚かせちゃったよね。ごめん。
だってお父さんってば、僕とたまに話をする時はいつも「かべにかべに」ってウルサイんだもの。
嫌になっちゃってさ。
それでこの部屋を借りて、独り暮らしを始めたんだった。
突然で、家出みたいで、なんの相談もしなかったのに、君は怒らず、僕について来てくれたよね。
いまさらだけど、本当にありがとう。
少しだけ不安だった独り暮らしも、君のおかげで寂しくなかったよ。
そのうち、君もこの部屋で暮らすようになって。
今こうして、僕達の思い出をパソコンに向かって打ち込んでいるところで、す、っと。
でもやっぱり、少しだけこの部屋はせまいよね。
パソコンデスクの右側、すぐ横が壁だもんね。
僕が今座っているイスと壁の間に、1センチの隙間もないっていうのは、家具の配置ミスかな。
何回ひじを打ちつけちゃったか、覚えてないや。はは。
でも僕はね、このせまさもいいかなって思ってるんだ。
だってほら。
こうしてパソコンに向かってるだけで、二人がくっつけるから。
うーん。やっぱり真顔で言うと恥ずかしいね。
もうこんな時間か。
そろそろ寝ようかな。
あくびをしてからパソコンの電源を落とす。
僕は右を向いて、彼女に「おやすみ」とつぶやいてから布団へと向かった。