第3話 藤の花になった少女 残された二人
連休最終日に仙台に戻った僕には、眼が回るほど忙しい学生生活が待ち受けていた。
医学部の一年生は、他学部の学生と一緒に一般教養を学び、外国語は英語のほか、ドイツ語を含めた第二外国語を二つ履修する必要がある。当然、解剖学や生理学などの医学の基礎科目もあるから、授業は月~土までびっしり埋まっており、空きがあるのは、水曜の4限と土曜の午後だけだ。
休日も家庭教師のバイトと大学の課題に追われることになり、夏休みまではとても高崎に帰れる状態ではなかった。
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灯の病状については、時折哲哉がLINEで知らせてくれたが、「暑くなってさらに体力が落ちてきて、もう経口での食事が摂りにくくなり、現在は点滴も併用している」、そして「抗がん剤治療は体力を消耗するので、今は見合わせて、主に鎮痛剤で痛みを和らげている」とのことだった。
これは医学生でなくても分かる。灯の命は、ゆっくりと終末に近づいている。
僕は、早く灯に会いに行ってあげたい気持ちを強く持っていたが、8月頭に前期末試験が終わるまではスケジュールが全く空かなかった。
そして、ふじまつりから3か月が過ぎた8月4日、ようやく明日の午前中で試験が終わるという日の深夜11時過ぎ、哲哉から、「灯が夜になって高熱を出して、意識が朦朧としている。家族も呼ばれた。しきりと拓兄に会いたがっている」と、LINEで連絡が入った。
僕は、それを見て強い切迫感にかられたが、しかし「飛んで帰りたいのは山々だが、もう電車がない。明日の一限で前期試験が終わるから、お昼前には仙台を出て、夕方には高崎に着けると思う。着いたら病院に直行する」とLINEを返した。すぐに既読が着いたが、返事は返ってこなかった。
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翌日、僕は、一限(9:20~10:50)のドイツ語の試験を速攻で解き終わり、30分も前に壇上の教官に提出した。そして、驚く学生と教官の視線を背中に受けながら、急いで廊下に出て階段に向かったところで、「すっ」と、背中から風が吹いてきたのを感じた。屋内なのに、これは……?
その風は穏やかで涼やかで、そして、柑橘系の爽やかな香りを含んでいた。
すごく聞き覚えのある香り。そうだ、これは……ジャスミン、じゃなくて、あの時の藤の花の香りだ!
僕が思わず振り返ると、誰もいない廊下の隅にある閉じた窓から、藤の花の香りを纏った薄紫の風が「フワっ」と吹き渡ってきて、穏やかに僕の身体を包み込み、そして頬を優しく撫でて来た。
ああっ! 灯ーーーーーっ!
僕は、今何が起きたのか瞬時に理解して、呆然として廊下に立ちすくんでいると、やがて、リュックの中でスマホの呼び出し音が鳴りだした。間違いない、哲哉だ。
だけど、僕は、そのとき、どうしても出ることができなかった。
だって、出てしまったら、認めてしまったら、今の風が本当のサヨナラになってしまうじゃないか。
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急いで仙台から新幹線に乗り、怖くて見られなかったスマホを確認すると、哲哉からLINEで、「灯 10時22分永眠。病室を引き払い15時00分に高関町のメモリアルホールに移動」とだけ入っていた。僕は、すぐに「分かった。高崎に着いたらタクシーで向かう」と返答した。やはり、既読がついただけで、返事はなかった。
大宮で上越新幹線に乗り換えて、高崎駅についたのが15時ちょうど。そこからタクシーで20分ほどの距離にある、郊外のメモリアルホールに駆け付ける。
エントランスで喪主の名前を告げたところ、「灯様は今301号室におられます」と教えてくれたので、すぐに部屋に向かった。
ドアの鍵はかかっていなかったが、一応、ノックしたところ、返事がなかったので、(別室で葬儀の打ち合わせをしているのかな)と考えながら、「お邪魔します」と一声かけて部屋に入った。
すごく寒い。エアコンが18度の強風でかかっている。夏場のことで遺体が傷まないようにという配慮だろう。玄関で靴を脱ぎ、小上がりを上がると、廊下左手に和室があったが、ここには灯はおらず、突き当たりの大きな和室に布団が引かれて、仏様が安置されていた。枕元には青い金魚鉢が置いてあり、金ちゃんがユラユラ泳いでいた。
僕は、「灯……」と名前を呼びながら仏様の横に座り、両手を合わせ、それからちょっと迷った末、そっと白い顔布を外した。
目の前の灯は、5月に見た時よりもほんの少し瘦せていたが、あまり変わっていなかった。葬儀社の人が整えてくれたのか、顔の色つやも良く、唇には紅が引かれていた。まるでついさっき眠りについたみたいで、今にも眼を覚まして、「ああ、拓兄、帰ってきたんだね。嬉しい!」って笑顔が弾けそうな、そんな穏やかな死に顔だった。とても信じられない。信じたくない。
僕が、「灯……」と呟きながら、白い頬に手を伸ばしたとき、後ろから、「さわんなっ!」という、鋭い制止の声が響いた。
哲哉は、ドスドスと和室に入ってきて、僕を乱暴に押しのけ、「見るな! 俺の灯を見るな!」と声高に叫び、顔布を置きなおして、荒々しく僕の方に振り返った。哲哉の脚が金魚鉢を倒し、水が流れ出る。
「拓兄! 何で間に合わなかった! 何で死に目に会えなかったんだよ!」 哲哉が大声で僕をなじってくる。
僕は、「いや、それは……」と言いかけ、でも、(哲哉も分かってる。受け止めなければだめだ)と直感して黙り込んだ。
哲哉は、「灯はなあ……危篤になってからずっと熱で意識がなかったのに、最後に一瞬だけ眼を覚まして……金魚鉢見てな……」と言って、口をわななかせ、声を震わせながら、「『拓兄、会いたいよ……』って、ただそれだけ言い残して死んでったんだぞ……。何で、何で、そこに拓兄がいないんだよ……」と、苦し気に絞り出した。
哲哉は、「俺も、親父もお袋も必死に手を繋いで励ましていたのに……。なあ、拓兄……。何で、拓兄なんだよ! 何で最後にお前なんだよっ!!」と叫ぶように言って僕の胸倉を掴み、
「俺は、お前の何倍も灯を大事にしてたんだよ! 何倍も愛を注いできたんだよ! 毎日毎日会いに来て、着替えもトイレも世話して、どんな宝物より大切に守り続けたのに……。それがなんで、最後に呼んだのが、たまにお義理で来るだけのお前なんだよ!!」 そう喚き散らし、ついには、僕の胸に顔を埋め、
「くぅーーーーーっ! 拓兄ぃー! 悔しいようーーーー! 悲しいようーーーー! あかりぃーーーー、あかりー……」と慟哭し、涙と鼻を垂らして、拳で叩いてきた。
僕は、狂ったように泣き続ける哲哉を抱きしめ、無言のまま背中をさすってやることしかできなかった。
水びたしの畳の上で、金ちゃんがピタピタとヒレを打つ音が、静かな部屋に響いていた。
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灯の葬儀は、その5日後に営まれた。
参列者も少ないだろうから、お通夜はやらず、午前11時からのお別れ会、そして会食後、焼き場で火葬する段取りになった。
長く闘病生活を送った12歳の少女の葬儀なので、知人友人が来ることもなく、もちろん、にぎやかな孫たちなどもおらず、ただただ、静かな悲しみだけが会場を重く支配していた。皆、言葉を発することもできず、悲しみを持て余し、ハンカチを手に、白い夏ワンピを着て微笑む可憐な灯の遺影を見上げるだけだった。
最後に、火葬場の焼却炉に灯を搬入する段で、哲哉が棺に縋り付いて、「うわーー、あかりーーっ! いやだーっ!」と泣き伏し、覆いかぶさり、見ていた皆もあまりに気の毒で、どう声をかけていいのか分からず、そっと哲哉の肩に手を置いて気持ちを送り込むことしかできなかった。
そうして、灯は、煙となって天上に帰って行った。
13歳の誕生日まであと4日に迫った、とても暑い日のことだった。
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灯の葬儀が終わり1週間がたち、四十九日の法要と納骨の日も決まって、少しずつ日常が戻ってきたある日、僕と哲哉は、車で乗り合わせて高崎のアクアショップに向かった。
僕が運転し、哲哉は助手席に座り、膝上に金ちゃんが入った金魚鉢を抱えている。
「いやあ、意外だったなあ。哲哉から声かけてくれるなんて」
「うん……。俺も、灯が死んだ直後は、『もう拓兄の顔なんて一生見たくない』って思ってたんだけど、もちろん今もちょっと燻ってるんだけど、いざ一人になってみると、ちょっとずつ見えて来るものがあってさ」
「そうか……」
哲哉も、ようやく、ほんの少しずつだけど、灯が失われた事実と直面し、消化しようとしているのかも知れない。
「で、今日はなに? 金ちゃんどうするの?」
「うん、灯がさ、『もし、私が死んだら、金ちゃん、お店に返してあげてね』って言ってたんだ」 哲哉は、僕と眼を合わさず、車窓の景色を追いながら答えている。
「へー、そうなんだ。どうして?」
「うん、『私は、こんな水槽みたいな部屋に閉じ込められたまま消えていくけど、金ちゃんは私と一緒に戦ってくれたから、私が死んだらもう十分使命を果たしてくれたの。だから、狭いところから出して、お友達のところに返してあげて』って言ってた」
「ああ、そうか。灯は最後まで優しい子だったな……」 僕はそう答えて、鼻をグシっとさせる。
そしたら、信号待ちで車が止まったとき、哲哉が、
「拓兄」と言いながら、バッグから何か取り出して、「これ、灯が拓兄に宛てて書いた手紙。亡くなる2週間前くらいに、『私が死んだら拓兄に渡して』って、俺に預けてきたんだ」と手渡してきた。
僕は、「? あ、そうなのか。ありがとな……」と少し動揺しつつ答え、「ほんとは今ここで読みたいくらいだけど、やっぱりお前の前じゃな……。あとで一人の時に読むことにするよ」 そう言って、ちょっと震える指でシャツのポケットにねじ込んだ。そして、小さく一つ息を吐き出した後、「……お前には最後まで辛い役回りをさせて悪かったな。ほんと、ごめんな」と、つぶやいた。
「うん、そうな。俺も、最初はよっぽど破いて捨ててやろうかと思ったけど……」
「けど、何?」
「きっとさ、拓兄じゃなくても同じだったんだ。灯が好きになった男なら誰でも嫌って憎んでいたんだと思うんだ」
「まあ、そうだろうな」
「そう、今思うとさ、俺、俺たちの中心にいた灯を拓兄に奪われたくないって、執着して、独占しようとして、どこか灯に狂わされてたように感じるんだ」
「『狂わされた』って、言い方言い方(笑)。哲哉は、灯に心が捕らわれてたんだよ。人間なんだからさ、きっとそういうこともあるよ。妄執で周りが見えなくなるって言う」
「うん、それでいざ灯がいなくなって、少し頭が冷えてみると、はっと我に返ったというか……、灯が死んだのは別に拓兄のせいじゃないし、全然悪くないだろうって。いつもちょっと迷惑そうだったのに、俺たちに付き合ってくれてたんだなって」 そこまで言って、哲哉は運転席の僕の方に向き直り、「灯の事がなければ、拓兄は優しくてすごくいい男だし、生き残った者の人生は続くんだから、……もう憎むのはやめようって。だから、決心の証として、この手紙をちゃんと渡そうって思ったんだ」 そう伝えてきた。
そして、手で顔を覆い、その隙間から涙を細く零しながら、
「……拓兄……ごめんな。ほんとごめんな。俺、灯が苦しんでたこと、死んだこと、全部拓兄のせいにして、憎んで、どこかで心のバランス取ってたんだ。少し時間かかるかも知れないけど、俺の中の醜い物をちょっとずつ浄化していくから、許してくれ、拓兄……」と、震える声で謝ってきた。
僕は、それを聞いて、(哲哉はきっともう大丈夫だ)と確信し、ニコってしながら哲哉の顔を見て、「はは、気にすんな。俺が哲哉の立場でも、きっとそうなってたと思うぜ。どこかにぶつけないと自分が耐えられなかったんだ」と言い、続けて「俺は、お前が誰よりも灯を愛して、大切にしてきたことをよく知っているから、ちっとも怨んじゃいないよ。灯だって、お前のこと大切に思って、誰より感謝していたのは間違いないさ」 そう言って、哲哉の頭に手を伸ばし、「だから大丈夫。俺たち、きっと上手くやっていけるさ。ここからリスタートしよう」と話しかけながら、あえて乱暴に髪の毛をグシャグシャと撫でてあげた。
哲哉は、「ううっ! 拓兄、ごめんな……ほんとにごめんなーっ!」って、さらに大声で泣き続けた。
そこで信号が変わり、僕が車を発進させると、その視界の先に、水色のアクアショップが見えてきた。
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でも、僕はこの時、まだ整理がついていなかったから、哲哉には言わなかったけれど、5月に藤棚で見た灯の、どこまでも真っすぐで透き通った心に打たれたことで、僕の中で、灯の在りようが変わってきていることも感じていた。
ほんとにバカだ。(今更、もう遅いじゃないか)って思ってしまうけれど、少しずつ、灯に心が傾いて行くのを感じ取っていたんだ。




