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田中オフィス  作者: 和子
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第七十六話、竹中顧問、大いに語る(一)

すみません

本編は「第七十四話・夏の終わり、コスプレイヤーとクリエイター」のコミケ勝負の翌日くらいを想定していたのですが、竹中顧問・半田くん・たまちゃん一行は、その翌日にいったん京都へ戻り、9月のシステム始動に合わせて再び上京して、来賓の方々にセミナーを行っている、という流れになっています。


ちょっと短いスパンでの往復になってしまい、時系列がわかりにくく感じられたかもしれません。

構成が追いつかず、読みづらくしてしまってごめんなさい

もう少しわかりやすく伝わるように工夫していきます


ーー資産家の要塞ーー

入居金一億円――資産家のために築かれた高級老人ホーム。その一角が、天城正綱の最後の砦であった。


壁一面の書棚には法律書と判例集、そして顧客から贈られた銀製の楯や時計が整然と並び、往年の成功を語りかけている。外の庭園には水盤と白いローマ風の彫刻があり、午後の光を反射して柔らかな輝きを放っていた。


天城正綱は、かつての重役席と変わらぬ革張りの椅子に腰を沈めた。

「いまのご時勢、七十や八十でボケてなどいられないからな」


海北利景が、一冊の報告書を差し出す。


「手癖の悪い女の処分は?」

かすれながらも威を失わぬ声。七十八歳の天城正綱は、往年の弁護士の眼光をそのままに問いかけた。


「ディスクを見せたら観念しました。口止めの意味も含め、円満退職の形に。規定の退職金も支払います」


口惜(くちお)しいがな……。しかし、ボケたふりをしていると本性が見える。やりたい放題しおって」


利景は深く頭を垂れた。

「申し訳ありません。私の人選ミスです」


正綱は苦笑し、すぐさま矢のように問いを投げる。

「社長の指名ではあるまい。彼女を推したのは誰だ?」


「取締役、北米統合部長です」


一瞬の沈黙ののち、正綱は含み笑いを浮かべた。

「関連会社に出向でもさせておけ。どうせ昔の女だったのだろう。泣き落としか、ゆすりか……。給与のいい仕事で納得させようとしたに違いない。公私混同の見本だな」


「仰る通りに手配いたします」


「まあよい。この通り、大企業の内部などネズミの巣のようなものだ」


呵呵(かか)と笑う声が、老人ホームの静けさを破った。

「ネズミもな、企業という生態系を支えている。害虫を食い、猛禽の餌にもなる。彼女もネズミとして生きる道を選んだ。だが害を為せば、駆除するまでだ」


冷徹な哲理を、利景は黙って受け止めるしかなかった。


「私はここで相談役となる。お前は会長だ。新たに選ぶ社長、副社長、専務とは合議制にして、経営の要を握り続けよ」


(かしこ)まりました」


正綱の眼差しは、娘婿にその言葉を深く刻み込もうとするかのように鋭かった。


「それで――青と白のディスクは、また彼に託したのか」


「はい。『これは最後の切り札です』と。そして近々、『Juris Works』は復活すると」


正綱の唇が吊り上がる。

「あの男に任せておけばよい。孫の命を奪った奴らを餌で釣り出すのが目的だ。Juris Works復活の道筋をつけるだろう」


老人は椅子に背を預け、目を細めた。

「『虚心坦懐』が座右の銘だと、あの男は言っていたな。……頼もしいではないか」


声はまるで、過ぎ去った黄金時代を呼び戻そうとするかのように、重厚な相談役室に響いた。


正綱はサイドボードに並ぶ高級酒を指さす。

「私はもう飲まん。あのウイスキーも飾りだ。好きに飲め。わしはメイドにウーロン茶を頼んである」


利景は一礼し、しっかりと天城の勧めるサイドボードに並ぶ瓶の中から、あえてコニャックを取らず、すぐ下のアルマニャックを取り出す。琥珀色の液体が静かにグラスを満たし、甘やかな香りが部屋に広がった。


老人は義理の息子を満足そうに見つめ、しみじみと言った。

「実際、杏子(きょうこ)はすばらしい男性を連れてきた。……男を見る目があったのだろう。父として誇らしい」


利景は言葉を飲み込み、ただ首を横に振る。


「杏子が君を連れてきたとき、私は君を罵倒した。身分違いのどうのこうのと……。理性を失った、愚かな父親だった」

正綱は苦笑したが、その目には深い悔恨と温かさが混ざっていた。

「そんなバカ親を今日まで支えてくれた。……感謝という言葉では言い尽くせん」


利景は無言でグラスを持ち、深々と頭を垂れた。


天城正綱は静かな決意を込めて告げる。

「君の経営権を磐石にするため、私の持ち株はすべて譲ろう」


その声は老人ホームの静寂を破る鐘のように響いた。義理の息子は胸に重いものを抱きながら、ゆっくりとアルマニャックを口に含む。


――そして。


「その前に――ひとつ、やらねばならないことがある」


正綱は机の上からスマートフォンを取り上げた。無骨な掌に収まる小さな機械から、思いもよらぬ声が響き渡る。


「――海北社長でいらっしゃいますか……お懐かしゅうございます。Jurisでございます――」


柔らかな女性の声だった。


その瞬間、利景の手からグラスが滑り落ち、床に転げる。アルマニャックの雫が絨毯に染み込み、重苦しい沈黙を深めていった。


忌まわしきJuris――。

かつて天城コンサルティングを飛躍させ、その引き換えに恐怖と混乱をもたらした存在が、再び蘇ったのか。冷静を装うことに長けた利景でさえ、思わず目を閉じ、耳を塞ぎたくなる。


そんな義理の息子に、正綱は穏やかに語りかけた。

「これは、Jurisそのものではない」


記憶をたどるように、老人は言葉を継ぐ。

「利綱がJurisを停止しに訪れた時のことだ。青いディスクの入ったケースを持ち、『Jurisは、その時が来るまで眠ります。お爺様、スマホは今お持ちですか?』と言った。そして私のスマホを受け取り、なにやら操作をして……」


目を細める。あの日の光景がよみがえる。


「やがてスマホは声を発した。――『天城さま、私は “Juris Lite” です。なんでもできます』と」


利景の背筋に冷たいものが走った。


「利綱は笑ってこう言った。『これは簡易版です。Jurisの問題を解決し、必ず復活させます。それまではこれがお相手いたします』と」


正綱はふっと寂しげに笑む。

「その時、私は答えた。『Jurisか、ずいぶん小さくなったな』とな。孫の代わりだと思って、Juris Worksのディスクと一緒に、この“小さな声”を預かっておるのだよ」


静まり返った部屋に、スマートフォンの青白い光が、幽霊のように二人を照らしていた。



ーー火入れの日ーー

東京・錦糸町――。

ガラス越しに秋の光が差し込むビルの一角に、真新しい「田中オフィスTokyo」の看板が輝いていた。


今日このビルの2階で、Nシステムから導入した基幹サーバーに統合システム「Integrate Sphere」の火入れ式が執り行われる。京都本社に次いで、田中オフィスにとって二つ目の拠点に()が入る記念すべき瞬間である。


さらに午後には、本社から来訪した竹中顧問による行動経済学セミナーの特別講義も予定されていた。式典と講義が重なることで、東京事務所は朝から熱気と緊張に包まれている。


エントランスには、N通信、Rシステム、Q-pull、U警備といった主要取引先から届けられた献花が並んでいた。移転開設時の華やかさに比べれば控えめではあるが、それでも白や赤の花々が来客を迎える姿は、この拠点の未来を暗示するかのように鮮やかだった。


もっとも今日の段階で整ったのは、PCのVDI環境に過ぎない。システムの本格稼働、そして二拠点体制の完全な確立には、まだ一年はかかると見込まれていた。


それでも――。

コンピューターの主電源を入れる、"火を入れる"という行為には、象徴的な意味がある。

人も組織も、まずは小さな炎から始まるのだ。


「いやあ、これほどまでの人数が集まるとは……大学のゼミを思い出しますな」

竹中駿也顧問は、演台の立ち位置やマイクの位置などをチェックしながら満面の笑みを浮かべた。

かつて京都理工大学で教鞭をとっていた教授であり、今は田中オフィスの最高顧問。白髪交じりの髪をオールバックにまとめ、落ち着き払った佇まいに、しかしどこかYouTuber「総裁Z」の面影が覗いている。


移転前の六本木のオフィスは、7〜8人が入れば一杯になる会議室しかなかった。だがここ、錦糸町の新オフィスは違う。スライディングウォールを開けば、十五名を収容しても余裕のある大きな教室になる。演台とプロジェクターが据えられると、それはまるで大学のゼミ室のような雰囲気を帯びた。


会場には田中オフィスの面々と来賓が集まっていた。

火入れ式も終了し、サーバーは静かなファンの音を慣らし、LEDランプが明滅している。

半田直樹は京都本社のIntegrate Sphere導入主任らしく、スーツ姿をきりりと整え、しかし内心は「大学のゼミのときみたいに、教授に質問しようか」と緊張していた。

奥田珠実は、いつもの好奇心の瞳をキラキラさせて、配布資料を皆に手渡して回っている。


さらに東京事務所のラヴィ・シャルマは静かに腕を組み、行政書士の資格を得た今もなお、学び続けようという真摯な姿勢を崩さない。そして行政書士試験へ挑戦中の倉持渉は、緊張気味に眼鏡を直しながら、配布資料に目を通していた。



ーー錦糸町オフィスのお披露目ーー

「広いねえ、すばらしいじゃないか」


東京北商工会会長・原田健一は、天井の高さと窓から差し込む明るさに思わず声をあげた。六本木の旧オフィスと比べ、ここ錦糸町の新オフィスはまるで別世界だった。


アールライフ不動産の永島部長が、胸を張るように微笑んだ。

「ここは、ウチの会社で紹介させていただきました。水野所長は『永島部長の紹介物件ですから間違いないでしょう』と仰って、即決していただきましたよ」

そう言いながら、少し肩をすくめて付け加える。

「……まあ、決めるまで十件も内覧したんですがね」


水野さんらしいな、と、二人の笑い声が響き、場の空気は柔らいだ。


一方、向こうではU警備の楠木(くすのき)匡介(きょうすけ)とQ-pull社長・上田(うえだ)敬之(たかゆき)、それに水野幸一所長が歓談している。


「びっくりしましたよ。上田社長から『田中オフィスのセミナー、聞いてみたい』と仰るんで」

水野所長が楠木の方を見て言うと、彼は首を振った。

「知らせたのは僕じゃないです。佐々木さんから『竹中顧問が東京に来られている』と伺ってご挨拶に来ただけなんです。そしたら今からセミナーだと聞いて、それで参加させていただくことに」


「僕も偶然だよ」上田社長は笑顔を浮かべてそう言った。

だがその裏で、Q-pull秘書室が田中オフィスの動向を丹念に調べ、週単位で上田に報告していることは水野所長にはナイショだ。偶然という言葉の裏に、彼なりに戦略的に楽しみながらビジネスを展開する姿勢が垣間見える。(田中オフィスからは目が離せないな・・・)


そこへN通信の沢田修治常務と、Rシステムの河村亮SEが入室してきた。二人は笑顔で挨拶する。


「上田社長、お会い出来て光栄です。今日はシステム稼働のお祝いと、初回の点検で参りました。時間はありますので、竹中顧問のご講義も拝聴したいと思いまして…」


今が絶好のビジネスチャンス。中小企業でも小型オンプレミスサーバーの導入が拡大しており、Nシステムは十分なサポート体制で臨んでいることをアピールする。大企業のトップにも実際に見てもらい、経営判断に繋げてもらいたいところだ。


沢田常務の言葉に、上田社長は立ち上がって丁寧に応じた。


河村が横に立ち、もう一人の人物を紹介する。

「こちらは、N通信の高柳さんです」


女性は上田社長と水野所長に名刺を差し出し、軽く会釈した。

「N通信から、農業システム開発のために農事組合法人G-progに出向しております、高柳久美子と申します」


水野は名刺を受け取り、その名に一瞬、記憶をよぎらせた。

――彼女が、邑人(むらびと)さんが言っていた、JurisWorksを支えた天才プログラマーの一人。

いまは農業再生プロジェクトの研究者として再出発しているという――。



ーー再会の握手ーー

セミナー開始を前に、人の流れがざわつく会場の一角。

楠木部長が、気取ったような、それでいてどこか照れを隠すような表情で近寄ってきた。


「その節はどうも……ここでまたご縁があって……あらためてお伺いしようと思っていたのですが」


高柳久美子は、にこやかに微笑んで立ち上がる。

「こちらこそご無沙汰しまして。こうしてご縁があるのがとても嬉しいです」


握手を交わそうとした、その瞬間。

高柳はほんのわずかに身を寄せ、小声でささやいた。


「……もう、おかしなアプリとお話してませんよね?」


楠木の背筋がわずかに硬直する。

(やはり忘れていないよな……あの“侵入事件”を……!)


気まずさを押し隠しながら、小声で答えた。

「会社のAIアプリだけです……」


その言葉に高柳は安心したように笑みを浮かべ、ふっと肩の力を抜いた。

「もうあんな怖い冗談はやめてくださいよ」


冗談――そう言ってくれる優しさに救われたような気がした。楠木は照れくさそうに頭を下げる。

「……はい」


その様子を横で見ていた水野所長が、興味深そうに二人に歩み寄ってきた。


「二人はお知り合いだったのですか……」


楠木の心臓が跳ねる。

水野はにこやかに微笑んだまま、ふと声を落とした。


「……メグ姐さんはご存知なのですか?」


楠木は目を見開き、思わず息を呑む。

(マズイな……)


小声で返す。

「ちょっと説明が面倒なので、伏せておいていただけるとありがたいです」


水野は軽く頷くだけで、それ以上追及する気配は見せない。


だが――楠木の胸には重くのしかかるものがあった。

(また……借りを作ってしまった……いや、これは弱点を握られてしまったに等しい……)


舌打ちをする一方で、妙な安堵感も芽生えていた。

(……水野所長は、朴念仁のように見えて、無神経なわけではない。デリカシーは……あるんだな。)


楠木は苦笑を漏らしながら、内心でそっとため息をついた。


オフィスの広間には、様々な思惑を抱えた人々が集まっていた。

錦糸町に移った田中オフィス――その新たな舞台は、偶然と必然が絡み合う出会いの場になろうとしていた。



ーー火入れ式の珍客ーー

東京・錦糸町の「田中オフィスTokyo」。

ラヴィは新しい来客を応接室へ案内していた。


「今日はお招きいただきありがとうございます」

落ち着いた笑みで挨拶したのは、Oエナジー国際事業部の課長・柴田正史。その隣には妻のリーザが寄り添っている。


ラヴィはにこやかに応じながらも、以前、初めてこの二人を田中オフィスTokyoに案内した時のことを思い出していた。


***


つい2,3日前、柴田と妻リーザは初めて田中オフィスTokyoを訪れていた。

その少し前にラヴィはリーザの両親との出会いがあった。だが、今日初めて会うリーザの夫、柴田正史はどこか落ち着かない。――そして、思わぬ名前が飛び出した。

「そういえば……田中オフィスと聞いて思い出しました。京都のほうに、昔の彼女が勤めていたんです。名前は……稲田美穂」


ラヴィは一瞬、凍りついた。

(な、なんてことだ……!水野所長の彼女、稲田さんの元カレ!? よりによって仕事の依頼で引き合わせてしまったなんて……!)

顔は笑っているのに、心はガクブル状態である。


一方、当の水野は――。

「そうですか。偶然ですね」

さらりと笑って、まるで気にも留めない様子である。

そして、ごく自然に言った。

「僕が今の稲田さんの彼氏ですよ」


……場が凍りついた。


柴田は「えっ……!」と声を漏らし、リーザは目を丸くし、ラヴィは紅茶を噴き出しそうになる。

しかし水野は、空気の重さなどどこ吹く風といった顔でお茶をすするのだ。


ラヴィ・シャルマは目の前で起きていることに、心が追いつかない。

(お、恐ろしい……!普通なら修羅場確定なのに、所長はまるで日常会話みたいに言う……!)


驚愕のあまり固っていた柴田だったが、やがて肩の力が抜け、心の底から妙な納得を覚えた。

(なるほど……俺が振られて、美穂がこの人を選ぶのも当然だ……美穂は今幸せなのだろう。)


横で聞いていたリーザは、さらに深く感動していた。

(これが日本の「心の広さ」……!過去も受け入れて、自然に笑っていられるなんて、すばらしい文化だわ)


その時、水野が軽やかに話題を変えた。

「リーザさん、日本の生活も慣れてこられたでしょう? もしご興味あれば、うちでアルバイトしてみませんか。法律関係の業務に触れると、日本文化をより深く知ることができますよ」


「まあ!」とリーザは目を輝かせ、迷うことなく答えた。

「ぜひお願いします!」


その場で即決。

夫・柴田も「さすがだな……」と苦笑するしかない。


一連のやりとりを目の前で見ていたラヴィは、もう呆然とするしかなかった。

(な、なんなんだこの展開は……!修羅場になるはずが、気づけば奥さんをアルバイトに勧誘している!?)


リーザの申請書などの書類を確認して受け取り、ラヴィは安心しかけたが…。


そのとき、「あのっ水野さん!」と柴田正文は立ち上がった。

「美穂さんとお付き合いはしていましたが、あの、決してそういった関係ではなく…」

水野に稲田とは清い交際であったと伝えたかったのだが、言葉がみつからない。

「キスは…したことは、ありますが…」


水野は、全て分かっているという風に「お互い、思い出は大切にしましょう」と答える。


隣でリーザは微笑んで柴田の横顔を見つめる。この人は、誠実で、ウソのつけない人。

不器用な話し方しかできない、日本語でもね。


修羅場が蒸し返されるかと身構えたラヴィは、ほっと胸をなでおろした。


***


こうして柴田夫妻は本日「火入れ式」の後に行われる、元大学教授の「セミナー」にも参加を希望することになったのだ。



ーー竹中顧問の久しぶりの講義ーー

竹中顧問は、演台のマイクを軽く叩いて、語り始めた。


「貴重なお時間を頂いていますので、早速にお話始めますね…皆様よろしくおねがいします。

私はこれまで、大学で行動経済学を講じ、ネットでは『総裁Z』として動画を配信してきました。だが今日、こうして皆さんと顔を合わせる場こそ、本当に人の心を動かす瞬間だと思うのです」


会場が静まり返る。


「ビジネスは論理だけでは動かない。人は感情で動き、モノで納得する。私の信条は『見て、感じて、創れ!』です。机上の理屈にとどまらず、実際に見せる、体験させる、そして創り出す。これが組織を前に進める力となる」


竹中顧問は、スクリーンに投影されたグラフを指し示した。

それは「Integrate Sphere」導入後の業務効率化シミュレーションであった。


「半田君、君は導入の主任だね。数字を扱うときは必ず“人がどう感じるか”を忘れてはならない。データは冷たい。だが、解釈は熱を帯びる。珠実さんのように『なんでもやります!』と声を出す人材がいて初めて、冷たいシステムが温かい仕事場に変わるんです」


「はいっ!」と珠実が元気よく返事をする。会場が笑いに包まれた。


竹中顧問はさらに声を張った。

「諸君、見て、感じて、創れ! これから田中オフィスは、ただの法律事務所ではなく、知恵と技術と人情を束ねるハブになる。その先頭を走るのは、ここにいる君たちだ!――あと、本日お忙しい中お集まり頂いた皆様、私のとりとめもない話にお付き合いいただくことに感謝申し上げます」


言葉は熱を帯び、聴講者の胸に響いた。

水野は静かにペンを置き、確信する――この顧問の存在は、田中オフィスに新たな地平を切り開く、と。


拍手が巻き起こり、錦糸町オフィスの教室はまるで一つの舞台のように熱気を帯びていた。



ーー人魚姫の論説ーー

「さてみなさん、今日はアンデルセン童話の『人魚姫』を、いつもの経済学とは少し違う視点から考えていきましょう。経済学というと、合理的な人間、つまり「ホモ・エコノミクス」が前提とされています。しかし、人間は本当に、いつでも合理的に行動しているのでしょうか?


『人魚姫』の物語を思い出してください。海の王の末娘である人魚姫は、船の上で王子様を見初めます。嵐で沈没する船から王子を助け出し、恋に落ちてしまう。しかし、人魚は人間にならなければ、王子と結ばれることはできません。彼女はついに、恐ろしい海の魔女の元を訪れます。


魔女は、人魚姫が人間になるために、ある「取引トレード」を提示します。その交換条件は、以下の通りでした。


①人魚の美しい声を魔女に渡す。


②人間の足を得る代わりに、歩くたびに刃物で刺されるような激痛に耐えなければならない。


③王子と結婚できなければ、海の泡となって消えてしまう。


どうですか、みなさん。この取引は、客観的に見て合理的なものでしょうか?


彼女は、声を失い、激痛を伴う足を手に入れ、しかも失敗すれば消滅するという、非常に大きなリスクを負っています。これは、経済学でいう「損失回避(Loss Aversion)」の概念と真逆の行動と言えます。人間は、何かを得ることの喜びよりも、何かを失うことの痛みをより強く感じるものです。普通の人間なら、ここまでの大きなリスクを冒してまで、手に入るかどうかわからない幸せを追求することはないでしょう。


しかし、人魚姫は取引を受け入れます。なぜでしょうか?


それは、彼女が「感情」によって突き動かされたからです。王子への「愛」という感情が、彼女の合理的な判断を曇らせてしまった。合理的に考えれば絶対に受け入れるべきではない取引を、彼女は受け入れてしまったのです。これは、まさに人間が直面する「感情バイアス」の一つの例です。


さらに、この物語には別の行動経済学の概念が隠されています。人魚姫は、王子を助けるという「サンクコスト(埋没費用)」を払っています。自分が助けたという事実が、彼女を前に進ませる大きな理由の一つになったのではないでしょうか。彼女は、王子を助け、恋に落ちるというこれまでの「投資」を無駄にしたくないという気持ちから、合理性のない選択へと追い込まれていったのかもしれません。


さて、この物語の結末は、ご存知の通り悲しいものです。王子は人魚姫が自分を救ってくれたことを知らず、他の女性と結婚します。そして人魚姫は、姉たちが差し出した「王子を殺して人魚に戻る」という最後のチャンスも、王子への愛ゆえに拒否し、自ら海の泡となって消えていく道を選びます。ここでもまた、彼女は合理的な選択を拒んでいます。


『人魚姫』の物語は、私たちが経済学で前提とする「合理的で完璧な人間」は、実は存在しないことを教えてくれています。人間は、感情や過去の行動、そして不確実性の中で、必ずしも合理性だけでは説明できない行動をとる生き物なのです。


では、私たちはこのような非合理性を孕む自分自身と、どのように付き合っていけばいいのでしょうか?


それは、自分の判断が感情やバイアスに影響されていないか、一度立ち止まって「メタ認知」することです。もし人魚姫が魔女との取引の前に、一歩引いて「本当にこのリスクを負うだけの価値があるのか?」と冷静に考えていれば、別の結末を迎えていたかもしれません。


経済学を学ぶということは、単にお金の動きを理解することではありません。人間がなぜ、時に非合理的な選択をするのかを理解し、その上でより良い意思決定を行うためのツールを身につけることなのです。人魚姫の物語から学べることは、意外と多いと思いませんか?」



ーージャックと豆の木の分析ーー

「さて、みなさん。次はイギリスの童話『ジャックと豆の木』を、行動経済学の観点から読み解いていきましょう。この物語もまた、人間の非合理的な行動の宝庫です。


物語の主人公、ジャックは貧しい農家の少年です。母親に言われて、家畜である一頭の牛を市場に売りに行きます。これが物語の最初の、そして最も重要な取引となります。ジャックは市場へ向かう道中、怪しげな老人に出会います。老人は、ジャックの牛を「魔法の豆」と交換しようと持ちかけます。


この取引を経済学的に見てみましょう。ジャックは、食料にもなる貴重な財産である牛と、何の保証もない「魔法の豆」を交換しました。客観的に見れば、これは極めて非合理的な取引です。母親が激怒するのも当然ですね。


しかし、なぜジャックはこのような非合理的な選択をしたのでしょうか?


まず一つは、「不確実性への選好(Preference for Uncertainty)」です。牛を売れば、確実にお金は手に入りますが、それ以上の大きなリターンは期待できません。一方、魔法の豆は、それが本当に魔法であるならば、莫大な富をもたらす可能性があります。ジャックは、確実な小さな利益よりも、不確実ではあるものの大きな利益、いわゆる「宝くじ効果」に惹かれたと考えられます。これは、人間がしばしば非合理的なギャンブルに手を出してしまう心理と似ています。


次に、「過剰な自信(Overconfidence)」です。ジャックは、老人の言葉を信じ込み、自分だけは幸運を掴めると思い込んでいた可能性があります。多くの人間は、自分の能力や将来の予測について、客観的な事実よりも過大に評価しがちです。ジャックもまた、このバイアスによって、冷静な判断ができなかったのかもしれません。


さて、家に帰ったジャックは母親に激怒され、窓から豆を投げ捨てられてしまいます。しかし、次の日の朝、豆は天まで届く巨大な豆の木に成長していました。ジャックは迷わず木を登り、雲の上にある巨人の城にたどり着きます。


ここで、また別の行動経済学の概念が見えてきます。ジャックは、豆を植えるという「投資」を行い、その結果として、これまでの人生では考えられなかった「新たな機会」を得ました。彼は、この機会を逃すまいと、巨大なリスクを冒してでも(巨人に殺されるリスク)、その可能性を追求しました。これは、「機会費用(Opportunity Cost)」の概念と関連付けて考えることができます。ジャックが家に留まるという選択肢(機会)を放棄してまで、豆の木を登るという行動を選んだのです。


そして、ジャックは巨人の城から、金の卵を産む鶏や、一人でに演奏する魔法の竪琴といった財宝を盗み、持ち帰ります。この行動は、リスクを冒してでも、目先の大きな利益を追求するという人間の心理を象徴しています。


『ジャックと豆の木』の物語は、人間が時に、不確実性や過信といった感情によって、客観的に見て非合理的な選択をする様子を見事に描き出しています。しかし同時に、そうした非合理な行動が、時には予期せぬ大きな成功をもたらすこともあるという、人生の皮肉をも示唆しているのです。経済学の前提である「合理的な人間」像は、物語の中のジャックのように、時には「非合理的なジャック」へと姿を変えることを、我々は忘れてはならないのです。」



ーー第一番の質問者ーー

「ここまでお話して皆さんはどう思いますか?――おや、たまちゃんどうぞ」


奥田珠実はちょっと照れながらも、真剣な目をして言葉を続けた。

「子どもに童話を聞かせるのって、ただのお話じゃなくて……大人になってから判断に迷ったときに、どっちがより正しい選択なのか、積極的に考えられる力を養うためなんでしょうか?」


たまちゃんらしい、微笑ましい質問だなあ。と、竹中顧問はニッコリ。

「非常に良い問いかけですね。この二つの童話を通して、私たちは『合理性』だけでは人間を説明できないことを学びました。では、なぜこのような不合理な選択が描かれた物語が、時代を超えて語り継がれてきたのでしょうか?そして、それが私たちの『経済的判断力』を養うことにつながるのでしょうか?


◆童話は『不合理な選択』のシミュレーション

童話は、現実世界ではなかなか経験できないような、極端な状況における人間の行動を、子どもたちに疑似体験させてくれます。『人魚姫』の非合理的な愛の選択、『ジャックと豆の木』の非確実性への賭け。これらは、まさに人生の様々な局面で直面する『判断の岐路』を象徴しています。


私たちは、子どもの頃にこれらの物語を聞くことで、心の奥底に『あんな選択をしたらどうなるか』という教訓を刻み込みます。それは単に『してはいけない』という道徳的な教えだけではありません。むしろ、『人間はこういう時に、こんな不合理な選択をしてしまう可能性がある』という、人間の本質的な『行動バイアス』を無意識のうちに学習しているのです。


◆大人になってからの『判断力』への影響

では、それが大人になってからの経済的判断にどうつながるのか?


私は、童話の記憶が直接的に『どちらがより大きな経済効果を期待できるか』という具体的な計算能力を養うものではないと考えます。それよりも、童話が私たちに与える最も大きな教訓は、『自分の判断が、常に合理的であるとは限らない』という事実の認識です。


人魚姫の教訓: 恋愛や感情が、いかに冷静な判断を曇らせるか。これは、ビジネスにおける『サンクコスト(埋没費用)』や「『情的決断』といった罠を回避するための、一種の予防接種のようなものです。


ジャックの教訓: 確実な利益よりも、不確実な大きなリターンに惹かれる心理。これは、ギャンブルや無謀な投資といった『リスク選好』の罠を自覚するための、最初のステップとなり得ます。


つまり、童話は、私たち自身の『非合理性』を自覚する力を養ってくれるのです。大人になって、判断の岐路に立った時、『もしかしたら、これは感情的なバイアスかもしれない』と一歩立ち止まって考えることができるかどうか。その『メタ認知』の力が、最終的に、より良い経済的判断、ひいては人生の選択につながっていくのです。


結論として、童話は『積極的に判断できる思考力』を養うというよりは、むしろ『自分の判断が危うい時に、それを自覚する力』を養うための、無意識の教育装置ではないでしょうか。


さて、君たちはどう思いますか?童話の記憶は、君たちの人生にどのような影響を与えているでしょうか?」


この問いかけを受けて、竹中顧問とセミナー参加者による白熱討論が始まろうとしていた。

ーー続くーー

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