クロの声が聞こえる
※これは残酷描写を含む作品です。苦手な方は読まないことをおすすめします。
ニャーニャー
庭から呼びかけの声がする。
クロだ。「ご飯くれー」と言っているのだ。
クロは地域猫だ。白藤台の住民はみんなクロと呼んでいる。黒猫だからだ。
去勢はしていない。高齢化が進む白藤台では、ペットが飼えない独居老人が多い。彼らの楽しみは、野良猫の相手だ。春と秋の子猫が生まれなくなってしまうと、みんなの楽しみがなくなる。だから、あえてサクラ耳にして野に放っている。サクラ耳というV字カットにしていると、つかまることがないからだ。これは暗黙の了解で、白藤台ではいまだに野良猫がたくさんいる。行政は室内飼いを進めているが、知ったことか。わしらはわしらの流儀で行く。
猫の室内飼いでは、かつてFさん事件という悲惨な過去があった。
行政の指導で室飼いを余儀なくされたお婆ちゃんが、突然死したのだ。
当然、猫たちは外に出ることが出来ない。
水だけは、賢い子が蛇口を押し上げてなんとか確保した。が、ペットフードは買い置きが切れた。
仕方なく、猫たちはFさんの亡骸を食べた。
最後には共食いをして全員が息絶えた。
近所の人が異臭を問題にして騒ぎ警察が介入したときには、その家には白骨化したFさんの亡骸と、骨と皮だけになった猫たちの骸、そして死肉と汁にむらがる大量の小バエだけが残された。
当時自治会長だった私は、その現場に立ち会って実際の惨状を目の当たりにしている。
わしらは話し合った。Fさんが亡くなったのは仕方がない。高齢で持病もあったからだ。が、その死の犠牲となった猫たちはあまりにもかわいそうではないか。
というわけで、わしらは行政とかけあって、地域猫の捕獲をしないことを確約させ、猫の外飼いを地域の不文律とした。幸いなことに白藤台は深い谷と森によって他の地区とは隔絶されていた。
その成果はすぐにあがった。
M さんが脚立から落ちたときは、なついていたトラが知らせてくれた。
とんでもない大声を上げるトラに先導されてかけつけたわしらは、庭の灌木の間で気絶しているM さんを見つけることが出来たのだ。
もし、自由に外に出られるようになっていなければ、トラがわしらにM さんの危機を知らせることはできなかっただろう。
Nさんが溺れ死んだときもそうだった。必死で鳴くクロ(うちに来ている子の親の世代だ)に異常を感じて縁側から入ってみると、Nさんが湯船の中で溺死体になって浮かんでいた。もし猫がいなければ、Nさんはずっと風呂の中でゆでられてぐずぐずのスープになっていたかもしれない。
猫は賢い。飼い主(というか親しい人)の危機には機敏かつ適切に行動してくれるのだ。
俳句の季語「猫の恋」は、白藤台ではまだ健在だった。二月から初夏にかけて、おわぁおわぁと猫の恋鳴き声がする。あるいはけんかをして「ニャー!」「フー!」とけんかをしながら屋根の上をバタバタと駆け回る。
やがて、みーみーと鳴く子猫が母猫の後をついて歩く姿が見られる。わしらは、子猫が親離れをするまで手を触れずに暖かく見守る。たまにカラスに喰われたりもするがそれは仕方がない。
この土地には、自然の営みがまだ残されているのだ。
白藤台には神社がある。祭神は正一位稲荷大明神。その摂社のひとつに妙多羅神が祀られている。江戸時代の書物には猫多羅天と書かれていて、子供と養蚕の守護神だ。住宅地として開発されるより前は、あたり一面の畑で、桑やクヌギの林が点在する農地だった、という。それらの木々はいまは伐採され、わずかに神社の周囲に残るばかりだ。その一角に自治会の会所があって、老人会の寄り合い所となっている。
「鍵役さん、ご苦労様です」
「会長さん、よいお日柄で」
「はは。最近は暑すぎますなあ」
現自治会長にお火屋さん(灯明や線香、ろうそく、電灯の管理をする人)、隠居した総代が木陰で涼んでいる。FさんとTさん、それにIさんだ。
Fさんは事件のあったFさんとは親戚だ。この方もまた、惨劇の現場を見ている。だから、室内飼いには絶対に反対だ。TさんとIさんは、家族が複数いるなら室内飼いも可とする派だ。私はどちらの言い分にも一理ある派で、お高い猫は閉じ込めておいても仕方ない、ただし外がのぞけるようにしておけと主張している。
まあ、そんな議論はさんざんやり尽くしているので、最近は話題になることもない。わしらは自販機の前にある藤棚の下でのんびりと時をすごす。するとクロがやってきて皆の足首にスリスリする。
「正体を、見たり妖怪スネコスリ」
「スネコスリ、すねかじりほど害はなし」
「縁戚は、臨終近いとわいて出る」
自然と句会が始まる、クロはそれを不思議そうにながめている。かと思うと、砂地でころがって見せたり、ふいっとどこかに走って行ったりする。友達猫と遊んだり、ライバル猫とけんかする姿もよく見られる。
「自由だねえ」
「日本もイスタンブールやラトビアみたいな、自由な国になってほしいねえ」
猫の集会ならぬ老人たちの集会。
穏やかな日が過ぎていく。
ある日、自治会長のTさんが緊張した声で言った。
「来ちゃいましたよ、去勢主義者が」
「来た、というと?」
「Hさんの長男夫婦が、熱心な去勢活動家なんですよ。なんともやっかいな人が越してきたものです」
「Hさんというと、この間亡くなった……」
「そう。心臓発作でぽっくりといった」
Hお婆ちゃんはとても気さくでいい人だった。旅行に行った先の温泉でぽっくり亡くなってしまったのだ。長男夫婦は、葬式は都会の家族葬専門のところですませて、わしらには後日、挨拶状が配られただけだった。それだけでも、義理を欠いた冷たい人だということがわかる。
「Hさんは、地域猫には理解があったのにねえ」
「世代がかわると、考え方も変わるんでしょうなあ」
「自治会としてはどうなさいます?」
Fさんは乾いた笑みを浮かべながらこたえた。
「例の事件について話して、説得してみますよ」
そんなわしらの気苦労を知ってか知らずか、クロと他の猫たちは思い思いに日向ぼっこをしているのだった。
「いやもう、頑固なものでした。猫を外に出したらFIVにかかるだの、車にひかれるだの、お定まりのざれごとですわ」
Fさんは困り果てていた。
「どんな猫でも年取ったら病気になるし、今では抗ウイルス薬だってある。それでいいと思うんじゃが」
「そう。根治はできなくとも、最後まで面倒を見てやればええ。口内炎や歯周病なんかは、わしらだってかかっておる。病気だって外に出れば拾うし広める。車にもひかれるもんさ。それで外に出るなと言われたらたまったもんじゃないよな」
Fさんは、さらに言葉を継いだ。
「そればかりか、行政に言って野良猫の駆除を進めるとまで言いおりましたわ。本当に血も涙もない一家ですわい」
涙をにじませている。
「そういえば、最近クロの姿を見かけませんね。鍵役さんのところはどうです」
「ここ数日、姿を見ていません。お火屋さんのところはどうです」
「うちにも来ていません。あの子は誰にでも甘える不用心な子ですから、やられたかもしれませんな」
ひとしきり、他の猫についての情報も交換する。人慣れした気のいい猫ばかりが数匹、のきなみ姿を消していた。
「先生からの情報は来てませんか」
「いや。敵もよくわかっているから、白藤台の動物病院には持ち込まないでしょう」
「これは、本当に殺られたかもしれませんな」
私は、自分の首に二本指を当てて横に引いて見せた。
「かもしれません」
沈黙がつづく。
やがて、誰ともなくある言葉が口をついて出ていた。
「落としますか」
「そうですな。それしかないでしょう」
長老会の意思は決まった。
「そういうこともあろうかと、H家のゴミは確保しています。自治会の方で生年月日は把握出来ていますよね」
「ええ。お供えは酒屋さんに言えば大丈夫でしょう」
「では、今夜八時に」
「とくとく落としましょう」
わしらはうなずき合った。
家に帰って自治会のメーリングリストに臨時祭のお知らせを流す。お定まりの書式で「白藤稲荷神社 臨時祈願祭」の通知をするのだ。今回は、失踪したクロを呼び戻すための妙多羅神へのご祈願。メールの配信が完了したことを確認してから湯浴みし、押し入れから取り出した衣冠束帯を身につける。
鍵役の仕事はそう多くはない。普段は閉じられている祠の扉を開くこと。そして、稲荷神社の倉庫から供物台を出して組み立てる。あとはご神域の鍵のあけしめだ。儀式がおわったら出した物を片付けて、倉庫に収める。難しい仕事ではない。
楽人さんが来て挨拶し、CDラジカセを引っ張り出して供物台の下に置いた。
「CDは大丈夫ですか」
「えっ?」
パカッと開いて中身を確かめる。
「ありゃ、メフテルになってる。こりゃ、アンゴラちゃんが逃げ出した時のやつだ」
「あの時は笑いましたね。音楽につられて森から出てきましたから」
トルコ軍楽隊の音楽「メフテル」は、アンゴラちゃんが大好きな音楽なのだ。意外と猫にもルーツ意識があるのかもしれない。
楽人さんは、雅楽のCDに交換する。一番、神道の儀式らしいBGMだ。
「あとは電池ですが……」
「そちらは大丈夫です。新しいのに入れ替えました」
楽人さんは、ビニール袋に入れた古い単一電池の集合を見せてくれる。
「こんちはー」
酒屋さんが一升瓶の入ったケースを運んできた。横には、煮干し、おかか、焼きささみのパックも入っている。それを手慣れた様子で供物台に並べる。
「クロちゃん探しですか。あの子は何でも食べますからねえ。この間は酒粕をかっぱらって行きましたよ」
「えっ!? いつ頃です?」
「一ヶ月くらい前だったかな。あとで酔っ払って道をふらふら歩いてましたよ」
「ははは。そりゃ、功徳を積まれましたな」
酒屋さんと笑い合う。
「早く見つかるといいですね。……あ、これは私からのお供えです。どうぞ」
わざわざ無塩チーズを前掛けから出して供物台に追加してくれた。
三々五々、白藤台の人々が集まってきた。
賽銭箱にお賽銭を入れたり、お供え物を追加して置いていく人も多い。
クロは愛され猫なのだ。
「さて、そろそろ時間になりました。私は役儀がありますのでこれで」
私は、藤棚の下に居並ぶ長老たちの元へと歩いて行った。
「かけまくもかしこきみょうたらのおおんかみのまえにまおさく……」
斎主さんが祝詞を奏上する。
元小学校の教頭で、退職後、神職の資格は通信教育でとったという。どこかの教派神道の神職で、つぶしの効かない資格なのだとか。それでも、所作振る舞いはきっちりとしている。クロが安泰で、早く戻ってきますように、と妙多羅神への祈願を奏上する。
「以上をもちまして、クロの帰還祈願祭をおわります。直会は自治会館でいたします。なお、このあとの祭事は非公開ですので、よろしくお願いいたします」
雅楽が流れる中、触れ役がマイクであいさつする。
一般の人々は、ぞろぞろと自治会館に移動する。実は、この後が儀式の白眉だ。
私は、ご神域の扉の鍵をはずす。
斎主さんを先頭に、衣冠束帯姿の長老たちが続く。行き先は、妙多羅神の祠の向こうにあるご神域だ。ここの白砂(というか荒い砕石)の下には、非業の死を遂げた猫たちの亡骸がうめられている。もちろん、Fさん事件で亡くなった猫たちの白骨も全て。妙多羅神は猫たちの恨みを鎮め、猫たちを見守る女神様なのだ。
白砂の前の小さな岩の前についた。
「では、落とし込みの儀をお願いします」
触れ役が小声で言う。
「はい」
斎主さんはより一層、緊張した面持ちになる。
そして、鈍い音の裏拍手を打つ。『古事記』に記された「天の逆手」という作法だ。わしらも斎主さんに習って裏拍手を打つ。皮のすぐ下の骨がぶつかり合う鈍い音がする。
「かけまくもかしこきみょうたらのおおんかみのまえにまおさく……」
先ほどとは違い、くぐもった声での祝詞の奏上がはじまる。
お火屋さんが奉書紙に包まれた「落とし物」をささげる。Hさん一家のゴミから取り出した、ターゲットの体の一部だ。大抵は爪か頭髪だが、経血のようなもっと直接的な物があると効果は高い。
「……たらしおくらしめて黄泉の道を歩ましめ、とくとくあるべき所へとおとしたまえとかしこみかしこみまおす」
もごもごした祝詞の中でも、少しの言葉は聞き取れる。この秘事祝詞は毎回斎主さんが小さな紙に書いて世に出ることなくすぐに灰にされる。「落とし物」もまた灰となってこの世から消える。わしらは、手近の枯れ枝を手にして火の上にくべる。松の葉や杉の葉がぱちぱちといい音を立てて燃え上がる。わしらはそれを静かに見守る。
この世の穢れた人を祓う秘密の儀式が終った。
皆で膝をついて平伏し、感謝の挨拶を捧げる。
その様子を、神域の森にいる猫たちがびっくりした顔つきで見守っていた。
数日後、Hさん一家は失踪した。
全く姿を見かけなくなったのだ。車庫には軽自動車が残され、むなしくホコリをつのらせていった。
半年がたった。
わしらは数の減った猫たちを相手に、藤棚の下でお供えの最後の残りをふるまっていた。ペットフードにも賞味期限があって、それを過ぎると近くの川の鯉にやるしかないのだ。
「結局、クロは戻ってきませんでしたなあ」
「全く。あんな気だてのいい猫はそうそういなかったというのに、さみしいことです」
「わしらもこの世を去ったらそういう風に言っていただけるとうれしいのですがな」
「人間は業が深いから、なかなか難しい所ですわ」
その時、にゃーにゃーという甘えた声が聞こえた。
見れば、がりがりに痩せた黒猫が神社の入り口に立っていた。毛のツヤは悪く、ろくな物を食べていない様子だ。
「クロ!」
呼びかけると、その黒猫は少しためらったのち、よろよろと近づいてきた。
「クロ、なのか?」
黒猫は、本当に区別がつかない。
でも、多分この子はクロだ。「猫の修行」を終えて帰ってきたのだ。
私は、ポケットから無塩チーズを取り出して与える。
黒猫は、「にゃっ、にゃっ」と言いながら鳥居の方を振り返る。
そこには、子猫を連れた三毛猫の親子がいた。
「なんだ、クロ、嫁さんを見つけてきたのか」
三毛猫は、明らかに人間を警戒している。
そう、それでいい。野良猫が生き延び子孫を残すには警戒心が不可欠だ。
クロは、私の足首に頭を押し当てると、安全だということを示してみせる。それでも三毛猫の親子は来ない。
獣医のSさんが来た。背後からの人間に三毛猫の親子は逃げ出す。
「クロが戻ってきましたよ」
「みたいですね」
Sさんは、手にしたハンディースキャナーを黒猫の体に向ける。最近のスキャナーは強力で、かなり離れたところからでも情報が読み取れるのだ。
「登録は、されていないですね」
「なら、やっぱりクロだ!」
「あそこにいた三毛猫も調べてみたのですよ。母猫の方ですけどね」
Sさんは、ハンディースキャナーの履歴を見せてくれた。
「半年くらい前に失踪したHさんっていたでしょう。あそこの猫だったみたいです」
確かに、飼い主情報にはその名が記されている。
「ほら、神社でクロを呼び戻すお祭りがあったじゃないですか。ちょうどあの日に登録されたみたいなんですよ」
「え?」
「ただね。どこでチップが埋め込まれたかまではこいつじゃ分からないんですよ。うちじゃないのは確かなんですけどね」
三毛猫の親子はそれっきり神社には姿を現さなかった。ただ、Hさんが住んでいた空き家を拠点にしているらしいことは、ご近所情報で分かったのだった。




