冴木裕史先生
玄関にある鏡の前で、斜めになっている制服のリボンをまっすぐに直す。
「行ってきまーす!」
病院の心療内科に勤めている母は、私より先に家を出ている。だから家の中には誰もいないのだけれど、行ってきますの挨拶をするのが私の日課。
マンション下の駐輪場に置いてある自転車に乗り、学校を目指す。
五月の風は爽やかで、街路樹の新緑が目に眩しい。
「このまま海に行きたーい!」
ゴールデンウィークが終わり、五月の存在意義がなくなった。しばらく連休がないかと思うと、自転車を漕ぐ足が重くなる。
「あっ……」
自転車を漕ぐこと、三十分。高校の建物がそろそろ見えてこようかというとき。グレーのバックパックを背負った男性が視界に入った。
猫背気味の背中に、元気良く声をかける。
「冴木先生、おはよっ!」
「あ、渡瀬さん。おはようございます」
冴木裕史先生は、今年赴任してきた歴史の先生。
冴木先生は知的な顔をしていて、フレームのない眼鏡が似合っている。身長は百八十センチぐらいあって、スタイルがいい。
素材がいいのに、陰気なオーラが漂っている。実にもったいない。
陰気さに拍車をかけているのは、服装。ジャケットとパンツという組み合わせが多いのだが、色と素材が似通っている。しかも、上下同じ色。おしゃれ心をまったく感じない。
村上暁斗というクラスメートが、「冴木のくせに、冴えてないじゃん。擬態じゃね?」と茶化したのがきっかけで、我がクラスでは『擬態』と呼ばれている。
私はブレーキをかけると、自転車から降りた。冴木先生と並んで歩く。
「清々しい五月の朝なのに、疲れ切った中年男のオーラが出ています! 元気だしてください!」
「元気だしたら、夕方まで体力がもたないです」
「おじさんすぎる!」
「おじさんですから」
「はいそれ! その考え、ダメです! 年齢はおじさんでも、心は若く! イケオジとか渋オジを狙ってください!」
「えぇー……」
「もぉっ! くたびれたおじさん、略して、くたオジって呼んじゃいますよ!」
冴木先生は三十二歳で、私は十七歳。
十五歳差だが、話しやすい。しかしそう思っているのは私だけで、クラスメートも、新聞部の後輩たちも、新聞部部長の北山麻衣でさえ、「話しかけづらい」「会話できない」「冴木先生って何を考えているのかわからない」と敬遠している。
「友那、おはよー!」
「おはよう!」
同じクラスの女子が挨拶をして、通り過ぎていった。
自転車を漕ぐ彼女の背中を見送りながら、冴木先生には挨拶をしないんだ……と、モヤっとした気分になる。
自転車に乗った生徒たちが私たちを次々に追い越していくが、誰も冴木先生に挨拶をしない。
関わりのない生徒は仕方ないが、先生の授業を受けている生徒が挨拶をしないというのは由々しき問題だ。
「誰も先生に挨拶しないね。なんでだか、わかります?」
「さぁ?」
「おとなしいからです! 舐められているんです!」
「ははっ。困りましたね」
「困りましたじゃないです! 怒ってください!」
「怒るのは苦手です。疲れるし」
「うわぁー、おじいちゃん。私のおじいちゃんのほうが元気です。もぉ、高校生パワーを分けてあげる!」
手のひらを先生に向けて、「はぁぁぁーっ!」とパワーを流し込む。
先生は苦笑しているが、私だっておバカなことをしていると心の中で苦笑している。
だけど、冴木先生を放っておけない。
私には前世の記憶がある。
冴木先生と出会って日が浅いので心にしまっているが、卒業するまでには打ち明けたい。
──及川めぐみって女性、知っていますか? それ、前世の私です。




