エピローグ 邂逅 東北大学医学部付属病院にて
清流広瀬川は、山中から扇状地を下って仙台市街に入り、やがて大きく蛇行を始める。その少し北に位置する、東北大学医学部付属病院。
この6月で、僕は28歳になった。
24で医師免許を取って卒業し、その後2年間大学に残って、指導教授について血液内科の研究に勤しんだ。今は、大学病院の血液内科に所属し、主に小児がんの患者を受け持ち、治療法や新薬の開発にも従事している。
僕は、まだ一人でいる。もちろん親族や病院の先生方から、それこそ山のようにお見合いやご紹介の話は頂いたけれど、僕は、研究を名目にして全部断って、未だに恋人も作らないでいる。
別に、恋をしても、結婚をしても、今更灯に義理を欠くことはないんだけど、未だに灯ほど真摯な女性に出会えていないのと、灯の手紙に「また同じ私に生まれ変わって、人生を繰り返したい。拓兄に会いたい」って書いてあったからなんだ。
こんな10年も経つのに、まだ灯を想い続けているなんて、ほんとにバカみたいなんだけどね(笑)。どこかでまた会えるって、信じたい気持ちがあったんだ。
******
僕が、今日の往診のため小児病棟に向かい、ナースルームに顔を出して挨拶すると、ベテランの看護師長から、
「拓真先生。今日から、一人、患者さんが個室に入っていますよ。今、お母さんも一緒にいます」と報告があり、その子の資料を見せてくれた。
僕は、「ああ、そうですか。ふーん、桃ちゃんって言うんだ。いい名前ですね」と答えて、紹介カードを見てみると、桃ちゃんは10歳の女の子で、2週間前から首のリンパが腫れ、全身から激しく発汗し、急激に体重が減ったため、検査のために入院したとのことだった。
これは、灯と同じく、悪性リンパ腫の初期症状の可能性がおおいにある。
「では、最初に挨拶がてら、桃ちゃんから診て行きましょう」 そう言って僕は看護師長と一緒に部屋を出た。
(10歳ということは、丁度灯が亡くなった頃生まれたのか) そんなことを考えつつ、小児病棟の端っこにある個室に近づくと、ふっと、懐かしいあの香りが部屋から溢れてくるのに気が付いた。
これは、ジャスミン……藤の花の香りだ。とっくに季節は過ぎているのに、なぜ?
先に看護師長が、病室の入口で「先生の往診です。入ります」と、ひと声掛けてカーテンを開けると、部屋の中から、ジャスミンの香りが、薄紫の風に乗って、ふわっと僕の身体を包み込んできた。
しかし、看護師長は全然気付かず、部屋に入って、「桃ちゃん。先生が往診に来たよ。若くてイケメンでお兄ちゃんみたいだけど、腕はいいから安心してね」と言って、ベッドのカーテンを開けると、ベッド上の女の子と、丸椅子のお母さんが、「先生、これから宜しくお願い致します」と頭を下げていた。
しかし、僕は、顔を上げた桃ちゃんをひと目見て、挨拶するのも忘れ、息を飲み、完全に言葉を失ってしまった。
(間違いない。これは灯だ……やっと巡り合えた……!)
眼の前の桃ちゃんは、濡れたような細い黒髪、小ぶりで赤い唇、青みがかった真っ白な肌、10歳の頃の灯と寸分も変わらない、儚なげで美しい少女だった。
立ちすくんだまま、一言も発さない僕を見て、お母さんが首を傾げ、怪訝そうな顔をしているので、「あ、ああ。すみません。知り合いの子に、本当にとても似ておられたので、びっくりしちゃって……」と言い訳したあと、気を取り直して、「それじゃ、桃ちゃん、これから1週間くらい検査入院だけど、その間僕が担当だからよろしくね」と、桃ちゃんに笑顔を向けた。
しかし、桃ちゃんは桃ちゃんで、黒い瞳を大きく見開き、驚いて、僕を見上げている。そして、ようやく、「拓真先生……」と言葉を発したと思ったら、
「え、あれ? 私、どうして先生の名前知ってるの? なぜか分からないけど、そう呼びたい気がして……。私、前に、先生に、会ったことがあるんじゃないでしょうか?」と、灯と全く同じ、しっとりと落ち着いた声で尋ねてきた。
僕が、「? いや、そんなことは、ない……と思うけれど……」と、しどろもどろに返すと、桃ちゃんは、
「本当に? 私、先生の事、よく覚えている気がします。その優しい声と、笑った顔。初めてのはずだけど、どこか懐かしいんです。安心感があるというか。絶対、長い間、一緒に過ごしたような気がするんです」と、真剣な面持ちで訴えかけてきた。
しかし、そこに、お母さんが、
「ほら、いつまでも変なこと言ってるんじゃないの。もうお止めなさい。先生も困ってらっしゃるでしょ?」と桃ちゃんを窘め、僕には「先生、申し訳ありません。長く熱が続いたので、何か夢で見たんじゃないかと思います」とお詫びを言ってきた。
桃ちゃんも、そこでちょっと我に返り、「えー。うーん、そっかなー。なんでだろう。おかしいなー」って呟きながら、渋々引き下がった。
僕は、「はは、きっと桃ちゃんの印象に残った人とよく似てたんだね。よっぽどいい男だったんだな」 そう軽口を叩きながら、しゃがみこみ、笑顔で桃ちゃんの眼を覗き込んだ。
お母さんは、「先生。私なりにネットで調べたんですけど、やっぱり……小児がんの、悪性リンパ腫の可能性もあるのでしょうか?」と、不安げに訪ねて来るので、いたずらに期待を持たせたらよくないと思い、「検査結果が出てみないと分かりませんが。可能性はあるでしょう」と率直に答え、続けて、「ですが、この10年くらいで、医療も格段に進歩していますし、いいお薬も出てきていますから、前よりずっと予後の良い病気になっています。きっと大丈夫。私が治しますよ」と笑顔を向けた。
そして、(ちょっと馴れ馴れしいかな)って、少し迷ったんだけど、桃ちゃんの頭に手を置いて、「だから、ちゃんとご飯食べて、治療して、退院できるように頑張ろうね」って声を掛けた。
桃ちゃんは、照れくさそうに「ふふ」って笑いながら、「うん、頑張ります。拓真先生、お願いします!」と、嬉しそうに返して来た。
******
そんな出来事があったあと、僕は、お昼休みに病院の屋上に上がり、広瀬川が流れ下って来る山の方角、群馬高崎に向かって思いを送ってみた。
~ なあ、灯。聞こえるか。灯は、手紙の中で、「12か13で死んじゃうかもしれないけれど、もう一度同じ人生を繰り返したい」って言ってたよな。だから、きっと、桃ちゃんは灯なんだろう?
……だとしたら、よかった。ずいぶん時間はかかったけれど、また灯に巡り合えたんだな。
だけど、今度は絶対に死なせない。決して散らせない。俺が全力を尽くして絶対治す。そして今度こそ全力でお前を愛そう。
そして、気の早い話だけれど、いつかまた二人で「ふじまつり」の藤棚を見に行こう。そして叶わなかった約束、長岡の花火も見に行けたらいいな。
なあ、灯。聞いてるか? 聞いてたら返事してくれよ。 ~
僕が、そう心で語りかけると、山から下りてきた藤色の風が、さあっと屋上を涼やかに吹き渡り、陽だまりに佇む僕の頬を優しく撫でて行った。
藤の花言葉。決して離れない。
~ 藤棚の灯~ (了)




