初めての仕事。
「おはようございます」
朝、林が部屋を開けると、いつも通りに木幡が温めのコーヒーを用意してくれていた。
「おはよう」
彼はぼさぼさの髪を掻いて、眼鏡を直しつつ、散らかった机の上に鞄を放り投げた。
そして、そのコーヒーを口にする。
「美味しいな。いつもありがとう。
君の淹れてくれたコーヒーを飲むと、何だかほっとするし、元気が出る」
彼女は思わず俯いて、咄嗟にいつもの癖を出してしまった。
「いえ。だから修士論文の採点、甘くしてくださいね」
ははは、と彼は苦笑しながら、コーヒーを持って席へと着く。
机の上は、いつものように乱雑だ。
彼は何かを探す手を止め、目の前に立つ彼女に声をかけた。
「・・・木幡さん」
「はい?」
「君は・・・」
「・・・はい」
「・・・」
「・・・?」
何かを言いかかけたまま、彼は何も言わない。
只黙ったまま、彼女を見つめるのだった。
「・・・な、何ですか」
彼女がどもるのも不思議ではない。
話し掛けておいて、続きを言わずにただ見つめているのだから。
「いや、何でもない」
ふっと笑いを浮かべて、彼はコーヒーを再び口に流した。
「ちょっと今日ね、不思議な夢を見たものだから」
「不思議な夢?」
彼が苦笑交じりに答えた。
「もう30を超える良い大人なのに、ここ、そうですね、2,3年、夢でうなされるんです」
「どんな夢ですか?」
「・・・良く分からないのです。僕は、誰かに何かをして欲しくなくて、大雨の中、その人を止めに行くのです。だけど、いつも失敗してしまう。それが悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうな気持になるのです」
彼の顔は本当に悲しそうだった。
良く見ると、目の下にクマができている。
「不思議な夢ですね」
「えぇ。本当に。・・・いったい何の夢なんでしょうね」
彼はそう言い終わらないうちに欠伸をした。
元気づけたい、だけど、気の利いた言葉など咄嗟に浮かぶはずもなく。
時にそう言った葛藤は、人に、心とは裏腹の行動を起こさせることがある。
彼女も例外ではなかった。
「いつもぼけっとしている先生ですから、朝の授業ぐらい、しゃきっとしろって言う意味で、渇を入れられているんじゃないんですか?」
あまりにも脈絡のない根拠だったが、そんなものでも、彼は笑顔で応じてくれた。
「・・・ふふ。誰が、ですかね?」
「分かりません。亡くなった奥さまじゃないですか?」
「あはは。そうかもしれませんね」
彼がふっと見せた笑顔が、彼女の胸を苦しくさせる。
言うべきではなかった。
目じりにできた笑いじわが、ひどく切ない。
笑い皺が、必ずしも笑うからできるとは限らない。
泣いて顔をくしゃくしゃにしても、出来てしまうものだ。
その多さは、・・・そう、失ったものへの涙の数かもしれない。
彼女は、自分の心がひどく重く感じられた。
「あ、先生、今のは、・・・その」
「ん?」
気を使ってくれているのだろう、分からないふりをしてくれている。
「いえ、その。・・・ごめんなさい」
「突然どうしました?何がですか?」
彼女はただ頭を左右に振るだけだった。
どうにかしてこの気持ちを切り替えたいと思っていた時、今朝のある出来事がよみがえる。
「あ、そうだ。さっき大村先生に会って、林先生に伝えてほしいことがあるって言われたんです」
「ん?」
「何か、法学出版の方から執筆依頼が来ているから、後で部屋に来てほしいって」
「そうですか、了解です」
林は一気にコーヒーを喉に流しこむ。
空になったコーヒーカップを片づけるのは、木幡の仕事ではなく、彼の仕事だった。
「それじゃあ、失礼します」
「はい」
木幡はそのまま林の部屋を後にした。
昼休み。
院生の部屋でパソコンと睨めっこをしている木幡に、同じ院生が声を掛けてきた。
「さっき林先生に会ったんだけど、木幡さんを呼んできて欲しいって言われたんだ」
「私?」
直々に呼んでくれるとは。
恐らく判例や学説のリサーチか何かを頼まれるのだろうけど、
それでも嬉しくなってしまうのが、恋の魔法である。
今朝、彼に変な冗談を言ってしまって、会うのは気まずいか、と思ってはいたが、
どうやら彼女の気持ちはかなりタフらしい。
「もう、何なのかしら。私ばっかりこき使って」
でも、心とは裏腹に、言葉に出るのは悪態ばかり。
だけどその足取りは、非常に軽かった。
「先生」
「どうぞ」
ドアを開けると、林が難しい顔をして何かをじっと見つめていた。
やはり、少し緊張する。
彼女はドキドキしながら、彼の口から出る言葉を待っていた。
「あ、木幡さんですね」
「何か用事ですか?」
「ちょっとこっち来てもらえます?」
先生は顔を上げることなく、掌を上にして、人差し指だけでこっちに来るように合図する。
そんな仕草に、彼女は思わず赤面しそうになった。
たったこれだけの仕草に反応してしまうとは。
彼女は冷静さを装うため、すぐさま机の上に目を遣る。
机の上は、朝より大分荒れている。
こんな状態で、どこに何があるのか分かるのだろうか、そう疑問を抱かざるにはいられないぐらいに散らかっている。
そう思えば、先生が片づけの出来ないという欠点を直視することが出来て、いくらか冷静になれると思ったからだった。
「大村先生の直々のお願いです」
「何ですか?」
彼に手渡された、A4の1枚の紙。
「・・・執筆依頼・・・え、私に?大村先生の仕事じゃなくて?」
「どうやら大村先生が頼まれたそうなのだけど、僕と君にやって欲しいらしくてですね。先生曰く、こういうのは若い人間がやった方が面白いとおっしゃっていて」
「えーっと。・・・過去の著名な刑法学者・・・既に亡くなっていらっしゃる方をメインに、その人物像を紹介する特集を組む予定です。先生の性格、エピソードを交えつつ紹介をしてください。
つきましては、お好きな刑法学者をお選びいただき、ご連絡をいただきたい・・・って、これ、私が書くんですか!?」
「初雑誌デビューですね、おめでとうございます」
法学出版は、法律雑誌を出版している会社である。
法学部の学生であれば、一度は耳にした事がある、老舗の出版社だ。
「で、でも、どうして私なんかが・・・」
未だ院生の2年生という身分であるにもかかわらず、何故自分が抜擢されるのか、彼女は分からなかった。
「僕も分かりませんが、もしかしたら、君の論文が大分気に入っているのかもしれないですね。今朝も、君の文章能力を褒めていらっしゃいましたよ」
にこにこ笑いながら、林はそう言った。
「どうやらそこに書かれている刑法学者の中から一人選んでほしいとのことです」
指差されたところに、何人かの名前がリストアップされていた。
刑法を勉強した者であれば、必ず避けて通れない人たちの名前がずらり、と並んでいる。
「僕は牧宗一郎を選ぼうと思っていますが、木幡さんはどうしますか?」
牧宗一郎。
日本の刑法を、「学問」のレベルまでに持ち上げた刑法学者の一人だ。
ドイツからの輸入品でしかなかった真似事の刑法を、日本独自の学問分野として、確立させたその功績は大きい。
また、その大らかで優しいという性格もよく知られており、戦争に最後まで反対をしていた著名人としても名を上げられる人物である。
ふと、牧宗一郎の下に書かれた名前が目に付いた。
「・・・藤木壮介・・・」
藤木壮介。
彼も刑法学会では著名な刑法学者だ。
一部では「天才」という称号まで与えられている。
誰もが目につけない観点から物事を把握し、常に時代の最先端を駆け抜けた人だ。
もっとも、先見の能力は、周囲に理解されがたく、時にその考えが過激すぎるとして批判の的になることはしばしばあった。
確か、・・・戦時中は、政府に目を付けられてしまい、論文の発表がほとんどできなかったと聞く。
また、戦後は戦後処理の渦に巻き込まれ、数多の人々の批判の対象とされ、研究発表が難しかったそうだ。
「・・・先生は、藤木先生にしないのですか?」
「うーん。悩みましたけどね。ここはあえて刑法の原点に戻って、牧先生にしようかな、と」
他にも、立法分野で貢献した野村教授などの名前もあがっていたが。
「それじゃあ、私、藤木先生にしようかな」
彼女は、とても軽い気持ちで選んだ。
「良いと思いますよ」
しかし、はて、と思い直す。
牧先生はかなりの著名人で、その逸話も多い人だ。
若い頃、仲間の学者が当時の政府の体勢を批判した論文を発表し逮捕されたことに抗議して、
辞職願を提出した、という話は、今でも語り継がれている。
しかし、藤木教授の逸話はあまり耳にしない。
確かに、刑法の論文を彼女も多少かじったことがあるし、彼の着眼点は、当時からすれば、かなり斬新だったことは明らかである。
彼の論文は、現在の刑法にも通ずる事があり、彼の学説を勉強せずには通れない分野も存在する。
しかし。
「・・先生、藤木先生って、何か逸話とかあるのですか?」
その問いに、林も困ったような顔をした。
「・・・うーん。学説は頻繁に発表されていたみたいだけど、そういう話は、僕は聞いたことないですねぇ」
かなり困難な選択をしてしまったようだった。
一瞬止めようとも思ったが、彼女の素直ではない性格が、こういう時に災いする。
一度決めてしまったものを変えるというのは、彼女の性格が許さない。
「・・・とにかく、基本書でも読んでみます」
修士論文よりも難しいかもしれない仕事を引き受けてしまったような予感がしていたが、
とりあえず彼女は林の部屋を出て、自室へ戻るのだった。