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万国の労働者よ、団結せよ

 ドアを叩く音が、十八回目の腕立てを止めた。


 床に手をついたまま顔を上げる。


 研究室は静かだった。紙と埃と、古いエアコンの乾いた風の匂いがする。壁には論文のメモではなく、筋トレのメニュー表が貼ってある。


 机の上には、さっきまで読んでいた本が伏せてあった。『自由な時間と「資本論」』。


 自由に処分できる時間こそが、人間が人間らしく発展するための絶対的な条件。


 その通りだ。


 理論は武器だ。


 だが、武器は振るわなければ意味がない。


 この国には、「自由な時間」どころか命を削って働いている人間が大量にいる。実際に壊れ、消えていく人間もいる。炭鉱でも工場でもなく、スーツを着せられたオフィスで、それが起きているだけだ。


 ゼミ生の佐藤だ。俺は腕立て伏せの姿勢のまま顔を上げた。


「先生、今いいですか」

「いい。入れ」


 佐藤は少しだけ引いた顔をした。まあ、准教授が床で腕立てしていればそうなるだろう。


「相談があるんですけど」

「顔が深刻だな。どうした」

「同期の田中なんです。先生、ゼミの飲み会で一回会ってますよね」


 田中。追い出しコンパで隣に座った青年だ。真面目で、冗談に笑うときもどこか申し訳なさそうな顔をする、あの男。


「就職先がかなりヤバくて」

「具体的に」

「三か月、休みなしらしいです。残業代も、ほとんど出てないみたいで」


 俺の手が止まった。


 三か月休みなし。残業代未払い。


 数字にすると、妙に静かだ。だが中身は静かではない。


「……それは考えるまでもなく違法だな。田中本人は辞めたいと言ってるのか」

「言ってます。でも、辞めたら奨学金が返せないって」


 学ぶために借金を負い、その借金のために逃げられない労働へ押し込まれる。


 きれいな地獄だ。


「会社名と住所、わかるか」

「え。先生、まさか」

「殴り込みはしない。まず合法手段だ」


 俺は立ち上がり、ノートを開いた。


「田中に連絡しろ。タイムカード、勤怠アプリ、メール、チャット、給与明細、なんでもいいから証拠を残させる。退職の意思は口頭じゃなく文字で残せ。脅し文句も録音できるならした方がいい」

「は、はい」

「今から労基署の窓口を確認する。夜間でつながる先があるかもしれない。紹介するから弁護士にも連絡しろ」


 スマホで番号を当たり、研究室の固定電話でもかけた。


 だが、こういう時に限って、機械音声はやけに落ち着いている。


 受付時間外。


 案内のページを開く。メール相談は返答に数日。予約窓口は明朝。弁護士も夜間の即応までは難しい。


 制度はある。


 あるが、今この瞬間に潰れそうな人間の呼吸までは支えてくれない。


 悪人が一人いるから壊れるんじゃない。誰がその席に座っても、同じように人をすり減らす並び方になっている。


「先生……」

「田中本人とはつながるか?」

「さっきまでは既読ついたんですけど、今は返ってなくて」


 舌打ちしたくなった。したところで状況は変わらないので、しなかった。


「今日は遅い。朝一で労基と相談窓口に叩き込む。今日はとにかく、田中を一人にするな」

「わかりました」


 佐藤が帰ったあと、俺は論文の続きを開いた。


 一行も書けなかった。


 三か月休みなし。残業代未払い。


 労働力の再生産コストすら支払わない搾取だ。十九世紀の工場法闘争で問題になった話を、二十一世紀の日本でまだやっている。


 搾取というのは、余ったぶんを持っていかれるだけの話じゃない。明日も生きて働くためのぶんまで削られることだ。


 笑えない。


 指先に残る床のざらつきだけが妙に鮮明だった。


---


 スマホが鳴ったのは、九時を少し回った頃だった。


 画面に「佐藤」の名前が光っている。


 出た瞬間、荒い呼吸と震えた声が飛び込んできた。


「先生、田中がもう限界です。さっき電話したら、息が詰まってるみたいで、全然うまくしゃべれてなくて」

「上司は」

「労基に駆け込んだら損害賠償請求するって脅されたって」


 損害賠償。


 退職を妨害するための脅迫。


 法的には脆い。だが、追い詰められた人間には十分に効く。


 人は条文だけで救われない。


 俺は黙って上着をつかんだ。


「先生?」

「佐藤、田中に電話し続けろ。出なかったらメッセージを送れ。『工藤が向かってる』と」

「え、先生、どこに」

「田中のところだ」

「そこまでする必要はあるんですか?」

「人が死ぬのは問題だ」


 部屋を飛び出す。


 エレベーターを待つ時間が惜しくて階段を下りた。


 走れば二十分。


 夜風が顔を切った。校門を抜ける。街灯が流れる。靴底がアスファルトを叩く。肺が熱い。喉の奥に鉄みたいな味が上がってくる。


 全速力のまま考える。着いたら何をする。まず田中を建物から出す。脅迫は録音する。退職届の文面は最低限でいい。必要ならその場で警察も呼ぶ。


 息が荒い。


 まだ足りない。もっと速く行ける。


 交差点が見えた。信号が点滅している。


 行ける。


 そう判断して、踏み込んだ。


 その瞬間、ヘッドライトが視界を白く焼いた。


 時間が妙に伸びた。


 フロントガラスの向こうで、運転手の顔が揺れている。下を向いている。居眠りか、脇見か。その判定に意味はない。


 クラクション。


 ブレーキの悲鳴。


 衝撃。


 次に来たのは、アスファルトの冷たさだった。


 背中が痛い。息がうまく入らない。世界が横倒しに回っている。


 ……嘘だろ。


 教え子を助けに行く途中で、死ぬのか俺は。


「万国の……労働者よ……団結、せよ……」


 死に際にこれを言えたのは、少しだけ誇らしかった。


 絵面は最悪だが。


---


 湿った土の匂いがした。


 最初に来たのはそれだった。


 土と、干した藁の乾いた匂い。鼻の奥にまとわりつく、生きた大地の匂い。


 目を開ける。


 木目の見える天井があった。


 ……木目?


 体を起こそうとして、失敗した。思ったより重い。いや、違う。体の芯に力が入らない。


 手が小さい。腕が細い。指の関節が、見慣れた自分のものよりずっと華奢だ。


 藁が肌に刺さった。チクチクとした粗い繊維が腕を引っかく。粗末な麻のような布から鋭利に突き出している。


 周囲を見回す。


 土間。土壁。壁に立てかけられた農具。小さな窓。差し込む朝日。その向こうに麦畑。さらに遠くに石造りの城。


 痩せた女が、土鍋で何かを煮ていた。ぐつぐつと粥の泡立つ音がする。女が振り返って、俺を見る。


「ムーア、起きたの? まだ寝てなさい。熱があったんだから」


 ムーア。


 誰だそれは。


 いや、それは俺だ。


 そう理解した瞬間、頭の奥に別の記憶が流れ込んできた。名前。母親の顔。井戸の場所。村の道の曲がり方。短く切れた、貧しい生活の断片。


 夢にしては具体的すぎる。


 転生と言われた方が、むしろ理屈に合う。


 だが、ひとまず名前の整合より先に確認すべきことがある。


 腹だ。


 空いている。


 冗談みたいに、空いている。


 内臓が薄くねじられているみたいな空腹だった。


 女——たぶんこの体の母親だ——が椀によそった粥を差し出してきた。受け取る。熱が掌にじかに伝わる。木の椀は薄くて、縁がささくれていた。


 口に運ぶ。


 薄い。


 塩気もほとんどない。麦を水で煮ただけの味だ。


 だが、腹に落ちた瞬間、情けないほど体がそれを欲しがった。


 ごく、と喉が鳴る。


 自分でも引く勢いで、椀の底をさらっていた。


「そんなに急いで食べたら喉につかえるよ」


 母親が少し笑った。


 その笑い方が、疲れていた。


 目の下が落ちくぼんでいる。手の甲の皮膚が荒れている。爪の間に黒い土が入り込んでいた。


 俺は椀の底を見た。


 もう何も残っていない。


 だが鍋の中身も、ほとんど残っていなかった。


「……母さんは」

「私はあとで食べるよ」


 たぶん、嘘だ。


 自分の取り分を削って、熱のあった息子に回したのだろう。


 胃のあたりが、さっきとは別の意味で重くなった。


 これでは明日働く体をつなぐのがやっとだ。豊かさどころか、再び畑に立つための最低限すら危うい。


 窓の外に目をやる。


 麦畑が広がっている。


 区画が三つに分かれていた。


 休耕地。冬麦。春麦。


 知識が勝手に動く。三圃制。城。痩せた粥。母親の手。三圃制は荘園制と結びつく。荘園制は農奴制と噛み合う。少なくとも、この村の生産関係は——


「封建制…か」


 静かにつぶやいた。


「……なら、道筋はある」

「市と流通を育てて、交換を太らせて、土地に縛られない人間を生み出す。その先でようやく、社会主義へ進む道が開ける」


 母親が椀を落とした。


 木の椀が土間に転がる。乾いた音がした。粥が少しだけ飛び散る。


「ム、ムーア!? やっぱり熱が——」

「いや、大丈夫だ。むしろ最高だ」


 口が勝手にそう言った。


 だが、その直後に鍋の底の薄さが視界に入る。


 目の前に封建制がある。


 喜んでいる場合じゃない。


 目の前にあるのは、母親が自分の取り分を削らないと子どもに粥も回せない暮らしだ。


 それでも、出口の形だけは見えた。


 いきなり理想を掲げても、この貧しさを全員で分け合って終わる。


 だが、順番を間違えなければ、ここはいつか終わらせられる。


 そのねじれごと抱えて、俺はもう一度窓の外を見た。


---


 外に出られるようになって二日目の午後、俺は村を歩いた。


 寝床で考えていても仕方がない。


 今いる場所が本当に俺の見立てどおりの世界なのか、自分の足で確かめる必要があった。


 ちょうど鐘が鳴った。


 低い鉄の音だ。腹の底に響く。


 鍬や鎌を持った村人が、家々から同じ方向へ流れていく。母親の断片的な記憶が、その意味を補った。


 賦役。


 この村の農奴は、週に三日、領主の直営地で働く。


 自分の腹を満たす前に、先に伯爵家の畑へ行く。そういう順番らしい。


 鐘ひとつで人が動く。


 それだけで、この土地の仕組みはだいたいわかった。


 母親に麻の上着を借りて外へ出る。布はごわつき、首筋に擦れて痛い。汗と煙の匂いが染みついていた。


 村の道はぬかるんでいた。裸足の裏に湿った土が貼りつく。


 (研究室の床が恋しいと思う日が来るとはな)


 鍛冶場はあった。だが、農具の修理を細々とやっているだけだ。炉の熱気は強いが、商品を並べて売るための場所ではない。農奴が兼業で回しているのが見て取れた。


 市らしい開けた場所が見当たらない。


 露店もない。


 交換の声も、値切る声も、貨幣の触れ合う音もない。


 気になって、家の隅で見つけた銅貨らしきものを一枚、握ってきた。前の記憶では、祭礼の時に一度だけ母親が持たせてくれたらしい。


 鍛冶場の男に差し出す。


「これで、釘を分けてくれないか」


 男は眉をひそめた。


「何に使う」

「いや、試しに」

「試し?」


 通じない顔だ。


 男は銅貨を見てから、俺を見た。


「勝手に物を動かすな。必要なもんがあるなら家長が言え。勝手に取引なんかしたら面倒になる」


 取引。


 その単語はある。だが、日常の自由な交換としては機能していない。


「じゃあ、物々交換なら」

「お前、何を言ってるんだ?」


 本気で怪訝そうだった。


 俺は銅貨を握りしめたまま鍛冶場を離れた。掌の中で金属がぬるくなっている。


 次に、村外れの納屋の前で荷をまとめている男に声をかけた。商人かと思ったのだ。だが違った。領主館へ収穫物を運ぶ役目の村人だった。


「町へ売りに行くのか」

「は? これは伯さまの分だ」


 当たり前だろう、という顔をされた。


 その一言で十分だった。


 村の中に、常設の市場がない。


 日常の交換を担う専業の商人も見えない。


 自由に交換を拡大する回路が細い。


 貨幣は、あっても流通の主役ではない。せいぜい痩せた毛細血管だ。


 つまり——


「……少なくとも、この村の生活圏にはブルジョワジーがいない」


 通りかかった女が怪訝な顔でこちらを見た。


 当然だ。この世界にその言葉はない。


「プロレタリアートも、いない」


 言いながら、自分で胃が重くなった。


 賃労働者がいない。生産手段から切り離され、市場で労働力を売る階級が、この生活圏ではまだ育っていない。


 だからここでは、俺の知っている意味での階級闘争の主体が成立していない。


 逆に言えば、ここから交換が広がり、商人が太り、土地から切り離された人間が賃金で生きるようになれば、世界は一気に動き出す。便利になり、豊かにもなるだろう。だが同時に、人間まで売り買いの論理に巻き込まれる。


 封建制だ。


 見事なくらい、封建制だ。


 拳を握る。爪が掌に食い込む。


 ここで、俺の知っている意味での社会主義革命を組み立てる理論的根拠が——ない。


 だが、段階を飛ばしたら終わる。


 それは前の世界が散々証明している。


 生産力が育っていないのに、上だけを飛ばしても、待っているのは欠乏の分配と官僚の増殖だ。


 では、どうする。


 答えは、嫌になるほどはっきりしていた。


---


 夕暮れ。


 藁葺き屋根の家々から、夕餉の煙が細く昇っていた。煮炊きの匂いが風に乗って丘まで届く。薄い粥か、根菜の煮物か、その程度だろう。匂いだけで腹が反応する。


 村を見下ろす丘の上に、俺は立っていた。


 赤い空。沈んでいく太陽。眼下には三圃制(さんぽせい)の麦畑。


 朝は薄い粥をすすり、鐘ひとつで人が動き、夕方には領主の取り分が運ばれていく。


 この世界は、まだそこにある。


 俺の宣言は屈辱的だ。


 だが、屈辱的だからといって避けても現実は進まない。


「俺は——」


 拳を握る。


「——まず、資本主義を作る」


 夕風が麦畑を渡った。穂の擦れる音が、ざわ、と低く広がる。


 口に出した瞬間、胃が嫌なふうに縮んだ。


 前の世界で散々批判してきたものを、ここでは育てなければならない。


 資本主義の到来は、たぶん避けられない。


 なら、その到来をできるだけ早く通り過ぎさせる。


 いきなり工場ではない。まず市だ。流通だ。手工業の分業だ。その先でようやく、産業革命が視野に入る。


 搾取を終わらせるために、まず搾取を組織する段階を短く、乱暴なくらい前倒しで通らなければならない。


 共産主義は、願えば空から降ってくる到着点じゃない。人がどう働き、何を奪われ、どこでつながるかが変わって、ようやく見えてくる先だ。


 最悪の宿題だ。


 それでも——やるしかない。


「やってやる!」


 叫ぶ。


「この世界に産業革命を起こし、資本主義を完成させ、そしてそれを俺自身の手でぶっ壊す!」


 声が丘の下へ転がっていく。


 まずは、この村の仕組みを知ることだ。


 誰がどれだけ働き、何を納め、何を恐れているのか。


 そこからだ。


「……何叫んでるの、あの人」


 背後から、平たい声がした。


 振り返る。


 薪を背負った少女が立っていた。赤い髪。そばかす。痩せた腕に不釣り合いなほど大きな薪の束。裸足の指先が赤く腫れている。


 乾いた木と樹脂の匂いが、夕風に乗ってきた。


 完全に、不審者を見る目だった。


「あー……いや、その」

「変な人」


 容赦がない。


 少女は首を振って、さっさと丘を下りていった。


 俺は夕日の中に取り残された。


 ……なぜだ。


 今のはかなり筋の通った歴史的宣言だったはずだが。


 だが、あの少女は立ち止まって俺を見た。


 内容は一ミリも伝わっていないとしても、この村で初めて、俺の声に反応した相手ではあった。


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