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田中オフィス  作者: 和子


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第八十四話、令和怪獣ブーム(前編)

ーーナゾの賑わいーー

令和7年に入ってからというもの、錦糸町演芸ホールは異様な熱気に包まれていた。

それほどテレビで取り上げられたわけではなく、東京MTVの「昭和、懐かしの笑い声」でたまに放送される程度だった。ホールの客層は老若男女入り混じり、“ごった煮状態”になっていた。特別、若い女性に人気とか、玄人(くろうと)好みの演芸を見に来る中高年が多いというわけではない。昼席から夜の部まで立ち見が出る日も珍しくなく、まさに「一極(いっきょく)集中の」の珍現象である。


中堅どころの落語家・笑角亭来福は、楽屋で湯呑みを手にしながら、弟子の力介(りきすけ)に目を向けた。

「ワリが増えてけっこうなことやけどな、こういうブームの波は昔からちょくちょくあったんや」

柔らかな関西(なま)りで言う。

「一過性のブームで浮かれて、そのあと消えてった奴らをぎょうさん見てきた。でもな力介、おまえは逆にこのブームにうまいこと乗っかって、ステージに上がるつもりでやらなあかんで。ここで先輩芸人の()り方、よう勉強するんや」


力介(岩木翔太・18歳)は深くうなずいた。

元は相撲部屋にいた青年だ。三年目になっても序の口にも上がれず、後輩に追い抜かれる日々。力はあるのに勝負どころで優しさが出てしまう。それが彼の長所であり、弱点でもあった。

「相撲じゃ勝てなかったけど、言葉で人を笑わせるなら、勝ち負けなしで勝負できるかもしれない」――そんな思いで来福の門を叩いた。


来福は笑って言った。

「おまえにゃ“力”がある。だから“力介”や。ええ名やろ」

それが彼の芸名となった。


もう一人の弟子、アビ介(アビシェク・シャルマ・14歳)は、インド系の少年でお笑いが大好きだ。妹のアヌシュカをいつも笑わせている天性のムードメーカー。落語に興味を持って、今年の夏休みは来福師匠に弟子入りして、自由研究のタイトルは「僕の落語家内弟子日記」、これで中学の先生たちのド肝を抜いた。その後も「アビ介」と呼ばれて、休みの日は内弟子として稽古をつけてもらっている。


前日の夜、JR新小岩駅近くの商店街にある「新恋話(しんこいわ)寄席」にて、力介の初高座「道具屋」のお披露目が行われた。

出囃子が鳴り、幕が開く。

客席の明かりが落ちると、力介の額に汗が浮かんだ。

「えー……えーと……」

言葉が、出ない。

いつも練習では完璧に覚えていた台詞(せりふ)が、頭からすべてこぼれ落ちた。


沈黙。

ホールの空気がゆっくりと固まっていく。

一分、二分、三分――

客のざわめきも消え、ただ時計の音のような息づかいだけが残った。


五分ほど経ったころ、舞台袖から小柄な影がすっと現れた。

アビ介だった。

彼はそっと力介の手を取り、マイクの前でにこっと笑った。


「え~、今の新作落語は、ロダンの『考える落語家』という彫刻落語でした!」


一瞬の沈黙のあと、お客の誰かのツボに(はま)ったらしく、噴出す笑いにつられてどっと客席が沸いた。

あちこちで爆笑と拍手が巻き起こる。

力介は呆然としながら、アビ介と一緒に高座を降りた。


楽屋に戻ると、力介は深く頭を下げた。

「アビ介、すまない。頭が真っ白になっちゃって……」

アビ介は首を横に振り、にっこり笑う。

「力介さん、だんだん慣れてきますよ。今日のお客さん、みんな笑ってました」

その笑顔に、力介は救われたような気がした。


来福が湯呑みを置き、静かに言った。

「落語いうのはな、“落ちる”とこに笑いがあるんや。今日は見事に落ちたな。……ええ経験したやないか」


外では、また出囃子(でばやし)が鳴っている。

落語の世界に、若い二人の弟子が小さな一歩を踏み出した。

彼らの落語には、まだ何の形もない。

けれどその“考える落語家”の沈黙には、新しい笑いの芽が宿っていた。



ーー立ち見の弟子ーー

翌日。

錦糸町演芸ホールの表には、朝から行列ができていた。一過性の「ブーム」にしては、もう1年近くになる。館内はお客さんの熱気で満ちている。


いつものように、荷物を抱えて楽屋についていこうとする力介は、師匠の笑角亭来福から、思いがけない言葉をもらった。


力介(りきすけ)、荷物はここで降ろしてな、今日は楽屋裏についてこんでええで。支配人には話してあるから、客席側から芸人たちの仕事をじっくり見てみい」


力介は少し驚く。

「客席から見ててええんですか?」

「ええんや。袖で見とったら、芸人の息づかいまで伝わってくる。けど客席に回ると、“お客さんと一体化”して、会場全体の空気がよう見える」


そう言って、来福は荷物を抱えた。

「まあ、ここならお前でも自信つくで。『こんな芸でお客さん笑うてくれるんや』とか、『さっきからスベリっぱなしやけど、メンタル強いな~』とか。(げい)いうもんはな、立派なことやっとるように見えて、実際は泥臭い仕事や」


師匠は少し声を落とした。

「落語だけが芸やない。漫才やコントなどのお笑いは総合芸や。電流パラレルの“感電トーク”も、ギャランティ坂野の“値札ギャグ”も、わしから見たら立派な話芸やで。観客を巻き込む呼吸がある。あれは一朝一夕で身につくもんやない」


来福は笑って、壁際に吊るしてある羽織を手に取る。

「DDコミックの“泣けるコント”なんかもそうや。笑いながら、どこか心に残る。あのバリアのやつ、ほんまにバリア張っとるみたいやな。ああいう“世界を作る力”は、落語家も見習わなあかん」


力介は黙って頷いた。

師匠が他の芸をこんなふうに語るのを聞くのは初めてだった。


「お笑いは高尚やなくてええ。人がちょっと楽になれたら、それで十分や。江戸時代に寄席を始めた(つゆ)の五郎兵衛よりも古い三河万歳(まんざい)のルーツは、室町時代のお坊さんの辻祈祷(つじきとう)や。演芸はお笑いの起源、そう思って観てみい」


そう言い残して、来福は暖簾(のれん)をくぐり、楽屋の方へ消えていった。


力介は関係者通路を抜け、客席へ向かった。

すでに昼席は満員。補助席も出ており、最後列までぎっしり詰まっている。

仕方なく壁際に立ち見で並ぶ。


舞台では、ちょうど電流パラレルの二人が登場していた。

ピンクのカズがマイクを握り、メガネのリョウが鋭くツッコむ。

「電気つけて明るくしろ!」

「真っ暗でなにも見えません!電圧あげすぎてブレーカー落ちたようです!」


――客席がどっと沸く。

スピードと間の取り方が絶妙だった。


次に出てきたのはギャランティ坂野。

「本日ご紹介しますこのギャグ、特別価格3,800円!今なら笑いポイント10倍つきます!」

観客は吹き出した。

彼の値段ネタは、経済を皮肉りながらも、どこか人懐っこい。


続いて怪獣タロウがステージに立ち、米袋を片手に絶叫紙芝居を始めた。


力介は笑いながら思った。

――師匠の言う通りだ。

みんなやり方は違うけど、“人を元気にする”という点では同じだ。


そして最後に登場したのは、DDコミック。

「おまえのギャグ、今はまだ届かない!」

「俺のバリアは、無意味な笑いを弾く!」

観客は最初ぽかんとしていたが、徐々に空気が変わる。

物語の中盤、ロボットが種をまくシーンで、会場が静まり返った。

――まるで誰もが“未来の田園”を想像していた。

終演後、拍手が起こる。その音は少し長く、温かかった。


力介は胸の奥が熱くなるのを感じた。

昨日、自分は沈黙して終わった。

でも今日、目の前にある笑いは、形は違ってもすべて“誰かの人生”から生まれている。


ステージが終わると、師匠が楽屋から出てきて言った。

「どうや、いろんな芸があるやろ。おまえも、その中のひとりになるんやで」


力介は静かに頷いた。

照明が落ち、舞台の幕が閉まる。

観客のざわめきの向こうで、師匠の言葉が残響のように響いていた。


笑いに“格”なんてない。

あるのは、“人を思う気持ち”だけや。


力介はその言葉を胸に、ホールの出口へと歩き出した。

立ち見席で過ごした数時間が、いつの間にか彼の中で、確かな修行の一日になっていた。



ーー「アラビアン」とタロウーー

楽屋の隅に、怪獣タロウがいた。

舞台の照明がまだ温かさを残している中、彼は座布団の上に体育座りをして、背中を少し丸めていた。


体は誰よりも大きい。それでも、できるだけ小さく見えるようにしているのが、周囲の芸人たちにはなんとなく伝わっていた。


膝の上には、一冊の古風な本。

コミック本のインクの香りまで楽しんでいるようだ。


ドアの外から笑い声がした。

DDコミックの二人が、撮影機材を持って走り回っている。

電流パラレルのボケ役が「リール上げよ!」と叫ぶ声もする。

それでも、タロウは一歩も動かない。


彼の耳には、ページをめくる音だけしか響いていないようだ。


やがて、鏡台のほうから声がかかった。


「タロウさん、何読んでるの?」


声の主は、しなやかな風の聖山(ひじりやま)スミ子。

白いブラウスの袖をまくりながら、軽い調子でタロウのほうに歩み寄ってきた。


タロウは、少しだけ顔を上げる。

体育座りのまま、膝の上の本をそっと持ち上げて表紙を見せた。


そこには、レオタード姿の少女。

舞台の上で跳ねるように描かれたその線は、昭和の漫画らしい繊細さを(たたえ)えていた。


『アラビアン』――古いバレエ漫画のタイトル。


「……これです」

低い声で、タロウが言う。


聖山は一瞬、目を丸くした。

そして、懐かしそうに笑った。

「あっ、アラビアンね! 私、小学生の頃、夢中になって読んでたわ」


「そうなんですか」

タロウの口元が、わずかに緩んだ。


「主人公の子、体が大きくて、"バレエに向かない"って言われるんです。優秀な姉さんと何かと比べられるんですけど、あきらめずにバレエを続ける、いいわよねぇ・・・」


スミ子は腕を組んで、じっとその表紙を見つめた。

「……懐かしいなあ。あの頃、あの子みたいになりたいって思ってたのよね。

よく、こんな本見つけたわね」


「復刻版です」

タロウは短く答えた。


言葉は少ないが、その声音には、妙に柔らかい響きがあった。


スミ子は、ふっと笑った。

「タロウさん、本当にロマンチストなのね」


タロウは少し照れくさそうにうつむく。体育座りの膝に顎を乗せ、視線だけでページをもう一度見つめた。


「……いや、ただ、よう動き分かる絵やなって思っただけです」


「ふふ、それ、もう"好き"ってことよ」


スミ子はそう言って、鏡台に戻っていった。

タロウはその背中を目で追いながら、少しだけ笑った。


ページの中の少女が、舞台で跳ねている。

大きな体で、重力を振りほどくように。


――彼女の姿は、どこか自分に似ている。怪獣タロウはそう思った。


タロウは静かに本を閉じる。

分厚い指先で、ページの角をそっと撫でた。


外では、DDコミックがまたカメラを構えている。

誰もまだ、「怪獣タロウ現象」に気づいていなかった。


だが、静かなその時間の中で、彼だけはもう、次の舞台への一歩を踏み出していたのかもしれない。



ーー見切れの魔法ーー

錦糸町演芸ホールの楽屋裏は、今日もいつもどおりのざわめきに包まれていた。

狭い通路を通り抜ければ、電流パラレルがスマホを立てて撮影中。


「……いくでリョウ、ブレーカー落とすで!」

「もう落ちてんねん! おまえの頭のネジがな!」


ピンクのカズが叫び、メガネのリョウがツッコむ。

短いコントを撮り終えると、リョウが息をつきながら再生回数を確認した。


「ふむ……リールの伸び、あんまりやな」

「昨日のも二百回止まりや。なんでやろな」


そのすぐ隣では、"しなやかな風"の二人――聖山スミ子と粳舞(うるちまい)釜男(かまお)が、白い布をバレエのチュチュのようにまとい、静かに舞台の光を意識したポーズで撮影していた。


「この静止、いい? ズレてる感じ出てる?」

「うん、でもインスタのコメント欄、哲学っぽいのばっかりで……笑いが少ないのよね」


それぞれがSNSで手応えを探っている。

だが、誰もまだ気づいていなかった。

楽屋の"通りすがりの巨人"が、バズの起点になっていることを。


その秘密に最初に気づいたのは、「DDコミック」の二人だ。

ビームとバリアはスマホの画面を見ながら、にやりと笑い合う。


「見ろよ、また伸びとる。昨日のショートで十万越えや」

「タロウさん、ほんま“歩くアルゴリズム”やな」


彼らが気づいた“怪獣タロウ効果”は、すでに絶大だった。

タロウが背景のどこかに映りこむだけで、再生数が跳ね上がり、コメント欄が一気に温かくなる。

偶然を掴んだ二人は、今やしたたかに計算していた。


「なあビーム、せっかくやから、他の芸人さんたちにも教えとこや」

「マジで? 俺らの武器、バラすんか?」

「ケチくさいこと言うてどうすんねん。どうせ気づくのも時間の問題や。せやけど、最初に“気づいたのは俺ら”って印象を残しとこ」


そして、その日の昼休み。

バリアが電流パラレルのカズに声をかけた。


「なあカズ兄さん、リールの再生数伸ばしたいんやったら、ちょっとタロウさんを後ろに映してみれば?」

「え、怪獣タロウ? なんで?」

「理由はようわからんけど、うちら、それで跳ねたで」


ビームは"しなやかな風"にも同じように伝えた。


「ストーリーズにタロウさんの影がちょっとでも入ると、なんか再生の伸びが変わる気ぃがしますねん」

「へぇ……風景としての存在感、ってこと?」

「……まあ、そんな感じやな(ぜったい違うけど)」


二人は涼しい顔でそう言いながら、

心の中では優越感に浸っていた。


(そのうち、誰もが気づく。けど、最初に見抜いたのは俺たちや。SNSの反応にピンと来るのが俺たちの強みや!)


それが、DDコミックのささやかな自負だった。


そして、その夜。

再び投稿された"電流パラレル"のリールに、

タロウがほんの一瞬――通りすがりに笑顔を見せた。


翌朝、カズが叫んだ。

「おいリョウ! リールが跳ねとる! なんだこれ!」

「……怪獣タロウ、神ですよ!」


一方、“しなやかな風”のインスタにも変化が起きた。

コメント欄に、


「後ろの人の微笑みが優しすぎる」

「あの巨人、また出てる!」

という書き込みが続々と増えていた。


こうして、

演芸ホールの地下に生まれた“小さな偶然”は、

芸人たちのあいだで一気に広まっていく。


――怪獣タロウは、何も知らない。

いつものように、ただ笑って通りすぎるだけだった。

その自然体が、誰よりも強い光を放っていた。


それ以来、DDコミックは、必ずタロウを背景に入れて撮るようになった。

ステージ後の廊下でも、楽屋でも、

「すんません、ちょっとだけ後ろ立ってもらっていいすか!」と頼む始末。


タロウは困ったように笑う。

「いや、俺、ただのフリップ芸人なんですけど……」

だが、その困り顔がまた再生数を呼ぶのだった。


次に動いたのは、漫才コンビ「電流パラレル」の二人。

三人で“タロウトリオ”を名乗ってTiktokにも投稿。

更にフレーム外からギャランティ坂野の"手だけワイプーイン"のダメ出しが入る。

「ダメ、ノン・ギャランティ!ネタが原価割れしています」

3人のチャレンジ芸と坂野の辛口判定が化学反応を起こし、

"#怪獣タロウチャレンジ" がトレンド入りする。


投稿者のフォロワー数が爆伸びした。

錦糸町演芸ホールの芸人たちは焦った。

「なんや、"怪獣タロウ"って数字持ってるやんけ!」


すると、ベテラン勢まで動き出す。


「しなやかな風」の聖山スミ子は、粳舞釜男を伴ってバレリーナの衣装で近づき、

タロウを捕まえ、スマホを向けて言った。

「ほら、タロウくん、ウチらと一緒に"昭和少女マンガポーズ"やってみよ」


その動画は、静かに目を閉じてアラビアンのポーズをとる三人。

コメント欄は懐古と笑いで埋まった。


「これが令和の癒やし」

「昭和と令和のクロスオーバーや」


「怪獣タロウ現象」が広がる――SNSを席巻する“癒やしの巨人”


秋風の吹く錦糸町。

タロウは今日も楽屋の隅で、静かに少女マンガをめくっていた。



ーーヒア・ウイゴーのマネジメントーー

午後の錦糸町、秋の夕日が差し込む会議室。照明の反射が磨かれた応接テーブルに白い線を描いている。

そこに並んで座るのは、落語家・笑角亭来福、漫才コンビ・レンチンズの二人、そして芸能事務所「ヒア・ウイゴー」を率いる肥後夫妻だった。


レンチンズ北が、少し緊張した声で切り出した。

「今日は、タレントの紹介とは違います。似たような案件なんですけど……」


その言葉に、肥後勝弥(かつや)はにやりと笑う。スーツの袖を軽く直しながら、落語家の来福に向き直った。

「来福師匠、存じ上げておりますよ。上方落語の伝承者。江戸前落語中心の関東に新しい風を吹かせて、新恋話寄席の中心でも活躍中――。お仕事の場を広げるために、ウチの“ヒア・ウイゴー”のマネジメントをご利用いただける、というお話ですか?」


来福は、薄くなった頭を手で軽く撫で、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。

「そうしたいのは山々なんですけどね。今日のご相談は――ワシも芸能事務所を持ちたいという、虫のいい話なんですわ」


その一言に、肥後香津沙(かづさ)が少し目を丸くした。

「ウチのタレントになっていただくんじゃなくて?」


「はい、そうです。ワシも合同会社を設立して、落語家たちの仕事を斡旋していこうと思いましてな。ようやく会社の絵が描けてきたところで、先進の“ヒア・ウイゴー”さんに話を聞かせてもらおうと、お邪魔した次第で」


肥後勝弥は笑みを引っ込め、顎に手をやった。

「ウチのライバルになるのか、それともビジネスパートナーになるのか。……そこをはっきり聞かせてほしいですな」


来福師匠は、その真剣な視線をまっすぐに受け止め、口角を上げた。

「それやったら――『最高のビジネスパートナー』になると言うておきます。その理由は、これからお話します」


彼の声は、まるで噺の枕のように静かに会議室に響いた。

「ワシは今まで、一匹狼を気取って、東京で“わが道を行く”と(うそぶ)いておりました。でも、今年になって初めて弟子を二人とったんです。

そんで、偶然にも(おとうと)弟子(でし)のレンチンズと出会いました。この出来事を通して、ワシの師匠――桂昭和の気持ちが、ようやく分かった気がしましてな」


レンチン飯野が首をかしげた。

「桂昭和師匠の気持ち?」


「そうや。蜘蛛の中には、生まれた子供に自分の体を食べさせて、子を生かす種類がおるそうです。……昭和師匠も、そういう心を持ってたんやないかと思いますわ。

レンチンズも知ってるやろ? あんな優しい師匠、そうそうおらんで」


レンチン北が、遠い目でうなずいた。

「分かります。師匠は俺らを、実の子どもみたいに扱ってくれてました。座敷の座卓にはいつも綺麗な灰皿があって、俺らがスパスパ煙草吸ってても、次の日にはピカピカになってたんです」


飯野が苦笑まじりに続ける。

「俺が他の先輩芸人をどついたとき、師匠が"ちょっと出かけてくるわ"って言ってね。次の日その先輩が"……俺も言いすぎた。水に流そう"って言ってきたんです。

あとで聞いたら、昭和師匠がその先輩の師匠にしっかり詫び入れてくれてたらしい。俺らが不始末するたびに、師匠が後始末してくれてたんですよ」


来福師匠は、ゆっくりとうなずいた。

「そうや。ワシが大阪から勝手に飛び出したときも、あとで桂昭和師匠が上方落語協会の理事に詫び入れてくれたって、あとで聞いたんや。

……あの時、もっと早く気づいていれば、師匠は――」


言葉が途切れた瞬間、レンチン北が勢いよく口を挟んだ。

「だから、師匠はまだピンピンしてまっせ! なんか故人みたいに言わんでください!」


会議室に笑いが戻る。来福師匠も破顔して、肩を揺らした。

「はは、そうやな。ま、そういうワケで弟子をとったら責任がある。せやけど、ワシは昔ながらの“家族的師弟関係”みたいなんはようできませんのや。

せやから――芸能プロダクションみたいな形でやれんかと思いましてな。弟弟子のレンチンズに頭下げて、ヒア・ウイゴーさんを紹介してもらったんですわ」


その言葉を聞いた肥後香津沙は、にこりと笑って言った。

「……なるほど。落語の伝統と現代のマネジメント。これは面白い化学反応が起きそうね」


肥後勝弥もまた、腕を組みながら満足げにうなずく。

「"遊びを入れてこそ、マーケは生きる"。来福師匠、ウチの理念とも通じるもんがありますな」


笑角亭来福は、軽く頭を下げて応えた。

「ほんなら――"遊び心のある落語界"を一緒に仕掛けていきましょうや」


錦糸町のビルの外では、夕陽がネオンの色に飲み込まれていく。

この出会いが、のちに“令和落語ブーム第二章”の幕開けとなることを、まだ誰も知らなかった。


ちょうどそのころ──

事務所のドアを軽く開けて入ってきたのは、制服姿のアバス・シャルマだった。


ヒア・ウイゴーのトップ俳優であり、バラエティからドラマまで引っ張りだこの17歳。

その彼が、学校帰りのリュックを背負ったまま、事務所をのぞき込んで言った。


肥後勝弥が苦笑いを浮かべながら答える。

「おお、アバス! ちょうど今から、笑角亭来福師匠の特別公演だ。見ていけ、今日は特別だぞ」


アバスの目が輝いた。

「マジですか? じゃあ──ちょっと、水野所長に伝えてきます!」


そう言うが早いか、

彼は走って隣の田中オフィスTokyoへ向かった。


数分後。

アバスが勢いよく戻ってきた。


その後ろには、

きちんとしたスーツ姿の水野幸一所長と、モデルのような長身で銀髪の女性──柴田リーザがいた。


「アバスくん、よく知らせてくれたね!」

水野が眼を輝かせて笑う。

「これはめったに見られないチャンスですよ」

そう言って、静かに腕を組んで即席の来福の講座の方を見やった。


リーザは小声でアバスに囁く。

「ラコゴ……? What is that? コメディトーク?」


アバスはにっこり笑って答える。

「うん、日本の話芸です。ちょっと難しいところもあるけど、わからない部分は通訳しますね」


彼はそう言って、隣の席に座るリーザの耳元に囁いた。



ーー錦糸町の即興高座ーー

「ワシ、二つ目の頃はな、『三業亭(さんぎょうてい)角明(かくめい)』いう名前でしてね」

師匠は語るたびに、どこか楽しそうだった。


「そらもう、鳴かず飛ばず。前座と同じギャラで、寄席の掃除と出番の合間に牛丼ばっかり食うてました。

そんなある日や──電話が鳴りましてん。見たことない番号。出たら……びっくりですよ。

(かつら)昭和(しょうわ)』師匠ですわ。もう、反射的に言いましたわ。『師匠、不義理しまして大変すんませんでした!』ってな。

だって、東京出て十年。音沙汰ひとつなかったんやもん。

ほんなら昭和師匠、低い声でこう言わはる。


──『おまえ、こんど真打(しんうち)になれるで』


これがまた、びっくりですよ。

あのときのワシ、電話口で正座してましたからね。

けどな、すぐあとに師匠がこう言いはる。


『真打披露な、理事長の(かつら)明朝(めいちょう)師匠とワシが高座でやる予定やけど……おまえ、今あんまり売れてへんやろ?大阪の寄席にも顔出してへんし、明朝理事長もおまえの高座、もう十年見てへん。……もしかしたら、真打にできへんかもしれん』


そらもう、天国から地獄や。

携帯電話、汗で滑りましたわ」

来復師匠は、扇子を受話器に見立てて、手からスルリと落として見せた。反対の手で受け止めた。


肥後夫妻は、いつの間にか笑角亭来福の独演会の観客になっていることに気づいた。

レンチンズの二人もそうだ。来福の次の語りを待っている。

その目は笑っているのに、どこか少年のような熱を秘めていた。


来福の噺は続く

「でな、また昭和師匠がこう言うんですわ。

『お前、一人で真打披露やってや。ワシら見にいくから。ほいじゃ。』

──ガチャ。切れたんですわ。


ワシ、携帯置いてそのまま十秒ぐらい固まってました。『これ、ペナルティか?それとも謎かけか?』ってな

──けどな、考えてみたら、それがチャンスや思たんです。

"自分の力で"真打披露せえと。

ほんで、ワシは夜な夜なネタ帳に『新作落語・真打披露』の台本書きました。


落語でも漫談でもない。

“自分で自分に贈る口上”。

笑いも涙も入れて、一日で書き上げ、一日で稽古、一日でおさらい、都合三日で仕上げました」


「三日めの午後、錦糸町演芸ホールに行って、支配人に言いました。

『支配人、ワシ一人で真打披露やりたいんです』

支配人、最初ぽかんとしてましたけどな、しばらくしてニヤッと笑って言うたんです。


『面白いねぇ、角明さん。膝代わりに入れてあげるよ』


──それが、今からお話する舞台ですわ」



ーーひとり真打披露ーー

その夜の高座は、妙にざわついていた。

噺家たちの間でも、客席でも、「あの話はほんまか?」という囁きが飛び交う。

「前代未聞の真打披露」──それも、一人でやるというのだから、前代未聞にもほどがある。


舞台裏、薄暗い楽屋の片隅に、黒紋付きの着物姿で腰をおろす男がいた。

三業亭(さんぎょうてい)角明(かくめい)

三十を越えたその風貌は、どこか風に磨かれた石のように、やわらかくも艶がある。

客の入りはいつもより多いものの、空席も目立つといった様子。

袖からそれをざっと見渡す。桂昭和師匠らしき姿は見えない。

「こりゃ一杯喰わされたかもしれへんな・・・・・・」

彼は扇子を軽く開いたり閉じたりしながら、まるで昔話を自分に語り聞かせるようにしていた。


客席はもう静まり返っていた。

誰も笑っていない。

それは笑いではなく、喝采の前の静けさだった。


何時もの出囃子ではなく、袖から地声で「とざい、とーざーい!」と張り上げる。

高座の座布団に座り、角明は、軽く息を整え、扇子を一度、パチンと閉じた。


「それでは……“真打披露”を一席──ワシ一人で、やらせてもらいます」


会場がどよめく。

来復師匠はうれしそうに、目を細めた。


客席から笑いが起こる。


その言葉とともに、照明が落ち、緞帳の裏で鈴が鳴る。

――落語史に残る「一人真打披露」の幕が、静かに上がった。



ーー三業亭角明、一人真打披露

錦糸町演芸ホールの照明が、いつになく白々と光っていた。

客席は珍しく八分(はちぶ)入りといったところ。


「今日は、あの三業亭角明が一人で真打披露するらしい」

そんな噂を聞きつけた芸人、関係者、マニア、果ては業界紙の記者まで、詰めかけていた。


舞台袖。

三業亭角明は、深呼吸をひとつして、黒紋付きの裾を払った。

介添えもいない。師匠もいない。

高座の中央には座布団が一枚。

舞台右手のめくりには──「真打披露 三業亭角明」。

それだけ。


支配人が幕の裏でつぶやく。

「……本当に一人でやる気だな」


そして、ゆっくりと幕が上がった。


ざわめきが一瞬、止む。

角明は正座し、深々と一礼した。


「え〜、ただいまより、“三業亭角明 真打披露口上”を、わたくし一人にて申し上げます」


笑いが起こる。だが、それも一瞬。

彼の目の奥に宿る気迫が、客席を一気に黙らせた。


「え〜、まずは理事長の桂明朝師匠、そしてわたくしの師匠、桂昭和師匠──両名を代表して、わたくしがご挨拶を申し上げます」


角明、軽く一礼すると、扇子をひらりと持ち替えた。

顔が一瞬にして変わる。

低く、貫禄のある声。


「え〜、ただいまご紹介にあずかりました、落語協会理事長の桂明朝でございます。

本日は、我が協会におきましても、たいへん珍しい形式の真打披露──

“単騎・一人立ち”という、新しい試みでございます」


(客席:ざわ…)


「なにぶん角明くんは、若い頃から我々の言うことを聞かない。

寄席の掃除を忘れ、前座会にも遅刻し、“掃除もせんで噺は光るか”と、何度説教したかわかりません。

それでも、彼の芸の芯には“笑いの光”があった。

今日、その光がどんな色で輝くのか──わたくしも楽しみにしております」


角明、ゆっくりお辞儀。

扇子をくるりと回すと、今度は柔らかい声になる。


「え〜、続きまして、師匠の桂昭和でございます。

あー、角明、おまえ、ようここまで来たな。

ワシはなぁ、お前が大阪から東京へ出る時に、駅で見送ってからずっと思てたんや。

"あいつ、アホやけど、ほんまにアホのまま終わるやろか"て。


……せやけど、お前は踏ん張った。

落語いうのはな、うまいことしゃべる芸やない。"うまくいかん人生をどうしゃべるか"の芸や。

お前の失敗と、寂しさと、しょーもなさは、もう芸の域や。


せやから、今日は堂々と真打になれ。ワシが認める。……いや、ワシしか認めへん!」


客席、どっと笑いと拍手。

角明、深く頭を下げ、ふっと小声でつぶやく。


「師匠、ありがとうございます……」


そして角明は、まっすぐ客席を見た。

「では、最後に──本人、三業亭角明からのご挨拶を」


空気が一気に張りつめる。

扇子を畳み、両手を膝に。


「え〜、わたくし、三業亭角明。

十年間、寄席の掃除と、牛丼の特盛で生きてきました。師匠方に叱られ、先輩方に笑われ、後輩に抜かれ……"なんでワシは売れへんのやろ"と、何度も天井見上げました。


でも、落語って、ほんまに不思議なんです。

笑えん夜も、噺にすれば笑いになる。

泣きたい朝も、高座に上がれば拍手になる。

落語は──人生を許す芸です。


……だから、今日この瞬間、

師匠がいなくても、理事長がいなくても、

"ワシは真打ちや"と言わせてもらいます!」


角明、パッと立ち上がり、両手を広げ歌舞伎のように見栄をきった。


「おあとが、よろしいようで!」


ドン、と足で床を鳴らした瞬間、会場全体が爆発した。

拍手、歓声、笑い、涙。

寄席の板が震えるほどの熱気だった。


袖で見ていた支配人が、目を潤ませて呟く。

「……ほんまに、一人でやりやがった」


角明は、深く頭を下げ、誰もいない空間に向かって静かに言った。


「師匠、理事長──やり切りましたで、一人で。だれかYoutubeで流してくれへんかなあ……」


拍手は鳴り止まなかった。



ーー笑角亭来福 真打昇進披露ーー

錦糸町演芸ホール。

高座の上は、まだ熱を帯びていた。


三業亭角明が、一人真打披露を終え、

「おあとがよろしいようで!」と高座を打った直後──

会場の天井に、突如、三味線と太鼓の音が鳴り響いた。


♪チン・トン・シャン、チン・トン・シャン……。


客席がざわつく。

「え?」「出囃子や……?」「もう終わりちゃうの?」


次の瞬間、舞台袖から、裃姿の二人がゆっくりと登場した。


桂昭和。

そして──

上方落語協会理事長・桂明朝。


ふたりとも紋付袴に身を包み、それぞれ手に座布団を抱えている。

まるで、舞台の“天から降りてきた”ような荘厳さだった。


客席は一瞬の静寂のあと、

割れんばかりの拍手!


立ち上がって拍手する者、涙ぐむ常連、

「うそやろ……ほんまに来たんか……」と呟く噺家仲間たち。


角明──いや、この時点ではまだ角明──は、

まるで夢を見ているようだった。

あわてて座り込むが、驚きのあまり、座布団の上で正座したまま動けない。


昭和師匠と明朝理事長は、静かに高座へ上がると、

角明の両脇に座布団を並べ、ゆっくりと腰を下ろした。


三人そろって、客席に深々とお辞儀。


万雷の拍手。

客席はすでに"満員御礼"──八分入りどころではない。

扉の外まで人が詰まっている。


角明はあわてて再度お辞儀をし、

目尻に涙を浮かべながら小声でつぶやいた。


「……師匠、ほんまに、来てくれはったんですか……?」


昭和師匠は、にこりと笑い、

「そら来るやろ。弟子の晴れ舞台や」と一言。


その声は会場には聞こえなかったが、拍手の音にかき消されることなく角明の耳まで届いた。


桂昭和、姿勢を正す。

そして、口上を述べる。


「本日は万障お繰り合わせの上、

弟子・三業亭角明の真打披露にお運びいただき、厚く御礼申し上げます。


本人の芸は、まだ道半ばではございますが、

皆々様の暖かいご厚情をもちまして、

精進をすすめさせる所存でございます」


客席、静まり返る。

師の声が、まるで鐘の音のように響く。


「つきましては、三業亭角明、改めまして──」


ここで、昭和師匠が懐から二つに折った一枚のフリップを取り出した。

広げると、筆太く書かれた新しい名跡。


『笑角亭 来福』


会場がどよめいた。


「“(かく)”の字が下から上へと移り、(かく)(格)が上がって福が来る。

おめでたい芸名でございます」


昭和師匠の口上に合わせて、

明朝理事長がゆっくりと手を叩く。

それに続いて観客も一斉に拍手。


高座の上は、まるで春の花見のような熱気に包まれた。


桂明朝理事長、穏やかな笑顔で前へにじり出る。

その姿勢には、上方落語界の重みがあった。


「皆様、本日は新真打、笑角亭来福の昇進披露興行にご来場くださいまして、誠にありがとうございます。一門を代表しまして、心より御礼申し上げます。


来福も、おかげさまで真打という大看板を背負(しょ)わせていただくこととなりました。

これもひとえに、ごひいきにしてくださる皆様のお力添えあってのことと、深く感謝しております。

――とはいえ、真打という看板は、これからが本当の勝負。

まだまだ未熟ではございますが、芸を更に磨き、日々精進していくことと存じます。

どうか皆様、温かい目で見守っていただき、変わらぬご指導ご鞭撻のほど、(ふく)してお願い申し上げます。


――本日は、皆様にこうしてお運びいただき、来福の門出を祝っていただけましたことは、

上方落語界のこの上ない喜びでございます。改めまして、皆様のご健勝とご多幸を祈念いたしまして、私の挨拶とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました」


静寂。

そして、地鳴りのような拍手。


客席の老若男女が総立ちで手を叩く。

照明が高座を黄金色に照らし、

その中央に、三人の姿がくっきりと浮かび上がる。


昭和師匠と明朝理事長は、両脇で弟子を見守る。

角明──いや、笑角亭来福は、声にならない涙を浮かべながら、深く、深く頭を下げた。


「師匠、理事長……ありがとうございました。

この名前、命がけで守らせていただきます!」


三味線が再び鳴る。幕がゆっくりと下がる。


拍手は──終わらなかった。


まるで春の雷のように、ホール全体を包み続けた。


「――あの夜、錦糸町の灯がいつもより柔らかく見えたという。誰もが忘れられぬ、前代未聞の真打昇進披露でございました。

お後がとろしいようで」



ーー応接室の独演会ーー

ヒア・ウイゴー事務所。

いつもは商談とミーティングのために使われる応接室が、

この日ばかりは、即席の「高座」に変わっていた。


長机の上には小さな座布団。

背景には、プレゼン用の白いスクリーン。

スポットライト代わりのLEDスタンドが、

柔らかくひとりの男の顔を照らしている。


笑角亭来福。


彼の口上が終わると、室内は一瞬、静まり返った。


肥後勝弥が、真っ先に立ち上がった。

手を叩く。

その拍手が、次第に熱を帯び、

やがて応接室いっぱいに響きわたった。


「いやぁ、師匠──見事でした!」

勝弥の声は、営業プレゼンでは聞いたことのないほどの大音量だった。

目の奥が光っている。


香津沙は、机の端でハンカチを握りしめていた。

最初こそ笑顔で見ていたが、

いつのまにか頬を伝う涙が止まらなくなっていた。

「……あかん、泣いてまうやん……」

声にならない呟きを漏らしながら、

震える肩を押さえ、そっと目尻を拭った。


レンチンズの二人も感無量の様子だった。


北は、まるで少年のような表情で、仮設の高座に座る来福を見つめた。

「来福兄さん、俺、(おとうと)弟子(でし)で誇らしいです!」


その声に、来福は少し照れくさそうに笑う。

「なんや北、ええこと言いよるやんけ。……でもお前、褒めすぎるとアホに見えるで」


部屋の空気が一気にやわらぐ。

全員が笑いに包まれた。


一方の飯野は──

相変わらず、表情が読めなかった。眉間に皺を寄せ、口角を少し上げている。

怒っているのか、笑っているのか。

だが次の瞬間、彼は胸の奥から声を出した。


「ブラボー! 来福兄さん!!!」


声が大きく響く。

その瞬間、勝弥がまた拍手を始め、

香津沙が涙をぬぐいながら笑った。


来福は、軽く手を合わせて一礼した。

「……ほんま、ありがたいことですな。

落語の真打披露は高座でやるもんですけど、こんな応接室で、人生もう一回“披露”させてもらえるとは思いませんでしたわ」


肥後勝弥は、満面の笑みで言った。

「師匠、うちの会議室が、今日だけは寄席を超えましたよ。

ビジネスの話より、ずっと心に残る舞台でした」


香津沙も、うなずきながら静かに言葉を添えた。

「来福さん、あなたの話は"商品"じゃなくて"芸術"よ。人の心を動かすって、こういうことなんですね」


アバスはその光景を食い入るように見つめていた。

そしてリーザに、そっと囁いた。


「ね、リーザさん。これが"話だけで映画をみせるような"日本の芸なんです。

音も映像もないのに、頭の中で全部が見える。すごいでしょう?」


リーザは目を丸くして、

「Incredible…! He’s… like an actor, director, and poet all in one!」

と息を呑んだ。


その言葉に、水野所長が静かにうなずく。

「そう。落語家ってのは、たった一人で世界を作る職業なんです」


外の夕陽が、ガラス窓を赤く染めていた。

応接室に漂う余韻は、まるで一席終えた後の寄席のようだった。


笑角亭来福は、深く、深く頭を下げた。


「本日は、誠に……ありがとうございました」


その声は、落語家としてだけでなく、一人の“人間・来福”としての感謝そのものだった。


拍手が再び起こる。

まるで、物語の幕が上がる瞬間のように。

ーー続くーー




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