第八十五話、新しい米作り(前編)
ーー専門家の意見ーー
東京・品川。N通信本社ビルの十二階――昼の光を受けて、ガラス張りの食堂フロアが柔らかく輝いていた。役員専用エリアの一角、来客用のボックスシートに、沢田常務と高柳久美子、そして水野幸一の姿があった。
「外部の人間でもこんなすばらしいレストランを使わせてもらえるんですね」
思わずそう口にした水野は、窓の向こうに広がる東京湾のきらめきを見つめながら、まぶしそうに目を細めた。
N通信常務取締役・沢田常務は申し訳なさそうに言った。
「・・・ほんとは、品川界隈のおいしいお店をご案内したいところなのですが、社外の講師の方を研修や講義にお招きしたときなどは、貴重なお時間を使ってしまうのは申し訳ない――そう思いまして、こちらでお昼をご一緒してもらうことが多いんですよ」
そう言ってから、にこやかに奥の対面席を勧めた。
「ここだと雑談もできますので、ゆっくりお召し上がりください」
向かいの席には、沢田修治。そして隣には、G-progの研究員・高柳久美子。白いテーブルクロスに反射する光が、三人の間に穏やかな緊張を描いていた。
「ここのお料理、とてもおいしいんですよ」
高柳が微笑む。その声には、少し誇らしさと懐かしさが混じっていた。
「そりゃあ、役員さんのランチメニューですからね。僕なんかめったに口にできないものでしょうね」
水野は冗談めかして言い、ナプキンを手に取った。
沢田常務が穏やかに笑う。
「メニューは基本的に全社共通ですよ。ただし、高齢の職員向けに糖質控えめ、低カロリー食を用意しています。ライスは雑穀、麦飯も選べて、サラダにチェンジもできます。ロカボ、マクロビ、低GI食も人気です」
「さすが、N通信ですね。役職員の健康管理にも万全の取り組みをされている」
沢田は軽く笑みを返した。
「お褒めに預かりまして光栄です。栄養バランスには、うちの食堂スタッフもずいぶん努力してくれているんですよ」
沢田は少し姿勢を正し、穏やかな声で話を続けた。
「ところで――Integrate Sphereのサーバの調子はいかがですか?
先日、河村くんから軽微なバグを発見したと報告を受けています。
対応は済んでいるのでしょうか?」
「はい。明日、定期点検に合わせてパッチをインストールしていただける予定です。
顧客管理DBはまだ本社側で運用していますので、VDI環境だけなら影響はないとのことです」
「そうですか。助かります」
沢田は安心したようにうなずいた。
N通信の子会社――Rシステム。
河村SEたちの仕事は、グループの中では“便利屋”のように見られがちだった。
だが沢田は違った。
「彼らもよくやってくれています。現場の小さな工夫や対応力が、最終的に会社を支えるんです」
その言葉に、水野は静かに感心した。
(――やはりこの人は本物だ。
経営者としての責任を背負いながらも、現場を見捨てない。)
窓から差し込む午後の光が、沢田の眼鏡の縁に柔らかく反射した。
食堂のざわめきの中で、その姿はどこか誠実な静けさをまとっていた。水野はそれに答えて、
「明日、定期点検に併せてパッチのインストールをしていただけると、連絡はいただいています。顧客管理DBはまだ本社側でやっていますので、VDI環境だけなら影響は無いそうです」
今日、沢田常務のもとを訪れることになったのは、数日前の錦糸町での出来事がきっかけだった。高柳や楠木との会話の中で、その話は自然な流れでまとまったのだ。
綿密に組み立てた構想であっても、専門家や先達などに別の角度から検証してもらうことは、ビジネスの世界では非常に有意義なことである。この水野の行動は、まさにそれであった。
この昼食の席が、やがて「Integrate Sphere」後継計画と、先進農業をつなぐ運命の分岐点となることを、この時まだ誰も知らなかった。
ーーセピアの記憶ーー
数日前の午後。
錦糸町駅南口を出てすぐの古びた雑居ビル。
その二階にある喫茶店「セピア」は、昼間でも照明を落とし、薄暗い静けさに包まれていた。
禁煙になった今でも、空気の奥にはかすかに残るタバコとコーヒー豆の混じった香り。
昭和の記憶を閉じ込めたようなレトロな空気が、店内の時間をゆっくりと進めていた。
窓際のテーブルには、水野幸一、高柳久美子、そして楠木匡介の三人。
三人は奥の席に並んで座り、差し込む午後の光の中で、静かに言葉を交わしていた。
話題は、自然と一人の男の名に行き着いた。――「邑人英二」。
今や伝説のように語られる研究者であり、水野と高柳、ふたりにとって、風のように現れた旅人のような存在だった。
「まったく、この二人に戦いを挑んだ僕の間違いでしたね」
楠木はカップを置き、深いため息をつく。
「どうも、とんでもないバックがいたようだ」
そう言って、腕を組んだまま俯いた。
「大げさですよ、楠木さん」
水野が苦笑する。だが楠木は真顔で続けた。
「ただものじゃないですよ。宇宙人、未来人、超能力者……そしてオーバーテクノロジーの研究者。どれを取っても当てはまる」
半分冗談のようで、どこか本気の響きがあった。
その言葉に、水野が小さく笑った。
「これはもう、SFとして片付けるしかありませんよね」
そう言いながら、氷の溶けかけたグラスを指でなぞった。
「僕はもう二十年も邑人さんにはお会いしてなかったんです。……それよりも楠木さん、高柳久美子さんのこと。佐々木姐さんに誤解のないようにしておきたいんですよね?」
その声には、やや低い、脅しにも似た響きがあった。水野の視線が、真正面から楠木を射抜く。
楠木は、わずかに身を引いて笑いをつくった。
「分かってますよ。よろしくお願いします。それと――高柳さん、あのときのことは誤解しないでください。僕は、Jurisに精神支配を受けてたんです」
高柳は少し首を傾げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「今ではよく分かります。楠木さんが変態さんじゃないことも。……誓って、私の口からは漏らしません」
店内の古いスピーカーから、ジャズのベースが静かに響いていた。
楠木は、その音に紛れるように、深く息を吐いた。
この二人には、もう頭が上がらない――そう覚悟を決めたような顔だった。
そして、その“セピア”の午後が、後に再び「Juris」と「Integrate Sphere」を結びつける伏線になることを、まだ誰も知らなかった。
ーー遠い呼び声ーー
高柳が、ふと真顔になった。
「それで――邑人さんが、なんらかの方法で水野さんに連絡してきたということですか?」
水野はゆっくりと頷き、鞄から一台のノートパソコンを取り出した。
「これは、メディアプレーヤーに保存した映像なんですが……」
テーブルに置かれたノートパソコンの画面が明るく光り、小さなノイズのあとに、映像が再生された。
そこには、陽に焼けた肌に知的な光を宿す男――邑人英二が映っていた。
「よう、水野君、ひさしぶり。俺、最近まで日本の山の中にいたんだ。じつはそこで知り合った高柳久美子さんという人が大変な事件に巻き込まれたらしいんだ。俺は、今国に帰っているんで手が出せないんだ。君がサポートしてあげてよ。じゃあまた」
短い映像だった。けれど、その声の調子、わずかな笑みの癖までが、ついこの間まで山の研究所で会って話をしていた彼と寸分違わなかった。
「邑人さん……です。間違いありません」
高柳は、微笑みながらも目の奥に涙を浮かべた。
「懐かしい……。いったい、どちらの国からなんでしょう」
水野は、映像を停止して静かに答えた。
「ZoomミーティングのIDは『777 7878 7878』。
……ただ、それ以外の情報は一切得られません。通信経路も、ログも、すべて空白です。ひとつ言えることは――恐ろしく遠い世界から、ということです。おそらく、時間すらも超越している」
高柳は、その言葉を反芻するように呟いた。
「時間も……超越……?でも、ついこの間までこの画像のままの姿で邑人さんと私が会っていたんです」
その場に、微妙な沈黙が流れた。
楠木は、眉を寄せ、コーヒーを一口すする。
「……まあ、この件に深入りするのは、やめておきましょう」
それが、精一杯の現実逃避だった。
だが、水野は淡々と続ける。
「邑人さんが“高柳さんが大変な事件に巻き込まれている”と言っていたのは、楠木さんや熊の襲撃のことではありません」
楠木は口をへの字にして、わざと聞き流す。
水野は言葉を選びながら、パソコンの蓋を静かに閉じた。
「おそらく、山間の米作を“農事組合法人”として事業化する、そのことを指しているのだと思います」
そして少し笑って言った。
「会計士である自分が、アドバイスできるところは……その辺りです」
高柳は、懐かしさと未来への不安が混ざったような表情で、水野を見つめた。
セピア色の店内に、三人の思考だけが、静かに時を越えて揺れていた。
ーー共闘の三人ーー
喫茶店「セピア」の空気が、少し落ち着きを取り戻していた。
カウンターの奥では、古いレコードプレーヤーが静かに回り、針のノイズとともに黒人女性ジャズシンガーの声が流れている。外の喧騒とは裏腹に、ここだけ時間が緩やかに伸びているようだった。
高柳久美子が、湯気の立つコーヒーをひと口飲み、穏やかに口を開いた。
「私は、未来の農業の研究だけで……事業の中核部分は、N通信本社の沢田常務が詳しくご存知です。
水野さんのご意見を直接、沢田常務に伝えていただくことはできませんか? 私がアポイントメントをとります。ぜひお願いします」
水野幸一は一瞬考え込んだが、やがてうなずいた。
「分かりました。今後の研究にも関わってきますしね。……高柳さんも同席してください。楠木さんは、どうされます?」
楠木匡介は、苦笑いを浮かべながら椅子にもたれた。
「山間農業の害獣対策というのは、U警備の会議でも何度も取り上げられ、今後の事業展開では避けて通れませんがね。
お話の成果だけでも、あとでお知らせいただければありがたいです」
窓の外では、錦糸町の街を走るバスが信号で止まり、看板の灯が夕暮れににじんでいた。楠木の表情に、一瞬の翳りが落ちる。
つい先日、遠隔監視システムが導入されている「肉の自販機」が熊に破壊されたというニュースが報じられたばかりだ。
夜中に市街地へ出没する熊――もはや山だけの問題ではない。
U警備は監視システムの精度を上げ、防御の具体策を詰めるよう迫られている。
「害獣対策には、社内でも強い関心を持っていますよ」
楠木は静かに言った。
「でも、自衛隊出動とか国も本格的に対応を見せていますしね。……今は、熊対策の推移を見守るというのがU警備の立場です」
その言葉に、高柳も水野も、ふっと微笑を浮かべた。
会話の中に滲むのは、ただの警備や農業の話ではない。
――それぞれの立場で、未来を見据える人間たちの、慎重な一歩の始まりだった。
ーーランチタイムの思い出ーー
N通信本社の社員食堂――昼のざわめきが、天井のスピーカーから流れるクラシックの弦楽にやわらかく溶けていた。
長いカウンターの前には従業員たちが列をつくり、トレイを手にランチメニューを選んでいく。だが、奥まったガラス張りの一角――役員席と来客コーナーでは、白いシャツに黒いベストの係員が料理を丁寧に運んでくる。
「お待たせしました。バジルチキン定食です。常務とお客様はタラの竜田揚げですね」
湯気を立てながら置かれた皿から、香ばしい香りがふわりと立ちのぼる。
「やあ、これは美味しそうですね」
沢田常務が微笑むと、高柳久美子も思わず頷いた。
「タラの竜田揚げ、先月いただいたんですけど……とっても美味しかったですよ」
ふと、彼女の脳裏に昔の記憶が浮かんだ
――天城チーフとここで昼食をとった日の記憶。
忙しい一日の合間に交わした何気ない会話。
***
在りし日の、天城利綱。定食を前にしてやはり食欲がわかず、
「僕はいつも半分以上残しちゃうんだ。君にあげるよ」
そう言って差し出されたメイン皿。
少し照れくさそうに高柳久美子に差し出す。
周囲の目もある。だから、高柳はすばやく皿を受け取りながら、そっと小声で言った。
「あとでおやつに、私が焼いたシフォンケーキ差し上げますね」
小さなやりとり――だが、その瞬間だけ、喧噪の食堂がやさしく静止したように感じた。
Jurisのプログラムを組んでいた、あの充実した日々。
人と人との小さな信頼の積み重ねが、確かにここにも息づいていた。
***
「高柳君」
沢田常務が、柔らかな声で呼びかけた。
はっと我に返る高柳久美子。
天城チーフとの思い出に浸っていた自分に気づき、頬がほんのり熱くなる。
「え、あ……はい。あの……」
何か言おうとしたが、言葉がうまく続かない。
指先でナプキンをいじりながら、視線を泳がせる。
そのとき、隣に座る水野幸一が、まるで自然な呼吸のように助け舟を出した。
「沢田常務」
その一言に、テーブルの空気が落ち着く。
水野はゆっくりと姿勢を正し、にこやかに口を開いた。
「ご計画には万分の一の隙もありません。先日、常務がご出演なさったテレビ番組の録画を拝見しました。――素晴らしい構想です。日本にまだ存在しない、いや、世界にも類を見ない事業計画だと感銘いたしました」
言葉の抑揚は穏やかだが、ひとつひとつの語が正確で、心地よい重みを持って響く。
高柳は、ほっと胸をなで下ろしながら、その横顔を見つめていた。
沢田はゆっくりと箸を置き、にこやかに頷いた。
「恐縮です、水野さん。番組をご覧になって頂いたとは光栄です」
そのやり取りの端々に、信頼と敬意がにじむ。
昼の柔らかな光の中、食堂の一角だけが静かに引き締まり、
未来の農業を巡る議論の幕が、ここから静かに開こうとしていた。
ーー成功を確実にするためにーー
「高柳さん、経営の記録はとっていますか?」
水野幸一が、テーブルの上のフライに箸をつけ、視線を落としながら静かに尋ねた。
高柳久美子は姿勢を正し、少し誇らしげに答えた。
「はい、もうすぐ2年目になります。G-progに任せるだけでなく、エクセルで帳簿もつけています。今では地元の直売所に野菜をおろしていますので、売り上げも別会計できちんと整理しています」
沢田常務が感心したように頷く。
「現場任せにしない、その意識がすばらしいですね。研究者でありながら、経営もきちんと把握している」
「安心しました」
水野は小さく笑みを浮かべ、ファイルを閉じた。
「その経理情報を、農業簿記に移行しましょう。これが――種籾の品評会に大きな影響を与えます」
食堂の空気が、わずかに緊張を帯びた。
“種籾のランク付け”――それは、沢田常務の構想する農業再生プロジェクトの核心。
品質評価と市場流通を一体化させるための、きわめて重要な仕組みだった。
「これは――午後にゆっくりお話を聞かないといけませんね」
沢田常務が姿勢を正し、真剣な表情を浮かべる。
「社運をかけていますので」
「もちろんです」
水野は落ち着いた声で応じた。
「より完璧な構築を目指して、です」
その瞬間、窓の外に光が反射し、ビルの外壁に青白いラインが走る。
昼休みのざわめきの向こうで、未来の農業と企業の命運を分ける議論が、
いま静かに、しかし確かに動き出していた。
ーークラウド会計〜里山からの革命ーー
役員室のある最上階。その応接室のひとつで沢田常務と高柳久美子、そして水野幸一が会談を続けていた。
沢田常務は誇らしげに、G-progが確立した「里山再生農業システム」の成果を説明した。
「このシステムで栽培した種籾は、通常のコシヒカリより遥かに高い発芽率と収量安定性を誇ります。『高付加価値種籾米』は確実に高品質米市場を席巻できる。すでに国内の大手米問屋数社と取引の基本合意も得ています」
水野が、静かに口を開いた。
「システムと種籾の品質保証は完璧です。しかし、これだけではだめですね。最高においしい米を作りました。これをAランク米と認定します、とはならないでしょう」
高柳は怪訝な顔をした。「なぜでしょう? 品質データ、環境データ、すべて開示しています。何が不足しているのですか?」
「生産者の顔が見えません」水野は言った。
「生産者のプロフィールをサイトに表示するということですか? どんな人が、どんな思いで育てているか、という?」
「それはマーケティングの話です。今回は、単なる『コメ』ではなく、農業経営の将来を左右する『種苗米』という閉じたプロの市場でおこなわれます。企業が、新しい取引先を評価するとき、製品の品質がよくても、その取引先の財務状況が悪ければ、契約はできません」
応接室の空気が凍りついた。沢田常務が咳払いをした。
「水野さん、里山再生農業システムは健全経営ですよ。農業簿記の決算書は、G-progを通して毎年きちんと提出されています。さらに詳細に至っては、高柳が研究の傍ら、きちんと帳簿につけていました」沢田常務は反論した。
水野は微笑み、静かに沢田と高柳の前に一枚の資料を置いた。
それは、一般的な農業簿記の決算書の一部として簡略化された貸借対照表(B/S)と損益計算書(P/L)のサンプルフォーマットだった。
「沢田常務、一般の決算書は税務申告のため、過去の結果を示すものです。しかし、米の品質審査員が求めるのは、この法人が『継続的に、安定して、良質な種籾を供給し続ける能力』があるかどうかの証明です。そのためには、未来への戦略的投資が見える必要があります」
水野は指をさした。
「例えば、この『農薬衛生費』。あなたのところでは、従業員の健康維持費、有機農法に使う資材のすべてをここに計上していますね。これは、『生物資産維持率(BSMR)』というKPIに直結する。この支出を削減すれば、短期的には利益が出ますが、長期的に見れば『人間資本の減損リスク』が高まります。取引先は、『来年も再来年も、高柳さんの健康な体が、この種籾を作ってくれるか』を知りたいのです」
沢田常務は息をのんだ。
「そして、こちらをご覧ください。『人間資本(育成仮勘定)』。これは、担い手である高柳さんが専門知識を習得したり、地元の農業指導者による講習費用を資産計上しています。これは、『未来の経営を担う人材育成への投資額』。この指標が伸びていれば、『この法人は永続的に存続する』という信用につながります」
水野は続けた。
「つまり、里山再生農業システムは、その農業簿記の決算書を、『ビジネスの看板』としての戦略的なB/SとP/Lに変換し、その健全性を取引先に公開する必要がある。これにより、取引先は、単なる種籾の品質だけでなく、『里山再生農業システムの持続可能性』という、最も重要な信用担保を得られるのです」
沢田常務は額の汗を拭い、目の前の資料を見つめた。それは、一見すると単なる会計帳簿だったが、その背後には、「里山再生農業システムは、未来に投資し続ける、健全な企業である」という、揺るぎないメッセージが込められていた。
「…水野さん。これは…うちの『里山再生農業システム』の実態・まさに『顔』をそのものですね」沢田常務は静かに言った。
「ええ。そして、その帳簿こそが、予定している米等級評価機関が見るための最高の信用担保となります。私は、この『農業簿記』をクラウド化した『クラウドF(Farm)会計』を、この里山再生農業システムに導入し、その成功事例を世界に発信したい。そうすれば、欧米投資家の思想、彼らが最も重視する『データと持続可能な成長』という文脈で、彼らの会社に届けられるかもしれません」
水野の視線は、遥か海を越えた、穀物メジャーやIT業界の巨人たちを見据えていた。彼らの革命は、日本の里山の美しい田園から、始まろうとしていた。
「そして、この"クラウドF会計"構想ですが――」
水野幸一は、手元の資料をそっと閉じ、まっすぐ沢田常務を見つめた。
「N通信さんと田中オフィスで、一緒にやりませんか?」
沢田の眉が、わずかに動く。
その一瞬の静寂を破るように、水野は続けた。
「今後、種籾の品評会に乗り込もうとする農家が増えてきます。中には、スタートアップとして新規参入する若手もいるでしょう。彼らを支援し、簿記会計をサポートする――そんなSaaSを開発するんです」
言葉の端々に、確信の熱がこもる。
高柳久美子も、息をのんでその横顔を見つめていた。
いつもの冷静な水野とは違う。
今この瞬間、彼は“仕組みを変える側”の人間の声をしていた。
「つまり、G-progのデータと、Integrate Sphereの基盤を連携させるということですか?」
沢田が問い返す。
「はい。クラウド上で農業簿記・販売・補助金申請・税務処理をすべて統合します。
これが広がれば、農家は紙の帳簿から解放され、データで経営判断を下せる時代が来る。
――その先にあるのは、“真のフェアトレード”です」
静かだった役員応接室の空気が、わずかに揺れた。
沢田常務の瞳が、ゆっくりと光を帯びていく。
水野の言葉の中に、かつて自らが夢見た「技術と社会の調和」が重なって見えたのだ。
「……なるほど」
沢田は深く息を吸い込み、そして笑った。
「ええ、やろうじゃありませんか!」
高柳は思わず顔を上げた。
その瞬間、三人の視線が交わる。
未来の農業、地方の再生、そしてデータによる公平な市場。
すべてをつなぐ、新たな"真のコメ・ワン"――。
それはまだ実態のない構想にすぎなかったが、
この昼下がり、N通信の食堂で確かに息を吹き込まれたのだった。
水野幸一の声が、静かな応接室に、ゆっくりと深く響いていった。
窓の外では、秋の陽が高層ビルの外壁をやわらかく照らしている。
沢田常務と高柳久美子は、じっと水野の言葉に耳を傾けていた。
「――日本の稲作は、翻弄され続けてきました」
その一言に、食堂の空気がすっと引き締まる。
水野は資料も見ず、まっすぐ前を見据えていた。
「国際化の波、減反による封殺、輸入米関税という砦に守られて力を失った。
しかし、日本の米づくりは――死んではいなかったのです」
言葉が熱を帯びていく。
その声は静かだが、芯が通っていた。
「これからも『増産しろ』『いや減反しろ』と、政策が変わるたびに米づくりは揺さぶられ続けます。
流通システムの不合理で、食卓に米が届かない。
――文明国ではありえない事態です。
嫌気がさして廃業する米農家も、年々増えている」
沢田の眉が、わずかに動いた。
高柳は唇を噛みしめ、何かを堪えるように水野を見つめている。
「ですが、それでも。
本当においしい米を作り、伝えていきたい――そう願う農家たちがいる。
彼らが全力で戦える場所が、高級種籾生産の評価市場なんです」
水野の指先が、テーブルの上で静かに握られた。
「コストに見合った、全力の米。
それは、G-progのようにデータで磨き上げられた米もあれば、
父祖伝来の田んぼ――豊かな土壌と雪解け水だけが育む米もある。
どちらも、それぞれが“正解”なんです。
米の頂点を目指す者たちが競い合う――その舞台をつくることで、
米づくりの未来の姿が見えてくる」
言葉が途切れた瞬間、静寂が降りた。
水野の語った情景が、この空間いっぱいに広がっていく。
未来の米づくり農家たちが、いくつもの光景となって浮かび上がるようだった。
沢田常務は、ゆっくりと息を吸い込み、深くうなずいた。
その瞳には、久しく忘れていた“現場の熱”が、確かに灯っていた。
「……なるほど。そういう視点で米を見るとは。
たしかに、あの番組で私が言いたかったのは、まさにそれでした」
ーー最強のアライアンスーー
「“クラウドF会計”の販売は、Q-pullにお願いする予定です」
水野はそう言って、箸を休めた。
「弊社の肥後MA――マーケティング・アドバイザーから、すでに企画書を持ち込ませています。ネットでの営業展開は、今やQ-pullの独壇場ですからね。おそらく今日あたり、Q-pull本社の会議室でプレゼンが行われているはずです」
沢田常務が軽く眉を上げた。「クラウドF会計を、Q-pullで?」
「ええ、コンセプトは“スマポチでいきなり米造り農家”」水野は楽しげに微笑んだ。
「家庭菜園は敷居が低いけれど、米造りとなるとどうしてもハードルが上がりますよね。でも、その壁をスマホ一つで越えられるようにするんです。体験型稲作――自宅から、田んぼのリアルに参加できる仕組みです」
「ほう」沢田は興味深そうに頷いた。
「詳細は、あとでメールで送っておきます。ここで生まれた“新しい米造り農家”の中から、興味を持って本気で続けたいと思う人たちに、“コメ・ワン”への参加を促します」
水野の目が、穏やかな光を帯びる。
「自分の作った米がどう評価されるのか。評価の理由を知って、さらに上を目指す。そうやって腕自慢が増えていくんです。中には、限界集落の田んぼを借りて挑戦する者も出てくるでしょう。そんなニュースが流れれば、移住者が増えるかもしれません」
沢田常務が少し笑って、「ずいぶんと夢がありますね」と言うと、水野も笑い返した。
「参加者の中には、YouTubeの再生回数やチャンネル登録を伸ばしたい――なんて下心で来る人もいるでしょう。でも、それでいいんです。きっかけは何でも。大切なのは、彼らが米を“つくる”ということ。その体験が、やがて日本の農業の未来を変えていくんですよ」
ーー高柳の手が語るーー
応接室の空気は、静かで張りつめていた。
磨き込まれたテーブルに三人の姿が映り込み、
窓の外には秋の光が高層ビルの谷間を縫って差し込んでいた。
「すごい、すごいです!」
高柳久美子の声が、沈黙を破った。
胸の奥から湧き上がるような熱に突き動かされている。
「私、だれにも負けません!」
彼女の頬はわずかに紅潮していた。
「邑人さんと作った山間の田んぼには、誰にも思いつかないような“秘密兵器”があるんです」
その手が自然に握り締められる。
節の浮いた指、細かなひび割れ。
もはやプログラマーの繊細な指先ではなかった。
それは、鍬を握り、風と土に挑んだ者の“証”だった。
沢田常務は、その手に初めて気づいたように目を留めた。
書類で知る「技術者・高柳久美子」ではない。
そこにいたのは、己の理想を現場で掘り起こす一人の研究者――いや、戦士だった。
「私、中途半端は嫌いなんです」
高柳は、少し照れたように微笑み、
「常務は、私がハンドクリームでも塗っていると思ってらっしゃいました?」
と、冗談めかして言いながら、手のひらを差し出した。
指先には、もう都会的な柔らかさはなかった。
その手を見つめる沢田の表情が、静かに変わる。
「これは――私が過酷な運命に立ち向かって手に入れた“武器”です!」
高柳の瞳がまっすぐに光を放つ。
言葉は熱を帯び、応接室の空気を震わせた。
沢田常務は、深く息を吸い込んだ。
そして、わずかに声を震わせながら言った。
「……ここまで、してくれたのか」
その響きには、感嘆と、
ひとりの人間としての敬意が込められていた。
傍らで水野幸一は、静かに二人を見守っていた。
彼の眼差しには、未来を信じる確かな光が宿っていた。
水野は、穏やかに微笑む。
「先日のテレビ放送で、沢田常務のお言葉を拝聴し、感銘を受けました。
――日本の農業は、まだ立ち上がれる。
その言葉に、私は確信を持ったんです」
窓の外、遠くに見える新幹線が、光を帯びて通り過ぎる。
ひとつの国の未来を変える“構想”が、静かに形を取り始めていた。
ーー続くーー




