第八話、田中オフィス VS. E不動産会社・後編
ーー揺れる羅針盤ーー
会議室の沈黙
田中オフィスの会議室は、まるで戦場の前触れのように静まり返っていた。木製テーブルの上には、コーヒーカップと開かれた書類が無造作に置かれている。田中社長が椅子にもたれながら腕を組み、ゆっくりとため息をついた。
「ほぉ…初めての退職希望者が半田くんとはなぁ…なんかキナ臭い話やなぁ…」
社長の関西弁混じりの言葉が、その場の空気をさらに重くした。
藤島専務が冷静な視線を保ちながら口を開いた。「単なるキャリアアップの話とは思えませんね。情報漏えいのリスクを考えても、慎重に対応しなければなりません。」
水野さんも眉をひそめながら続けた。「半田は優秀ですし、今の開発状況もかなり把握しています。彼の流出はソフトの競争力にも影響します…」
「つまり、うちのノウハウごと持っていかれる可能性があるっちゅうことやな。」田中社長が言葉を継いだ。
藤島専務は軽くうなずきながら、テーブル上の資料を指でトントンと叩いた。「橋本さんに調査をお願いしています。どうやらE不動産の永島部長が裏で動いているようです。」
その言葉に、一瞬室内の温度がさらに下がったかのようだった。三人はそれぞれの思惑で視線を交わし、次の一手を模索していた。
ーー方向性を模索ーー
田中社長は椅子の背もたれにさらに体を預け、天井を見上げた。「さて…どの道を取るのがええんやろなぁ。半田くんと直接話すんもひとつの手やし、永島部長と正面から向き合うんもありかもしれん。」
藤島専務がすぐに反応した。「退職の条件を厳しくすることで、こちらの主導権を握る可能性も考えられます。ただし、やり過ぎると社内の不満が高まりかねません。」
水野さんが首を振る。「それでは士気が落ちるだけです。半田くんの気持ちを引き留めるためには、何らかの説得力のある提案が必要です。」
ーー水野の作戦会議ーー
翌朝、田中オフィスの小会議室では水野が中心となり、急遽対策会議が開催された。藤島専務も参加し、既に事態の深刻さを把握している。
「まずは永島部長の動きについての調査報告を橋本さんにお願いしましょう。」水野は冷静に話を切り出した。「永島部長の要求や、裏に潜む意図を明確にする必要があります。」
藤島専務は資料をテーブルに広げながら言った。「そうね、それと並行して半田君に直接話をするのが重要。彼のキャリア志向を理解し、彼にとって魅力的な選択肢を用意しなくては。」
田中社長が腕を組み、唇を噛みながら微かにうなずいた。「ほぉ…ただ単に引き留めるだけやったら、逆効果っちゅうこともあるしな。やるならスマートにいこう。」
藤島専務が手元の資料に目を落としながら冷静に説明を始めた。「まず確認ですが、日本国憲法では職業選択の自由が保障されています。つまり、『退職後に競合他社に転職してはいけない』と一律に規定することはできません。」
田中社長はその言葉に反応し、椅子の背もたれに寄りかかりながら関西弁混じりの声で返した。「ほな、うちはエエように使われてポイされるだけなんか?」
藤島専務は眉をひそめつつも冷静さを崩さず続けた。「そうならないように、一定の制約を設けることは可能です。ただし、管理職や特定の技術者に対して、『競業避止義務に関する個別契約』を結ぶことは現実的ですが、一般的な従業員には強制できません。」
水野さんが頷きながら言葉を継いだ。「つまり、半田くんがE不動産関連の会社に転職するのを止める法的根拠はない、ということですね。」
会話はそのまま次の議題へと移り、藤島専務が重要なポイントを挙げた。「退職後の不正を監視するために、退職者のIDや情報アクセス管理についての規則も明確化する必要があります。」
田中社長はその案を聞きながら少し身を乗り出し、「ワシの考えやけど、半田くんのIDをしばらく残しとくっちゅうのはどうや?」と提案した。
水野さんはその案に即座に反論した。「社長、それは逆効果です。IDを残しておくと、むしろ第三者による不正アクセスのリスクが高まります。すぐに無効化し、アクセス権限を完全に遮断するべきです。」
藤島専務もその意見を支持し、「退職後に元社員がシステムを使える状態にあると、万が一何か問題が起きた際に責任の所在が曖昧になります」と補足した。
議論はさらに深化し、秘密保持誓約書の具体的な記載内容へと進んだ。藤島専務は重要なポイントを指摘した。「曖昧な表現ではなく、具体的に『どの情報が機密なのか』を特定して記載する必要があります。」
田中社長はその提案に納得しながら、「例えば、ソフトウェアの設計データや顧客リスト、社内で開発した独自の業務ノウハウ……そういうのを特定して書けばええんやな」と返した。
最後に、水野さんが退職予定者の情報アクセス管理について提案を出した。「退職を申し出た時点で、重要情報へのアクセスを段階的に制限し、持ち出しの監視を強化する必要があります。」
田中社長は全体の議論をまとめ上げた。「よし、方針は決まったな。あとは半田くん本人と話さなあかん。」
ーー会議室の対峙ーー
田中オフィスの会議室に、緊張した空気が漂っていた。木製のテーブルを囲む田中社長、水野さん、藤島専務の前には、意を決した表情の半田くんが座っている。彼が口を開いた瞬間、部屋全体が静まり返った。
「お時間をいただきありがとうございます。今日は正式に、退職の意向をお伝えしに来ました。」
水野さんは無言で手を軽く上げ、半田くんを椅子に促した。「まぁ座って。……で、どこに転職するんだ?」
「まだ公にはできませんが、ソフトウェア業界の企業です。より大きなプロジェクトに関われる環境で、自分のスキルをさらに伸ばしたいと考えています。」半田くんは、なるべく冷静を装って答えた。
田中社長が少し微笑みながら言葉を継いだ。「ほう、ええことやな。まぁ、この業界、転職は珍しいことやないし、キャリアアップを目指すのも分かる。せやけど、ウチに何か不満があったんか?」
「いえ、不満はありません。ただ、エンジニアとしての市場価値を上げるためには、より大規模な開発に携わることが必要だと考えています。」
藤島専務が静かに眼鏡を整えながら鋭く問いかけた。「ちなみに、その転職先、E不動産とは関係ありますか?」
その瞬間、半田くんの目が一瞬泳ぐのを誰もが見逃さなかった。彼は深いため息をつき、観念したように言った。「……どうして、そんなことを?」
ーー永島部長の影ーー
水野さんの視線が鋭さを増す。「橋本さんが調査したんだ。半田くんに声をかけたのは、永島部長だろ?」
その言葉に、半田くんの肩がわずかに落ちた。「……ええ、実は永島部長から声をかけられました。E不動産が出資するソフトウェア会社があって、そこで新しいプロジェクトが立ち上がるんです。給与もかなりいい条件でしたし……」
藤島専務は眉をひそめながら質問を続けた。「田中オフィスで開発したソフトウェアと何か関係が?」
「……正直、似たようなものを作るつもりなんじゃないかと。でも、それが僕の仕事になるかは分かりません。」
「つまり、永島部長の目的は、ウチのソフトをそのまま持ち出すことだね?」水野さんが冷静に指摘すると、半田くんは口をつぐんだ。
ーー圧力と提案ーー
水野さんは視線を鋭くしながらも、静かな口調で言葉を紡いだ。「半田くん、君のキャリアは君自身が決める事だ。それは否定しない。でも、ウチの情報を持ち出したり、利用したりするのは別の話になるよ。」
半田くんは慌てたように言い返した。「そ、それはもちろん……」
「この場で確認しとくけど、ウチの開発に関わるデータを個人的に持ち出してないな?」
「持ち出してません!」と半田くんは即答したが、その声には少し震えが混じっていた。
水野さんは一瞬間を置いてから言葉を続けた。「それならいいけど、念のために退職時にはデバイスのチェックをさせてもらう。」
「……わかりました。」半田くんは小さく頷いた。
藤島専務がさらに突っ込む。「ちなみに、E不動産のプロジェクト、もう契約しました?」
「……いいえ、まだです。でも内定はもらっています。」
田中社長が口角を上げながら提案を口にした。「そうか。ほな、一つ提案や。ウチにもう少し残って、E不動産がどんな動きをするか見極めへんか?」
半田くんは驚いた表情を見せた。「えっ?」
水野さんがゆっくりと語りかける。「つまり、E不動産に利用されるだけ利用されて、あとで切り捨てられる可能性もある。もし永島部長の狙いが"ウチへの報復"なら、君は道具にされるかもしれない。」
半田くんは黙り込んだ。視線を下に落とし、自らの選択を再考する。
ーー選択の前にーー
藤島専務が柔らかい口調で付け加えた。「最終的に決めるのはあなた。でも、焦って決める必要はないわ。」
田中社長も穏やかに締めくくった。「せや。ウチに残るか、それとも転職するか。よく考えて決めいや。」
半田くんの心には、再び葛藤の波が押し寄せていた。果たして、どちらが正しい道なのか――。
ーー緩んだ空気ーー
田中オフィスの会議室で続けられていた緊迫した議論は、半田くんの率直な言葉で少し空気が緩んだ。しかし、その場に漂う重圧感は消えていない。半田くんの眉間には悩みが浮かび、彼の視線がテーブルの一点に固定されている。
「正直、E不動産に行くことが、本当に自分のためになるのか、少し分からなくなってきました……」半田くんがポツリとつぶやくように言った。
水野さんが穏やかに問いかける。「どういうこと?」
「永島部長の話を聞いているうちに、だんだん『こっちの方がいい』と思うようになって……でも、振り返ると、自分の意思というより、押されて決めてしまった感じがします。」半田くんの声には戸惑いが混じっている。
藤島専務が静かにうなずきながら助言を口にする。「それなら、まだ決断するには早いんじゃない?」
半田くんは肩をすくめ、俯くようにして答えた。「でも、一度『行く』と言ってしまった手前、今さら撤回するのも……」
田中社長が椅子にもたれながら、その言葉に即座に反応する。「そんなもん、気にすることやない。自分のキャリアやで? 納得いかんまま流されるのが一番あかん。」
ーー本音を探るーー
水野さんが半田くんの視線を捉えながら問いかける。「そもそも、E不動産のどこに魅力を感じたんだ?」
「……給与面と、より大きなプロジェクトに関われる可能性です。でも、それも本当にそうなるのか、まだ分からなくて……」半田くんは自信を失ったように答える。
水野さんの言葉がより冷静さを増していく。「つまり、条件が良くなると言われただけで、具体的な保証はないってことだね?」
「……はい。」半田くんが力なく返す。
「逆に、うちでの半年間で成長した実感はある?」水野さんの視線は鋭いが、冷ややかさはない。
半田くんは少し顔を上げ、力強く答える。「もちろんです! 田中オフィスでは、単なるプログラミングだけじゃなく、ビジネスの視点も教えてもらいました。正直、ここで学んだことは、どこに行っても役立つと思います。」
水野さんは軽く頷きながら提案をする。「そう思うなら、今の環境でもう少し経験を積んでみるのはどう?」
「……でも、一度転職の話を受けてしまったのに、今さら断ってもいいんでしょうか?」半田くんの声には迷いと恐れが滲んでいた。
藤島専務が間髪入れずに応答する。「もちろんよ。最終的に決めるのはあなた。転職先に行って後悔するくらいなら、今ならまだ撤回できるわ。」
ーー揺れる信念ーー
田中社長が少し身を乗り出し、にじり寄るように言葉を続ける。「まぁ、迷うのも当然や。けど、よう考えいや。永島部長は『お前のために』転職を勧めたんか? それとも『自分の都合で』お前を引っ張ろうとしたんか?」
その問いかけは半田くんの心の深部を突き刺した。彼の目が揺れ、これまでの言葉以上に深い葛藤が浮かび上がる。
「……確かに、自分のキャリアを考えたら、ここでもっと経験を積むのも悪くないかもしれません。」半田くんは自らの胸の内を押し広げるように答える。
水野さんの言葉が優しく、しかし確固たるものとして続く。「焦る必要はないよ。もし本当にE不動産に行くなら、それは自分の意思で決めるべきだ。永島部長に言われたから、ではなくね。」
「……もう一度、考えてみます。」半田くんは静かに、けれども重みのある決意を持って呟いた。
ーー張り詰めた空気ーー
田中オフィスの会議室。橋本さんが調査結果を手に戻ってきた瞬間、空気が一変した。それまで緩やかだった場の雰囲気が、まるで氷のように冷たく張り詰めたものに変わる。橋本さんがテーブルの上に資料を置き、口を開いた。
「調べたところ、E不動産は『賃貸物件管理システム』を改良すると言ってるが、実際にはF企画に丸投げするつもりや。つまり、半田、お前はE不動産に入ったら即、F企画に出向や。しかも、期限なしの片道切符やで。」
その言葉に、半田くんの顔から血の気が引いた。「……え?」と震える声で問い返す。
ーー露わになる真相ーー
水野さんが書類を指でトントンと叩きながら尋ねる。「F企画がどんな会社か、知ってるな?」
半田くんは力なく答えた。「ブラック企業……ですよね。過労死が出たって話も……。でも、永島部長はそんなこと、一言も……」
「そら、言うわけないやろ。」田中社長がいつものとぼけた口調をひとまず捨て、真剣な顔で話を続ける。「永島部長の目的は、お前を育てたうちへの嫌がらせや。お前の将来のことなんか、これっぽっちも考えとらんわ。」
その一言に、半田くんは息を呑んだ。目には涙が浮かび、肩が小さく震えている。彼の中で、何かが音を立てて崩れた。
ーー追撃の一言ーー
橋本さんがその沈黙を破るように、さらに言葉を続けた。「さらに言うと、E不動産の社内での扱いも問題や。正式な開発チームじゃなく、営業部の指示のもとでF企画に出向。つまり、お前のスキルは評価されてるんやなくて、ただの駒として使われるだけや。」
半田くんの声が掠れながらも漏れた。「そんな……僕、技術者として成長したくて……」
水野さんが冷静に言葉を重ねる。「転職自体が悪いわけじゃない。ただ、これは転職やなくて、都合のいい使い捨てや。お前のキャリアを考えたら、今のタイミングでそこに行くのは、どう考えても悪手だよ。」
半田くんの目には絶望と疑念が浮かび、彼自身の判断が揺らぎ始める。
ーー最後の一押しーー
田中社長がゆっくりと口を開く。「まぁ、お前がどうしても行きたいっちゅうなら、止めはせん。けど、一回冷静になって考え直してみいや。お前のキャリアを大事にしてくれるのは、E不動産か? それとも、うちか?」
その問いかけは、まるで突き刺さるようだった。半田くんは俯き、拳をぎゅっと握りしめる。その力が指先に痛みを覚えさせるほど強い。
「……僕、どうしたら……」とうつむいたまま震える声で呟く半田くん。
水野さんがその言葉を受け止め、毅然とした口調で答える。「答えは、自分で出せ。でも、流されるんじゃなくて、納得して決めろ。」
しばらくの沈黙の後、半田くんは深く息を吸い込む。そして、震える声で精一杯の言葉を絞り出した。
「……もう一度、考えさせてください。」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなった。彼の中に生まれた新たな決意が、次の一歩へ繋がることを予感させた。
ーーE不動産での直接対決ーー
半田くんが「もう一度考えさせてください」と言った翌日、水野さんと橋本さんは半田くんを連れてE不動産へ向かった。
目的は一つ——永島部長に直接確認し、半田くんの転職話の真相を明らかにすること。
E不動産の重厚な扉の前に、水野さんと橋本さんに挟まれるようにして、半田くんは立っていた。昨日の「もう一度考えさせてください」という言葉が、彼の中で確かな決意へと変わっていた。今日は、逃げるのではなく、真実を掴みに行く。
橋本さんが事前に根回しをしたおかげで、彼らを迎えたのは受付の女性ではなく、社長室へと続く重々しい扉だった。扉の向こうには、E不動産の社長、佐伯と、あの永島部長が待ち構えている。
社長室の会議スペースは、高い天井と大きな窓から差し込む光で満たされていた。中央の大きな会議テーブルには、すでに数枚の書類が置かれている。佐伯社長は、噂通りの威圧感を漂わせる人物だった。その鋭い眼光は、容易に人を射抜く力を持つ。
「水野さん、橋本さん、お二人ともお久しぶりですな」佐伯社長の声は、低く、しかしよく響いた。「そして……半田くんだね?」
半田くんは、その視線にわずかにたじろぎながらも、精一杯の声で答えた。「……はい。」
「永島からは『優秀な若手エンジニアを迎え入れる話だ』と聞いているが、君たちが同行しているということは、何か事情があるんだろう?」佐伯社長は、言葉の端々に探るようなニュアンスを込めて言った。
その隣で、永島部長は腕を組み、いつもの薄ら笑いを浮かべていた。「おやおや、田中オフィスさん、今度は人事にまで口を出すのか?」その声音には、隠しきれない嘲弄の色が滲んでいた。
橋本さんは、その挑発的な言葉を冷静に受け止めた。「口を出すというより、確認したいことがあるんですよ」
水野さんも、静かにだが強い意志を込めて言った。「半田くんは、本当にE不動産の開発チームに入るんですか?」
永島部長は、まるで全てを見透かしているかのように、余裕の表情を崩さなかった。「もちろんだよ。君たちのオフィスよりも大きな案件に携わるチャンスを与えるんだから、むしろ感謝してほしいくらいだ」
その瞬間、橋本さんの手が動いた。持参した封筒から数枚の書類を取り出し、テーブルの中央に広げた。それは、E不動産と、聞き慣れないF企画という会社との間で交わされた業務委託契約書のコピーだった。
水野さんは、その書類に目を落とし、ゆっくりと、しかし明確な言葉で指摘した。「この書類によると、E不動産の『新規システム開発』は、実際にはF企画に外注することになってますね」
橋本さんは、さらに畳み掛けた。「しかも、この契約ではE不動産のエンジニアがF企画に技術指導を行うことになっている。そして、指導担当としてリストアップされているのが——半田くんの名前ですよ」
半田くんは、その自分の名前が記された書類を見て、息を呑んだ。まさか、こんな形で自分の「転職」の真相を知ることになるとは思ってもいなかった。
佐伯社長の顔から、それまでの穏やかな表情が消え去った。「なに……? これはどういうことだ、永島?」その声には、明確な怒気が含まれていた。
永島部長の顔色が、初めてわずかに変わった。額に脂汗が滲んでいるのがわかる。「そ、それは……あくまで技術交流の一環で——」
水野さんは、その言い訳を冷たく遮った。「“技術交流”ですか? でも、この契約には半田くんのE不動産社内での職務に関する記載は一切ありません。つまり、彼は“正式なE不動産の社員”ではなく、“F企画の外注スタッフ”の扱いになるということです」
橋本さんは、さらに分かりやすく説明した。「簡単に言うと、半田くんはE不動産に入社した瞬間、F企画に『出向』という形で送り込まれ、そのまま業務命令で働かされることになる。しかも、契約期間の記載がなく、事実上の“片道切符”です」
佐伯社長の視線は、氷のように冷たい。「……永島、これは本当なのか?」
永島部長は、完全に狼狽していた。言葉を探すように口を開閉させるが、まともな反論は出てこない。
「そ、そんな細かい話をいちいち気にすることはない! 半田くんにとっても、F企画での経験は大きな成長につながる!」永島部長は、焦りを隠せない声で叫んだ。
しかし、その言葉は空虚に響いた。半田くん自身が、不安げな声を上げた。「でも、F企画は……ブラック企業だって業界で有名です……」
橋本さんは、逃げ場を失った永島部長に、核心を突く質問を投げかけた。「永島部長、あなたの狙いは何です?」
永島部長は、目を泳がせながら言葉を濁した。「……なにが?」
水野さんは、冷静な分析を口にした。「この計画、E不動産のためというより田中オフィスへの“報復”が目的ではありませんか?」
永島部長は、まるで心臓を鷲掴みにされたかのように、言葉に詰まった。「……っ!」
佐伯社長の怒りは、もはや隠しようもなかった。「永島、説明しろ!」
沈黙が、重く会議室を支配した。永島部長は、脂汗を流しながらも、何も言えない。完全に追い詰められた彼の表情は、もはやかつての自信に満ちたものではなかった。
しばらくの沈黙の後、佐伯社長は深くため息をつき、永島部長を射抜くような鋭い視線で捉えた。「永島、私を欺いたな?」
永島部長は、縋るような目で佐伯社長を見た。「社長、それは……」
「もういい」佐伯社長は、冷たく言い放った。「お前のやり方は認められん。この案件は見直す。田中オフィスの皆さん、ご迷惑をおかけしました」
水野さんは、静かに頷いた。「……理解していただけて、何よりです」
半田くんは、安堵と同時に、申し訳なさそうな表情で佐伯社長を見つめた。「社長……僕は……」
佐伯社長は、半田くんの言葉を遮るように言った。「無理に転職しなくてもいい。もし、君が本当にE不動産で働きたいなら、開発チームの正式なポストを用意する。しかし、強制はしない。君がどこで働くかは、君自身が決めるべきだ」
半田くんは、ゆっくりと息を吐き出した。様々な感情が彼の胸を去来する。そして、彼は静かに、しかしはっきりと告げた。「……すみません。やっぱり、僕は田中オフィスで、もう少し経験を積みたいです」
こうして、永島部長の陰謀は白日の下に晒され、半田くんの危うい転職話は、正式に白紙に戻された。
E不動産のオフィスを後にした橋本さんは、満面の笑みを浮かべて言った。「いやぁ、スッキリしましたね!」
田中オフィスの社長室では、事の顛末を聞いた田中社長が、目を丸くして言った。「いや、まったくやな! こんな大がかりな嫌がらせ、そうそう見られるもんちゃうで!」
藤島専務は、腕を組みながら頷いた。「これで、人材流出対策の大切さもよく分かったわね。今後も気を引き締めないと」
田中オフィスに、小さな勝利の風が吹いていた。しかし、今回の出来事は、彼らにとって忘れられない教訓となるだろう。
ーーエピローグーー
永島部長は、この事件をきっかけにE不動産を退職した。そして田中オフィスは技術者の流出を防ぐための制度をさらに強化。半田くんは、学びを糧に田中オフィスでの仕事に全力を注ぐと心に誓った。
水野さんはまた一つ、大きな問題を解決したのだった。
ーー後編 完ーー