プロローグ
この作品は、拙作『雨音色』の続編です。
雨音色を読んでいただいた上で、本作を読んでいただければ、なお一層物語の意味を理解していただけると思います。
もちろん本作だけでも楽しんでいただけるようになっております。
「・・・壮介さん」
彼女は、聞きとれるか、取れないかの小さな声で、横たわる彼の耳元でささやく。
その声に、彼は閉じていた瞼を、そっと開いた。
そして、ゆっくり微笑むと、彼女の方を向いた。
「どうしました?」
「・・・雨が、降り始めました」
いつもであれば照りつけるはずの太陽は、雲で姿を隠し、
太陽の光の代わりに、空からはしとしとと雨粒が零れてきた。
窓から聞こえる、雨が叩きつけられる音。
彼女は、ただ窓の外を眺めながら、深くしわが刻まれたその手を、彼の手の上に重ねる。
「あの日も・・・こんな風に雨が降っていましたね」
その言葉に、彼はくす、と笑う。
その視線の先にあるのは、もうずっと昔に過ぎ去った日々。
「・・・そうですね。・・・貴女との思い出の日は、・・・いつも、雨が降っていましたね」
そっと彼が、反対の方へ顔を向ける。
視界の先に広がる世界。
窓ガラスをつたう雨水が、それはまるで涙のように、流れていく。
じんわりと外の世界が曇るのは、雨のせいなのか、それとも・・・。
「・・・時間が、・・・欲しい」
彼がポツリ、と呟く。
その言葉に反応するように、彼の手の上に重ねられた彼女の手が、
ぎゅう、と力強く彼の手を握り締める。
「もっともっと、時間が欲しい。貴女と過ごす時間が」
定まらない焦点を抱える瞳が、激しく揺れていた。
「壮介さん・・・。時間なら、たっぷりありますよ。私はもう、どこにも行かないのですから」
「僕はまた・・・一人になってしまうのですね」
小刻みに震える声が、待っているだろう孤独をひどく恐れていた。
時は、待ってくれない。
それでも、心から願ってしまう。
永遠という幻を。
「でもね、・・・僕は、神様っているのかもしれないって、今になって思っているのですよ」
にっこりと笑うその笑顔に、彼女は遠い昔に見た、彼の笑顔を思い出す。
温かい瞳が見つめる先に、かつて自分がいた、その事実が、切ないぐらいに懐かしい。
「どうしてですか?」
彼はその問いには答えず、再びにっこりと笑って、彼女の手を握り返した。
深く刻まれた皺の数が、過ぎ去った時間の長さを物語る。
「僕が眠りにつくまで、・・・このまま手を握っていてくれませんか」
「えぇ。ずっと握っていますよ」
その言葉を聞いて安心したのか、彼は小さく息を吐いて、そっと目を閉じた。
雨の音が、次第にその激しさを増していく。
彼女も彼と同じように、そっと目を閉じた。
瞼の裏に映るのは、遙か昔、過ごした日々。
とても短い時間だった。
これまで生きてきた時間からすれば、ほんの一瞬のようなものだった。
それなのに、どれもキラキラと輝いていて、まるで昨日の出来事のようにさえ感じる。
ここに辿り着けるまで、片時だって忘れることは無かった。
「ずっと、ずっと、・・・握っていますよ。
・・・だから、壮介さん、・・・貴方も、私の手を、もう決して離さないでくださいね」
震える声に乗せられた言葉は、ただ彼の耳を掠めては通り過ぎていく。
雨の音に混じって、彼女の目尻から零れる涙が、ぽつり、と床に落ちた。
1つ零れると、その次も、その次も、零れ落ちていく。
「今度、生まれ変われることがあれば、きっと一緒になりましょう」
夏の空が、涙を零す。
それは、これまでの悲しみを、洗い流していくかのようだった。
―――――どうして僕は、あの時、君を―――――。