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6/10

きっかけ

それは、4年前のこと。


木幡は昼休みの時間に、林の部屋に呼び出されていた。

ゼミが始まって3カ月がたとうとする頃、彼女に順番が回ってきたからだった。


「木幡さん、次、よろしくお願いしますね」


林から、1枚のA4のコピーが渡された。

判例評釈のコピーである。


ゼミ発表の題材だ。


題材となる判例を中心に、

関連判例、学説を勉強し、分析し、それを皆の前で公表しなければならない。


くじで決められた順番で、彼女は最後から2番目だった。

そしてとうとう、2週間後に彼女の番が回ってくるのである。


「間接正犯だから、

共犯と単独正犯の境界線みたいなものをメインに案礼を検討してくれれば・・・」

「・・・間接正犯・・・」


去年、大村先生の授業で聞いた気がする。


でも、何だったっけ。


しかし、それが何であるかを聞く訳にはいかない。


一応、刑法を履修していて、

刑法のゼミ生であるにもかかわらず、基本概念を聞くのは、恥である。


「そう、間接正犯。共謀共同正犯との関係の一緒に考えてくれると良いと思いますよ」


にこ、と林が笑顔を浮かべる。

その笑顔に、いつも無性に木幡は腹が立っていた。


木幡は、林の笑顔が嫌いだった。

誰に対しても愛想を振りまいて、何がしたいのか。

だから、ゼミもほとんど聞いているだけで、ろくに予習をしたことなんかない。

来年は、どこのゼミの所属を希望するか迷っているぐらいだった。


「・・・はい」


ぶす、とした表情で、たった一言、そう答える。


彼女が彼に背を向けて、とぼとぼとドアに向かって歩き始めた時。


「あ、木幡さん」


彼が駆け足で近づいてきた。


「一応、藤木先生の論文からの考察もしてもらえると助かります」


藤木先生。

恐らく、あの藤木壮介の事を言っているのだろう。

戦後の刑法学会の第一人者の一人。


「・・・絶対縦書きだ」


横書きが主流の中、

昔の縦書きの本を読むのは、1.5倍の労力を消費しなければならない。

ため息をついて、廊下を意気揚々と歩く藤木の後姿を恨めしそうに見送りつつ、

彼女はその足でそのまま図書館へと向かった。









しかし、図書館に向かって真っ先に図書検索に掛けたのは、

論文集でも、藤木の古い教科書でもなく。


大村先生の基本書「刑法総論」だった。


大村先生の基本書は司法試験受験生でも定番の一冊であり、

学部生のほとんどもこれを使って勉強していた。


彼女が今、しなければならないこと、それは、基本概念を勉強することだった。


法律は、数学と同じで、公式なる定義を知らなければ何も始まらない。


そこで、彼女はまず、共犯に関する章の最初から読み始めた。

共犯、それは単に複数の者が一緒に犯罪を行うだけのように思えるが。


(・・・ふーん)


しん、と静まり返った図書館で、じっくりと教科書を読んでみる。


去年は、遊んでばっかりで、

ろくに勉強もせず、たいして教科書を読んでみたことは無かったが。


「・・・」


彼女の集中力が一気に高まっていく。

単純のように思われるのに、そこに巧妙に展開される理論。

構築されていく論理と、見えそうで見えない展望。

それがいかにして生の事案に生かされていくのか。


去年、友人に言われるがままに購入した判例集をめくりながら、ページを進めていく。



そして、気が付けば。



「・・・っ!」


腕時計で時間を確認すると、既に夕方の4時になっていた。

3時間以上も図書館で教科書を読んでいたのである。

次の授業があるため、そろそろ移動しなければならない。


(・・・刑法って・・・案外面白いのかもしれない)


彼女自身、かなり驚いていた。

一心不乱に、教科書を読みふけっていた事に。

未知の興味を抱きつつ、彼女はそれを抱えたまま、図書館のカウンターへと急いだ。











それから、2週間。

とうとう発表の日がやってきた。


いつもは最後の方にのそのそと入ってくる彼女だったが、その日だけは違った。

パソコンを用意し、スクリーンに接続の準備を行い、

簡単なレジュメを、それぞれの席に配って用意する。


何冊もの基本書に論文集、判例集を印刷した冊子。


最初に教室に入ってきた林も、驚いているみたいだった。


「これ、木幡さんが作ったのですか?」

「はい」


まだ発表していないのに、勝ち誇ったような笑顔。

その笑顔に思わず噴き出しそうになっていたのは、彼女には秘密にしてある。


「期待していますね」


そう一言、にこ、と笑って、彼は席に着いた。











ゼミが始まる。


林からの簡単な説明が終わった後に、木幡のプレゼンが始まった。

人前で発表するのは、嫌いではない。

緊張はするけど、特に臆することは無かった。

どうして緊張しないでいられるのか、尋ねられるが、彼女でもよくわからない。

性分、と言えばそうなのかもしれない。


プレゼンの構成はいたってシンプル。

判例の紹介に要点の説明、それに関する判例、学説の現状。

その後に質疑応答である。


彼女の通る声は、教室の最後尾にいる林の耳にも良く聞こえていた。


判例の説明が始まり、皆に配ったレジュメを元に、説明を展開していく。


そして、質疑応答。

その日は珍しく、議論が白熱した。

いつもは時間を繕う為に林がわざわざ何度も説明するだが、

その日だけは、彼の質問は1,2にとどまった。



そして、プレゼンが終了。

気が付けば、ゼミの時間は15分も延長されていた。

プレゼンが終わり、肩からふぅ、と力を抜いた。

彼女は自分の席に戻り、

パソコンを片づけ、資料をしまっていると、背後から彼女の名前を呼ぶ声がした。


振り向くと、そこにいたのは、林だった。



「お疲れさまでした」


にこ、といつもの微笑みで、彼女を見つめている。

何故か、その時は、彼女はその笑顔に、腹立つことは無かった。


「今日の発表は素晴らしかったです。たった2週間で、よくやりましたね」

「いえ。勉強してみたら、面白かったので」

「正直、意外でした」

「・・・え?」

「あぁ、いえ。・・・その、・・・刑法ゼミ、参加するのが嫌なのかと思っていましたので」



図星である。

大村先生ではなかったとはいえ、林准教授でも、刑法が苦手だったのは事実だ。

小難しいし、用語とか、意味が分からないし。


「その・・・。誰かが、言っていたんですか?」


恐る恐る、尋ねてみた。

ありうることである。

彼女はしょっちゅう、誰かに刑法ゼミに関して愚痴を言っていたからだった。

つまらない、先生の笑顔が癪に障る、眠くて仕方が無い、などなど。


「いえ、その。・・・あまり好きで参加しているという顔をされていなかったから」


態度で丸わかり、という事らしい。

今更ながらではあるが、彼女は恥ずかしくなった。


「あ、あの、先生」

「はい?」


恥ずかしさを隠すように、彼女は話題を変えた。


「先生って、今、刑法の授業を担当されていますか?」


突然の質問にきょとん、としながらも、直ぐに彼は笑顔になった。


「えぇ。春学期は刑法総論、秋学期は各論を担当する予定ですよ」


穏やかな微笑みだった。

その笑顔に、自身の視線が、吸い込まれそうになる感覚を、彼女は覚えていた。

そして、薄々ながらも、気が付き始める。

どうして、あんなに林の笑顔に腹が立っていたのかを。


「・・・こんど、聴講しても良いですか?」


くす、と彼が笑った。


「えぇ、是非。歓迎しますよ」


多分、そうなのだろう。

その和やかな笑い声に、優しい笑顔。

彼女が嫌いだったのは、それが・・・、彼女だけに向けられていないから。


つまり。


(・・・嫌い、じゃない・・・かもしれない)



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