第1話 高崎総合メディカルセンターにて
窓から暖かい日差しが差し込む、3月31日のお昼前、母が、「ねえ、拓真」と、僕に声を掛けてきた。
「ん、なに?」 僕は自室の片づけの手を止め、振り返る。
「今、悦っちゃんから電話が入ったのよ」
「悦子叔母さんが何だって?」
「うん、灯ちゃんがね、またあんたに会いたがってるってよ」
「あれ? 先週お見舞いに行ったばかりだけどな」 そう僕が意外そうな顔で返すと、母は、「灯ちゃん、すごく嬉しかったみたいで、ずっとそればっかり話してるんだって。あんた、明日仙台に行っちゃうんだから、お見舞いに行っておあげよ」と、ちょっと断りにくい口調で言ってきた。
「えー、今日は、仲間と午後カラオケ行って晩飯食べることになってたんだけどな。高崎にいられるの、今日で最後だし」
「うん、分かるけど、病気の従妹の方が大事でしょう? みんなにはまた必ず会えるけど……ほら、灯ちゃん、あと何回会えるかも分かんないんだから」
「まあ、そうか、そうだな。じゃ、カラオケはキャンセルにするか。いや、うーん、だけどなー」
「何よ?」
「哲哉の奴がさ、すごいシスコンなんだよ。俺がお見舞いに行って灯が喜んでるの見ると、とたんに不機嫌になるの。もちろん俺に当たったりはしないんだけどさ、そういうの伝わってくるから居心地悪いんだよ」
「まあ、哲哉君も灯ちゃんのこと、すごく可愛がって大事にしてるからね。きっと面白くないのよ。分かってあげなさいよ」 母は、そう言い残して、お昼の焼きそばを作りにキッチンに戻って行った。
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お昼を食べた僕は、一昨日貰ったばかりの免許証を持ち、初心者マークのカローラで家を出た。そして、国道17号を北上しながら、一人考える。
灯は、8歳の時に、悪性リンパ腫を発症した。
あるとき、首と脇の下のリンパ節が腫れ、そのうち高熱を発して、猛烈な発汗とともに体重も激減してしまった。それで、緊急入院して検査した結果、悪性リンパ腫であることが判明した。
同じ血液の癌ならば白血病の方がまだよかった。小児白血病は、医療技術の進歩で、現在ではかなり治癒率の高い病気となっているが、灯の罹患した「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」は、ステージⅢもしくはⅣで、5年生存率は50~60%にどとまっている。白血病と違って骨髄移植は意味がないから、根治のために家族に出来ることはなく、辛い投薬治療を続ける灯に寄り添って見守るしかない。
僕は、ロードサイドの書店で手土産を買い、国道17号を右折し、しばらく走って高崎駅前を烏川方面へ曲がったところで、高崎総合メディカルセンターに着いた。
カローラを駐車場に停め、受付で面会票を貰い、小児病棟3階の角部屋に行く。
入口から、「あかりー、来たよー」と声をかけると、シャッとカーテンが開かれ、
「あ、拓兄、 来てくれたんだ」っていう、12歳にしてはしっとりした落ち着いた声が聞こえ、見ると灯がニッコリして小さく手を振っていた。隣には、哲哉が笑顔なく座っている。
「あれ? 隣の女の子がいない。一人部屋になっちゃったな。退院?」 そう言いながら、窓際のベッドに近づいたら、灯が眼を伏せて、「ううん、違うの。先週、亡くなったの」と、寂しそうにぽつんと呟いた。
僕が、「……ああ、そうだったのか。知らなかった。それはごめんな」と謝って、灯が「別に悪くないよ。気にしないで。拓兄、来てくれて嬉しいよ」とフォローしたところで、哲哉が「それじゃ、拓兄、俺、ちょっと出て来るから、30分後に」と、気を利かせて出て行ってくれた。
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小児病棟の青いステンドグラスの窓からは、春の穏やかな陽光が差し込んでいる。僕は丸椅子を引いて、ベッドサイドと窓の間に座った。
目の前の灯は、1週間前に見た時よりさらに細くなった印象だが、相変わらずの「超」が付く美少女だった。病院だから素気ないおかっぱ頭だけど、濡れたような漆黒の細い髪と、静脈が青く透き通る白い肌、そこに少し切れ長の黒い瞳と細い眉。「可愛い」というより、未完成で透明な雰囲気を纏った、儚なげな美貌の持ち主だ。あと2~3年したら、きっと誰もが眼を奪われるような美女に成長するのだろう。
「拓兄は、いつ仙台に行っちゃうの?」 灯が顔を傾げて尋ねて来る。
「明日の昼。あと6日で入学式だからな。まだ部屋に届く物があるし、あっちのアパートにいないと」
「東北大の医学部かー。拓兄さすがだね。昔から頭良かったもんねー。こないだも言ったけどおめでとう!」
「はは、ありがとな」
「だけど、どうして群大の医学部じゃダメだったの?」 灯が白い頬を膨らます。
「いやまあ、俺の偏差値で行ける一番高いとこに行きたかったのと、一度親元を離れて自立したいということもあったな。仙台は、中学の時に七夕祭りを見に行って、『穏やかないい街だな』って思ってたんだ」
「ふーん、拓兄はいいなあ。頭良くて、背高くてカッコよくて、自由にあちこち行けて。私なんか、9つの時から、ずっとここだよ。ほんとなら、来週中学の入学式だったのに……」
「あはは、まあ、頑張って病気治して、退院しようよ。スマイルゼミ(配信の教育ソフト)はちゃんとやってる?」
「うん、やってるよ! 私ね、どのテストも大抵90点以上だよ。私、結構っていうか、かなり頭いいみたいだよ! 拓兄みたいに県高(前橋高校)に入って、東北大に行きたいな!」
「そんときゃ、俺、とっくにいないって(笑)」
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そしたら、灯が、また黒く長い睫毛を伏せ、「私ね……先週、ついにステージⅣになったの。癌がリンパ節以外にも転移してるって。そのうち全身に回るんだって」と、僕を見上げて不安げに伝えてきた。
「うーんそうか……ま、でも、まだ大丈夫だよ。血液の癌は、胃がんや肺がんと違って、抗がん剤が全身に効くから、ステージⅣでも投薬治療で治った人、一杯いるよ」
「うん。先生もそう言ってくれてる。だけど、近頃、あちこちのリンパにしこりが出来て、ずっとだるいし、熱は出るし、だんだん悪くなってるような気がするの。いつも寝てるから体力も落ちちゃって、トイレに行く距離くらいしか歩けなくなっちゃったの……」
「ははは、『病は気から』って言うだろ? 弱気は癌の大好物だぞ。『必ず回復する』っていう強い意志が一番大事なんだ。それと日々の楽しみもな」 僕はそう言って、灯の頭に手をやって柔らかい髪を撫で、「あ、そうだ、これ忘れてた。出がけに買ってきたんだ」と言いながら、灯が最近推しているコミックの最新刊とファンブックを手渡してあげた。
すると、灯は、「わっ、わっ! 『君と、あの夏の花火と』だあーっ! これ欲しかったんだ。すっごいすっごい嬉しい! 拓兄ありがとう!」って黄色い声をあげ、本を胸に抱えて、「幸せー。私、セイ君の大ファンなの!」って言うので、「あ、俺もセイ好きだよ。主人公の割にちょい地味だけど、ヒロインのハルを守り抜く強さがいいな」って返したら、灯も、「そう、そこよね! ふふーん、拓兄、私たち気が合うね!」って満足気だった。
そして、黒い瞳を輝かせて、「じゃさじゃさ、アニメの劇場版が夏休みに公開されるから、拓兄、一緒に見に行こうよ!」って、僕の手を取って、ぶんぶん振り、弾ける笑顔を向けてきた。
僕は、「おお、こんなに喜んでもらえるとは、買って来た甲斐があったよ。それじゃ、お盆に帰ったら見に行こうな!」って言って、灯の白くて小さな手を握り返し、二人で「楽しみーっ!」って笑いあった。
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そうこうしているうちに楽しい時間はすぐに過ぎ、哲哉が、「拓兄、そろそろ面会時間が終わるよ」と迎えに来てくれた。
「お、そうか。じゃ、灯、俺はこれで帰るけど、治療と勉強頑張れよ」
「うん、もちろん! だけど、ねえ、拓兄は、次いつ来られるの?」
「ええと、5月の連休には何日か帰って来られると思うよ」
「うん、楽しみにして待ってる。あとね、私、お土産で、拓兄にお願いしたい物があるんだけど」
「何だ? 牛タンか?」
「いや、そうじゃなくて(笑)、ちょっとお金かかって悪いんだけど、私、金魚が欲しいの……。小っちゃいの1匹でいいから、金魚鉢と一緒に」
「えー、金魚?」
「うん、ほら、この部屋、窓が青くて水槽みたいじゃない? だから窓際に金魚鉢おいて、毎日一緒に頑張りたいんだ。仲良かったのに、もう、隣の子、死んじゃったから……」
「うーん、でも、個人病院ならまだしも、国立病院に生き物持ち込むのは無理じゃないかなあ?」
そしたら、哲哉が、「それじゃ、俺、聞いてみるよ! ダメって言われても、何度だって院長先生に頼んでみるから!」 そう言って、灯を励ましている。ああ、妹思いのいい兄貴だな。
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僕が、「いや、エレベーターまででいいよ」って言うのに、哲哉はわざわざ駐車場まで送ってくれた。
(これは何かあるな?)と思っていたら、車の横まで行ったところで、案の定、哲哉が思いつめた顔で話し掛けてきた。
「拓兄。ちょっといいかな。灯がどうしても言えずにいるから、俺から聞くんだけど……」
「何だ?」
「いや、ちょっと聞きにくいんだけどさ」 哲哉はそう言いつつ、「拓兄は、今、彼女いるの? 好きな人いるの?」と、ストレートに言葉を投げてきた。
「……なんだそれ?」
「灯が、いつもいつも、『拓兄、イケメンだし優しいし、絶対モテるよね。絶対彼女いるよね?』って俺に聞いてくるんだよ」
「うーん、それ、答えなきゃいけないのか?」 そう僕が聞き返すと、
「正直、俺にとってはどうでもいい事なんだけど、灯にはとても大事な話なんだよ」と畳みかけて来た。
「……なるほど、そうか。うん、それじゃ言うが、俺は今は彼女はいない。だけど、好きな人はいる。要するに先週別れたんだ」
「そうなんだ……」 哲哉が申し訳なさそうに、眉根を寄せる。
「だけど、お互い嫌いになったわけじゃないんだ。遠く離れることになって、道が分かれたんだよ。だから、毎日、『どうすれば忘れられるか』って自問して、忙しさに紛らわしてもやっぱり忘れられなくて、今、俺なりに苦しんでるところなんだ」 僕はそう答えて、それでまた傷口がちょっと開き、痛み、鼻から小さく息を吐いた。
「そうか。そんなこと言わせて悪かった……。だけど、拓兄は灯のことはどう思ってるんだ?」 哲哉は構わずに切り込んでくる。
だから、僕も(こういうの、誤魔化したらよくないな)と思って、
「そりゃ嫌いじゃないけどさ、素直で美人で頑張り屋で、一緒にいて楽しいから、むしろ好きだけどさ。でもまだ12だから、恋愛の対象としては全然見てないし、なにより今はそんな気持ちになれないよ。当然だろ?」と、正直に返した。
「そりゃそうかも知れないけど、拓兄は、今、灯の希望の光になってるんだよ。力を与えてくれてるんだよ」
「いやいや、始終世話してるお前の方がよっぽど灯の力になってあげてるだろう」
「だから俺じゃだめなんだ。灯が『生きたい、死にたくない、絶対に治す』っていう、生き抜く強い心は、拓兄じゃないと引き出せないんだ」 哲哉が必死に訴えて来る。
「いや、まあ、哲哉の言いたいことは良く分かった。お前には申し訳ないが、俺も灯の気持ちはずっと前に気付いてた。だけど、そうだとして、俺はどうしたらいいんだ?」
「うん、なるべく会いに来て欲しいというのが一つ、あと、もし灯が、拓兄に気持ちを打ち明けるようなことがあったら、そんときは、そん、そん……」
「忖度か?」
「そう、それ。突き放さないで、そんときだけうまく言ってやって欲しいんだ。じゃないとアイツ……」
「いや、俺、灯に限らず、『絶対に嘘はつかない』って決めて人生過ごしてきたんだけどな。それに、嘘で人の愛情を欺いたらよくないだろう?」
そこまで答えたら、業を煮やした哲哉の感情が喫水線を超えた。
「なあ、拓兄、俺だって悔しいんだよ! 灯に好きな男が出来たなんて、考えたくもないんだ!」 そうまくし立てた後、口をゆがめ、眼じりから少し光るものを流しながら、「こんな醜い心まで晒して、すごく嫌なんだけど、俺、拓兄が眩しくてたまらなくて、だけど妬ましくて憎らしくて仕方ないんだよ! なあ、拓兄、そんな俺が恥を忍んで頼んでいるんだ。どうか分かってくれよ……」 そう言って、哲哉は僕の肩に手を置き、何度も深く頭を下げてきた。
「……」 僕がどう答えていいか分からず、呼吸を止めていると、
「なあ、拓兄、灯は、痛くても泣き言言わないんだよ。我がままなんか全然言わないんだよ。ほんとに俺が代わりたいんだ……。分かってくれよ。拓兄……」 哲哉がそう繰り返し、「くうっ」って呻きながら手で眼を擦った。
傾いた黄色い日差しが当たる壁に、青い窓が見えていた。




