コーヒーの淹れ方、紅茶の飲み方。
食事を終え、2人で研究等へと戻る。
珠美もどうやら修士論文の草稿を提出するよう催促されているらしく、未だ帰れないそうだ。
木幡は荷物をそのまま置いてきてしまったのと、
先日の大村に渡す分の論文の原稿を印刷しなければならないため、未だ帰れない。
「それじゃあ、お疲れ」
「幸、あんまり無理してはだめですよ」
いつも珠美は、別れ際に木幡を案ずるような言葉を投げかけてくれる。
生来のお節介の性分が出てしまうのだろうか。
でも、不思議にそれが、彼女にとっては心地よいものだった。
彼女に母がいないせいなのかもしれなかったが。
部屋へ戻る途中、林の部屋の前を通る。
ドアの上の天窓から、光が漏れている。
(今日はまだ帰っていないんだ)
学会用の論文を書いているのかもしれない、
そう思いながら、彼女は院生の部屋へと歩いて行った。
「林君」
ドアのノックと同時に、大村が林の部屋に入ってきた。
「はい」
その返事も待たず、ずかずかと彼の机の前に置かれた椅子に、どかっと座った。
「いやぁ、ちょっと触りだけ読んだけど、かなり興味深いね」
口髭を何度も撫でながら、彼は散らかった林の机の上に、論文の束を置いた。
「そうですか。僕は未だ読んでいないので」
「目の付けどころが斬新だ。さすが君の弟子、といったところだな」
「いえいえ。私の弟子、というより、彼女だからですよ」
彼は立ち上がり、コーヒーメーカーに手を伸ばすが、大村は顔を横に振った。
「構わんよ」
「あ、すみません」
満足そうな顔をして、彼は続ける。
「こんな逸材に出会えるとは、そうそうあることではない。
この出会いは大切にしないといけないなぁ。そういう点で、君に出会えた私は、ラッキーだと言える」
「身に余るお言葉です」
苦笑する林に、なおも大村は言葉を続けた。
「しかし、よく彼女を大学院に誘う事が出来たな。今時、こっちに来る学生なんか少ないだろうに」
「ゆくゆくは行くと思いますよ。司法試験は、ロースクールを卒業しないと受験できませんし」
法学部の教授でも、司法試験を受験していない者もいる。
もっとも、大村も林も、司法試験には受かっていた。
しかし、今は時代が違う。
司法改革のため、司法試験受験資格に、ロースクール卒業が加わってしまったのだ。
そのため、法学部の学生は進学したとしても、
ロースクールを選択するのが大多数で、従来の法学研究科に進学するのはごく一部だった。
「ほう、そうか。
でも、もし君の合理的思考からすれば、まずロースクールに進学するよう勧めるのではないか」
合理的に考えるのであれば、そうだろう。
稼げるかわからない方に進むより、
まず将来の仕事に直結する進路を選ぶように、彼はアドヴァイスするだろう。
しかし、彼は木幡にはそうしなかった。
むしろ、研究科に進むよう助言したのだった。
「初めて彼女がゼミで発表する機会がありました。
正直言えば、僕は彼女に期待していなかったのです。
ゼミでもあまり積極的ではありませんでしたし、むしろ居眠りしているようでしたし。
恐らく、ゼミ生であるにもかかわらず、最初は刑法の基本すらも分かっていなかったと思います」
くす、と林が笑う。
「初めてここで題材となる判例を渡した時も、不満げな顔をしていました。
きっと発表もそれなりの物になるだろうと予測していのですが。
・・・それなのにですよ、いざプレゼンとなったら、誰よりも綿密な検討をしてみせたのです。
良い意味で、僕の予想を大きく裏切ってくれました」
懐かしそうな眼をして、林は微笑んでいた。
その微笑みは、あの時彼女に送っていたそれと、変わらない。
「発表態度も素晴らしかったし、何よりも、あの短期間での成長。僕は本当に驚きました。
こんなに凄い子が、近くにいたなんて」
彼は、目を細めた。
何か、眩しいものを見るときのように。
「彼女はまさしくダイヤの原石です。僕には、あの時以上に、今の彼女が輝いて見えるんですよ」
自慢げにそう豪語する林の姿を、大村は嬉しそうに見つめていた。
と、その時。
とんとん、とドアをノックする音がした。
「はい」
「木幡です」
「どうぞ」
ぎぃ、とドアが開く音と同時に、木幡が現れる。
「あれ、大村先生、ここにいらしたのですか」
「私に用だったのかな?」
「はい、先日の論文の原稿を渡そうと思いまして」
「あぁ。実はね、ちょっともうつまみ食いしてしまっているのだよ」
大村がぎゅ、と肩目をつぶる。
ウィンクとは言い難いが、本人はそのつもりなのだろう。
「どれどれ・・・。それじゃあ、読み終わったら連絡するから」
そう言うと大村は立ち上がり、2人に挨拶をして、部屋を出て行った。
「邪魔しちゃいましたか?」
「いや、そんなことないですよ。あ、座って、僕、さっきから何か飲みたくてね。
一人分だともったいないし、飲んでいって」
彼が相変わらずの笑顔で、再びコーヒーメーカーに手を伸ばすが、突然彼は手をひっこめた。
「あぁ、君は、コーヒー苦手だったね。紅茶パックは・・・あった、あった」
彼はコーヒーメーカーの近くに置かれた缶の箱からティーバッグを取り出し、
小さな棚から2つカップを取りだした。
(・・・え・・・?)
その手際の良さを、ただ茫然と見つめている。
「さっき、大村先生が褒めてくださっていましたよ」
「・・・へ?」
「先生に頼まれてね、君がこの前渡してくれた論文、先生がちょっと読みたいって」
やっと『つまみ食い』の意味を理解できた。
コーヒーメーカーから滴り落ちるお湯がたまるのを見ながら、彼が言う。
「面白いって。大村先生は論文に関してはあまり他人を褒めない方だから、これは期待できますね」
たまったお湯を、カップの中に注いで、彼はそれをそのまま彼女に手渡した。
「砂糖は要らないでしょう?」
「はい」
出来たての紅茶が、湯気を立てている。
真夏だと言うのに、こんな熱い紅茶を飲むことは自分ではないけど、
林が淹れてくれたものだから、彼女にとってこんな嬉しいものはない。
「いただきます」
ふぅと少し冷ますために息を吐いて、彼女は口を付けた。
「・・・美味しいです」
「大丈夫?熱くない?」
とうの林は未だ口をつけていない。
「はい、大丈夫です。先生はホットコーヒー好きなくせに猫舌だから、毎朝温めで設定しているので」
「・・・」
「先生?」
「あぁ、いや、何でもない」
林は少し何かに呆気にとられていたようだったが、直ぐに話題を戻した。
「とりあえず、大村先生に気に入られると良いね」
林の笑顔に、彼女も笑顔で答える。
「はい。そうしていただけると本当に光栄です」
それから2人は軽く刑法の論点について言葉を交わした後、木幡は部屋を出た。
ぱたん、とドアを閉め、彼女は廊下を歩き始める。
しん、と静まり返った廊下。
もう、ほとんどの先生も学生も帰っているのであろう。
そんな中で、彼女は独り言を零す。
「・・・どうして先生、私がコーヒー苦手って知っているのだろう」
場所を事にして、それと同時に、独り言を零す人間がいた。
「どうして木幡さんは、僕がコーヒー好きで、猫舌って知っているのだろう」