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田中オフィス  作者: 和子
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第七十八話、「花咲か爺さん」二説

ーー猫田の知財童話:花咲か爺さん篇ーー

猫田洋子は、机の上に広げた資料を軽く叩きながら言った。


「ねぇ、水野所長。今日は昔話を使って“知財とイノベーション”を語ってみようと思うの。題して――『花咲か爺さん』知財法務篇」


水野は苦笑しながらも、腕を組んで聞く姿勢をとった。

猫田は、どこか芝居がかった口調で語り出した。


「犬の名前はポチとかシロとか言われるけど、まあ、みんなにお馴染みのポチにしておくわね」


猫田は湯飲みを片手に、まるで法廷で証拠を示すような口調で話し始めた。

「昔あるところに、人のいい正直なお爺さんがいました。そのおじいさんは、ポチをまるで自分の子どものように可愛がっていたのよ」

その語り口は、どこか法廷の弁論にも似ていて、聞く者を否応なく引き込んでいった。


「むかしむかし、室町の頃。

山のふもとの小さな村に、正直で心優しいおじいさんが住んでおった。

相棒は、白い犬の「ポチ」。


ポチは不思議な犬で、ある日おじいさんを畑の一角に誘った。

「ここ掘れワンワン」と鳴くので、掘ってみると――

なんと、大判小判がザックザク。


村人たちは驚き、正直じいさんはその財を惜しまず、

村の橋や道を直し、皆に米を分け与えた。

村人は犬が飼い主に幸せをもたらした「犬の長者」と誉めそやした。


ところが、それを聞きつけた隣の意地悪爺さんが、

(わし)にも掘らせろ!」とポチを奪い取り、同じように探させると――

「ここ掘れワンワン」掘ってみると――

出てきたのは、くさったガラクタばかり。


怒った意地悪爺さんは、なんとポチを殺してしまう。

その知らせを聞いた正直じいさんは涙を流し、

ポチを大切に埋めて、その上に木を植えた。


するとその夜――。

ポチの眠る場所から一本の木が、天を衝くように育ち、

朝には巨木となっていた。


「ポチ、お前の魂が木になったのか…」

おじいさんは涙をぬぐい、その木でうすを作った。

そして、その臼で餅をつくと、

杵の音に合わせて金銀がざくざくと湧き出した。


村人たちは「臼の長者」と褒め称える。

だがまたしても、意地悪爺さんが奪っていく。

「おい、(わし)にも臼を貸せ!」――奪った臼で餅をつくと、

臼から出てきたのは、金でも餅でもなく、汚物ばかり。

怒り狂った意地悪じいさんは臼を焼いてしまった。


それを知った正直じいさんは、灰を拾い、

風に乗せて撒いた。

すると――

散った灰が枯れ木に舞い落ち、花を咲かせた。


お城の殿様にそれが伝わり、あっぱれとお褒めになり、正直爺さんは家臣に取り立てられた。村人は「花咲かせの長者」と呼んで称えた。そして時が過ぎ、いつしか正直爺さんが、「花咲か爺さん」と呼ばれるようになったのは、これがはじまりである。


猫田は、ここでふと話を止め、紅茶をひと口すする。

「この話ね、水野所長。実は“知的財産の構造”を見事に象徴しているの」


水野は興味深げにうなずく。

「……どういう意味です?」


猫田は、指先で空中に図を描くように言葉をつなぐ。


「まず、ポチが発見した“お宝”――あれは“発明のシーズ(種)”なの。

正直じいさんは、それを善意と誠実で活かした。つまり“社会実装型イノベーション”を成し遂げたのよ。


だけど、意地悪じいさんは“模倣”しかできなかった。

結果としてリスクを理解せず、再現性を欠いた。これは“特許侵害の失敗例”ね。


ポチを殺し、臼を焼いた行為は、技術を破壊するような“ノウハウ漏洩”の象徴。

でも結果として残った灰――つまり『失われた技術の記録』が形を変えて受け継がれ、新しい価値を生んだ。

花が咲いたのは、技術継承とリノベーションの成果ってわけ」


水野は思わず笑みをこぼした。

「なるほど。正直じいさんはオープンイノベーションの先駆けかもしれませんね」


猫田は頷く。

「そう。そして本当の知財とは、所有することより“育てて、咲かせる”ことなのよ。

誰かの模倣で終わらせず、次の時代に花を咲かせる。――それが知財法務の本質」


その言葉に、オフィスの空気が静かに染み渡った。

窓の外では、街路樹の落ち葉が秋風に散っている。

灰のように舞う落ち葉を見つめながら、水野は小さくつぶやいた。


「……ポチの灰、今でもどこかで花を咲かせているかもしれませんね」


猫田は微笑んで言った。

「そうね。正直さと創造力があれば、時代が変わっても、必ず花は咲くのよ」



ーー河村SEの異説ーー

オフィスの空気が、ほんの一瞬、静止した。


猫田洋子が語り終えた「知財童話・花咲か爺さん」は、まるで大学の講堂で行われた講義のように、深く、響く余韻を残していた。

誰もが言葉を挟めず、机の上のコーヒーさえ冷めていた。


その沈黙を破ったのは、意外にも――河村SEだった。

彼は腕を組み、正面のホワイトボードをじっと見つめたまま、ぽつりと呟く。


「……果たして、それがこの物語の“真実”でしょうか?」


猫田が、ぴくりと眉を動かす。

「――ふーん。じゃあ、あんたはどう思うわけ?」

声には(とげ)がなく、むしろ挑発するような柔らかさがあった。


だが、部屋の空気は確かに変わった。

暖かかった灯が、少し冷たい青色に変わるように。

コピー機の低い駆動音が、遠くから響いて聞こえる。


河村は、ゆっくりと視線を猫田に戻す。

眼鏡の奥の瞳が、いつもより深く光っていた。


「――では、私の解釈した“花咲か爺さん”をお話ししましょう。」


その声には、技術者らしい静かな確信があった。

知識の断片が、精密な歯車のように回転を始める音が、周囲に満ちていく。


猫田は軽く顎を引き、興味半分、警戒半分の表情を浮かべた。

「いいわ、聞かせて。どんなふうに“咲かせる”のかしら?」


蛍光灯の白い光が、河村のレンズに一瞬だけ反射し、

その光が消えた瞬間、まるで違った物語の幕が開いた――全てを闇に包むような――。



ーー真・花咲か爺さんーー

室内の空気が、ぴんと張りつめた。

さっきまで冗談混じりに笑っていた猫田も、

その時ばかりは、言葉を失っていた。


河村SEの声は、低く、静かだった。

まるで録音スタジオで語られるナレーションのように、

余計な感情をそぎ落とした“冷たい理性”だけが響いていた。


「花咲か爺さんの顛末(てんまつ)は――表向き、みなさんがご存知の通りです。」

彼は、ホワイトボードにマーカーを走らせ、言葉を残していく。

ポチ、臼、灰、花。

四つの単語を、数式のように並べた。


「けれど、私は思うんです。あの話の本質は、“復讐劇”だと。」


猫田のまつげがかすかに動いた。

彼の目の奥に宿る光――それは、技術者が狂気のひらめきを掴んだ瞬間の輝きだった。


彼の目が細くなる。

「昔、ある農学研究者が、当時としては驚くべき”植物の成長促進剤”を発明、若しくは発見した。

つまり――“あの時代にはあり得ない技術”が、そこに存在した。

猫田弁理士の言う“イノベーション”ではなく、“オーバーテクノロジー”です。」


猫田は、知らず身を乗り出していた。

まるで特許審査の極秘会議を覗き見しているような感覚。


「その技術によって、農産物を増産させ、それを売って爺さんは大金を得た、というのが真相です。


隠しておいたが、どうもあの人は不思議な粉を畑にまいている。その噂を確かめるため、

悪爺さんは正直爺さんを詰問する。『儂にもその秘薬を分けてもらえぬか?』


だが、悪い爺さんにその真相を知られるわけにはいかない。

だから言ってしまったんです

――“これはポチが掘れと言って吠えるので、その場所を掘ったら出てきたんだ”と。

そしてその(うそ)が、すべてを変えてしまう悲劇の始まりとなったのです」

「ならば、ポチを儂に少し貸してくれ」と言って無理やりポチを引きずっていきます。


河村は立ち上がり、机の上の紙コップを指で弾いて転がした。


「宝の発掘は裏切られ、逆上した悪爺さんによって犬は殺される。

しかし彼にとってポチは、ただの犬じゃない。

家族だった。心の支えだった。

その存在を奪われた時点で、彼の“正直さ”は死んだんです。

――ポチを殺された正直爺さん。

それこそが引き金だった。正直爺さんは、もう戻れない領域に足を踏み入れた。」


淡々と続ける河村の言葉は、聞く人の背筋を寒くしていく。


「復讐の種は、まずポチの亡骸を埋葬するところから始まります。

ポチの墓に木を植え、成長促進剤を撒く。

一夜にして巨木となり、その木で臼を作る。

“科学”が、すでにこの物語に入り込んでいるんですよ。」


彼の口調が、次第に熱を帯びる。


「不思議な臼で餅をついたら金銀が湧く――

それは密室の実験の“成果発表”だ。やがてそれは、村人の口の端にのぼる。

それを耳にした悪い爺さんが臼を奪っていく、しかし、臼は反応しない。

あいつにできて、なぜ儂にはできない。悪い爺さんのコンプレックスは黒い衝動に変わる。


臼を燃やす――それも想定内。

燃やされた灰こそ、第二の(わな)

借りたものを灰にして返すなんて、なんと非道な。悪い爺さんは村人の反感を買い続ける。


正直爺さんは地に這い、懸命に臼の灰を集める。

「大切なポチの片身……塵ひとつ残さず引き取ってまいります」

悪爺さんは悪態をつく

「当たり前だ!綺麗にしていけよ」


悪爺さんは村人から受ける嫌悪感にあまりに鈍感であった。


“花を咲かせる灰”は、最初から正直爺さんの手元にあった。

植物の成長を促進し、作物を増やす。既に農作物では効果を確認しており、

物語当初より正直爺さんにビジネスの成果をもたらしていた。

当然、枯れ木の開花という現象も確認できた」



ーー復讐の開花ーー

「正直爺さんの復習は最終段階に入ります。

自国の国主の前で行うエキジビジョンでした

まあ、実際はお殿様の家臣に事前に件の成長促進剤に効果の説明と実証はみせており、

あとは殿様のご裁可を得るための御前実演だったのでしょう。」


河村はホワイトボードに「石高」という文字を書き、

マーカーのキャップを締めてボードの縁に置いた。


「この時代、国の力は、米の生産力=石高でした。

そして、実際に枯れ木に花を咲かせる奇跡を見たお殿様は――あっぱれの言葉と褒美の品を下賜する。


経済的価値を見抜いていた側近が殿に近づき、そっと耳打ちする。

『この灰によって一気に米の収穫量が増える。それは国家規模の技術革新にて候』


お殿様が狂喜してもおかしくない。

『これで我が国も百万石じゃ!』

そして正直爺さんは、富と地位の両方を手にした。」


河村は、少し間を置いて、最後の言葉を静かに吐き出した。


「……そして、その噂を聞いて、悪爺さんは、臼を燃やしたあたりの土を爪でかきむしって笊に集める。

だが、それはただの土と灰。

殿様の籠を無理に止める。小脇に笊を抱え、片手には「上」の書状

『私めも殿の御前にて、見事な花を咲かせて進ぜよう!』高らかに宣言し、枯れ木の枝にむけて滅茶苦茶に土灰をぶつけていく。


しかし、花は咲かず、風に舞った灰が殿様の目に入り――

悪い爺さんは怒り狂った近習衆に有無を言わさず捕らえられる。

誰も、その灰は悪爺さんが作ったものではないと、弁護や救いの手を差し出す村人はいない

悪爺さんの、自分は無実だとの訴えは聞き入れられず、処刑される。

――ポチの仇は取られた。」


沈黙。

誰も動かない。

蛍光灯の音だけが、遠くでチリチリと鳴っていた。


猫田が、ゆっくりと口を開く。

「……あんた、それ、知財の話じゃなくて、『時代劇の敵討ち』じゃないの?」


河村は笑わなかった。

ただ、目を伏せてひとこと。


「どんな技術も、使う人の心ひとつですから。」


その言葉が落ちた瞬間、

部屋の空気は、まるで誰かの墓の上に手向けられた花のように――静かで、美しく、そして冷たかった。


ーー講評ーー

河村SEの語りが終わったあと、

部屋の空気は一瞬、底の見えない井戸のように静まり返っていた。


彼の顔に浮かぶ薄い笑みは、どこか無機質で――

その無表情の奥に、論理の冷たさと人間的な熱が奇妙に共存していた。


だが、次の瞬間にはもう、いつもの調子に戻っていた。


「いやぁ、ちょっと不気味な話になっちゃいましたね」

と、河村は自嘲気味に頭をかいた。

「でも、ずっと納得いかなかったんですよ。あまりに理不尽な事の連続で――そこで

“お人よしの正直爺さん”ではなく、“ポチの仇討ち”という仮説を立ててストーリーを追ってみると、ほら、物語の不自然さがなくなるんです。正直爺さんというマスキングをしていたんですね」


“正直爺さんマスキング”という、どこかプログラミング的な言葉に、

猫田が思わず吹き出しかけた。

その横で高柳久美子は、目を丸くしながらも小さく笑う。


楠木や、水野のほうを振り返り顔を見合わせる。

「でも、面白いですよね!」

と、頬をほんのり染めながら言った。

「私、子どものころからずっと気になってたんです。

『ああ、おじいさん、ポチが殺されちゃう!』とか、『臼を渡しちゃダメー!』って、

何度も心の中で叫んでました。

でも、今のお話を聞いたら……なんだか、安心しました。

あの正直じいさんにも、ちゃんと“意志”があったんだって思えるから」


その言葉に、河村は穏やかにうなずいた。


「ええ。童話って、不思議ですよね。

優しさの裏に、ちゃんと“人間の計算”がある。

それを知ると、少し怖くて、でも…少し救われる」


窓の外では、夜風に乗って木の葉がひとひら舞い落ちる。

その音が、小さな拍手のように聞こえた。


猫田はその静けさの中で、

湯呑をそっと置きながら言った。


「――まあ、次の童話の考察は、“浦島太郎”にしましょうか。

行動経済学でも説明できない、最大の損失リスクの話よ。」


それを聞いた河村の目が、一瞬だけまた光った。

楠木は(こりゃ、まだ長くなりそうだな)苦笑いした。



ーー応接室に昔話がまた一つーー

すっかり夜も更け、窓の外には雨の名残りが街灯をぼんやりと反射している。

猫田洋子は腕を組み、少し遠くを見るような目つきで言った。


「――さて、次は“浦島太郎”ね」


少女時代に気持ちが戻ってしまった高柳久美子が、すっかり猫田の語りに引き込まれている。

「浦島太郎……あの、助けた亀に連れられて竜宮城に行くお話ですよね」


猫田はうなずく。

「そう。でも私が気になるのは、彼が“竜宮城に行った”ことより、“帰ってきた”ことのほうなのよ。」


河村SEが興味深そうにメモ帳を開く。

「帰ってきたこと、ですか?」


「そう。あれは単なる時間のズレじゃない。知財的に言えば、“技術持ち出し”の失敗なの。」

猫田は、まるで特許申請の審議会にいるかのような口調で続ける。


「浦島は、漁村という“旧来の経済圏”から、竜宮城という“異文化・高度技術圏”にアクセスした。

そして竜宮城で見聞きした技術、たとえば乙姫様の若さと美貌を保つ“永続的若返り”とか、海中にいても魚たちと生活できる“環境適応型空間”みたいな概念を、

自分の世界に持ち帰ろうとした――つまり、“知財の越境”を試みたわけよ。」


「でも――」と、高柳が少し身を乗り出す。

「玉手箱を開けて、浦島は年を取ってしまうんですよね。」


「そう、それが“秘密保持契約違反(NDA違反)”なのよ。」

猫田は指先でテーブルを軽く叩く。

「乙姫は“これは絶対に開けてはいけません”って言った。

あれはつまり、“契約条項”だったの。

浦島はそれを破って、持ち出しデータ――つまり、玉手箱――を開封した。

結果、自己情報が上書きされ、帰属権を失ったのよ。」


一瞬、場がしんとする。

楠木が腕を組みながら小さく笑った。

「なるほど……乙姫は、技術移転管理官みたいな立場ってわけですね」


「そうね。もしかしたら、乙姫自身が“特許庁”の象徴かもしれないわ」

猫田は湯呑を持ち上げながら、いたずらっぽく目を細めた。


「竜宮城は閉鎖された研究都市。

浦島は、その一時的な外部招待者。

でも、外部者が持ち帰る情報には、常に“リスク”が伴う。

彼は無邪気にそれを破って、全てを失った。

――これが、古来から続く“情報統制の寓話”なのよ」


「なるほど……」と河村SEが頷く。

「つまり“浦島太郎”は、知的財産の管理不備による情報漏洩事件だったわけですね」


「ええ。だけどもうひとつ、私が好きな解釈があるの。」

猫田は、少し声を落とした。


「もし玉手箱の中身が、彼の“時間”そのものだったとしたら――

浦島は竜宮で得た全ての経験を、現実世界に“同期”させた。

だからこそ、一気に老いたのよ。

つまり、玉手箱は“記録媒体”だったの。」


静かな室内に、コトリと湯呑を置く音。

猫田は微笑みながら、最後にこう結んだ。


「――知財も、技術も、情報も、結局“持ち帰る”瞬間に最も危険なの。

それをどう管理するかが、人も国も、生き残れるかどうかの分かれ道になるのよ」


高柳は感嘆の息を漏らし、沢田常務も感心して呟いた。

「……もはや童話っていうより、完全に“国際知財制度”の話ですね」


猫田は肩をすくめて笑う。

「昔話なんて、全部そうよ。

――最初に法を破ったのは、いつだって人間なんだから」


その言葉に、会議室の空気が再び落ち着く。

遠くの窓の外で、雨の雫が一粒、街灯にきらりと光った。

それはまるで、竜宮の泡のように儚く消えていった。



ーーアバスの帰還ーー

会議室の扉が、静かに開いた。

「すみません、今日は遅くなりました」

アバス・シャルマが、少し息を弾ませながら立っていた。

制服の襟には小さな雨粒が残っている。夕方の冷たい風を背負って入ってきた彼の姿に、

部屋の空気がほんの少し、柔らかく揺れた。


「おや、今日は珍しいお客様ですね」

アバスは丁寧に頭を下げながら、机を囲む面々を見渡し、会釈をした

沢田常務、河村SE、楠木、高柳、

そしていつもの猫田洋子――。

壁時計の針は五時を指し、外はすでに黄昏の闇に沈みかけている。


そのときだった。

猫田洋子の顔が、まるで別人のように輝いた。

さっきまで「知財法の浦島太郎」を語っていた冷ややかな眼差しは消え、

今や太陽そのもののような笑顔が、会議室を照らした。


「お疲れ様、アバス!」

椅子からすっと立ち上がり、彼に歩み寄ろうとしたその瞬間――。


「はい、ストップ!」

鋭くも明るい声が、室内に弾んだ。

声の主は肥後香津沙。黒のパンツスーツに金のブローチ、

書類の束を小脇に抱えた姿はまるでテレビ局のスタジオに立つプロデューサーのようだ。


彼女は一歩進み出て、アバスの前に台本を差し出した。

「アバスくん、ドラマデビューよ。」


「……えっ?」

アバスは目を瞬かせる。受け取った台本には、

《NHK特集ドラマ・“遥かなる言葉の海”》と記されていた。


「学校と併行して大変だけど、チャレンジしてみる気はある?」

肥後の瞳は真剣で、しかしどこか楽しそうだった。


猫田がそっと口元を押さえて笑う。

「ふふっ、アバス、チャンスが来たわね。

――現実の“竜宮城”は、こっちのほうかもよ。」


会議室の外では、すでに夜の帳が降り始めていた。

窓越しの街の灯が、雨上がりの路面に滲む。


アバスはしばらく黙って台本を見つめ、やがて顔を上げた。

その瞳には、わずかな不安と、それ以上の決意が宿っている。


「……やってみます。」


その言葉に、猫田も肥後も同時に微笑んだ。

まるで、次の物語の幕が、静かに開いた瞬間のように――。


猫田洋子は、アバスが台本を抱えて立つ姿を見つめていた。

――まぶしい。

その一言が心の奥からこぼれた。


ほんの数か月前まで、ドローンの部品を分解しては夢中になっていた少年が、

いまは照明の下で脚光を浴びようとしている。


肥後香津沙がそのきっかけを作り、周囲の大人たちが応援する。

それは嬉しいことのはずなのに、胸の奥で小さな痛みが走った。


(この子は、いずれ私の手の届かないところへ行ってしまうのかもしれない……)


そんな思いが一瞬、猫田の瞳を曇らせた。

だが、アバスはふと顔を上げ、まっすぐ彼女を見つめた。


「猫田先生に、ちゃんと認めてもらえるようにがんばります。」


その声はまだ少年の高さを残していたが、

そこにこもる真剣な響きは、ひとりの“男性”のそれでもあった。


猫田は思わず息を呑む。

(……あぁ、この子はもう、私が思っていたよりずっと大人なんだわ)


アバスの心には、静かな炎があった。

自分はいまはまだ子どもで、猫田洋子には遠く及ばない。

けれど、一つひとつの挑戦を積み重ねて、

いつか自分の力で彼女に追いつきたい――。

それが、彼の内に秘めた約束だった。


その空気を察していたのは、肥後香津沙だけではなかったが、

彼女はいつものように、からりと明るく笑って場を和ませた。


「洋子、心配いらないわよ」

彼女はそっと猫田の耳元に顔を寄せる。

「アバスくんはね、アナタしか見てないわ」


「ちょ、ちょっと……香津沙さん!」

猫田は思わず顔を赤らめ、慌てて目をそらした。


その頬の朱を見て、アバスが首をかしげる。

肥後はいたずらっぽく片目をつむり、

「ふふ、演技の練習にもなるかもね」とウインクした。


その瞬間、会議室の空気はふっとやわらいだ。

窓の外には夕暮れの残光が、やさしく街を包んでいる。


――この子の未来を、もう少し見届けたい……

そう思っていたはずなのに、いまは違う。


(――未来を、一緒に歩んで生きたい――)


その願いは、現実にはあまりに遠いようで、

それでもどこかで手を伸ばせば届くような気もしていた。


彼女はほんの少しだけ目を伏せ、

自分でも確かめるように息をついた。


――それは、可能なのだろうか。


窓の外、夕暮れの空にはまだ一筋の光が残っていた。

猫田の頬をかすめるその淡い光が、

まるで未来への小さな導きのように、

静かに彼女の横顔を照らしていた。


その想いが、いつの間にか、やさしい温もりに変わっていった。

猫田は照れ笑いを浮かべながら、アバスの顔を見上げた

「……だったら、先生として厳しく見させてもらうわよ。」


「はい、お願いします!」


アバスの笑顔は、春の風のようにまっすぐだった。

その笑顔を見つめながら、猫田の胸の奥に、ふと切ない光がともる。

猫田は事務所の窓辺に立って夕暮れの中を行き交う人々を見ていた。

ガラスに映る自分の姿が、どこか見知らぬ人のように見えた。


「香津沙お姉さま……」

ぽつりとこぼれた声は、ため息のように細く揺れる。

「わたし、お伽噺の登場人物になって、現実逃避しているのかしら……

これが夢で、目が覚めたらだれもいなくて……」


かつての猫田洋子なら、そんな弱音は絶対に見せなかった。

鬱陶(うっとう)しいほど香津沙にすり寄り、明るく茶化していた自分。

でも今は違う。窓際でたたずむ彼女の姿は、

まるで夕暮れの光に包まれた飼い猫のように、

静かで、どこか(はかな)げだった。


香津沙はそんな彼女をしばらく見つめ、

柔らかい声で言葉を紡いだ。


「アバスくんのこれからは、あなたにかかっているのよ。

芸能活動も、大学受験の勉強も、

両方をこなしていくには支えが必要。

彼を守って、未来を切り開いていく――

こんな大仕事、あなたがいなけりゃ誰も引き受けないわ。

猫田弁理士、頼りにしているわよ。」


その言葉は、まるで静かな夜に差し込む一条の灯のようだった。


少しの沈黙のあと、猫田はゆっくりと振り向いた。

その目には、涙ではなく、確かな光が宿っていた。


「……彼の未来を、しっかり支えていく責任。

それが――私がこの世界にいられる理由です。」


その声には迷いがなかった。

香津沙は微笑んで、

「そう、それでこそ私の“洋子”だわ」と静かに頷いた。


窓の外では、夜風が春の匂いを運んでいた。

遠くでアバスの笑い声が聞こえた気がして、

猫田はそっと目を閉じる。


――夢なら、覚めなくていい。

この現実の中で、彼と未来を歩んでいけるのなら。


その想いが胸の奥でひっそりと花開き、

部屋の灯が、静かに二人を包み込んだ。

ーー続くーー



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