表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
田中オフィス  作者: 和子
86/90

田中オフィス外伝、猫田洋子の物語

ーーワクワクの物語ーー

むかしむかし、今から1000年も前のこと。

インドのある国に、アショーカ王という立派な王さまが住んでいました。


ある日、アショーカ王のお后さまに、ずっと待ち望んでいた赤ちゃんが生まれました。

王さまはとてもよろこんで、こう言いました。

「この子の名は――サルマーン! きっと強く、美しく育つだろう!」


本当にその通り、サルマーン王子は日に日にたくましく育ち、国中の人々に愛されました。


やがて次の弟も生まれました。名はダッカ。

生まれてすぐ、なんと! 森に住むトラのおっぱいを飲んでしまったのです。

そのおかげでダッカは、まるでトラのように力強く成長しました。


さらに三番目の弟が生まれました。名はシャクティ。

兄たちとはちがい、剣より本が好き。知恵にあふれ、いつも落ち着いている少年でした。


王さまの家来の中に、ひときわ変わった戦士がいました。

名はパトゥハル。

その体は石のようにカチコチに硬く、矢も槍も通しません。

でも心はとてもやさしく、娘のパーニをだいじに育てていました。

パーニは心やさしい美しい娘で、みんなの人気者でした。


ところがある日、空を引き裂くような大きな声が響きました。

「ガハハハハ! 地上を滅ぼしに来たぞ!」


あらわれたのは――魔界の王カシム。

顔がなんと三つもあり、腕は六本もある、恐ろしいすがたです。

兵士たちはふるえあがり、誰も近づけません。


カシムは大地を揺らしながら言いました。

「ふん、弱い者をやっつけてもつまらぬ。アショーカ王を倒すのはやめておこう。

その代わり……おい、石の戦士パトゥハル! お前と勝負だ!」


パトゥハルは娘を背にかばいながら、ぐっとこぶしをにぎりました。


するとカシムがニヤリと笑い、恐ろしいけれど、どこかずるい条件を出しました。

「いいか、もしお前が勝ったら、わたしは魔界へ帰ろう。

だが、もしわたしが勝ったら――お前の娘パーニを、魔界につれて帰る!」


王さまも家来たちも、そして王子たちも息をのんで見つめています。


パトゥハルはゆっくりとうなずきました。

「……受けて立とう!」



ーーパーニを取り戻せ!三兄弟の旅立ちーー

パトゥハルは、カシムの恐ろしい力の前になすすべもなく倒れました。

その瞬間、娘のパーニはカシムの六本の腕に捕まえられ、闇の穴から魔界へと連れ去られてしまったのです。


国じゅうが泣きました。

シャクティ王も深く悲しみました。


その知らせを聞いたのは――サルマーン王子でした。

サルマーンにとってパーニは、小さなころからの一番の友だち。

いつもお花を編んでくれたり、一緒にかけっこしたりした、本当の妹のような娘です。


「絶対にパーニを取り戻す!」


サルマーンは、天界旅行から帰るとすぐに、弟たちをたずねて回りました。


まずは火山に住むダッカ。

山の中からゴゴゴと大地が鳴り、真っ赤な炎がゆらめきます。

そこから現れたのは、筋肉モリモリ、トラみたいに強そうなダッカ。


「兄上!魔界に行く? 面白そうじゃないか!俺の拳でカシムをぶんなぐってやる!」

ダッカは力強く笑って、拳をドンと打ち鳴らしました。


次に向かったのは海底に住むシャクティ。

深い海の奥、キラキラ光るサンゴの間に、知恵のある弟シャクティはすわっていました。


「サルマーン兄さん……魔界は危険です。でも、パーニを助けに行くなら私も行きます。知恵で道を開きましょう」


サルマーンはにっこり笑いました。

「これで三人そろった!」


でも、魔界は遠く、人間の足では行けません。

そこで三人は特別な乗り物を呼び出しました。


まず、空を飛んでてきたのは――空飛ぶ大きな象!

その耳を広げると、風に乗ってふわりと空を舞い上がります。

二本の強い牙と長い鼻で、どんな猛獣でも吹き飛ばしてしまいます。


つぎに現れたのは――地球の裏側まで走れるトラ!

一歩踏み出すだけで、大陸をまたいで駆け抜けるスピードです。


そして最後に、海の奥からやってきたのは――深い海の底まで潜れる巨大なイカ!

長い足をぐるぐる巻いて泡を作り、まるで船のように主人を包み込みます。


サルマーン、ダッカ、シャクティは、それぞれにまたがり、力強く声をそろえました。

「さあ、魔界へ出発だ!」


空を飛ぶ象が雲をかき分け、トラが稲妻のように地を走り、巨大イカが海をわけて進みます。


こうして三兄弟の大冒険――パーニを取り戻すための旅がはじまったのです!



ーー猫田洋子の超展開おとぎばなしーー

「――そしてね、アヌシュカちゃん。」

猫田洋子はふかふかの布団の上で、寄り添って眠る少女の髪をなでながら、声をひそめました。


「三人の王子さまたちは、恐ろしい魔界の手下をさんざんに蹴散らして、とうとうカシムの城に近づいたの。

けれど、ここで魔王カシムは考えたわ。

『このままじゃ私が負けてしまう!』」


猫田洋子は顔をしかめ、三つの顔をしたカシムのマネをしてみせます。

アヌシュカは布団の中で「ふふふっ」と笑いました。


「そこでね、カシムはずるいことをしたのよ。

パーニに心をあやつる魔法をかけてしまったの。

“お前は魔界の王女なのだ、三人の王子は悪い敵だぞ”ってね!」

挿絵(By みてみん)

洋子は片手をひらひら動かして、まるで魔法をかけるように演じました。

「するとパーニは目をギラリと光らせて、こう言ったの。

『父上、わたしが敵を倒します!』」


アヌシュカはぱちりと目を見開きました。

「えっ!パーニがお姫さまじゃなくて、魔界の王女になっちゃうの?」


「そう、そうなの。ほんとうは優しい娘なのにね。

でも、悪い魔王カシムは、自分で戦うのがいやで、パーニに三人の王子と戦わせようとしたのよ。

なんて卑怯なんでしょう!」


洋子は大げさにため息をつきました。

そして、アヌシュカの耳元でそっとささやきました。


「さあ、ここからが大事なところ。

パーニは魔法にかけられて、王子たちに剣を向けてしまう。

サルマーンもダッカもシャクティも、どうしていいか分からなくなるの。

だって友だちを傷つけたくなんかないからね。

……さあ、アヌシュカちゃん。もしあなただったら、どうする?」


洋子はにこりと笑い、少女の小さな手をぎゅっと握りました。


アヌシュカは少し考えて、布団から顔を出しました。

「うーん……もしわたしなら……“パーニは本当はやさしいんだよ!”って、ぎゅーって抱きしめる。きっと思い出してくれる!」


「ふふふ、それはとっても素敵な答えだわ。」

洋子はうなずき、まるで舞台女優のように目を輝かせました。


「そう、魔法ってね、剣や炎で壊すよりも、ほんとうの友情や愛の力で溶けるものなのよ。

だから――この物語の続きも、アヌシュカちゃんの夢の中で広がっていくのかもしれないわね。」


猫田洋子は、アヌシュカの額にそっとキスをして、静かに布団を掛け直しました。


そして部屋には、やさしい夜の気配と、夢の中でまだ戦い続けている王子たちの物語が、ふんわりと漂っていました。



ーー魔界のダンス決戦ーー

サルマーンたちは、決してパーニを傷つけられませんでした。

そこで三人は刀や槍、弓をぽとんと地面に捨てて、顔を見合わせました。


「よし、いちかばちか……子どものころに遊んだ、あのダンスだ!」


最初に動いたのはサルマーン。

両腕を大きく広げ、まるで大ワシが空を舞うように、バサッ、バサッと羽ばたくように踊り出しました。

その姿は堂々としていて、力強くて……見ていた魔界の住人たちまで思わず釘づけ!


「わしのダンスだぞ! どうだ!」


すると、魔界の鬼たちも真似しはじめました。

角をゆらして、腕をバタバタさせて……ワシの羽ばたきダンスのつもりですが、なんだかおかしくて見ている方は笑いだしそう。


「これは負けてられない!」


次にダッカが飛び出しました。

両手の指をトラの爪みたいに広げ、強い足でドシン!ドシン!と地をふみしめます。

「ガオオオォー!」と雄たけびを上げながら、虎のような舞を見せました。


その力強い踊りに、魔界の猛獣たちも真似をします。

けれど、爪をふりまわすつもりが、足をからませてひっくり返ったり、雄たけびを上げたつもりが、へんな声で「ニャオーン!」になってしまったり……。

魔界の城じゅうが笑い声でいっぱいになりました。


さて最後は、三男のシャクティの番です。

彼は静かに目を閉じて、すっと一歩前に出ました。


「兄上たち、見ていてください。知恵のダンスを。」


シャクティは両手をくるくる回し、まるで波が寄せては返すように、静かで美しい踊りをはじめました。

その舞は海のリズムのようで、見ていた者の心を落ち着かせます。

周囲には、シャクティを守るように、シャチやサメ、大きなクジラまでも泳いでいます。


魔界の者たちも、いつの間にか武器を置いて、ゆったりと真似をして……恐ろしい魔界がまるでお祭りの広場に変わっていったのです。


パーニもその輪にまきこまれました。

最初は剣をかまえたままでしたが……音楽のないはずのダンスが、だんだん心に響いてきます。

「この踊り……わたし、知ってる……子どものころ、サルマーン兄さまたちと一緒に踊った……」


パーニの目が潤み、剣を落としました。

そして、悪い心の魔術の鎖がカラン、と音を立てて外れたのです。


アヌシュカちゃんの耳もとで、猫田洋子はにっこり笑って囁きました。

「ほらね、戦いよりも、ダンスや笑いの方がずっと強いのよ。友情は魔法をも打ち破るんだから。」



ーー魔界の終わりと、やさしい夜ーー

魔物たちを力で従わせていたカシムは、踊りの渦を見て青ざめました。

ワシのダンス、トラのダンス、海のダンス――魔界じゅうが笑顔で踊り、城がぐらぐら揺れています。


「な、なんだこれは!わしには……ダンスができんっ!」


カシムは両手、いや六本の腕をバタバタさせましたが、ぎこちなくて全然うまくいきません。

三人の王子と、目を覚ましたパーニ、それに魔界の住人や猛獣が一緒になって、カシムの城を揺さぶるほど踊ると……。


ゴゴゴゴゴ……!

魔界の城は大地震のように震えあがりました。


「こ、これはかなわん!」

カシムは情けない声を上げ、ヒュルルル~と空へ飛んで逃げてしまいました。


そして――。

カシムが消えると、あの恐ろしい魔界は、まるで幻だったかのように溶けていき、そこには昔の美しい人間の国が広がっていました。


サルマーン、ダッカ、シャクティ、そしてパーニ。

四人はいっしょに新しい国をたてなおし、仲良く、しあわせに暮らしましたとさ。


めでたし、めでたし。



「……あ、寝ちゃったね。」


猫田洋子はアヌシュカの広げられた両手を布団の中に入れてやります。

きっと物語の登場人物の一人になって一緒に踊っていたのでしょう。

布団の中のアヌシュカの小さな寝息が、規則正しく響いています。


洋子は優しく抱きしめ、まるで姉のようにアヌシュカの額にかかる髪をかきわけた。

その温もりの中で、シャルマ家の夜は静かに、更けていきました。



ーー猫田洋子の回想ーー

アヌシュカの静かな寝息を聞きながら、猫田洋子は思った。

「……ここから先はBL同人の世界になっちゃうんだけどね。すぐ寝てくれてよかった」


小さな体のぬくもりに包まれながら、洋子の胸は不思議な幸福感で満たされていた。

――気がつけば、自分がアバスくらいの年齢のころを思い出していた。


大学に入ってすぐ、彼女はオタクサークルに足を踏み入れた。

そこにいたのは、メタボ気味の男子やガリガリに痩せた男子ばかりで、正直、ちょっとげんなりもした。

けれど、その場に自分が居続ける理由はただひとつ。

――自分の絵に対する評価だった。


「ネコタ氏の絵はプロ並み、いや、それ以上だよ!」

「同人誌即売会の等身大ポスター、お願いできないかな?」


仲間たちの声に、洋子は内心ガッツポーズを決めた。


その中に、ひときわ気になる存在がいた。

数少ない女性同人作家で親友であり、ライバルでもある 三友奈素歌(みともなすか)――本名は鈴木良枝。

彼女は熱心なBLファンで、猫田の創作スタイルに心底感心していた。


「猫田殿のBLストーリーは秀逸ですなあ」

奈素歌は、少し芝居がかった口調で言った。

「インド古典をベースにして絵本風にオリジンを提示して、そのあとで登場人物のカップル話になる。これが最高です。私は『サルマーン×シャクティ』こそ至高と思います! で、余ったダッカには『おにいちゃん大好き』路線のパーニを配置。LOVEにはしないけど救済あり、なんと予定調和な優しい世界!」

挿絵(By みてみん)

猫田は笑いながらうなずいた。

「わかるわー。どの組み合わせも魅力的なのよね。『サルマーン×ダッカ』も香ばしいし、『ダッカ×シャクティ』なんて最高よ。『シャクティ! おれの傍を離れるな』ってセリフだけでズッキューンとくるでしょ?」


「それなっ!」と奈素歌。


「でもね、余ったサルマーンは、とりあえずパーニが引き取ってくれれば、作者も読者も後味が悪くならないの。ほら、カップル成立したら、あとは読者の想像でご自由に……」

猫田はわざと意味深に口を濁した。


二人は机の上に広げたスケッチブックを覗き込む。

そこには、デッサン人形を組み合わせて描かれたラフスケッチが並んでいた。

勢いある線で描かれたポーズは、力強さと緊張感に満ちている。


「……ほんとは人間モデルで描けたら一番いいんだけどね」

猫田は小声でつぶやいた。ふとサークルのオタク男子たちに視線を走らせる。

――いや、さすがにモデルは頼めないな。

「…脳内補正でなんとかするしかないか」


猫田洋子の青春は、そんなクリエイター同士の熱気にあふれていたのだった。



ーー猫田洋子の挫折と再起ーー

コミケの会場に立つと、否が応でもライバル心がかき立てられる。

壁一面に広がるポスター、呼び込みの声、熱気にあふれる売り子の姿。

そのたびに猫田洋子は胸を熱くし、そして焦りも覚えていた。


やがて、彼女はサークルの代表に選ばれた。

その瞬間から、洋子は人が変わったようにメンバーへ厳しく接するようになった。


「ぬるぽ! こんなありきたりのストーリーじゃ出品できないわ!」

他所(よそ)のサークルの作品、ちゃんと読んだことある?」

「これ、どこかで見たことあるわよね? はっきり言ってマルパク!」


声を荒らげることもしばしばだった。

自分が積み上げてきた情熱と比べれば、周囲はあまりにも甘い――そう信じ込んでいた。

猫田の願いはただひとつ。

サークルを同人会の頂点へ押し上げ、次の世代に託すことだった。


だが、その思いはある日、不意に打ち砕かれる。


――商業BL誌の誌面に、自分の目を疑う作品が掲載されていた。

「これ……私の原稿じゃない!」


名前は別人のものに差し替えられていた。

だが内容も構図も、修正の跡まで、自分の原稿そのものだった。

盗まれたのだ。

誰かが原稿を持ち出し、地下編集ルートに流したに違いない。


激怒した洋子は犯人探しに走った。

だが、退会したばかりのメンバーを疑うことしかできず、証拠もない。


問題はそこでは終わらなかった。

仲間たちの非難は、なぜか洋子自身に向けられたのだ。


「仲間を疑いの目で見た。私も辞めます」

「猫田氏にも落ち度があるのでは? 接しかたとか」


次々と突きつけられる言葉に、洋子は息を詰まらせた。

結局、彼女は退会の正規手続きさえとらず、二度とサークルを訪れることはなかった。


後始末は、親友の奈素歌が引き受けた。

「……夏コミの作品、間に合わなかったけどね」

奈素歌の苦笑に、洋子は言葉も出なかった。


胸に残ったのは、裏切りと、人間不信と、誇りを失った空虚さ。

だが――そこから脱却しなければならなかった。


猫田洋子は、自分を立て直すためにメディアの知財管理補助業務のアルバイトを探した。

雑務に追われる日々。契約書の束、権利処理の煩雑さ。

だがそこに「知財を守る」という確かな意義を見つけた。


働きながら、彼女は猛勉強を続けた。

夜を徹して条文を読み、判例を調べ、ノートを埋め尽くす。


やがて数年後――。

猫田洋子はついに弁理士試験に合格する。


かつて失われたプライドも、人への不信も、すべてを乗り越えて。

その胸には、再び燃え立つ新しい情熱が宿っていた。



ーー早朝の出立ーー

猫田洋子は、もともと朝に弱い。

午前十時ぐらいからの仕事始めなど、彼女の日常ではよくあることだった。

けれど、この日は違った。まだ空が白み始めたころ、彼女はラヴィとイヴリンに静かに頭を下げていた。


「アヌシュカちゃんはよく寝てますので……。ウチの事務主任が出仕する前に部屋の鍵を開けておかないといけませんから、私はこれで失礼します。また、日を改めて遊びに来てもいいですか? アヌシュカちゃんに、お話をいっぱい聞かせたいので」


ラヴィは微笑み、イヴリンは少し寂しげにうなずいた。

そうして猫田洋子は始発に近い東部線へと身を揺らし、自宅兼事務所――ネコタ特許知財事務所のあるマンションへと帰っていった。


電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、洋子はふと笑みを漏らす。


「ラヴィはミズノギルド、イヴリンはヒア・ウイゴー……そして両方を束ねる田中オフィス。――このビジネスアライアンスこそ、私の進むべき道だったのね。」


その瞳には眠気の代わりに、冷たい光が宿っていた。

田中オフィスが開発、導入しようとする新・知財管理システム。

あれを、誰にも真似できぬほどの性能に仕立てあげる。

そのためには、ある駒が必要だ。


「佐藤美咲――。あの腹黒メイドを、知財法務の鉄槌で叩きあげないと。」


洋子は肩をすくめ、ため息とも笑いともつかぬ息をもらす。

すでに頭の中には、美咲の顔が浮かんでいた。まだ無垢で、まだ自分の役割を理解していない小娘。


佐藤美咲はまだ知らなかった。

今日から、自分に降りかかることになる“地獄のようなハードワーク”を。


洋子の目元には、姉のような優しさと、鬼教師のような冷徹さが交互にちらついていた。

その朝、彼女が東部線で運んできたものは――未来への扉と、試練の鉄槌だった。



ーー活気あふれる事務所の朝ーー

朝の光が差し込むネコタ特許知財事務所。

そこには、昨日までの迷いを振り払った猫田洋子の姿があった。

挿絵(By みてみん)

グレーのパンツスーツをきりっと着こなし、髪をきっちり編み上げたその横顔は、もう「夜型の気まぐれな弁理士」ではない。まるで戦場に立つ将のように、まっすぐにデスクへ向かっている。


一方、対照的な姿がすぐ隣にあった。

佐藤美咲――メイド服に着替える余裕もなく、髪を振り乱し、机に積み上げられた書類の山と格闘している。

挿絵(By みてみん)

紙の擦れる音、キーボードを叩く音、ため息と呻き声。まるで彼女の周囲だけが小さな戦場だ。


「自分で、この書類の山をいかにデジタイゼーションしていくのか考えるのよ!」

洋子の鋭い声が飛ぶ。

ここから手をつけないと、デジタライゼーション、そしてデジタルトランスフォーメーション(DX)へ、こうしてようやくシステム開発の下地が出来上がるのだ。


「分類基準の設計、データベースの構築、やることは山ほどあるわ! ――あ、システム設計書も必要ね。期限は今月中。ラヴィさんに早く見せないと時間がないわよ!」


美咲は思わずペンを落とした。

「ええっ、今月中ですか!? ぜ、全部ですか!?」

「当たり前でしょう!」

猫田洋子は眉一つ動かさない。


いつの間にか午前十時。

普段なら紅茶とお菓子でくつろぐティータイムのはずだが、今日ばかりは美咲の頭の片隅からすっかり吹き飛んでいた。


「――それから。」

洋子が次の指示を投げる。

「今日は和解の立会いで簡易裁判所に13時30分。13時前に昼食を終えて出発するから、準備しといて」


「は、はい!」


「帰りにヒア・ウイゴーに寄っていくから、そこで休憩よ。アバスくんたちにお茶菓子の差し入れを持っていきましょう。そうね……豆大福がいいかしら」


少し表情を和らげた洋子が、デスクに肘をついて思い出すように呟いた。

「駅ビルの中に、丹波黒豆のやつが売ってたわよね。あれを買いましょう」


怒涛の指示と優雅な好み。

厳しさと柔らかさが交互に押し寄せ、事務所は一気に活気に満ちていく。


佐藤美咲は、額の汗をぬぐいながら唇をかみしめた。

――これが、猫田洋子の仕事のリズム。

振り落とされまいと必死に食らいつくしかない。


そして今日も、ネコタ特許知財事務所の朝は熱を帯びて始まっていった。

ーー別の話へ続くーー


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ