第七十七話、竹中顧問のセミナー後の風景
ーー総裁ZとQ-pull社長の対話ーー
講義終了後。
田中オフィスTokyoの仮設教室にはまだ熱気が漂っていた。
竹中教授――いや、今や「総裁Z」として多くの若者からも注目を集めるこの男の声は、すでに響き終わったはずなのに、どこか残響のように壁や机の間に息づいている。
散り際の花火が夜空に残す残光のように、彼の言葉は聴講者たちの胸を静かに、しかし確かに震わせ続けていた。
席を立つ者もいれば、まだノートを見返している者もいる。
その表情には一様に、これから自分が何をすべきかを考えはじめた者特有の光が宿っていた。
竹中顧問のセミナーは、ただ知識を与える場ではない。
それぞれの内側に眠る火種を掘り起こし、新たな一歩へとつながる衝動を呼び覚ます。
ここに集った人々は、それぞれ胸に芽生えたインスピレーションを抱き、すでに新たな歩みを始めていた。
その余韻はなお静かに教室を包み込み、消えることなく漂っている。
竹中顧問は席を回り、一人ひとりに感謝の言葉をかけていった。
ある者は深々と頭を下げ、ある者は固く握手を交わし、その温もりの中に確かな希望を感じ取っていた。
その片隅で、一人の男が立ち上がった。
鋭い目の奥に、少年のような憧憬を燃やしながら、彼はまっすぐに教授へ歩み寄った。
「竹中顧問!」
声には、感謝と焦燥が入り混じる。
「本日は本当に感動的でした。特に、国際的な『狩猟的行動原理』と、童話に根ざした『農耕的倫理観』の対比論……あれは、まさに今の経営環境を映し出しています。ただ、私は一つも質問できなくて……情けないです」
差し出された手は、熱を帯びていた。
竹中は、その手をしっかりと握り返す。
目の前に立つのは、急成長を遂げるベンチャー企業Q-pullの創業者、上田。実業の世界で汗を流しながら、日本経済に変革の風を送り込む存在だった。
「何をおっしゃいますか、上田社長」
教授の声は冷静でありながら、敬意を帯びていた。
「Q-pullこそが、今の日本に新しい血を注いでいる。私はむしろ、あなたの経営哲学にこそ、現代の『非合理的な成功法則』を読み解くヒントがあると考えているのです」
静かな言葉に、誠実な眼差しが宿る。
竹中はふと笑みを浮かべ、少しだけ身を乗り出した。
「実は今日、私は聴講者に語りかけましたが……今は、あなたから学びたい。もしお時間をいただけるなら、この後、経営論についてZoomで対話を重ねませんか? 特に、社長が持つ『高い時間割引率』を、どう持続可能な成長へと転換出来たのか……ぜひ伺いたいのです」
その瞬間、上田の目が大きく開かれた。
次の刹那、子どものように輝きを放ち、とびきり元気な言葉が飛び出した。
「あ、いいですね! マジで! 総裁Zと上田の対話ですか!? ウチの若手管理職に言ったら、参加者が押し寄せますよ! 絶対にやりましょう!」
声は弾み、講義室に小さな波紋を広げた。まるで大口契約を射止めた営業マンのように、彼は誇らしげに胸を張った。
上田は静かに頷き、ポケットから名刺入れを取り出す。
「結構……面白い企画になりそうですね。秘書から日程調整のご連絡を差し上げましょう。本日は、ありがとうございました」
再び結ばれた握手。
それは、日本の「研ぎ澄まされた知見」と「時代を駆けるエネルギー」が、一つの可能性へと結びついた瞬間だった。
会議室の隅に宿る沈黙の中、誰も気づかぬまま、未来のビジネス論を形づくる新たな「プロジェクト」が、今まさに芽吹いていたのである。
ーーヒア・ウィゴーのオフィスへーー
竹中顧問との刺激的な対話を終え、興奮冷めやらぬ上田社長は、隣にいた水野所長の腕を掴んだ。
「水野さん、ちょっと頼みがあるんだ。」
上田社長は、自身の急成長の時代を共にした盟友、芸能事務所ヒア・ウィゴーの肥後勝弥に会う必要に駆られていた。彼の顔に一瞬、微かな陰りがよぎる。
「あのさ、肥後ちゃんとちょっと気まずいことがあってさ。こないだ、『田中オフィスを吸収して、肥後ちゃんも水野さんも傘下に入れる』って、冗談めかして言ったら、向こうが本気で怒っちゃって。それ以来、全然ウチに来てくれないんだ。水野さん、ちょっとつきあってもらえる?」
水野所長は、上田社長が事業の成功と引き換えに、大切な友人を失うかもしれないという「感情的損失」を気に病んでいるのだと察した。彼は静かに頷いた。「わかりました。社長の気持ち、肥後さんならきっと理解してくれますよ。」
二人がヒア・ウィゴーの無機質なガラス扉の前に着くと、上田社長は立ち止まり、水野所長の肩を指でちょん、と突いた。彼の目は、緊張と期待で揺れている。
「いいかい、水野さん。作戦だ。先に入って、ボクが来たって言わないで。そして――」上田社長は声を潜め、低いトーンで囁いた。「『やあ、肥後さん、今日は会わせたいひとがいるんだ』って言ってください」
水野所長は、この稚拙な芝居が、上田社長の精一杯の謝罪のジェスチャーに繋げるのだろうと理解し、その役を演じることにした。
インターフォンを押して扉が開くと、中では肥後勝弥と彼のチームであるレンチンズの二人でテーブルを囲んで真剣に話し合っているようだった。空気が一瞬で固まったのを感じながら、水野所長は、感情を一切込めない、まさしく棒読みで言った。
「やあ、肥後さん、今日は会わせたいひとがいるんだ」
肥後勝弥が訝しげに顔を上げた瞬間、水野所長の後ろから、まるで敗戦国の将のようにうなだれた上田社長が、力なく足を引きずって入ってきた。
上田社長は、深い溜め息とともに、演技過剰なほどの悲劇的な口調で告げた。
「Q-pullは・・・田中オフィスの完全子会社になってしまいました……。あの時の冗談が現実になってしまい……今日からみなさんとご一緒に仕事をさせていただきたいと想います。不束者ですが、よろしくおねがいします……」
肥後と、レンチンズの二人は、理解が追いつかずぽかんと口を開けたまま硬直した。そして、その数秒の沈黙が、空気を鋭く張り詰めさせた後――
肥後勝弥が、腹の底から響くような豪快な笑い声を上げた。
「アッハッハ!な〜に言っちゃってんの、上田ちゃん!」 肥後は立ち上がり、大股で上田社長に近づく。「俺が最近全然顔出さないもんだから、心配になっちゃったんすか?!」
そう言って上田社長の手を取って力強く握手すると、ポンポンと豪快に背中を叩いた。上田社長は、その温かい歓迎と友情の回復に、張り詰めていた緊張が一気に解け、堪えきれない笑いを漏らした。
「ああ、くそ!肥後さんには敵わないな!」上田社長は目尻の涙を拭う。「でもさ、これいいと思わない? 俺たちで何か面白い仕事をやろうよ、ね!」
水野所長は、すぐに現実的なトーンに戻した。「おかげさまで、田中オフィスはQ-pullの戦略的ビジネスパートナーにしていただいており、大変感謝しております。肥後さん、上田社長は冗談を言っただけで、私たちの独立性を尊重してますよ」
肥後はニヤリと笑い、上田社長を指差した。「水野さん、油断しちゃダメだよ。この人(上田社長)は、そのうち、田中オフィスに役員でも送り込んで、資本提携で支配されちゃうよ」
水野所長は、その挑発に乗るように笑った。「それは…助かります、本当に。今は仕事よりも人が欲しいですから。上田社長、是非前向きにご検討ください。」
上田社長は両手を上げ、わざとらしく悲鳴をあげた。「うわーっ、 肥後ちゃんのせいだぞ!とんでもない約束させられちゃったー、ドウスル、これ?」
言葉とは裏腹に、その場の空気は、友情とビジネスの熱い信頼で満たされた。彼らの間には、「プライドの衝突」よりも、共に「面白いことを仕掛ける」という、熱い信頼と共犯意識が流れていた。Q-pull、田中オフィス、そしてヒア・ウィゴーが絡み合う、新たな協調の物語が、この薄暗い事務所で始まったのだ。
ーーあの頃のバカ話ーー
ヒア・ウィゴーの事務所には、いつの間にか、男たちの熱気が充満していた。さっきまでのビジネスの緊張感は消え、学生時代に戻ったような空気が流れている。
レンチンズの二人が気を利かせて、ビールと乾き物をどこからか調達してきた。
上田社長は、豪快に笑いながら缶ビールを開ける。
「たのしいなあ、やっぱり!」 上田は、肥後と水野の肩を交互に叩いた。「学生のころは、いつもこんな風にバカ話して、それがきっかけでQ-pullの原型みたいなのを設立してさ。仲間と酒飲んで、夜通し語り合ったんだ!」
肥後は椅子に深く座り直し、遠い目をした。「ああ、あの頃は面白かった。お前らがやってること、全部SFか詐欺か、どっちかだと思ってたけどな。」
「詐欺だよ!ほとんど!」と、上田は笑い飛ばす。「笑っちゃうような夢物語を話し合ってさ!覚えてるか、肥後ちゃん?『地球上の全員に、バーチャルゴーグル配布して、24時間仮想空間で暮らす』とか、『火星にロケット飛ばそう』とか!」
肥後は、足を組み直しながら口を開いた。「あの時、俺たちは月にも届いてないっていうのに、なぜか火星のテラフォーミング計画を、徹夜でホワイトボードに書いていたっけ」
「そう!そうなんだよ!」上田は興奮して立ち上がった。「無謀すぎて笑えるだろ?でもな、その時の馬鹿げた計画の中に、今のQ-pullのコア技術のヒントがあったんだ。当時の俺たちは、『実現不可能』の壁の向こう側を覗こうとしてたんだよ。」
肥後が「結局、お前が本当に飛ばしたのはロケットじゃなくて、ホラ話と株式市場の天井だったってわけだ!」
笑いながらテーブルを指でトントン叩く。
「うるさいよ!」上田は文句を言いつつも嬉しそうだ。「でもさ、あの頃の『根拠のない自信』と、『笑えるほどの高い時間割引率』がなかったら、今の俺たちはないんだよな。あの、夜通しのバカ話が、結局は最初の投資だったんだ。」
水野所長は、上田社長が先ほど竹中顧問の講義で語った「非合理的な選択」の話を思い出し、微笑んだ。「無駄話の中に、後の合理的選択のヒントが隠されていた。まるで、我々の人生そのものが、一つの童話みたいですね」
上田は言う。「童話でいいさ!ホラ話でもな!あの頃のバカげた夢を、これからも一つずつ実現させて、ガシャポンみたいに増やしていこうぜ!」
三人の男たちは熱く、そしてどこか懐かしい笑い声を響かせた。
ーーバカやってんじゃないよーー
昼下がりの事務所は、熱のこもった笑い声でにぎわっていた。
未来の夢や馬鹿げた計画を大声で語り合う男たち。テーブルの上のビールの空き缶は男たちの臭いと交じり合って、ヒア・ウィゴーのオフィスを下卑た酒場の空気が満たしていく。
そのとき、ドアが勢いよく開かれる。
冷水を浴びせるような声が飛んだ。
「――なーにバカやってんのよ、昼間っから事務所で盛り上がっちゃって!」
入ってきたのは、芸能事務所「ヒア・ウィゴー」の共同経営者にして現場責任者、肥後香津沙、それとアバスくんに差し入れを用意して来た猫田洋子、彼女の声は、瞬時に場の熱を冷ます力を持っていた。
しかし、香津沙の視線がある人物に止まった瞬間、口調が少し和らぐ。
「…あれ、その人、Q-pullの上田社長じゃないかしら?」
肥後社長は悪びれることもなく、笑顔で肩をすくめた。
「おう、香津沙、お前も混ざるか?」
香津沙は呆れたようにため息をつき、すぐに首を振る。
「ダメよ。もうすぐアバスくんが学校から帰ってくるんだから。今やうちの看板タレントよ! この事務所“昼間から酒臭い”なんて言われて、他所へ移籍されたらどうすんの?さあ、外で続きやって頂戴!」
その言葉には、感情ではなく冷静な経営判断があった。
男たちが夢想に没頭する中、彼女は「会社の収益とリスク管理」という現実を見据えていた。
香津沙は改めて上田に向き直り、深々と頭を下げ、失礼がない様にしっかりフォローする。
「上田社長、せっかくお越しいただいたのにお騒がせしました。肥後がご迷惑を…」
上田は、彼女の毅然とした姿に心地よさを覚え、にこりと笑った。
「いやいや、ご心配なく。僕が調子に乗って話を広げたんですよ。それより、香津沙さんのその引き締め方、うちでも手本になる。ぜひご指導お願いしたいな」
彼女はその言葉を受け取りながら、事務所の空気を一瞥した。
浮かれた熱を冷ましつつも、完全に奪わず、現実へと軌道修正する――。
香津沙の存在は、男たちの「非合理な夢」と「事業の継続性」を繋ぐ、不可欠な錨だった。
ーーあとかたづけーー
なんとか事務所の体裁を整えた香津沙は、夫の勝弥に小声で釘を刺した。
「ちゃんと、失礼ない様にお連れしてよ」
その横から、赤ら顔のレンチンズ北が胸を張る。
「大丈夫、こっからはわしらの仕事や、ちゃんと“接待”しときまっせ!」
さらに飯野が、据わった目で意味不明なことを叫んだ。
「男同士、がっぷり四つで押し切ったりますわ!」
何を言っているのか分からない。だが、場の空気だけは重く酔っている。
酔っ払い男どもは街中に送りだし、香津沙は、慌てて窓を開け放った。
午後の陽も傾き、熱気も減った風が、たちまち充満していた酒臭を押し流していく。
「早めに来てよかったわ。水野所長も居るんなら、しっかり監督してよね」
猫田が肩をすくめて言う。
水野は、思わず姿勢を正した。
「私は飲んでいませんよ。ただ……肥後さんと上田社長が楽しそうに歓談しているのに、水を差すのもどうかと思いまして。……たしかに、少し羽目を外しすぎましたね」
言い訳めいた口ぶりをしながら、彼の視線は猫田に向かう。
彼女に、かつての刺々しい影はなかった。
不機嫌そうに眉を吊り上げていた頃の彼女ではない。今は、どこか柔らかく、微笑に似た余白をまとっている。
――あれ? なんか雰囲気が変わったな。
水野は、自分が人の感情に疎いことを自覚している。
それでも、ほんのわずかな変化に気づく瞬間がある。
今が、まさにそうだった。
彼女の声の調子、姿勢の和らぎ。
小さな差異をつなぎ合わせれば、確かな変化の気配となる。
水野は深く息を吐き、窓の外に視線を移した。
夜風に揺れるカーテンの向こうで、街の灯りが揺らいでいる。
その淡い光と同じように、猫田の表情もまた、以前より優しく揺れていた。
もうすぐ訪れるであろう、幸せの光をまとった彼女のプリンスのために、
猫田は黙々と、机の上に散らばったビールの空き缶をビニール袋に片付けていく。
その動作には、どこかしなやかな甲斐甲斐しさがあり、
同時に軽やかな期待――胸の奥で静かにくすぶる喜び――を伴っていた。
水野の視線は、無意識にその手元に向けられる。
だが、彼にはわからない。
猫田の胸のうちに灯る、遠い未来への予感や、優しい恋の光までは、
どれだけ目を凝らしても想像の及ぶ範囲ではなかった。
ただ、静かに揺れる背中の線や、手のひらの丁寧な所作から、
微かな幸福の気配だけが、淡く、しかし確かに伝わってくる。
水野は唇の端をわずかに引き締め、窓の外の夜風を感じた。
その向こうで、猫田の世界は、まだ水野の理解を超えた輝きに満ちていた――。
ーーセミナーの余韻ーー
肥後と上田社長、そしてレンチンズが出て行ったあと、入れ替わるようにして、楠木匡介、沢田常務、河村SE、そして高柳久美子の四人が部屋に入ってきた。
楠木は淡々と、しかし漏れなく情報を整理しながら水野に報告する。
「水野さん、たまちゃんと半田くん、それに竹中顧問はホテルに戻りました。ラヴィさんと倉持くん、そして先ほどいらした佐藤さんは、会議室の片づけをやっています。原田会長と永島さん、柴田さんご夫妻もお帰りになりました。皆さん、今日は大変ご満足されているようですね」
香津沙は笑顔を添えて、さっと席を勧めた。
「せっかくだから、お茶でもどうぞ」
猫田も手早くお茶を淹れながら、しなやかに動く手つきに慣れた様子で、湯気の立つ湯呑を運ぶ。
四人に楠木と香津沙、そして猫田を加えた七人は、テーブルを囲むように座った。
温かい湯気がほんのり漂う中、やがて自然と今日のセミナーの話題が始まる。
竹中顧問の講義で交わされた議論、投げかけられた問い、受講者一人ひとりの反応――。
湯飲みを手に、七人の声は柔らかく、時に弾み、時に静かに交錯していった。
空間には、疲れの残るはずの夜の余韻が、むしろ心地よい温度となって漂っていた。
それぞれが思い思いの視点で語り合う中、今日の学びの重みと、ささやかな感動が、ゆっくりと部屋を満たしていく――。
ーー共通の知り合いーー
ふと、水野は高柳に問いかけた。
「楠木さんとはお知り合いだとか?」
高柳はさりげなく楠木の顔をちらりと見やり、微かに目で合図する。
「私の研究所を訪ねてこられたんです。今話題の熊対策の研究を視察したいとおっしゃって…」
楠木は軽くうなずき、少し間を置いて口を開いた。
「そうなんです。今、日本各地で熊の被害が多発していまして、U警備でも対応手段を検討していた折に、高柳さんの研究を知ったのですが…」
そこで、言葉が途切れた楠木に水野が目配せする。
(高柳さん、お願いしますよ)
高柳は微笑みながら口を開いた。
「熊のアラートについては、全国でいろいろな試みが行われています。出没情報をマッピングしたり、赤外線センサーで観測したり。でも、どれも決め手に欠けるようです。私の研究をサポートしてくれる現地のメンバーもいます。邑人さんや小林さんという優秀な技術者の方たちです」
水野は興味深げに身を乗り出す。
「従来の方法とは違うんですか?」
高柳は少し目を輝かせて答える。
「正直、私もうまく説明できないのですが、画期的な手段です。熊の皮下に電波発信機を埋め込むのです。熊を眠らせるために、ハチミツを使います。ハチミツにはトリプトファンという物質が含まれていてこれが眠りを誘うのだそうです。このハチミツに追加で睡眠薬を混ぜたものを熊に舐めさせ、眠ったところにドローンで近づき、挿入アームで超小型の発信機をセットする――仕組みはこれだけですが、構造がすごいんです。微小な電波発信チップをどう作ったのか、空中静止するドローンの下部に装着されたマニュピレータが正確に首筋に発信機を打ち込み。そしてその中には30~40年も電力を供給できる電池。アイソトープ電池くらいしか思いつかないのですが…」
高柳は続けた。
「熊が周囲50m以内に近づいてきたら、携帯探知機で検知して、警報が鳴ります。事前に小林さんたちが用意してくれたスタンガンのガントレットと槍を装着するんです。実際に使ったことはありませんけど」
その言葉には、技術者特有の冷静さと、現場を想定した具体性が混ざっていた。優れた防災機器と言えるのか、過剰防衛に当たるのか――法的には確かにグレーゾーンだ。しかし、高柳久美子という女性の覚悟は、曖昧さを超えていた。
水野は、その佇まいを見つめる。言葉の端々からは、理詰めの自信と実行への静かな決意が滲み出ている。畏敬の念が、知らぬ間に胸の内に芽生えていた。
「熊対策だけじゃなくて、山間部での移動手段として、電動アシストのロバリヤカーまで拵えてくれたんです。ロバの名前はドンちゃん。とても賢くて、声をかけるとちゃんと反応するんですよ」
彼女の声に少し柔らかさが混じる。
「そのおかげで実験農場への移動がずいぶん楽になりました。収穫物の運搬にも使えるし、作業環境が飛躍的に改善したんです。それに、そのリヤカーは移動しながら山道に熊の忌避薬剤――カプサイシンや木酢液――を自動で散布する仕組みなんですよ。電気じゃなくてガソリンエンジンを使うと、排気の匂いを熊が好むそうで、逆効果になることもあるらしくて」
高柳は少し息を整えた。
「だからこそ、静かに動ける電動式にして、安全を確保しながら、山奥での農業実験を続けることができたわけです」
その説明には、現場に身を置く者だけが持つ、実感のこもったリアリティがあった。
水野は笑って肩をすくめる。
「邑人さんなら、きっと可能でしょうね」
楠木は不思議そうに目を見開いた。
「お知り合いですか?」
水野は穏やかに答える。
「邑人さんとは、もう20年くらい前から存じ上げています。当時から私の先生のような存在でした」
高柳は目を丸くして訊ねる。
「水野さんも20年前は小学生ぐらいでしょう?同じ学校の友達だったんですか?」
水野は首を振った。
「いえ、邑人さんは当時30歳くらいの大人で、私はその人を先生のように思っていたんです」
高柳の目が一層大きくなった。
「邑人英二さんじゃないでしょう…」
水野は微笑を浮かべて頷く。
「その邑人英二さんです。今でも時々連絡をいただいています。ついこの間も、山奥の農業実験場で研究をしていると聞きました」
キツネにつままれたような気分だった。
楠木はいつも、水野さんとはどこか歯車がかみ合わないと感じていた。
物事を突き詰めるよりも、どこか不思議な方へ話をもっていく人だ――そう思わされることが多い。
しかし今は、話の矛盾を突くことよりも先に、水野さんに、高柳と自分は「仕事上の知り合いだ」ということを納得してもらうのが先決だと感じていた。
心の中で、少し肩の力を抜きながら、楠木は言葉を選ぶ。
「水野さん、高柳さん、よく分かりました。すごい研究者とお知り合いで、お二人とも羨ましいですよ。なにとぞ、U警備の熊センサーシステムプロジェクトに知見をお貸しいただきたいです」
高柳は微かに微笑むだけで、控えめに答える。
「私はどうも……小林さんたちなら、なにか知っているかもしれません」
その短い返答に、楠木は少し肩透かしを食らったような気持ちになる。
だが、同時に安心も覚える。
二人の間に流れる穏やかな距離感。
それだけで、今日の話は十分に前向きな意味を持っていると、楠木は静かに確信した。
ーー猫田弁理士の牽制ーー
猫田は、湯呑をそっと卓に置くと、目を細めて言った。
「それね、高柳さん。内容をきちんと文書化して、特許請願したほうがいいわよ。電気アクチュエータの部分なんか、既存の特許に引っかかる可能性もあるから、そこは私のほうで調べましょうか?」
高柳は驚いたように目を瞬かせた。
猫田は続ける。
「仮に装置としての特許が取れなくても、制御プログラムのアルゴリズムに独自性があれば、十分に保護できるわ。それに、研究で構築した新しい農業ビジネスにその技術が中核として関わっているなら、ビジネスモデル特許の申請も可能よ。著作権対応も含めて一貫してサポートできるわ」
その言葉には、冷静な専門家としての響きがあったが、どこか母鳥が雛を守るような温かさもあった。
そして、軽く笑みを浮かべながら言葉を添える。
「お人よしの正直じいさんみたいに、どこかの会社に“これ便利ですよ”なんて教えてあげたら、高柳さんの農業技術をぜんぶ持っていかれちゃうかもしれないわよ」
そう言って、ちらりとU警備の楠木部長のほうを見た。
その視線に気づいた楠木は、やや居心地悪そうに姿勢を正しながら、苦笑いを浮かべた。
「いやいや、もちろん。業務提携はきちんと契約を交わしてから進めますよ。ただ今日は、ほんの概要部分だけお聞きしたかっただけです。……いけませんか?」
その声には、やや不本意ながらも、猫田の鋭い牽制を受け入れざるを得ないという色が混じっていた。
ーー猫田の知財童話ーー
「水野所長、今日は田中オフィスで、あの“総裁Z”が『人魚姫』と『ジャックと豆の樹』で行動経済学を解説してたのよね?」
猫田は、湯呑を手にしたまま、首をかしげて言った。
その表情には、驚きと、ほんの少しの呆れが混じっている。
対面の席で河村SEが小さく笑い、少し遠い目をした。
「ええ……結局のところ、現代の人間に必要なのは『忍耐と長期的視点』だという話でした」
その声には、どこか感心と、子どもの頃に聞いた昔話を懐かしむような響きがあった。
猫田は、肩をすくめて口元に笑みを浮かべる。
「ああいう学者って、自分の理論に誘導するために、身近な童話を選ぶのよ。うっかり納得しちゃうのが、また悔しいのよね」
河村は苦笑しながら、やや真面目な口調で反論する。
「でも、難しい理論を分かりやすく伝える手段としては、とても良かったと思いますよ。童話の構造の中に、行動経済学の基本的な概念がうまく組み込まれていました。……私は聞いて非常に有益なものだと関心しましたよ」
その言葉を聞いて、猫田はふっと目を細める。
「へえ、あんたがそこまで言うなら、確かに価値はあったのかもね」
そして、少し間をおいて、にやりと笑った。
「じゃあ、童話で知財を語るなら……どうしようかしら?」
湯呑を卓に置き、指先で軽くトントンとリズムを取る。
「そうねえ……『花咲か爺さん』なんか、面白いんじゃない?」
その瞬間、部屋の空気がふっとやわらいだ。
河村が「知財の花を咲かせましょう」と芝居がかった冗談を返し、猫田は声を上げて笑った。
部屋には、ほんのり笑いを帯びた空気が漂った。
学問の堅苦しさを少しだけ和らげる、猫田ならではの知恵の香りがそこにあった。
ーー続くーー