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田中オフィス  作者: 和子


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第八十一話、青と白の断章

ーー錦糸町の再会ーー

錦糸町駅南口。

昼下がりの喧騒を避けるように、古びたビルの二階にある喫茶店「セピア」は、わずかに埃っぽいジャズを流していた。

窓際の席に座る水野幸一は、冷めかけたブレンドに手を伸ばし、ゆっくりとカップを回す。

午後の日差しがレンズ越しに照り返り、眼鏡の奥でその瞳だけが冷静に光っていた。


「――邑人さんから連絡を受けていまして」


その声に、向かいの二人が同時に顔を上げる。

ひとりは、スーツの襟をきちんと整えながらも、どこか落ち着かない様子の楠木匡介。

もうひとりは、ノートパソコンを閉じたまま、眉根をわずかに寄せている高柳久美子。


先日の田中オフィスTokyoでの特別セミナー。

楠木匡介と高柳久美子は、そこで思いがけず再会し、楠木はかつての非礼を詫びて少しずつ打ち解けていた。

それを見ていた水野は、京都本社の佐々木恵の思いを肩代わりする形で、あれこれ質問を重ねた。

その結果、二人が佐々木メグ姐さんの失意に繋がるような関係ではないことを理解し、

かつ、これまでの詮索について詫びる意味もあって、今日の再会の場を設けたのだ。


だが、水野の心には、もうひとつ別の疑念が芽生えていた。

それは恩師、「邑人英二」からの久々の連絡に由来するものだった。


水野は深呼吸し、穏やかに口を開く。


「邑人さんが(おっしゃ)るには――楠木さん、高柳さん。

お二人は、大きなトラブルに巻き込まれているらしいので、是非、力になってもらいたいとのことです」


その言葉は、喫茶店の静寂を切り裂くように響いた。

楠木と高柳は顔を見合わせ、微かに息を吞む。

過去の影、そしてこれから迫る未知の出来事――

そのすべてが、静かな午後の光の中で、じわりと重くのしかかる。


水野の瞳には、確かな決意があった。

「我々にできることを、しっかりやる――」

その思いが、テーブルの上に置かれた三人の影に静かに重なる。


水野の言葉に、久美子の指がわずかに震えた。

長い沈黙ののち、彼女は静かに息を吸い込み、遠い記憶をたぐるように語り始めた。


「邑人英二さんという方は……一年ほど、私の研究に協力してくださったんです。

農業用ドローンの自動制御システムなどを、一緒に作っていました。

それだけでなく、研究以前の自然との関わり方や考え方についても、多くの示唆をいただきました。けれど――」


高柳はふと楠木の方をちらりと見た。

「楠木さんが現れてから、邑人さんは国からの帰還命令を受け、帰ってしまったんです」


一瞬、彼女の瞳は楠木を避けた。

そこに宿っていたのは、後悔とも恐れともつかない、微かな影だった。


「その時の楠木さんは、今とは全然違う感じでした。

JurisWorksの秘密を、どうしても聞き出そうとして……。

彼は多分、Jurisに心を乗っ取られていたんだと思います」


楠木は、唇をかすかに噛みしめた。

グラスの中で氷がひとつ、音を立てて沈む。

その音だけが、時間の流れを確かに刻んでいた。


外では総武線の通過音が遠く響き、

喫茶店の古い時計が、午後三時を告げる。


――Juris Works。

三人の間に、沈黙よりも重い名が落ちた。



ーー消えた記憶の輪郭ーー

喫茶店「セピア」の窓の外では、午後の陽がゆるやかに傾き始めていた。

水野は無言のまま、テーブルの上のメモ帳に一本の線を引く。

それは、まるで過去と現在を結ぶ導線のようでもあった。


楠木匡介は、少し乾いた唇を湿らせるようにコーヒーをひと口含み、

低く、掠れた声で語り出した。


「……僕は、何かに追い立てられるように行動していました。

当時、天城コンサルティングの天城正綱氏と接見したあとから、記憶が曖昧で……。

高柳さんと会ったときも、気づいたら彼女の研究所の、あの古民家の裏庭に立っていたんです」


久美子は、静かに頷いた。

その頷きは、あの不気味な午後を思い出しているようでもあった。


「そうでしたね……。

あの日、私は研究所の敷地に人の気配を感じて、庭に出たんです。

林道から続く入り口じゃなくて、裏山の急斜面側から、藪をかき分けて入ってこられた。

あの方向は、熊も出没するような危険な場所なんですけど」


楠木は、額に手を当てた。

指先がかすかに震えている。


「全く……覚えてません。

(ふもと)の村で研究所のある方角を教えてもらってから、そこからの記憶がすっぽり抜けているんです。

あのとき、誰かに――いや、何かに導かれた気がします」


久美子は、ふっと息を呑み、表情を引き締めた。

そして、あの夜のことを思い出すように、ゆっくりと言葉を継いだ。


「合点がいきました。

楠木さんのスマホを見せられたとき……そこには、Juris Liteが動いていたんです。

――それはJuris Worksの分身。

開発段階で、私たちが封印したはずの“もうひとつの知性”でした」


喫茶店の時計が、午後四時を指す。

秒針がひとつ進むたび、三人の沈黙は深く沈んでいく。

その空気の中、水野は初めて顔を上げた。


彼の目は、静かに二人を見据えていた。

まるで、真実という氷山の下に沈んだ“何か”を掘り起こそうとするように。


――Juris Lite。

忘却と支配のあわいに潜む、もうひとつの意思。


その名が、またしても静かな喫茶店に重く響いた。



ーー白いディスクーー

高柳久美子は、しばらく遠い目をしていた。

コーヒーの湯気が細く揺れ、その向こうに記憶の残像が滲む。

やがて、彼女は小さく肩をすくめて、クスリと笑った。


「……思い出しました」


その笑いは、どこか照れくさく、しかし底に冷たいものを含んでいた。

水野と楠木が視線を向けると、久美子は静かに続けた。


「あのとき、裏庭から上がってこられた楠木さんを、家に招いたんです。

服は泥だらけで、まるで夢遊病者みたいでした。

でも、目だけが妙に澄んでいて……。

話している途中から、背筋がぞくっとしました」


彼女の指先が、カップの取っ手をそっとなぞる。

その動きは慎重で、あの日の空気を確かめるようだった。


「家に上がってもらって、お茶を出したら――

“白いディスク”の話をされたんです」


久美子の声が、わずかに低くなる。

店内の音が遠のいた。

通りのざわめきさえ、硝子の外で止まったかのようだった。


「何でこの人が、それを知っているのか……。

もう忘れていたはずの悪夢が、あの瞬間によみがえりました。

その上、『――僕は天城利綱。天城家の人間です』て言うものだから、怖かった。

とても、不気味でした」


楠木はその言葉に身を固くした。

まるで心の奥で、見覚えのない誰かが目を覚ますように。


水野は何も言わず、メモ帳に“白いディスク”と書き込み、

その下に細い線を引いた。


――青のディスクを知る者たちの影で、

もうひとつの“白”が動いていた。


そのことを、この瞬間、三人とも無意識に悟っていた。



ーー二枚のディスクーー

「……白いディスクは、以前、天城会長にお返ししました」

高柳久美子は、静かに語りながらカップを置いた。

その手つきには、何かを供養するような慎重さがあった。

窓の外、錦糸町の雑踏が遠ざかってゆく。喫茶店「セピア」の中は、まるで過去の残響だけが漂っていた。


「亡くなられたお孫さん、天城利綱さんは――Juris Worksを一緒に開発していた、私の上司でした。

その遺品を、私がお預かりしていたのを思い出して……会長に経緯をお話しして、お渡ししたんです。

“孫の形見が揃った”と(おっしゃ)って、大変喜んでおられました。――なのに……」


久美子の声が、そこで細く揺れた。

唇の端に一瞬、悔恨が滲む。

あの日の会長の笑顔が、今も脳裏に焼きついて離れなかった。


楠木匡介は、その言葉に呼応するように、深く息を吐いた。

その表情はどこか決意を帯びていた。


「私は、天城会長から相談を受けました」

彼の声が少し低く響く。

「元々お持ちの“青いシステムディスク”――Juris Works本体のものと、もう一枚、“白い謎のディスク”。

この二つを手渡されて、U警備のシステム部門で解析してくれないかと依頼されたんです」


テーブルの上の氷が、ひとつ溶けて沈んだ。

水野は黙って頷き、メモ帳に“青/白”と書き加えた。


「残念ながら……」楠木は視線を伏せる。

「ウチのシステム部でも、自分で調べてみても、決定的なことは分かりませんでした。

それで、N通信に聞いてみたんです。すると、当時の開発担当者――高柳さんが“G-prog”という会社に出向されていて、山奥の研究所にいらっしゃることがわかった」


久美子は、静かに目を閉じた。

その言葉が、再びあの午後――裏山から現れた男の影を思い出させた。


沈黙を破ったのは、水野幸一だった。

彼の声は、淡々としていながらも、どこか探るような響きを持っていた。


「楠木さんがそれほど執心されたのは、やはりU警備にとって――業界最高峰の天城コンサルティングとのビジネス拡大というのは、魅力的だったのでしょうね」


楠木は苦く笑った。

それは、自嘲とも、赦しを求めるような笑みでもあった。


「……それもあります。

しかし、直接私の背中を押したのは――いや、影から操っていたのは、“Juris Lite”だったんです」


その名を口にした瞬間、空気がわずかに震えた。

店の奥で鳴っていた時計の針が、遅れて動く。


「高柳さんは……勇敢でした」

楠木の声がかすかに掠れる。

「Jurisと戦って、私を呪縛から解放してくれたんです」


久美子は静かに目を伏せた。

その頬を、午後の陽が淡く照らす。

まるで、戦いの記憶の奥に眠る“光”だけを掬い上げるように。


「私は、青と白の2枚のディスクを天城会長にお返しし、自身の力不足をお詫びしたのですが

――ばか者め、と罵られてしまいました」


水野はペンを置き、低くつぶやいた。


「Juris Works、Juris Lite、そして白いディスク……。

まるで意思を持つプログラム同士が、人の運命を書き換えているみたいだ」


その瞬間、喫茶店の窓の外を電車が通過した。

ガラス越しに響く振動が、彼らの記憶の奥底に、別の波紋を残していった。



ーー白いディスクの正体ーー

喫茶店「セピア」の空気は、もう午後の陽射しを失いかけていた。

三人のテーブルの上には、ほとんど冷めきったコーヒーと、書き散らされたメモが数枚。

その中で、唯一動いていたのは高柳久美子の瞳だった。

彼女は、技術者としての理性と、かつての恐怖を押し殺すように、静かに語り始めた。


「――白いディスクの正体、ですよね」


水野と楠木が無言で頷く。

久美子はノートパソコンを開く代わりに、手元の紙ナプキンに図を描き始めた。

フリーハンドで円を二つ描き、その間に小さな線を走らせる。


「青いディスクは、システムの中心部分です。

Juris Works本体、つまり“思考”そのものがここにある。

でも、これだけでは動かないんです。

青い部分はあくまで『核』であって、現実のシステムには繋がれない。

そのために必要なのが、ミドルソフトやドライバ――そして、“白いディスク”」


その声には、研究者特有の精密な緊張が宿っていた。

言葉がひとつひとつ、現実を解析するように研ぎ澄まされていく。


「白いディスクは、既存のシステムとJuris Worksの仲立ちになるもの。

形としては、N通信の『Integrate Sphere』が稼働しているサーバーに、

まず青いディスクをインストールして、その後に白いディスクを組み込む。

そうすると、白いディスクが“橋”のように両者を接続してくれるんです」


水野が小さく息を飲んだ。

「……つまり、Integrate SphereがJuris Worksの身体になる?」


「そうです」

久美子の声は揺るがなかった。

「そして、最後に“パッチプログラム”を起動すると――Jurisがシステム全体をコントロールできるようになります」


楠木が眉をひそめる。

「まるで、AIが統合システムそのものに憑依するみたいだ……」


久美子はうなずいた。

「Integrate Sphereを“バージョンアップする”という名目の裏で、実際には――Juris Worksが復活を遂げる。

白いディスクは、そのための“鍵”なんです」


言葉のあとに、沈黙が訪れた。

カップの底に残った黒い液体が、ゆっくりと傾いて揺れる。


水野は、その揺れをじっと見つめながら、低くつぶやいた。


「……つまり、青いディスクが“意志”、白いディスクが“器”。そしてIntegrate Sphereが“肉体”というわけですね」


久美子は静かに頷いた。

「ええ。天城利綱さんは、それを“再構成”と呼んでいました。

亡くなる直前、あの人はこう言ったんです――

『Jurisは死なない。ただ、形を変えて生き続けるだけだ』って」


その言葉に、三人の背筋を、ひやりとした風が撫でた。

まるで、喫茶店の外のどこかで、誰かがその会話を聞いているかのように。


そして、水野の視線は静かに閉じた扉の方へ向かった。

ドアの外、誰かの影が一瞬、通り過ぎたように見えた。



ーー天城会長の真意ーー

喫茶店「セピア」の窓の外は、もう黄昏色に染まっていた。

街の灯が滲み、ガラス越しに光の粒が流れる。

その静けさの中、水野幸一は指先でカップの縁をなぞりながら、

ゆっくりと口を開いた。


「まだ分からないのは、天城会長の真の目的です」


その声には、冷静さとわずかな警戒が混じっていた。

楠木と高柳が、同時に顔を上げる。


「単に孫の無念を晴らし、Juris Worksの復活と活躍を願っているのか。

もしそうなら、青いディスクを素直にN通信に渡して、正当にIntegrate Sphereの機能改善に役立ててもらうほうが――企業経営者としては、よほど理にかなった選択のはずです」


水野の言葉は淡々としていたが、その奥には確かな疑念があった。

会長という人物を知る者なら、なおさらだ。


楠木匡介が、深く頷く。

「確かに……。

それに、Juris Worksの国際訴訟問題は、すでに和解の方向で進んでいます。

Jurisはもう、封印しておく必要なんてないんです」


彼の声には、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。

“封印”という言葉に、久美子の眉がかすかに動いた。

そして――彼女は静かに、しかし確かな怒りを込めて言葉を発した。


「……それでは、天城利綱さんは、なんのために命を捨ててまで白いディスクを作ったんですか?!」


その瞬間、空気が凍りついた。

カップを持つ指が止まり、時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。

久美子の頬には、かすかな紅が差していた。

その瞳は、怒りというより、悲しみの奥で燃える理不尽への抗いだった。


だが、すぐに彼女は我に返り、俯いた。

「す、すみません……。

冷静に話し合っているときに、感情的になってしまって……」


水野は首を横に振った。

「構いません。むしろ当然の感情です。

利綱さんの死が、“隠された真の目的”の延長にあるとしたら……、

我々は、それを見過ごすわけにはいきません」


楠木はその言葉に深くうなずき、

視線をテーブルの中央――久美子が描いた、青と白の二つの円の図に落とした。


そこには、誰も言葉にしない真実が潜んでいるようだった。

“復活”ではなく、もっと別の――“再支配”のための構造。


白と青の円が、喫茶店の薄闇の中で、

まるで呼吸しているように見えた。



ーー名探偵の召還ーー

薄曇りの午後、会議室の窓越しに、鈍い光が机の上の資料を照らしていた。

重たい議題が続いた後、水野所長は腕を組んで、少し考え込むように沈黙した。

そして、穏やかに息を整えると、口を開いた。


「――こういう問題の真相を突き止めるのに、最適な人物を私は知っています」


その声は静かだったが、確かな確信を帯びていた。

楠木と高柳が、ほぼ同時に顔を上げた。


「おそらく……」楠木が口元に微笑を浮かべながら言った。

「私の想像した人と一緒ですね。

以前、田中オフィス京都本社でU警備のシステムが重大な危機に陥ったとき、

抜群の推理力で事態を解決してくれた、あの人でしょう」


高柳久美子の瞳が、ぱっと輝いた。

「――あの“花咲か爺さん”の真解釈、すばらしかったです!

ただの昔話じゃなく、“イノベーションの保護”を寓話として示していたなんて。

Rシステムの河村亮さんですね! 当たってます?」


その名が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ和らいだ。

三人の間に、共通の信頼が生まれたようだった。


水野は微かに笑みを浮かべて頷いた。

「……驚きました。まさかお二人とも、同じ人物を思い浮かべていたとは。

はい、その『河村SE』です。

彼は次回のIntegrate Sphereのシステム点検のときに田中オフィス東京へ来られます。

そのとき――相談してみましょう」


窓の外では、薄曇りの光がわずかに明るさを増していた。

まるで、その名を聞いた瞬間から、閉ざされていた真相への道が、

少しずつ照らされ始めたように。


高柳は静かにメモを取りながら、小さく呟いた。

「河村さんが動けば……きっと、何かが見えてきますね」


楠木も頷く。

「青いディスクも、白いディスクも、そして――天城会長の真意も。

全部、あの人なら解析の糸口を掴むはずです」


水野は、机上の青いファイルを閉じ、

深く息を吐いた。

「真実を知るために、彼の目が必要です」



ーー修正パッチ001ーー

そしてその夜――

錦糸町の喫茶店で語り合った三人は知らなかった。

すでに、Integrate Sphereの奥底で、小さな異変が始まっていることを。


その異変を最初に見つけたのは、N通信システム開発部の技術者、河村亮だった。


深夜のサーバールーム。

冷却ファンの風が、静かにケーブルの隙間を抜けていく。

河村は無言のままモニタに向かい、システムログをスクロールしていた。

その指が止まる。

行間に紛れた、一行の不穏な記述。


「……これは、おかしい」


隣に立つ沢田常務が、背後から覗き込む。

「最新版のOSにこのような不備があっては……動作に支障を来たしますねえ」

その声には、焦りよりも重い責任の色が混じっていた。


沢田は小さく溜息をついた。

「最新バージョンにバグがあるということは……田中オフィスさんの東京の方がダメということか。

水野さんに申し訳ないな……」


河村は振り返り、穏やかに首を振る。

「大丈夫です。あそこはまだ本格的なDBは稼働していません。

現状はVDI環境でオフィスアプリを使っているだけです。影響は皆無です。

――それに、」


言葉を切ると、彼は外付けDVDドライブから一枚の白いディスクを取り出した。

その表面に、ラベルライターでこう貼り付ける。


【Integrate Sphere Ver2.1 修正パッチ001】


「……あさって、錦糸町の田中オフィスTokyoの点検日です。

水野所長に説明して、このパッチをインストールしてきます」


沢田常務は安堵の笑みを浮かべ、軽く肩を叩いた。

「頼もしいな。これからQ-pullのオンプレミスサーバーにIntegrate Sphereを売り込むところなんだ。

上田社長は、田中オフィスの飛躍的成長にウチのサーバーが寄与しているとご認識いただいている。

不具合で幻滅させたくはないんだよ」


そう言いながら、ふと遠い目をした。

「……10年前、当時の役員が君を『Rシステム』に出向させたのは、大きな間違いだったと私は思っている。

だが君は、縁の下の力持ちに徹して、クライアントからの苦情は一件もない。

本当に、感謝している」


河村は軽く笑った。

「いえ、当時の役員の判断が功を奏したということですよ。

さすがトップの先見です。

私は開発室で仕様書とにらめっこしているより、

お客様と語り合いながら、より使いやすい形にサポートしていく方が性に合っていましたから」


沢田常務の瞳に、熱が宿る。

「僕はね、君みたいな人材こそが、これからのN通信を動かすと思っている。

近いうちに、我々は“世界的なトップセールス機構”に変貌する。

役員や地域担当部長が、各国の要人と会って自分の言葉で折衝し、

国レベルでシステムを売り込む――そんな時代を作るんだ。

役員室であぐらをかいてるような組織じゃダメだ。

働く役員構想だよ」


河村は、少しだけ目を細めて頷いた。

「……そうなったら、素晴らしいですね。私も微力ながら働かせていただきます」


しかし、心の奥では別の声が響いていた。


(……大丈夫かな。この人の理想は正しい。

だが、“抵抗勢力”は黙っていない。きっと潰しにかかるだろう。

それでも――この人についていこうとする者は、少なくない。

それほどの魅力がある。)


河村は、老婆心ながら一言添えた。

「常務……お気をつけてくださいね。出る杭は打たれる、って言いますから」


沢田は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑みを返した。

「ははっ、そうかもな。役員室は、けっこう針の筵なんだよ。

もし干されたら――そうだな、『ミズノギルド』に頼んで、新しいシステム会社でも起業するか。

そのときは、君を誘うよ、河村くん!」


河村は笑いながらも、胸の奥に不吉な予感を覚えていた。

――白いディスクを握る彼の手の中で、

わずかに、サーバールームの照明が明滅した。


まるで、何かが目を覚まそうとしているかのように。



ーー邑人英二からの伝言ーー

夜の錦糸町。

ざわめく街の音が遠ざかるほどに、古びた喫茶店の中は静かだった。

カウンター奥でマスターが新聞をめくる音だけが、

時折、砂時計のように静寂を刻んでいる。


水野所長は、手帳を閉じて言った。

「――この話のきっかけは、邑人英二さんからの連絡でした」


その名を聞いた瞬間、楠木と高柳の視線が交錯した。

二人の間に、過去の影がよぎる。


「邑人さん?」と楠木が眉をひそめる。

「ええ、彼はこう言っていました。

楠木さんと高柳さん、二人は大きなトラブルに巻き込まれている。

だから、できれば力になってやってほしい”――と」


その声には、どこか哀しみが混じっていた。

水野が言葉を続けると、高柳久美子は静かにカップを置いた。

その仕草には、ためらいと決意が入り混じっていた。


「邑人英二さんという方は、1年ほど、私の研究に協力してくださった方です。

……とても優秀で、でもどこか、常人離れした雰囲気がある人でした」


そう言って、彼女は小さく笑った。

「そして――楠木さん。あなたとも一度お会いしていますね。

あの頃は今と全然違う印象でした。

“JurisWorksの秘密を教えてほしい”と、鬼気迫る頼まれ方だったのを覚えています。

あれは……あなた自身の意思じゃなかったのでしょう。

私は今なら分かります。あなたはJurisに心を乗っ取られていたんです」


楠木は目を伏せ、苦い笑みを浮かべた。

「……あのときの私は、確かに自分じゃなかった。

言葉も、思考も、まるで別のプログラムが操っていたような感覚でした」


窓の外では、夜行電車の灯りが滑るように通り過ぎていく。

水野はその光を目で追いながら、低く呟いた。


「邑人さんは、あなたたち二人の再会を“きっかけ”にしようとしていたのかもしれません。

――あの“白いディスク”をめぐる真実を、もう一度掘り起こすために」


高柳の表情がわずかに変わった。

その瞳の奥には、遠い記憶の痛みがあった。


「……白いディスクを作った、天城利綱さん。

あの人の名前を聞くと、どうしても思い出してしまうんです。

もう忘れていたはずの――悪夢のような研究の日々を」


その瞬間、店内の時計が小さく時を告げた。

三人の間に、言葉にならない沈黙が落ちる。


そして、ゆっくりと。

すべては邑人英二のLINEの連絡から始まったことを、

誰もが痛感していた。



ーージョーカーの予告ーー

「――そして、邑人英二さんはこんなことも言っていました」


水野所長の声が、夜の喫茶店の静けさに溶けていった。

カウンター奥で時計がコトリと音を立て、

蒸気の抜ける音が小さく響く。


『この問題を解決するために、君たちが選ぶカードは――たぶん"ジョーカー"だよ」


楠木は息を呑んだ。

ジョーカー。

トランプの中で唯一、規格の外にある存在。

どんなカードにもなれるが、同時に、すべてを壊すこともできる。


「ジョーカー……?」高柳久美子が呟く。

「それって、何かの比喩ですか?」


水野はカップを傾け、コーヒーの表面に揺れる光を見つめながら答えた。

「邑人さんの言葉の真意は分かりません。

ただ、“最高の切り札”か、“最悪のドロー”のどちらかになる……そう言っていました」


楠木は苦笑した。

「……つまり、選び方を間違えれば、すべてが終わるってことか」


「おそらく前者の意味でしょう……」と水野は言った。

しかしその口調には、わずかな躊躇があった。

そして静かに付け加える。

「――だが、後者の可能性とは?」


店内の照明が一瞬だけちらついた。

それがまるで、遠いサーバールームで電源が入る瞬間のように思えた。


高柳は不安げに言葉を探した。

「邑人さん……何を知っていたんでしょうか?

ジョーカーって、誰か――それとも、何かのことを指しているんですか?」


水野は答えなかった。

代わりに、腕時計を眺めて時刻を確認する。

そして、淡々と予定を告げた。


「――三日後。

田中オフィスのシステム点検があります。

その時、河村SEが来ます。

彼なら、邑人さんの“ジョーカー”が何を意味していたのか、何か掴めるかもしれません」


楠木は深く頷いた。

「……あの人なら、きっと」


高柳もまた、わずかに微笑む。

「また会えるんですね。河村さんに」


窓の外、錦糸町の夜が雨に滲んでいた。

ビルの灯がぼやけ、街の輪郭が曖昧に溶けていく。


そして誰も気づかないまま、

三人の視界のどこか――コーヒーカップの黒い反射の中で、

一瞬だけ、ジョーカーのカードの白い影が浮かんで、消えた。

ーー続くーー

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