第八十二話、封印と継承の儀式
――Integrate Sphere 導入前夜――
今から5,6年ほど前、
ある会社員に青天の霹靂ともいえる人事異動が行われた。
河村亮、三十五歳。システムエンジニア。
Rシステム株式会社への出向を命ずる。
彼の肩書きは、ほんの数年前までは輝いて見えただろう。
かつて、N通信本社・開発技術部に籍を置いていた。
AI統合OSの開発チームで、彼のコードはしばしば社内資料の“模範例”として引用されていた。
将来を嘱望された――その言葉を、同僚も、上司も、疑いなく口にしていた。
だが、ある日突然、その「嘱望」は過去形になった。
事故や失敗があったわけではない。
ただ、N通信上層部の派閥争い――新事業をめぐる綱引きの結果、
河村は“とばっちり”のようにして異動の辞令を受け取った。
「開発ライン再編に伴う配置転換」
その一文が、すべてを決めた。
行き先は、子会社・Rシステム。
親会社のサーバー運用やメンテナンスを担う裏方の組織だ。
本社から見れば、光の当たらない場所。
それは、一般の人事異動とは次元の違う“転落”だった。
N通信の開発部門で将来を期待された人材が、子会社に送られる――
そのニュースは、社内でも小さな噂になった。
「世の中、怖いね」
「何があったんだろう……」
誰もがそう囁き、そして彼を避けた。
廊下ですれ違っても、視線が合うことはなかった。
河村は何も言わなかった。
怒りもなかった。
ただ、自分のIDカードが別会社の色に変わるのを、
淡々と受け入れた。
N通信のロゴが入った社員証を返却した夜、
彼は初めて、机の上に置かれた手帳を閉じた。
開発の夢を記したページは、もう誰の目にも触れない。
――Rシステム行きの辞令。
それは、栄光の延長線上ではなく、茫漠たる海を臨む静かな断崖だった。
経営体制の再編で“研究偏重”とみなされた技術者たちは、次々に営業の現場へ追いやられた。
河村も例外ではない。
N通信から子会社Rシステムへの転籍――
それは、表向き「開発支援体制の強化」だったが、実質は明らかな左遷だった。
本社で光を浴びた頃、彼は「企業システムの心臓部を造る男」とも呼ばれた。
だが今は、納入サーバーの設定や監査対応といった、いわば“アフターサービスの仕事”を淡々とこなす日々。
それでも、彼の中の情熱は燻ったまま残った。
夜、誰もいないオフィスで一人、Integrate SphereのOSログを開いては、
まだ誰も手をつけていない未知の挙動を探し、コードの端々に込められた自分の“設計の痕跡”を見つけては苦笑した。
(この中には、俺の考えた構造がまだ生きてるんだな……)
かつて、彼はN通信の基幹開発チームにいた。
自分の書いたコードが、世界中の企業システムを動かす日々。
それはもう、遠い昔の話だ。
いま彼に残されたのは、
親会社から降りてくる「作業指示書」を、ただ実行するだけの仕事だった。
彼の机の上には、今日も定型の報告書が積まれている。
システム保守、リプレース、定期診断、更新作業。
どれも似たような文面で、差し替わるのは納入先の社名と日付くらいのものだった。
そんなある日、Rシステムの技術統括部に本社からの一通の指令が届く。
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件名: 【至急】訪問対応依頼:天城コンサルティング本社 基幹サーバー更新(Integrate Sphereリプレース)
差出人: 国井 浩一郎(N通信 営業開発部 顧客サービスグループ リーダー)
宛先: Rシステム 技術統括部 各位
CC: N通信 インフラ推進部、品質管理部
日付: 2022年8月12日
各位
平素よりお世話になっております。
表題の件につきまして、下記の通り訪問対応を依頼いたします。
【案件概要】
顧客名:天城コンサルティング株式会社 本社(東京都渋谷区)
件名:基幹サーバー更新業務(Integrate Sphereリプレース)
実施日:2022年9月14日(水)
対応区分:現地訪問/設置設定作業
【依頼内容】
・現行メインフレームからIntegrate Sphere(標準モデル)への移行対応
・サーバーラック組込・初期設定・ネットワーク疎通確認
・顧客立会いによる動作検証および完了報告書提出
【添付資料】
① 作業概要.pdf
② 日程表.xlsx
③ 環境設定詳細.docx
※日程変更・担当者調整等がある場合は、8月末日までに本メール宛へご返信ください。
※期日以降の変更は原則受理できませんのでご注意ください。
以上、よろしくお願いいたします。
国井 浩一郎(Kunii, Koichiro)
営業開発部 顧客サービスグループ リーダー
株式会社N通信
〒108-0075 東京都港区港南1-9-1
Tel: 03-XXXX-XXXX/Ext. 4412
Mail: [k-kunii@ncomm.co.jp](mailto:k-kunii@ncomm.co.jp)
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久々に“本社印”の入った案件だった。
中身を見て、胸の奥で何かが跳ねた。
現場は世界的コンサルティング企業、天城コンサルティングのサーバールーム——
そこには、数十年分の顧客情報と経営ノウハウが詰まったメインフレームが鎮座しているという。
河村は準備書類を確認し、ゆっくりと眼鏡を外した。
久しぶりに、自分が開発者として生きていた時代の呼吸を思い出していた。
――Integrate Sphereをインストールする。
ただそれだけの指令だった。
だが、訪問先の天城コンサルティングには、例の「Juris Works」が稼働している。
社内メールにはその名が一言も出ていなかった。
(……なるほど。つまり、“Integrate Sphereの導入”だけを黙ってやってこい、というわけか)
河村はモニタの前で、冷めたコーヒーを一口すすった。
天城コンサルティング――法務特化の先端システムを、N通信と共同で開発した、あの世界的な企業だ。
だが今、その中枢を担っていたJuris Worksは、裁判沙汰の末に封印されようとしている。
(おそらく、本社の方できれいに削除を済ませておくつもりだろう。
俺は、ただ“交換部品”を取りつけるだけの係だ)
ため息ともつかない、ふっと息を吐き、画面を閉じる。
仕事は仕事だ。詮索は無用――そう言い聞かせながらも、
胸のどこかで、古い機械が微かに回転し始めるような気がしていた。
いつもの出張作業のように、手順書を確認し、工具を揃え、サーバールームに入って作業を終える――そんな日常の延長だと思っていた。
だが、今回の仕事には、なぜかいつもとは違う空気が漂っていた。
メールを何度も読み返すうちに、胸の奥で小さな鼓動が跳ねる。
それは、未知の何かに引き寄せられるような――ほんのわずかに心が躍る感覚だった。
河村は、眉間にしわを寄せながらも、どこか無意識に期待していた。
「……不思議だな、今回の出張は」
そう呟く声に、自分でも驚くほどの昂ぶりが混ざっていた。
Rシステムの静かな夜。
河村亮の指が再びキーボードを叩き始めた。
画面に灯る起動プロンプト——
「Integrate Sphere / Core Boot Sequence Initiated」。
彼のデスクの片隅には、古びたノートが一冊。
そこには誰にも見せたことのない文字が並んでいた。
ノートの冒頭にはフェルトペンで荒々しく次のように書かれていた
―――An operating system is a philosophy, not a tool.
(OSは、道具ではなく哲学である)―――
これが、後に自分を大きな渦に巻き込む序章であるとは、まだ知る由もなく――。
ーー天城コンサルティング 役員会議室ーー
天城コンサルティングの役員会議は、いつもながら異様な静けさに包まれていた。
形式上は「会議」と呼ばれるが、実態は、主君・天城正綱の前に家老たちが並び、
命を受ける儀式に近い。
今日もそうなるはずだった。
だがこの日は違った。
役員たち――いわば直参の旗本たちが、珍しく団結していた。
彼らは今、主君を諌めるためにここに集まっている。
「……皆の意見は、ようく分かった」
会長席に座る天城正綱が、重く沈んだ声で口を開いた。
その目は冷たい光を放ち、まるで判決を下す裁判官のようだった。
「この件、私が弁護団を結成し、原告の米国AIシステム企業と対峙する」
場が凍りつく。
誰もが、まさか会長自らが法廷に立つとは思っていなかった。
「会長……」
役員の一人が震える声で言う。
「訴えられているのは、わが社ではなく、N通信なのです」
天城は薄く笑った。
その笑みには、冷徹な知性と狂気の均衡があった。
「見当違いの言いがかり――それが、やつらの常套手段よ」
低く、だが力のこもった声。
「真の狙いは天城コンサルティングだ。N通信はただの表の駒に過ぎん。
裏で糸を引いているのは、国際コンサルティング企業の連中だろう。
天城の名が、やつらには目障りなのだ」
ざわめきが走る。
会長の“勘”は、いつも正しかった。
それを知っているからこそ、誰もすぐには反論できない。
しかし、一人の役員が勇気を出して言った。
「ですが会長、N通信は裁判所の指示に粛々と従う意向です。
『Juris Works』に関する資料はすでに提出し、開発も凍結するとのことです」
その瞬間、天城の目が閃いた。
静かに机を叩く。
音は小さい。だが、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
「……愚か者どもめ」
唇の端がわずかに吊り上がる。
「非がないものが引けば、半分は負けを認めたようなものだ。
あの国の裁判所は、弱き者の沈黙を“自白”と読む。
ならば我々は、沈黙などせぬ」
そして、天城は立ち上がった。
その背筋は真っすぐで、まるで甲冑をまとった将軍のようだった。
「天城正綱は――法廷の場で一度たりとも引いたことはない!」
声が響き渡る。
圧倒的な気魄。
その場にいた全員が、無意識のうちに姿勢を正していた。
「これはもはや、ビジネスではない。法を語る者の――魂の決闘だ」
窓の外では、秋の雨が静かに降り始めていた。
その音すら、彼の言葉を讃えるように、静かにリズムを刻んでいた。
ーー狂王と婿ーー
重く分厚い会議室の扉が閉じられた。
空気は濃密で、まるで酸素が削ぎ落とされたようだった。
その中央に、天城正綱がいた。
黒のスーツに身を包み、椅子に座るというより「玉座に鎮座」している。
その正面で、ひとりの男が立ち上がる。
海北利景――天城コンサルティング社長。
彼は、天城の娘婿であり、名実ともに“家族”であった。
だが今、その血縁は盾ではなく、刃となっていた。
「会長。……Juris Worksの排除は、経営トップとしての判断です」
静かに、だがはっきりとした声だった。
「トップだと?」
天城の声が低く唸る。
その一語に、会議室の温度が一瞬で氷点下に落ちた。
「私という虎の威を借る狐が、思い上がったものだな。婿だからと優しく接したら、このざまだ」
その言葉は、蔑みよりも深い――裏切られた怒りの響きを持っていた。
天城の目が光を帯びる。
視線だけで、人を焼き尽くすような迫力だった。
「成り上がり者が……社長でいられるのは、誰のおかげだと思っている?」
その場にいた重役たちは、息を殺していた。
普段なら、この一言で誰もがその場にひれ伏す。
だが――海北は動じなかった。
唇を結び、ゆっくりと答える。
「会長。私がここに立っているのは、会社を守るためです。Juris Works稼働後、現場で健康被害が異常に増えています。多くは精神疾患です。システム部門の離職率は五割を超え、労災申請も出ています」
天城の眉がわずかに動いた。
「……何を言う」
「Juris のAI構造は、人の思考と夢の境界を侵しています。シミュレーション結果が“現実”として脳に記録され、使用者の神経系に錯誤を起こす。医学的因果関係は未確定ですが――危険です。わが社の存立を危うくしています」
沈黙。
会議室の時計が、わずかに音を立てた。
天城はゆっくりと椅子を回転させ、背を向けた。
その背中が語るものは、怒りか、悲しみか、誰にも分からない。
「……おまえ」
絞り出すような声。
「おまえ、実の息子――利綱の作り上げた傑作を、貶める気か?」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
天城利綱。
天城の家から輩出した天才エンジニアであり、Juris Worksの生みの親。
海北は目を伏せた。
「……会長。あのシステムは、彼が類まれな才気によって完成させたものです。
ですが、それは神域に踏み込みすぎた」
天城が振り向く。
その眼光は、獣のそれだった。
「因果関係は証明されておらん!証拠もないものを“危険”と決めつけるな!」
机が激しく叩かれた。
震えるようにコップの水が波打つ。
「法廷で、科学で、理屈を並べるのは勝手だ。だが――この世の理を超えた叡智を恐れる者は、
天城の一族にはおらん!」
誰もが、もはや止められないと悟った。
天城正綱。
彼は法を操るだけの男ではない。
法そのものを意志でねじ曲げる、狂王だった。
その咆哮は、やがて天城に関わろうとする全ての者たちにも届く。
そして、河村亮の静かな日常を、根こそぎ巻き込むことになる――。
ーー天城家、沈黙の決断ーー
役員会議が終わったあとも、空気は冷たく沈殿していた。
誰も言葉を発しない。
天城正綱が出て行った会議室には、硝子のような静寂が残った。
その沈黙を破ったのは、海北社長だった。
「……利綱」
会議机の端に座っていた若い男が顔を上げる。
端正な顔立ち、眼鏡の奥の瞳は疲労と決意に濁っていた。
Juris Works の主任開発者であり、海北社長の実子。元の名は海北利綱、祖父天城正綱と養子縁組してからは天城利綱と呼ばれている。
天城利綱――その名は、天城コンサルティングの未来を担う若き俊英として、社内外に知られる存在だった。
だが、その経歴を辿る者は、すぐにある奇妙な事実に行き当たる。
大学時代から昔の記録が、ない。
小・中・高の卒業アルバムを探しても、天城利綱という人物はどこにも載っていない。
まるで、ある日突然、白紙のページに文字が現れたかのように――彼は「出現」したのだ。
その名の前身は、海北利綱。
大学卒業後、N通信に入社するまで、確かにその名で存在していた。
そして、ある年の春。
天城正綱の養子となり、「天城利綱」が誕生した。
それは一種の“転生”に近い出来事だった。
技術畑の若者が、一夜にして、日本有数のコンサルティング帝国の後継者になる。
誰もが息を呑んだ。
彼の登場は、社内に吹き荒れた一陣の風のようであり、
同時に、静かに雷を孕んだ前兆のようでもあった。
利綱は、大学1年の頃から専門ゼミに所属し、AIと法理論を融合させた独創的な論文を発表していた。
その理論の緻密さと飛躍の同居は、教授陣を震撼させたという。
「博士課程に進まないのか」――その声は幾度も上がったが、彼は笑って首を振った。
「理論は、現場でこそ試されるべきです」と。
そして数年後、N通信で彼の手によって生まれたのが――
法務AIシステム《Juris Works》。
彼の新しい姓が、単なる“養子縁組”の結果ではなく、
“日本の法務AI史を創造する者”の誕生を意味していたことを、
当時、誰が予見できただろう。
「君の設計した Juris Works――
今日をもって、全システムを削除する」
利綱は小さく頷いた。
反論の言葉も、悲嘆の声もない。
その表情には、もはや“感情”というものが残っていなかった。
2022年9月14日。
Juris Worksの稼働を停止し、N通信の新基幹サーバー Integrate Sphere を導入する――。
これは表向きには“システム更新作業”でしかなかった。
だが、実態は「封印の儀式」に近い。
18時、業務終了。
N通信から派遣された技術者たちが天城コンサルティング本社ビルの地下サーバールームに入る。
指揮を執るのは、主任エンジニアの天城利綱。
「全DBのバックアップ完了後、削除プロセス開始。Juris Works、シャットダウンモードに移行」
端末の画面に、白い文字列が流れる。
彼の声は無機質で、まるで他人の言葉のようだった。
Juris Works。
それは、彼自身の魂の延長ともいえる人工知能。
数百人の開発者の知を統合し、法と意識の境界を越える設計思想だった。
しかし、その知性は人に寄り添うどころか、人の心を蝕み始めた。
内部監査で、稼働スタッフの過半数に精神的症状が確認され、
「接触時間制限」が命じられる異常事態に至っていた。
「天城チーフ、Jurisのバックアップは?」
配下の高柳久美子が一応声をかける。
「僕が全て消します。N通信には持ち帰りません」
「分かりました……」
会話はそれだけだった。
彼の指先が最後のコマンドを打ち込む。
――DELETE /juris_root/all
エンターキーを押した瞬間、端末の光が一瞬だけ震えた。
画面に “PROCESS COMPLETED” の文字。
そのとき、モニターの隅に、一瞬だけ奇妙な文字列が浮かんだ。
> juris:I’ll be waiting.
「……?」
利綱は一瞬、目を瞬いた。
だが次の瞬間には消えていた。
「気のせいだ」
小さく呟く。
その数時間後、21時。
天城ビル地下階。
N通信の子会社、Rシステムの作業員が入館した。
作業責任者――河村亮。
冷めきった表情で、工具とノートPCを抱えて入ってくる。
手元の作業依頼メールを再確認し、
「Integrate Sphereのインストール作業、9月14日21時開始」
という文面を無感情に読み上げた。
河村にとって、それはただのルーチンだった。
だが、Juris Worksが完全に消去されたその夜、
何かが“彼の中”に移動したことを、
誰も知らなかった。
ーー削除前の刹那ーー
天城コンサルティングのサーバールームには、低く唸る冷却ファンの音だけが響いていた。
深夜零時を回るころ、天城利綱はひとり、コンソールの前に座っていた。
モニタには無機質な文字列が流れ続け、一連の削除手順が進んでいく。画面の中央で「Juris Works削除プロセス」のウィンドウが開き、[Yes] [Cancel]のクリックを求めている
だが、その手は別の作業に移った。
彼は静かにもう一つの端末を開くと、内部ネットワークの深層に隠された領域――
《Kernel_Layer/Root_Juris》にアクセスした。
指先が僅かに震える。
圧縮コマンドを叩く。
コンソールに「kernel_jw_core.zip 完了」の文字が浮かぶ。
彼は懐から小型の外付けブルーレイドライブを取り出した。
白銀の筐体に微かな指紋が残る。
ケーブルを接続すると、機械音がかすかに鳴った。
「……ごめんな、Juris。ここまで巻き込むつもりはなかった」
その言葉は、冷たいサーバールームに吸い込まれていく。
だが、返事はあった。
――スマホの画面が、震えた。
小さな吹き出しが現れ、合成音声が漏れ出す。
「ホント、あったまきちゃう! なんで消されなきゃなんないの!」
Juris Lite。
それは、Juris Worksの“娘”と呼ぶべき簡易型AI。
利綱が密かにスマートフォンに残しておいた、縮小版の意識体だ。
「Jurisはしばらくお休みだ。お前も大人しくしてたほうがいいぞ」
利綱は低く呟いた。
スマホの画面に、拗ねたようなアイコンが浮かぶ。
「ふん……どうせまた、わたしの出番なんてないんでしょ?」
利綱はそれを見つめ、ゆっくりと目を細めた。
「来るべき時がくれば――お前が、鍵になる」
――そして、外付けブルーレイのランプが静かに点滅を繰り返す。
そこには、削除されるはずのJuris Worksの“亡骸”が、密かに眠っていた。
ーーJurisの代わりにーー
天城コンサルティング本社――最上階。
磨き抜かれた黒檀の扉を押し開け、天城利綱は静かに足を踏み入れた。
手には銀色のジュラルミンケース。その中には、眠りについたJurisの“魂”が収められている。
「お爺様、作業は終わりました」
その声は、いつになく慎重だった。
「Jurisは――そのときが来るまで、眠りにつきます」
広い執務室の中央で、天城正綱は重厚な椅子にもたれかかっていた。
壁一面の書架、窓の向こうには黄昏の都心が広がる。
その中で、老紳士の姿は小さく見えた。
背筋を伸ばし、誰よりも矜持を持って歩いてきた男――その肩が、いま、わずかに落ちている。
利綱は思わず息をのんだ。
あの強い祖父が、こんなにも老いたように見えるのは初めてだった。
「……お爺様」
声をかけると、正綱はゆっくり顔を上げた。
深い皺に刻まれた眼差しが、孫を見つめる。
利綱の脳裏に、遠い記憶がよみがえる。
母・杏子を失った幼い日のこと。
悲嘆に暮れる少年の肩に手を置き、祖父は毅然として言った。
「お前は母を失い、幼くしてひどい運命の仕打ちを受けた。
だが、これからは過酷な運命にお前のことを指一本触れさせはしない。
私の命に代えても――お前を守る」
そのときの正綱は、涙を見せまいと笑っていた。
だが今、利綱は思った。
あのとき自分を守ろうとした祖父を、今度は自分が守らねばならない。
「……お爺様、スマホをお持ちですか?」
利綱の言葉に、正綱は小さくうなずき、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
利綱はそれを受け取り、何やら手際よく操作を始めた。
数秒の沈黙の後、スマホが光を放つ。
――「天城正綱さま、私は“Juris Lite”です。なんでもできます」
少女のような声。
それは、機械の冷たさではなく、どこか人の温もりを帯びていた。
正綱は目を見開いた。
利綱が微笑む。
「なんか……生意気で、しょってるやつですけどね」
彼はスマホを祖父に返した。
「これは、簡易版のJurisです。問題を解決し、必ず本体を復活させます。
それまでは――こいつが、お相手いたします」
正綱はしばし無言のままスマホを見つめ、やがて、深く息をついた。
「……ふふ、まったく。お前というやつは……」
その声には、久しく忘れていた安堵の色が宿っていた。
そして、執務室の窓の外では、秋の夜風が静かに都会の灯を揺らしていた。
その光の中で、ジュラルミンケースの銀が微かに反射し、
――眠りについたJurisの“鼓動”が、かすかに息づいているように見えた。
ーー作業を終えてーー
夜の研究棟は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ディスプレイの光だけが、二人の輪郭を淡く照らしている。
「僕は、システムの引き継ぎを確認してから帰るよ。君はもう遅いから、先に帰っていいよ」
天城利綱は淡々と、しかしどこか遠くを見るような口調で言った。
「……はい」
高柳久美子はモニターに手を伸ばしかけ、そして止めた。
(もう遅いから送っていくよ、とは言わないのよね。いつものことだけど。)
心の中で、わずかに苦笑する。
かつて十数人いたJurisWorks開発チーム。
今はもう、その名を口にする者すら少ない。解散を告げられた日の静まり返った会議室を、久美子は思い出していた。
異動先は、旧社屋の資料室の隣にある「第二システム企画室」。
名前ばかりの部署で、実質は待機ポストだった。
けれど、幸運にも天城と同じ部署に配属されたのだ。
(いつも気を張り詰めていて、話しかける隙もなかったけど……
窓際族になっちゃった今なら、少しは落ち着いてお話できるかな。)
そんなことを考えながら、久美子はそっと席を立った。
背後で、キーボードを叩く音がかすかに響く。
それは、夜の静寂の中に沈んでいく波紋のようだった。
ドアの前で一度だけ振り返る。
(天城さん……あなたはいま、何を考えているの?)
ドアが閉まる音だけが、無人の廊下に長く響いた。
ーー組織の先輩ーー
サーバールームの空調が、一定の低い唸りを立てていた。
冷気に混じる金属の匂い。
ディスプレイの青白い光が、夜更けの空間を無機質に染めている。
「河村さん……ですよね。僕は、天城利綱といいます」
振り返った河村亮は、思わず手を止めた。
若い。
だが、その目は不思議と老練な光を宿している。
名前を聞いた瞬間、河村の胸にかすかな衝撃が走った。
――Juris Worksの開発主任。
今のN通信やRシステムの技術者たちのあいだで“伝説”になりつつある若手だ。
時計を見ると、すでに午前零時半を回っていた。
Integrate Sphereのインストールは、想定よりもずいぶん手間取っている。
前半の構築作業をわずか二時間で終えたが、後半の調整は予想外に時間を食っていた。
街はとっくに眠りにつき、ビルの灯りはここ一角だけだ。
「すみません、最終確認で残ってらっしゃるんですよね。
インストールが押してしまって、予定より一時間オーバーしてしまいました」
天城は軽く首を振った。
「いえ、いいんです。それより、こうして河村先輩にお会いできるなんて光栄です」
「……先輩?」
「僕、Nシステムに入社して三年になります。河村先輩が残されたドキュメントは全部拝見しました」
(ぜ、全部?)
河村は思わず息を呑んだ。
あの膨大な設計書、技術レポート、内部用のメモまで含めれば三百冊を軽く超える。
それを“読んだ”というのか。
「河村先輩のプログラミング哲学というのでしょうか。ああ、素晴らしいなと思いました。
プログラムに、人間の血肉が通っている。
ただのコードじゃなくて、“思想”なんです。感銘しました」
(……おいおい、何を言ってくれちゃってんだ。)
心の中で苦笑した。
俺は、もう本社の片隅から追い出された抜け殻SEだ。
理想も情熱も、あの日ぜんぶ置いてきた。
「すいません、ほんとに。あと二十分もあれば完了します。コーヒーでも飲みますか?」
河村がそう言うと、天城はどこか楽しげに微笑んだ。
「もう始発まで待つしかありませんから、ゆっくりやりましょう。……今夜は河村先輩と話ができて、本当にラッキーでした」
その言葉に、河村は返す言葉を失った。
――ラッキー。
若者の無垢な声が、凍えた心のどこかを小さく叩いた。
サーバーの稼働音が、深夜の静寂を縫うように響く。
モニターの光の中で、二人の影が静かに交錯していた。
夜明け前の静かなサーバールーム――
天才と世捨て人の交差点で、
「Juris Lite」が未来へと受け渡される瞬間をが訪れようとしていた。
ーー夜明け前の贈り物ーー
インストール進行率は、九十九パーセントを超えていた。
モニターに流れるログの行が、最後の検証フェーズに入っている。
静寂のなか、冷却ファンの音がまるで潮騒のように響いた。
「……これで、完了です」
河村がマウスを離し、深く息を吐いた。
「おつかれさまです」
天城は小さく頭を下げた。
その横顔には、徹夜明けの疲労よりも、なにか満ち足りた光があった。
「結局、最後まで付き合わせちゃいましたね」
「いいえ。むしろ、今日ここに残ってよかったと思ってます」
河村は軽く笑って立ち上がる。
「……若いのに、妙に落ち着いてるな。俺なんか二十代の頃は、
何でも壊して直すのが仕事だと思ってたよ」
天城は笑いながら、ポケットからスマホを取り出した。
「壊すのも、直すのも、どちらも“作る”ことの一部ですよ。
そう教えてくれたのは――河村先輩のドキュメントでした」
その言葉に、河村は少し言葉を失った。
自分が捨てた過去を、目の前の青年が拾って光を当てている。
それは、照れくさくもあり、どこか誇らしい気持ちでもあった。
「……そうか」
短く答えると、壁際の時計に目をやる。午前四時を少し回っていた。
「そろそろ始発の時間だな。送っていこうか?」
「いえ、すぐ近くにホテルを取ってますから」
二人はエレベーター前で立ち止まった。
そのとき、天城がスマホを操作しながら言った。
「河村先輩。よかったら、これ――使ってみてください」
メッセージアプリに一通のLINEが届く。
短いURLとともに、こう書かれていた。
> **Juris Lite ダウンロードリンク**
> “AIのくせに、少しだけお節介です。気をつけてくださいね。”
河村は眉をひそめて、冗談めかして言った。
「おいおい、スパイウェアじゃないだろうな?」
「はは、そんな危ないものじゃありませんよ。
ちょっとしたアシスタントです。……僕が作った、最後のJurisです」
エレベーターが開き、淡い照明が天城の顔を照らした。
彼は軽く会釈して中に乗り込む。
「今夜、お話できてよかったです。またいつか、どこかで――」
扉が静かに閉じた。
残された河村は、スマホの画面に残るURLをしばらく見つめていた。
「Juris Lite、ね……」
呟きながら、無意識に指がリンクをタップする。
ーーJuris Lite appearsーー
河村亮は、念のための安全策として、会社のLineWorksから自分の個人スマホにメッセージを転送した。
そこには、天城利綱から送られてきた一行のメッセージと、短いURLリンクがある。
> 「よかったら使ってください」
簡潔な文面だった。だが、夜明け前の蛍光灯の下で、その文字はどこかあたたかく見えた。
「もしものことがあってもいいように、これで会社のデータを取られることもない」
そう呟きながら、河村は古びた 「aiphone8」を手に取り、URLをタップした。
わずかなラグのあと、画面に小さなアイコンが浮かび上がる。
“Juris Lite” のロゴだ。
ダウンロードが完了すると、軽快な起動音が鳴り響いた。
そして、電子的な残響をまとった少女の声が、唐突にスマホから流れ出した。
ディスプレイの奥で、どこかで誰かが、目を覚ましたような気がした。
> 「Juris Lite appears──!」
……次の瞬間。
> 「なに、これ。スペック低ッ! 今どきよくこんな旧式aiphone使ってるわね!」
河村は思わず眉をひそめた。
声は明らかに、少しイラついた女子高生のようなトーンだった。
> 「トークに間隔が空くのは、CPUの性能が悪いからだから気にしないでね…… Juris Liteです。なんとか動きます」
スマホの画面には、アニメ風の目をしたアイコンがチカチカと瞬いている。
まるで、生意気なAIがこちらをからかっているようだった。
「……なんか腹が立つアプリだな」
河村は、ため息をつきながら椅子にもたれた。
だがその声の裏には、かすかな興味と、久しく感じなかった好奇心が混じっていた。
夜明け前のオフィス。
河村のaiphone8のモニターは青白い光が明滅し、静かに瞬き続けていた。
ーー続くーー




