朝一杯のコーヒーと笑顔。
「おはようございます」
「在室」と書かれたプレートが掲げられたドアのノック音と同時に、彼女が彼の研究室に入ってきた。
それには、Hayashi’s roomと書かれている。
「おはよう」
朝、8時45分。
彼女は林の研究室にいた。
「コーヒー、ここに置いておきますね」
毎朝、一杯のコーヒーを先生の為に入れるのが彼女の役目。
正確には、彼女が勝手にやっていることなのだが。
「うん、ありがとう」
彼はいつものように優しく微笑むと、ぼさぼさのままの髪を掻きむしりながら、机の上を見回す。
アイロンがきちんと掛けられていないのだろう、ワイシャツのところどころが皺になっている。
「先生、ここです」
彼女が指差した先には、既に数冊の本と判例六法が1冊積み重なっていた。
「あぁ、ありがとう。いつもごめんね、木幡さん」
にこにこ、と笑顔を崩さないまま、彼はよいしょ、と掛け声とともに、それを両手で持ち上げた。
不満げな顔をしながら、彼女はその様子を見つめる。
不満げな表情―眉間に皺を寄せ、両腕を組み、鋭い目つきをして相手を見る―は、
彼女の癖であることは、4年目の付き合いになる彼にとって、既に慣れたものとなっている。
「それじゃあ、これから昼まで授業だから、それまでに論文上げといてくださいね」
「はーい」
両手に大量の本を抱えたまま、彼がドアを足で開けようとする。
急いで彼女が代わりにドアを開けた。
「ありがとう」
今朝だけで三度目の、穏やかで優しい笑顔。
「先生、鞄にでも入れたらどうですか?」
「ですよねぇ。僕もそう思うんですけど」
「持ちます」
彼女は彼に有無を言わさず、本の山の頂にある何冊かの本を取り上げ、彼の前を歩いた。
彼はありがとう、と呟き、にこにこと笑顔を浮かべて、彼女の後を歩く。
「ここからは、先生1人です」
彼女は持っていた本を、本の山に戻した。
「おっと」
よろけつつも懸命にエレベーターまで歩く後姿を途中まで見送って、
彼女は院生専用の部屋まで来た。
まだ、誰も来ていない。
その中で、彼女はドアを閉めると同時に、大きくため息をつく。
「・・・はぁ」
そして急いで彼女は自分の眉間に両手を乗せて、懸命にそこを伸ばすのだった。
朝から、本当に朝から、コーヒーのカフェイン摂取より、刺激的なもの。
彼女にとって、それは林の「笑顔」だった。
朝一番に、誰よりも早くあの笑顔を見たい。
あの笑顔を見ると、目が覚めると同時に、今日も一日頑張ろうという気になれる。
そう思って始めたのが、先生の為のコーヒー淹れ。
無類のコーヒー好きの林には、それはすんなり受け入れられた。
そして、1限目に授業がある日は、
教科書を山のように積み重ねて持っていく彼の為に、教科書を準備しておいてあげる。
直ぐに、教室に行けるように。
自分は出来が悪いから、こういう風にしておくことで、
修士論文の審査を甘く・・・とか何とか彼女自身の中で理由をいくつか考えてはみたが。
・・・とどのつまり。
「・・・やっぱり私、先生の事が好きなんだなぁ」
確かめるように独り言をつぶやいた。
気が付けば、片想いを初めてもう3年近く経つのかもしれない。
学部時代、ゼミの抽選で漏れて、泣く泣く入ることになった刑法ゼミ。
最初は刑法に興味がなくて、ゼミがつまらなかった。
ゼミ発表のため、いやいや触れていた刑法の世界に、いつの間にか魅せられて、
今では大学院にまで進学し、林の元で刑法を勉強している。
人生とは、いつどこで分岐点があるのか、本当に分からない。
「よし、・・・いっちょ推敲仕上げますか」
そう掛け声を上げて、彼女はパソコンの電源を立ち上げた。