田中オフィス外伝、地獄メイドの日記帳より
ーー厨房のむこうに見ゆるものーー
私、佐藤美咲は、田中オフィスにて誠実に勤めて参りましたが、ある日、所長・水野様のご命令により、とある高貴なお嬢様の身の回りのお世話を仰せつかることとなりました。
東京の職場より通い詰める日々は、時に陰鬱として心を曇らせ、ときに優しい光が差し込むように、まるで夢幻の中に身を置いて暮らしているかのような心地でございました。
やがて、後を託すべき人も現れ、トレーニーという辞令と正式にネコタ特許知財事務所に事務主任という役名を頂戴し、これこそが私の生きる道と心得て、特許・知的財産の法務に携わりながら、猫田洋子お嬢様の下働きとして日々を過ごしておりましたところ、いつしか周囲の空気が、静かに、しかし確かに色づき始めてまいりました。
そのような折々の出来事を、ささやかながら日誌の端に書き留めておこうと存じます。
ーー隠れるな、抗えーー
白い照明に照らされた応接室で、肥後香津沙は腕を組んでアバスをじっと見つめていた。隣には母のイヴリン。淡いグレーのストールを巻いたその姿は、彫金師というより舞台女優のような気配を纏っていた。
数日前のことだ。イヴリンが何気なくアップした彫金動画。そこに偶然映りこんだアバスの横顔が、思いもよらず視聴者の心をさらった。再生数は急上昇。下校途中の彼を狙って勧誘する芸能事務所の人間まで現れる騒ぎに発展していた。
「この際、隠すより正式に《ヒア・ウイゴー》に入っちゃえばどう?」
香津沙は真剣な眼差しを向ける。「学業に差し支えるなら、この事務所で勉強するといいわよ。うちなら大切な君の勉強時間を守れる」
アバスは眉を寄せて小さくため息をついた。
「……色めがねで見られるのには慣れています。迷惑だと感じたときは、直接『つきまとうのはやめてください』と伝えました」
その声には冷静な響きがあったが、若者らしい苛立ちもにじんでいた。
香津沙はしばし沈黙し、やがてゆっくりと頷いた。
「……なるほど。筋は通ってるわね。でも、アバス君」
彼女は身体を乗り出し、言葉に重みを込めた。
「これは君が一生、付き合わなければならない宿命みたいなものよ。意図しなくても、君からは芸能人オーラがあふれ出している。寄ってくる人全員に『やめて』なんて言えるはずがないでしょう?」
香津沙の声は、母親のようでもあり、プロデューサーの鋭さも孕んでいた。
「ならば覚悟を決めるの。――芸能人オーラを持った一般人から、本物の芸能人へ。宿命に立ち向かう道は、それしかないのよ」
部屋の空気が、わずかに張りつめた。
アバスの瞳に、迷いと反発と、そしてまだ見ぬ未来の光が交錯していた。
ラヴィ・シャルマが静かに口を開いた。
「……他人の好奇心に蓋をすることはできません。怯えて目を伏せれば、相手は嵩に乗り、ますます増長した行動を取るでしょう」
その声音は、異国の訛りをほとんど感じさせない日本語でありながら、どこか毅然とした響きを持っていた。
父の視線を真正面から受け止めて、アバスはわずかに肩をすくめた。
「……お父さん」
「肥後さんのお言葉に従いなさい。法的な問題が発生したら、私が出る」
ラヴィの声には、行政書士としての自信と、父としての決意が重なっていた。
隣でイヴリンが小さく首を振る。
「……ごめんなさい、アバス。私のせいよ。配信素材には十分注意するべきだった。母親として落ち度があったの。許して」
しんとした空気を切り裂いたのは、レンチンズ北の大きな声だった。
「一生子供を守ることはできんのやで! アバス君は遅かれ早かれ注目を集める見た目や。しゃーない、男なら立ち向かっていかんとな!」
すかさずレンチンズ飯野が続く。
「せやせや! モテへんで泣いて暮らしてる奴らもようけおるねんで! 親からもろた顔、感謝して生かさんでどないすんねん!」
二人の賑やかな声に、沈んでいた空気がふっと和らいだ。
アバスは思わず苦笑し、イヴリンの目尻にも涙とは違う笑みがにじんだ。
香津沙は立ち上がり、軽やかに手を叩いた。
「よし! 話はまとまったわね。アバス君、こっちにいらっしゃい。まずは宣材写真よ。事務所のタレント名鑑に載せるから」
眩しい照明が再び点された瞬間、部屋は重苦しさから解き放たれ、未来への入口に変わった。
アバスは深く息を吸い込むと、まるで新しい舞台に一歩踏み出すように、香津沙の前へ歩み寄った。
ーーテレビのお仕事ーー
翌日からアバスは、学校が終わると錦糸町の《ヒア・ウイゴー》に直行する生活になった。
友人たちには一応知らせておく。
「……こんど、芸能事務所に入ったんだ」
教室は一瞬ざわついたが、アバスの声音が妙に淡々としていたせいか、誰も「自慢だ」とは感じなかった。むしろ「おお、マジか!」という驚きのほうが大きかった。
もちろん学校に届けを出さねばならないので、担任の翠川さつき先生にも報告済みだ。
「すごい! こんどテレビに出るんですって?!」
きらきらした瞳で身を乗り出す先生に、アバスは手を振って慌てて訂正する。
「いえ、出演じゃなくて……『突撃米造り農家』っていう番組で、スタッフとして写り込みます。僕はドローン撮影係なんです。許可を得て飛ばせるので、練習にはもってこいで……」
その日のロケ現場。
青空の下、アバスの操縦するドローンが軽快に上昇した。カメラは稲穂の波を抜け、農家の笑顔を映し、そしてターゲットは――レンチンズの二人。
「ちょ、近い近い! カメラ寄りすぎやって!」
「うわあああっ! 急降下してきたぁぁ!」
演出とはいえ、ドローンがギリギリまで迫ってくると迫力は本物だ。レンチンズ北は田んぼの畦道を全力疾走、飯野は藁ぼっちの陰に転げ込み、観覧の子どもたちは大爆笑。
「お前、まるで戦闘機やないか!」
「バラエティ番組でロック・オンされる芸人どこにおんねん!」
ドローンがぐんと上昇し、視界から消えた瞬間、画面に赤いテロップが踊った。
[※番組構成上の演出です。危険ですから絶対にマネしないでください]
ノック・アウトで田んぼに寝転んだレンチンズ二人の肩越しに、空高く飛び去るドローン。
その操縦機を持ってアバスは冷静な顔をしていたが、口元にはほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
「あのスタッフさん面白い」「帽子とマスク取ったらすごいイケメン!」「ランウェイできっと映える!」
ローカル局の番組に過ぎなかったが、映像素材が少ないぶん、スマホ越しの画面撮り動画がXに拡散し、にわかに熱気を帯びていた。
その夜。猫田洋子はソファに寝転がり、スマホを手にしていた。
ネットでバズリ始めたイケメンのインド人青年というショート動画を何回も再生していた。
うっとりした声を漏らしながらスクロールを止めると、横から「ぎゃあっ!」という悲鳴が飛んできた。
メイド長の佐藤美咲だ。
「お、お嬢様っ! 首が……首がありえない方向に曲がってますっ!」
洋子は涼しい顔で答えた。彼女の体は名にし負う柔軟性を持っていた。
「ヨガよ。こうしたほうがスマホが見やすいの」
背骨が大きく曲がり、頭が腰のあたりにまで下がっている姿勢のまま、彼女は動画を眺め続けた。
「それにしても……このスタッフ、顔がはっきり見えないのねえ」
と、そのとき。
――ピンポーン。
インターフォンの音が鳴り、佐藤が玄関モニターを覗き込む。
「お嬢様、イヴリンさんがお見えです。息子さんもご一緒だとか……」
「ええっ」
洋子は一瞬で飛び起きた。さすがにヨガ姿勢のままではまずい。さっと服を整え、居住まいを正す。
「いらっしゃい、イヴリン。今日のご用は?」
にこやかに迎えた彼女の視線が、イヴリンの隣の青年に向いた。
その瞬間――洋子の呼吸が止まりかけた。
「……サ、サルマーン!」
それは彼女が同人作家時代、インド聖典をモチーフに描いた架空の王太子。その姿が現実の肉体を得て目の前に立っているかのように見えたのだ。
視線は釘付け。耳に入るはずのイヴリンの言葉も霞んでいく。
今日訪れたのは、息子アバスが、アルバイトではあるが芸能事務所に所属することになって、肖像権などの法律上の注意点を確認するためだ。
「肥後香津沙さんから伺って……アバス・シャルマは本名だし、意匠も商標も関係ないと思うけど、猫田さんに相談しておいたほうがいいと……」
しかし、猫田洋子は返事をするどころか、レンタル猫田のように静まり返っていた。いつもの饒舌が嘘のように消えている。
なんとか声を絞り出す。
「そ、その……息子さん、アバス君は……高校生なの……? 年齢は?」
「17歳です」イヴリンが答えた。
洋子は一瞬、胸の奥でため息をついた。
(……17歳。私、もうすぐ29歳。12歳差……)
心の中にわき起こる感情を抑えきれず、ただアバスの横顔に視線を釘付けにしたまま、猫田洋子は呆然としていた。
ーーロマンスの神様は?--
玄関のドアが閉まると同時に、猫田洋子はソファから立ち上がった。
「――あ、あ~~~~!」
部屋をぐるぐると歩き回り、髪をかきむしり、挙動は完全に錯乱状態。
「間違えて! 間違えて、十年早く生まれてしまった~~!」
その叫び声は、まるで時空に抗議するかのようだった。
やがて力尽きたようにソファへ倒れ込み、手をひらひら振って言い放つ。
「ブランケット持ってきて!」
メイド長・佐藤三咲は慣れた様子で薄手のタオルケットを取りに行き、そっと彼女にかけてやる。さらに優しく背中をなでながら、真顔で言った。
「お嬢様……まさか、あの青年アバス君にお会いしてからのご様子……。これは、愛なのですね」
洋子はタオルケットにくるまり、両手で頭を抱えた。
「しらん、しらん! 愛とか言うな! 私が十年以上描き続けたインド聖典の王太子サルマーンが! まさかこんなタイムパラドックスで現れるなんてぇ!」
歓喜に身を震わせながらも、現実の年齢差と“自作キャラそっくり”という運命の悪戯に、心はかき乱されるばかり。
「どうすんの、これぇぇぇ! 責任取ってよ、時空の神様あああ!」
ソファの上でじたばた暴れる猫田に、三咲はそっと小さく息をついた。
「……お嬢様、また“ブチ切れ猫田モード”が始まったわね」
部屋の空気は、恋と混乱と絶望がないまぜになった、まるで修羅場のようであった。
ーーまずはお茶でもーー
「お紅茶、淹れてまいりますね」
佐藤美咲は厨房に下がると、カップを並べながらひとり呟いた。
「……鎮静効果なら、やはりカモミールかしら」
しかしその声には妙な熱がこもっていた。鎮めるのはお嬢様の心――だが、自分の胸はどうだ。むしろ高鳴るばかり。
「かうぃい……かうぃいですわ……お嬢様……!」
陶器のポットに湯を注ぎながら、口元が緩む。
恋に泣きじゃくりソファで転げ回った猫田お嬢様。目を赤くし、声を裏返し、「どうすんのこれええ!」と時空に八つ当たりする姿。
その全てが、たまらなく愛らしい。
きっと、泣き疲れて寝てしまう。
(……寝顔を、撮ってしまおうかしら?)
ふとよぎった背徳の思い。仕えて百日、長いようで一瞬だった。涙で目を腫らした寝顔をカメラに収めるチャンスなど、そうそう巡ってはこない。これは天が与えた好機。
紅茶を注ぐ手が震えた。
「お嬢様……願ってもいないシチュエーションですわ……」
彼女の忠誠心は、ときに歪んだ形で燃え上がる。
それでも美咲は確信していた。自分は地獄の底からでもお嬢様を支える。恋に破れても、破滅の道を歩んでも、その背中を押し続ける――それこそが“メイドの誓い”だからだ。
「ふふ……お嬢様。恋に惑う姿も、全部余すところなく、私が見届けて差し上げますわ」
蒸らし終えたカモミールティーの香りが立ち上り、厨房は甘い香りと危うい忠誠心に包まれていた。
ーー運命に立ち向かうーー
(……起きてやがる)
佐藤美咲はソファで放心しているはずのお嬢様が起き上がっていることを確認して、がっかりした。期待に反して、猫田洋子はノートPCに張り付いていた。検索窓には「高校生 結婚 法律 条件」と打ち込まれている。
「お嬢様……紅茶をお持ちしました」
「置いといて! 今、重要な調査中なのよ」
冷ややかな声。それでも佐藤はへこたれない。むしろ高揚する。タブレットを手にして、にじり寄った。
「では、私もお手伝いを……。時空を捻じ曲げる方法を探すのですね!」
「アホか!」
バンッと机を叩く洋子。瞳はギラギラと燃えている。
「現実的に可能性を探るのよ! 四十までは子どもも作れるわ! アバスくん……いいえ、私のサルマーンのために、彼のライフプランに猫田洋子を組み込む手立てを考えるのよ!」
その言葉に、美咲はわざと身を縮めてみせた。
「お嬢様……こわぁい!」
眉間に皺を寄せながら、口元は笑っている。
(ああ、崩れていく……。これぞ愛に狂うお嬢様……尊い……!)
洋子はスクリーンを食い入るように見つめながら、次々と検索ワードを打ち込む。
「海外留学 未成年婚」「日本 国際結婚 条件」「年下夫 成功例」
「ふふ……ふふふ……。まだ道はある。あるはずよ……!」
瞳はどんどん虚ろになり、理性の糸は解けていく。
美咲はその姿を一瞬も逃さず瞳に刻み込みながら、忠実なる地獄メイドとして小声で実況した。
「はい、ただいまお嬢様は完全に正気を失っております……。この狂気、100日仕えた甲斐がございます……」
猫田洋子はついに手帳を取り出し、「アバス17歳、猫田29歳、差12歳……! ぎりぎり計算は合う!」とぶつぶつ書き込みはじめる。
その横で佐藤美咲は、紅茶の湯気に顔を隠しながら、口元を震わせて笑っていた。
ーー東京MTVの会議室ーー
「視聴率、いい感じに跳ねてます!」編成担当が声を弾ませる。「やはりドローンを操るイケメンスタッフ――いや、イケメン演者ですね! アバスくんをもっと前に出しましょう!」
こうして番組は奇妙な変貌を遂げた。レンチンズの二人はスタジオワイプで桑島アナと共に笑ったり驚いたりする役目に回され、ロケ現場では「電流パラレル」と「アバス」の掛け合いがメインになっていった。
撮影の現場。
いつもより観客が多い。カメラが回ると同時に、ギャラリーから黄色い声があがった。
「ワシらのファンにしては……客層が違うような」カズが小声でつぶやく。
「ちゃうわ、みんなアバスくん目当てやで」リョウが肩をすくめる。
視線の先では、帽子を外したアバスがドローンを手にして笑っている。照明に照らされた横顔は、まるで雑誌のグラビア。観客席で身を乗り出しているのは、彼と同年代の女子ではなく、子育てを終えた世代の奥様方だった。
「王子様みたい……!」
「うちの息子もあんな子だったら……!」
溜め息まじりの歓声があがる。
その群衆の後方に、猫田洋子と佐藤美咲の姿もあった。
猫田はぎゅっとハンカチを握りしめ、観客の声に眉をひそめる。
「なんで高齢層に人気なのよ!」
隣の佐藤は、まるで子守歌でも歌うように柔らかい声で囁いた。
「お嬢様、よかったですね。ここではお嬢様が一番若手のようですよ」
くふふ……。
その笑みには、忠誠とからかいと、少しの悪魔的愉悦が入り混じっていた。
猫田洋子は顔を真っ赤にしながらも、視線を逸らせない。スポットライトを浴びて立つアバスの姿は、どこまでも「サルマーン王太子」に重なっていた。
ーー平日の午後ーー
錦糸町にあるヒア・ウイゴー事務所の一角、窓際のスペースに新しい机が置かれていた。新品のノートパソコンと文房具一式、そして観葉植物まで添えられている。そこに座るのは、もちろん――アバス・シャルマである。制服姿のままノートを広げ、真面目に課題に取り組む彼の姿は、ちょっとした学習塾のポスターのようだ。
その後ろで、狭い応接コーナーに腰を下ろしているのが二組の芸人。レンチンズの北と飯野、電流パラレルのカズとリョウである。
紙コップのコーヒーを啜りながら、電パラ・カズがぽつりとつぶやいた。
「アバスくん、待遇ええわあ……」
北はにやりと笑って、顎をしゃくる。
「ヒア・ウイゴー初の期待の新星や。おまえらはまず錦糸町演芸ホールのスターにならんとな」
飯野はコーヒーを飲み干して、遠い目をした。
「懐かしいわ。ワシも若い頃は女性ファンがすごかったわ」
「いやいやいや」北が即座にツッコミを入れる。「ワシらのファンは千日前のキャバ嬢ばっかやったやろ」
狭い応接コーナーに笑いが起きる。
電パラ・リョウはというと、カップを両手で持ちながら真顔でぼやいた。
「それでも女性ファンいて、うらやましいです」
レンチンズの二人が噴出す。つられて電流パラレルも苦笑い。
次の瞬間、全員がドッと笑い出した。
その笑い声を背に受けながら、アバスは振り返らず、ただ静かに数式を解いていた。窓から差し込む午後の光に照らされた横顔は、芸人たちのどんな冗談よりも眩しく見えた。
ーー猫田の差し入れーー
狭い応接コーナーのドタバタに、さらに新たな波乱が押し寄せた。
「アバスくん、来ているかしら?」
扉の向こうから猫田洋子が登場する。地獄メイド佐藤美咲を伴って、颯爽と現れた。
アバスは立ち上がり、丁寧にお辞儀する。そして恭しく女王様に拝謁するかの如くご挨拶の言葉を発する。
「猫田先生。父と母がいつも大変お世話になっています。僕、猫田先生を尊敬しています。弁理士として、特許法に関するお仕事をたくさん手がけられているとか……。僕も一生懸命勉強して、猫田先生みたいになりたいです」
その一言で、猫田の三半規管は軽く崩れた。天井が回ってよろめき、佐藤美咲の腕に支えられる。
(この子は……猫田お嬢様の脳細胞を焼き切る気か……アバス、恐ろしい子……)
猫田は何とか立て直し、弁当箱を取り出した。
「い、いいのよ、私は……それよりこれ、どうぞ」
もちろん、メイド長に持たせず、自分の手で持ってきた手提げ袋を差し出す。
「これ、私が自分で食べようと作った『出汁巻き卵』。あなたにもついでだからあげるわ」
ついでだから、という言葉の裏には、いくつもの焦げ付きと格闘し苦労して苦労してやっとこさ作り上げた痕が隠されている。猫田はその逸品を、自分の手からアバスの手に渡そうとしていたのだ。
アバスは無邪気に受け取り、にこりと笑う。
「ありがとうございます。頂いていきます。うちに帰ったら家族で頂きますね」
その天然っぷりに、猫田は目を見開く。
「あ、あ~っ! ダメ、アバスくんのために、いや、ご家族で食べるのなら、あなた責任とって味見をしないと!」
後ろで微笑む佐藤美咲は、横を向いて声に出さず口パクで呟いた。
(セキニントッテ……)
そして何事もなかったかのように、ニッコリして向き直る。
その瞬間、ヒア・ウイゴーの芸人の楽屋裏のような空間に、ツンデレ×天然×地獄メイドの三重奏で、微妙に香ばしい空気に包まれたのだった。
ーーお招き猫田ーー
事務所の空気がちょうど落ち着いたころ、扉が開いてイヴリンが現れた。隣には肥後香津沙もいる。
「お疲れさま。アバス、もう勉強は終わった?」
アバスは嬉しそうに母に駆け寄り、小さな弁当箱を掲げる。
「お母さん、猫田先生から『出汁巻き卵』を頂きました」
「あら、先生ありがとうございます」
イヴリンはにこやかに頭を下げ、それからふと思いついたように言葉を添えた。
「……あの、宜しかったら今からウチにいらっしゃいませんか? 夕飯をご一緒に。もちろん佐藤さんも」
一同の視線が一斉に地獄メイド・佐藤美咲に集まる。だが、彼女の判断に迷いはなかった。
「せっかくですが、ご遠慮させていただきます。私、実家通いなものですから。遅くなると家族が心配します」
その声色は礼儀正しく、しかし有無を言わせぬ決断の響きを含んでいた。
(他所の家族に心配をかけて、無理に食卓に招くことはありませんわ。お嬢様……)
猫田洋子はわずかに瞳を揺らし、すぐに目で訴えた。
(ちょっと、メイド長。私一人で行けというの?)
佐藤美咲はタブレットを抱え、にっこり微笑みながら目で返す。
(メイドは場違いですわ。――Good luck!)
※ここからのお話は、あとでイヴリンさんや、ラヴィさん、そして猫田お嬢様から直接伺った話を、とりとめもなく書き残したものでございます・・・
肥後香津沙が「行ってらっしゃい」と背を押すように笑ったのを最後に、イヴリン、アバス、そして猫田洋子は連れ立って東武伊勢崎線のホームに立っていた。
向かう先は竹ノ塚。
猫田洋子の胸は高鳴っていた。
(……よりによって、あの子の家族の食卓に……私、どうすればいいのよ!)
車輪の音が近づく。やがて来た電車に揺られ、三人は東京のベッドタウンへと運ばれていった。
ーー夜道ーー
竹ノ塚の駅を降りると、煌々とした繁華街を抜け、道は次第に静かな住宅街へと変わっていった。街灯の下には、買い物帰りの外国人家族や、夜勤へ急ぐ人々の姿が目立つ。異国の言葉がすれ違うたびに耳に飛び込んできて、この街が多様な暮らしを抱えていることを物語っていた。
イヴリンが振り返り、穏やかな声で言った。
「ここは、外国人の居住者も結構多いのですよ。……あんまり遅い時間に歩くと、少し怖いですよね」
そのとき、アバスが猫田の方を見て、まっすぐに手を差し伸べた。
「猫田先生、よろしかったら……僕の手に掴まってください」
その言葉に、猫田は一瞬、胸が跳ねた。
何も言わず、差し出された手を握る。指先からじんわりと伝わる温もりに、呼吸が浅くなる。
アバスの背はすでに175センチに達していた。夜の灯りに伸びた影は大人びていて、まだ成長する余地すら感じさせる。対して猫田の身長は150センチにも満たない。
後ろから見れば――まるで兄に寄り添う妹のようだろう。
猫田は思わず、両手でその手をしっかりと包み込む。何も言葉は出なかった。ただ、ひとつひとつの足取りが彼の隣にあることを確かめるように、静かにシャルマ家へと向かっていった。
ーーシャルマ家の一族ーー
玄関の灯りに照らされて立っていたのは、ラヴィ・シャルマだった。
「ようこそ、猫田先生。いつかお招きしたいとずっと願っていたんですよ」
普段よりも声が弾んでいる。家長としての誇らしさが、表情ににじんでいた。
いつもの猫田なら、「ずいぶん田舎ね」「まあ、せっかくだからごちそうになるわ」と軽口をたたくはずだった。だが今夜の彼女は違った。アバスの手を握ったまま、恥ずかしそうに下を向いているのだ。
はっと気付いて慌てて手を離すと、深々と頭を下げた。
「本日はお招きにあずかり、真にありがとうございます……」
アバスが口を開いた。
「父さん、猫田先生から『出汁巻き卵』を頂きました」
ラヴィは目を丸くし、そして満面の笑みを浮かべた。
「先生のお手製ですか、これは感激です。さあさ、どうぞお入りください」
靴を脱ぎ、畳の廊下に上がると、奥から小さな足音が近づいてきた。アビシェクとアヌシュカ、二人の子どもたちが顔を出す。母と兄の帰りを待っていたのだ。
「やあ、かわいいお客さんだ。どちらのお子さんですか?」とアビシェクが無邪気に声をかける。
「アビシェク!」
イヴリンがすぐさま制した。
「失礼なことを言ってはいけません。この方はお父さんやお母さんがいつもお世話になっている、弁理士の猫田先生なのよ」
アビシェクは心底驚いた。
自分よりも小さい――。いや、下手をすれば自分のクラスでも小柄な方に入るだろう。それが「先生」と呼ばれる大人だなんて。
アヌシュカはというと、兄の後ろに隠れ、じっと猫田を見つめていた。小動物のように大きな瞳を瞬かせながら。
玄関には、不思議な緊張感と、どこか温かな家族の空気が漂っていた。
ーーシャルマ家の食卓ーー
食卓は、家庭の団欒を物語る品々で彩られていた。
大皿に盛られた日本の肉じゃがと、香り高い鶏大根のカレー。冷奴には青ねぎが散らされ、その隣にはビンディマサラ――オクラのスパイス炒めが並ぶ。質素な日常食でありながら、異国の色彩が自然に溶け込んだ、国際色豊かなディナーだった。
団欒のステージを回すのは、父ラヴィと次男アビシェクである。
ラヴィが冗談を飛ばせば、アビシェクがすかさず受けて返す。その応酬に、アバスが絶妙なタイミングでコメントを挟み、場をさらに盛り上げる。
「父さん、それは昭和のギャグだよ」
「お前に昭和を語られるとはな、わしも年を取ったもんだ」
母イヴリンは、呆れ顔でため息をつきながらも「よしなさい」と割って入り、最後にアヌシュカの太陽のような笑い声が場を照らす。
――私って、すごく場違い……。
猫田は箸を動かしながら、そんな思いを胸に抱いていた。
その気配を感じ取ったのか、イヴリンがふと猫田に向き直る。
「騒がしくて落ち着いて食べられないでしょう?」
猫田は慌てて首を振るが、イヴリンは穏やかな笑みを浮かべた。
「でもね、夏休みのころは淋しかったのよ。アバスは京都に行っていたし、アビシェクは週に二日しか家に居なかったの。”笑角亭来福”っていう落語家の内弟子になって修行してたからね」
――落語家の内弟子?
思わず聞き返しそうになったが、猫田は口をつぐんだ。
今、目の前に広がる光景はどうだろう。
笑い声が飛び交い、突っ込みと拍手が絶えない。
五人家族の食卓は、まるでお茶の間コントのステージ。自分は客席に座った一人の観客で、満員の観衆と一緒に、その賑やかな芝居を見ているかのようだった。
ーーイヴリンの気づきーー
イヴリンは、食卓の空気が少し和んだのを見計らったように、ゆっくりと語り始めた。
その声音は静かでありながら、奥に確かな熱を秘めていた。
そしてその視線は、まっすぐに猫田へと向けられていた。
「あの頃思っていたのは、いずれこのアヌシュカまで、この家を出て行くのは疑いようのない未来だと。そう考えると、私はふさぎこむことが多くなり、夫婦の会話も減っていったのです……」
ラヴィが一瞬、顔を曇らせたが、イヴリンはそれを押しとどめるように微笑んだ。
「そんなときでした。仕事に家族を映し出すこと――そして、その日常を動画として配信することで、私の未来が再び明るく輝きだしたんです」
その声には、確かな実感と温もりがこもっていた。
そして彼女は、ゆっくりと言葉を結んだ。
「それを気づかせてくれたのが……猫田先生、あなただったんです」
猫田は驚きに目を見開いた。
胸の奥に、思いがけない波紋が広がっていく。
――私が、そんなことを?
自分の存在が、この家の未来に光を灯したというのか。
猫田は言葉を失い、ただ膝の上で手を組みながら、イヴリンの真剣な瞳を見つめ返すしかなかった。
「あれは、初めて先生の事務所をお伺いした日のことです。正直に言うと……あまり期待していませんでした。でも、ラヴィに薦められて、肥後香津沙さんと一緒にお邪魔したんです」
ラヴィが「え?」と小さく反応する。だがイヴリンは目を伏せ、思い出すように言葉を紡いでいく。
「そこで伺ったプラン――『子供たちの、家族の思い出を作品として販売し、商標登録する。それをYoutuberとして発信していく』。家族の肖像を、まるでスナップ写真のようにアクセサリへと形を変えていくこと……そのとき私は思ったのです。これは私にしかできないことだ、と」
イヴリンの瞳が、猫田に向けられる。
「私はこのために、今こうして存在している。その気づきを与えてくれたのが、猫田先生……あなたなんです」
ラヴィは驚きを隠せず、背筋を伸ばした。
「そうだったんですか。イヴリンが何かを見つけたように見えたのは感じていましたが……なるほど。猫田先生、ありがとう。あなたはシャルマ家を救ってくれたのです」
その言葉に続くように、アバスが真っすぐに猫田洋子へ向き直った。
頬に灯った熱は、彼自身も制御できていない。
「猫田先生、あなたはすばらしい人です。僕は夏休みの間、家を離れて自分の好き勝手なことをやっていました。母の悲しみに思いを馳せることもなく……。けれど、夏休みを終えて家に戻ると、そこには活気にあふれる母の姿がありました」
アバスの声が震える。
「猫田先生が……明るい母を取り戻してくださったんですね。僕は猫田先生を、一生敬愛します!」
その瞳はすでに潤んでいた。
(これは、告なのか? 時空の神がおわびのつもりなのか?)
猫田は胸の奥で戸惑いながらも、ただアバスの熱いまなざしを受け止めていた。
ーーーー猫田洋子の物語ーー
その夜は遅くなったため、猫田洋子はシャルマ家に泊まることになった。
アバスと同じ屋根の下で眠る――そんな状況に、自分でも信じられない思いが胸をよぎる。
――まるで私もシャルマ家の一員になれたみたい。
そう考えた瞬間、洋子は首を振った。
「こんな暖かい家庭に入ったら、きっと私は溶けてなくなっちゃう。……そんな妄想は漫画のストーリーの中だけよ」
ベッドに横たわりながら、心の中でそう自嘲した。
そのときだった。布団の端がもぞりと動き、気配がする。
「ひっ……!」と小さく声をあげると、布団からヌッと顔を出したのはアヌシュカだった。
「ねえ、ネコタさん」
大きな瞳をきらきらさせながら、少女は囁く。
「わたしね、〈親指ひめ〉とか〈桃太郎〉とか、いっぱいネタ持ってるの。アビシェク兄さんのせんせい、らいふく師匠が“弟子にしてやる”って言ってくれたんだ。ネコタさんは、ネタ持ってる?」
猫田は思わず笑みをこぼした。
――この子は、本当に周囲から愛されているんだな。
小さな体で、ためらいもなく私の懐に飛び込んでくる。
「ネタ……ね。童話のことかしら?」
そう呟き、猫田はふと考える。自分の引き出しの中には、まだ誰にも読ませていない物語が、山のように眠っている。
「アヌシュカちゃん、あなたが聞いたことのないお話を教えてあげようか」
彼女の瞳がぱっと輝いた。
――現役の同人漫画家時代、夜を徹して描き続けた無数のストーリー。どれも、心血を注ぎ込んだ“わたしだけの千一夜物語”。
猫田洋子はゆっくりと記憶をたどり、ひとつ、またひとつと物語を紡ぎ始めた。
アヌシュカは寝息を立てるどころか、猫田の語るストーリーを聞き漏らすまいと、目を爛々とさせている。部屋には穏やかな静寂が満ちていく。
布団の中、洋子は小さく息をついた。
「……ほんとに、夢みたいな夜ね」
彼女の心の奥に、久しく忘れていた温もりが灯っていた。
ーー続くーー