第七十五話、田中オフィスの組織改革
ーーお~い橋本君ーー
田中オフィスの会議室は、夕方の光を受けてガラス越しに淡く照らされていた。重厚なテーブルの上には資料が並び、空気には張り詰めたような静けさが漂っている。
田中卓造社長は、両手を膝に置き、ゆっくりと語り始めた。
「今回東京に竹中顧問に行ってもろたんはな、水野所長に今後の事業体制の確認をしてもらうためや。それとな、東京に行ってもうすぐ3年になる。そろそろこっちに戻ってきてもらう時期やろうと思うてな」
藤島光子専務が、穏やかだが切れ味のある声で言葉を継ぐ。
「橋本部長。あなたに東京へ行ってもらいます。どうかしら?」
突如告げられた一言に、橋本和馬は目を見開いた。心臓はドクドクと、祝福の太鼓を打ち鳴らしているかのようだ。口を開こうとするが、感謝の言葉も喜びの叫びも、喉の奥で熱い塊となって詰まってしまい、出てこない。代わりに湧き上がってきたのは、目頭の奥のツンとした痛みと、全身を駆け巡る静かな電流のような震えだった。
「自分が……水野さんの代わりに……」
それは、努力が報われたという安堵でも、ライバルに勝ったという高揚でもなかった。むしろ、これまで積み上げてきた無数の深夜のデスクワーク、何度も叩き壊しては書き直した公的申請書の数々、そして心臓が締め付けられるようなプレッシャーの中で下した決断の数々が、すべて正しかったと、今、この瞬間に過去全体から保証されたような、重厚な感動だった。
思わず声がかすれる。その横で、田中社長は表情を崩さず、淡々とした口調で続けた。
「どんなに能力がある人でもな、一箇所にとどまっとったら、その場で成長が止まってしまうんや。それは橋本君も水野君も同じや。そんなもんやで」
橋本の頭には、東京事務所の重責が重くのしかかる。営業畑で築いてきた自信と、司法書士として新たに歩み始めた道。だが本当に自分に務まるのか。心の奥で揺らぎが広がる。
「私に……東京事務所の仕事が勤まるでしょうか?」
不安を吐き出すように問う橋本に、田中はゆっくりとうなずいた。
「わしの考えはこうや。ミズノギルドは、その日のために作ったんやないかと思うとる。竹中顧問に頼んだんは、その真意を水野所長に直接聞いて確かめてもらうためや。ミズノギルドがあれば、水野は東京のビジネスネットワークを存分に活用できる・・・いずれは東北、北陸、九州、中京地区にも、田中オフィスの基盤を築くつもりや。これはな、ありがたいこっちゃで」
そして田中の声がさらに力を帯びる。
「橋本君、京都本社をよく支えてくれた。東京で、君の裁量でもっと自由にやってくれてええよ。ワシも見とらんし」
会議室に緊張がほぐれた笑いが広がる。未来への広がりを予感させる言葉に、藤島専務は静かに微笑んだ。
橋本の胸の鼓動だけは、やけに大きく響いていた。日本の経済の中心地東京。そこで自分が、その先の展開を担うことになるのか――。
重圧と誇り。その狭間で、彼の心は少しずつ決意へと傾き始めていた。
ーー俺の相棒ーー
橋本は拳を握りしめ、小さく息を吐いた。
「……おれも腹決めないといかんな」
その声は自分に言い聞かせるようでもあり、仲間に誓うようでもあった。
東京――それは彼にとって、営業マンとして何度も夢見た舞台だった。
人の流れも、情報のスピードも、金の動きも、地方とはまるで違う。
挑戦してみたい気持ちは、以前から胸の奥にくすぶっていた。
だが、胸の中には確かな重圧もある。
司法書士として、そして東京事務所を任される人間として。
「つとまるかどうかは……」
橋本は机の端に視線を落とした。
そこには、社内で導入したばかりの基幹システム――Integrate Sphereに接続されたタブレット端末が静かに光を放っている。
彼は心の中で呟いた。
――このAI秀吉に、かかっている。
田中社長が冗談めかしてそう呼んだシステムは、すでに日々の業務を変え始めていた。
もし東京で戦うなら、情報を操るこの「秀吉」と共にあるしかない。
ふっと、橋本部長の口元に笑みがこぼれた。自嘲にも似た、しかし挑戦的な笑みだ。
「……だったら、やってやるさ」
そう独りごちると、彼は愛用のタブレットを引き寄せた。彼の指が慣れた動作で画面をスワイプし、隠しフォルダから一つのアプリを起動させる。その名も――『秀吉アプリ』。半田主任が構築し、たまちゃんがキャラクター設定からはじめて、命を吹き込んだものだ。
画面が淡い黄金色に光り、戦国時代の甲冑をまとった、どこか愛嬌のある小男のキャラクターが躍り出た。豊臣秀吉を模したそのキャラクターは、最新の生成AI技術を駆使した、今や橋本部長の「AI相棒(AI Buddy)」である。
「おう、任してちょうよ! これでおみゃーも、ワシと同じ一国一城の主となったんだぎゃ。ワシに何でも聞いてちょ。旗頭は瓢箪じゃ! 手柄をあげるごとに瓢箪をふやしていく『千成瓢箪』だがね!」
秀吉AIは、お調子者だが底抜けに明るい名古屋弁で捲し立てる。その声は、重圧で凝り固まっていた橋本部長の肩の力を、わずかに抜き去るようだった。
このAI秀吉は、単なるチャットボットではない。過去の成功戦略や、複雑な人間関係の機微、そして何よりも下克上精神を学習させた、橋本部長専用の戦略シミュレーションパートナーだ。
「秀吉、この案件、どう攻略する?」橋本部長が問いかけると。
秀吉AIは、彼の言葉を待っていたかのようにタブレットの画面で威勢よく頷いた。「心配せんときゃあ、橋本殿! 敵は強大かもしれんがね、ワシらの智恵と行動力でひっくり返すんだぎゃ! まずは『人たらし』じゃ。敵の懐に入り込む作戦から立てるんだぎゃ!」
その言葉は、彼自身の覚悟を固め戦場に進軍を進める銅鑼の音のように頭の奥にに響いた。
彼は知っている。同じ部署の水野所長や半田主任のように、最新のITスキルや、複雑なアルゴリズムを瞬時に理解する鋭い分析力は、自分には無い。しかし、彼はベテランの司法書士としての能力と、何よりもこのAI秀吉という頼もしい相棒を手に入れた。
時代は変わった。 一人で全てをこなす必要はない。自分の弱点をAIの力で補い、自分の強みを最大限に活かす。これが、現代のビジネスにおける新しい「下克上」の形だと、橋本部長は確信した。
彼はタブレットを握りしめ、前を向いて歩き出した。千成瓢箪の旗印は、まだ一つも無い。だが、これから一つ、また一つと増やしていくのだ。その未来が、彼の足取りを力強くした。
「一国一城の主」への道のりは、今、始まったばかりだ。
ーー賄い部の躍進ーー
お昼の食堂には、香ばしい味噌の匂いが漂っていた。
橋本和馬は箸を持ちながら、目の前の料理を眺めつつも心は別の場所をさまよっていた。
――東京での新しい舞台。水野の後を継ぎ、田中オフィスの旗を掲げる自分。
胸の奥が高鳴るような夢想に、自然と表情は溌剌としていた。
「今日はなすピーマンの味噌炒めです」
島原の明るい声が響く。
稲田も伊原も食堂に戻り、それぞれにお盆を手にして席についた。
佐々木恵がサポートに入っており、料理の彩りはひときわ家庭的だった。
「なすピーマンなんて、ほんま家庭的やわあ。あたしがこんなもの作る日がくるとは思わんかった」
佐々木は照れくさそうに笑う。
そこへタイミングよく田中社長が食堂へ顔を出した。
「あ~、ええ匂いやなあ。わしも今日は賄いやで」
最近は外食を控え、島原のメニューをこまめにチェックしている。小骨の多い魚の日だけは「パス」してラーメンに走ることもあるが、それでも食生活は確実に改善していた。気のせいか少しスリムになったように見える。
「そうそう、島原さん。頼まれてた豆腐、買ってきましたで。あと、今日行ったお客さんのところでゴーヤもろたんや。せやから豆腐だけ買うて、ゴーヤは買わんといた」
差し出された段ボール箱には、つややかな緑の実がぎっしり詰まっている。
「あら~、いいゴーヤじゃないですか」
島原は感心しながら小袋に分け、社員に配りはじめた。
「使う人、持ってって。ただし明日のお昼はゴーヤチャンプルーよ。スパムと豆腐で作るからね」
食後には黒豆茶が湯気を立てて運ばれてきた。
「汗で減ったミネラルの補給にいいのよ」
島原の言葉に、社員たちはほっとした笑みを浮かべる。
実際、賄い部の存在は社員の健康を支えるだけではなかった。
食材の無駄をなくし、排出を最小限に抑える。
野菜の皮でダシ汁をとり、お湯はサーバーの廃熱を活用。
それはSDGsに沿った取り組みであり、自然に社員たちの意識に根づいていた。
箸を置いた橋本は、満ち足りた表情を浮かべた。
「水野さん、帰ったら驚くぞ。いい形で渡してやれるな」
しかしそれは、橋本が仕掛けたことではない。
気づけば、社員たち自身が作り上げていた環境だった。
当たり前のように続く日々の積み重ねが、彼の胸を静かに熱くさせていた。
ーーお昼休みのテレビ番組ーー
食堂に転用している会議室に田中卓造社長が現れると、ひょいとリモコンを手にして、迷いなくテレビの電源を入れる。
「これや、『突撃米造り農家』。今日も『レンチン感激!』出るかなあ」
画面に現れたのは、スーツ姿の司会者。男性コーラス風に歌い上げる。
「炊けた炊けた炊けた~!炊けた炊けた炊けた~!炊けた炊けたあぁあ~!」
一気に声を張り上げたあと、苦笑いを浮かべる。
「一週間のご無沙汰でした。と、突撃米造り農家、し、司会の桑島実朗でございます」
オープニングのキャッチフレーズは、長寿番組化を記念して今シーズンから変更されたばかりだ。
だが、その考案者である桑島アナ本人は、張り切りすぎて息が上がり気味に見えた。
社長はテレビに視線を釘付けにしながら、ぽつりと呟く。
「大丈夫かいな、桑島アナ。あちこち出とるけど。まあフリーアナは仕事ぜんぶ受けなあかんし、収入の変動が大きいからなあ」
横で茶碗を片づけていた佐々木恵が、肩をすくめて言った。
「関西と関東、行ったりきたりはキツイで。新幹線で上りは京都で“ばらずし”、下りは新横浜で“シウマイ弁当”。それぞれ缶ビールつきやと、そら腹に肉つくわ~」
場が和んだところで、島原が真顔で割り込んだ。
「ウチに寄ってくれれば、健康弁当用意しておくのに」
その真剣さに、みな思わず笑いをこらえる。
テレビから流れる賑やかなテーマ曲と、食堂に満ちる笑い声が重なり合い、お昼休みはウキウキに過ぎていった。
ーーお昼の口頭通達ーー
田中オフィスに朝礼も夕礼もない。
フレックス制のため、朝夕全員が揃うことはあまりない。たまに竹中顧問の行動経済学ミニセミナーが夕方あるときは、皆積極的に参加する。意外と毎日のビジネス、生活のヒントになることが多いのだ。
重要な連絡はメールかSlackで済ませるのが習わしだった。
みんなが顔をそろえやすい昼食のひととき。湯気の立つ食堂で、茶碗を手にしながらの“口頭連絡”だ。これも賄い部の効果のひとつである。
この日も、橋本和馬部長が立ち上がった。
「すみません、食事しながら聞いてください。今年度も折り返しです。それぞれ年度初めのプランニングシートを見直して、共有フォルダの“年度進捗コメント”に入れておいてください。コメントへの返答は明日までに私の方で入れておきますので」
ただ仕事をやればいいというわけではない。年度初めのプランニングシート作成は、PDCAサイクルにおけるチェックポイントであり、竹中顧問の業務改革提案で始まった。業務日誌は特に提出は求めない。
「日誌や業務連絡、スケジュール管理はOutLookで統一したほうがいい」心配性な稲田さんはメール本文を分類フォルダに退避させてから、OneNoteに転送している。
さらりとした口調に、社員たちは頷きながら味噌汁をすすり、箸を動かす。
昼食のざわめきの中に、必要な連絡だけが短く挟まれる。
これが田中オフィスの日常だった。
ふと、橋本は心の中で笑みを浮かべた。
――半田くんとたまちゃんがいる時はなあ。
ぼんやり宙を見ている半田のわき腹を、たまちゃんがつねって気づかせる。
その光景が、当たり前のように繰り返されてきた。
「それもしばらく見れんようになるか……」
東京に向かう自分を思い、胸の奥に小さな寂しさが芽生える。
だが同時に、彼は感じていた。
目の前に広がるこの賑やかな日常こそ、きっと東京での挑戦の支えになる。
橋本は軽く頭を下げ、再び席についた。
食堂のざわめきは変わらず温かく、その日常を包み込んでいた。
ーーお寿司の小宴会ーー
オフィスTokyoの居住フロア。水野所長が部屋に戻ると、ちょうど同じタイミングで寿司の配達がやってきた。玄関に並んだ桶を運び込み、四人はさっそくテーブルを囲む。
プシュッ――と缶ビールが開き、竹中顧問が声を張った。
「乾杯! いやあ今日は疲れたな。たまちゃんも半田主任も、ご苦労さま」
グラスを軽く合わせる音が響く。長い一日の緊張が、喉を通る泡とともに解けていく。
水野所長は笑みを浮かべて言った。
「そうですね。到着が遅くなると連絡をいただいていたので、こうして準備もできました。オフィスのメンバーの紹介は、明日の午後にしましょうか。たまちゃんも、ホテルの朝食ビュッフェを楽しんでからのほうがいいでしょう」
すると、たまちゃんが勢いよく応じた。
「ええ、朝食と昼食兼ねてガッツリいきます! ホテルはメニューを見て選びましたからね。……でも水野所長、お元気そうでなによりです。京都のオフィス、かわりましたよ~。島原さんという方が入ってくださって、いまお昼は賄いが出るんです」
場の空気が一気に和らぎ、笑い声がこぼれる。
寿司桶のふたが外され、色とりどりの握りが目の前に並ぶと、東京の夜は小さな宴のように温かさを増していった。
ーービッグサイトの死闘ーー
「今日のコミケ会場での戦いは、ネット民に語り継がれるだろう」
竹中顧問がそう言って、ぐいっと缶ビールを飲み干した。
半田主任は疲れた顔で愚痴をこぼす。
「顧問のおかげで、あの広い会場を走り回る羽目になったんですよ。猫田さんの挑発に乗るから、オタクの平和の祭典が意地の張り合いの戦場になってしまったんです」
だが顧問はこともなげに笑った。
「戦場になった、だと? 違うな。私の立つ場所は、常に戦場なのだよ」
缶を置く音が、妙に重く響いた。
水野所長は、くつくつと笑いながらもグラスを掲げた。
「あの人の負けず嫌いは、すばらしいですね。まさに――ミズノギルドのアドレナリン役ですよ」
その場にいた誰もが、すでに酒にほぐされていた。
話の端々は大げさで、理屈は飛び、笑いとツッコミが飛び交う。だが確かにそこには、同じ戦場をくぐり抜けた仲間にしか分からない熱気と、妙な一体感があった。
ビッグサイトの熱気をそのまま持ち帰ったような夜。
東京の小さな社宅の一室は、戦場帰りの兵士たちの宴のように、笑いと酒気に包まれていった。
竹中顧問は、無邪気な子供のような笑顔でスマホを取り出した。
「水野所長、見て見て!」
彼がInstagramの画面を差し出すと、そこには数字が並んでいる。
「これ、数えるとね――ネコタさんが98、ボクが102だったんだよ。凄いでしょ!」
水野は一瞬目を瞬かせ、ゆっくりと頷いた。
「それは……勝利されたんですね?」
だが顧問は肩をすくめ、淡々と答えた。
「いや、ハンデをもらったようなもんさ。向こうは被写体が三人、こっちはボクひとり。しかも猫田さんは予定通りの時間でさっさと撤収してしまったんだ」
彼はグラスを傾けながら続ける。
「実際には、そちらの佐藤美咲さんが戦力外になってしまった。それで潮目が変わったんだよ。……半田主任とたまちゃんの情報発信力に助けられて、結果的に数が上回っただけさ」
そう言ってスマホを伏せ、顧問は穏やかな笑みを浮かべた。
「だから結果はノーサイド。別の機会に再戦ってことにした。もちろん――どんな勝負でも、ボクは逃げたりしないけどね」
その言葉に、場の空気がふっと軽くなり、笑い声が響いた。
戦場のようなコミケの一日も、こうして夜には酒と冗談の肴となるのだった。
ーー水野と竹中の対談ーー
夜も更け、街の灯りがしんと落ち着きを帯び始めたころだった。
「君たちは先にホテルへ行っていてくれ。ぼくは田中社長から大事な仕事を頼まれてるんでな……」
竹中顧問の言葉に、半田主任とたまちゃんは顔を見合わせ、素直に頷いた。
「お寿司とビール、ご馳走さまでした!」
礼を告げて、二人は予約していた宿泊先へと向かっていく。
残されたテーブルには、竹中顧問と水野所長だけ。
竹中はグラスを指先で転がしながら、ふっと切り出した。
「……ミズノギルドは、すばらしいメンバーを揃えたね。田中社長に見切りをつけて独立するんだったら、ぜひボクも仲間に入れてもらいたいんだが……」
その声音は冗談めいていたが、瞳の奥にはどこか真剣さがのぞいていた。
しかし水野は微塵も動じず、静かに返す。
「ここは、『おぬしもワルよのう』って言って笑う場面なんでしょうね。でも、顧問。心にもないことを仰っても刺さりませんよ」
平然としたその態度に、竹中は一瞬黙り込んだのち、大きな声で笑った。
「はははっ!……まぁ、そりゃそうだわな。水野さんは、もっと別の展開を考えておられる。今日はその辺を聞きに来たんです」
水野は姿勢を正し、真顔のまま言葉を紡ぐ。
「ミズノギルドは、起業とM&Aの事業開拓のために設立しました。まず自分自身がスタートアップ第一号となったわけです。そのあと ヒア・ウイゴーが続き、予想を上回る収益の確保ができました」
顧問は無言で頷き、続きを促す。
「ただ利益を追うだけではないんです。――企業という経済単位を創造する。企業を潰すことなく、次へと継承させる。そのためのビジネスモデルを確立させたかった」
水野の声音には確信があった。
「ご存じの通り、司法書士事務所や行政書士事務所の多くは設立者一代で終わってしまいます。相続の手続きで、不動産権利書の表装に書かれた司法書士事務所を訪ねてみれば、別の看板に変わっている……そんなことはよくあるでしょう。これではまさに、その場限りの代書業です」
竹中は黙ってグラスを口に運び、その瞳に一瞬だけ光を宿した。
「だからこそ、ミズノギルドは起業と事業承継をコンサルティングして、確実に稼働させていく。それが僕の目指す形なんです」
夜の闇は深まり、二人の言葉は静かにその中へ吸い込まれていった。
ーー真の師弟ーー
竹中顧問は、グラスを置き向き直った。背筋を伸ばし、改まった口調で切り出した。
「――大事な話があります。水野所長。あなたには東京事務所を立ち上げ、わずか二年で黒字化された。その功績は実に大きい。普通ならば、もう独立してもおかしくないでしょう」
そこで一度、言葉を切る。
竹中の視線が鋭さを帯び、低く告げた。
「ところが……なんと、水野さんを東京から切り離し、橋本部長と入れ替える、と。これは社長からの命令です。――従われますか?」
一瞬の静寂。
しかし水野は表情を崩さず、淡々と返した。
「従う?……いえ、僕はこうなるように仕向けたつもりだったんですが」
竹中は思わず目を細める。
水野は続けた。
「東京専任というのも悪くはないでしょう。けれど、企業は人を動かさなければ閉塞してしまいます。社員が成長する芽を潰してしまうことは、組織にとって大きな損失なんです」
その言葉には、ぶれない信念と静かな自負がにじんでいた。
竹中は心の内で唸る。
――やはりそうか。田中社長と水野所長の心は、確かに繋がっていた。
こちらが真の「師弟コンビ」なのだ。
竹中の胸の内に、思わず敬意が芽生えていた。
ーー田中オフィスとミズノギルドのシナジー効果ーー
竹中顧問は、ゆっくりと腕を組み、意味深な笑みを浮かべた。
「ミズノギルドは東京で生まれた。――これを関西、京都でも展開しようというわけだ」
その言葉に水野は静かにうなずく。
声は落ち着いていたが、瞳の奥には確かな情熱があった。
「京都には、事業承継の問題を抱えた中小企業が数多くあります。しかもそれらは、長い歴史と貴重な技能を持つ企業ばかり。けれど現実には、日々、廃業や倒産のニュースが絶えません」
水野はグラスを置き、言葉を強める。
「若い人たちは起業に意欲的です。しかし同時に――事業を未来につなげたい、という志を持つ人たちも少なくない。そうした思いが受け継がれていく京都でなければならないのです。あの地には、それだけの価値があります」
竹中はしばし黙し、やがて満足げに頷いた。
「……ありがとう、水野さん。その言葉を聞けてよかった。あと半年。四月には京都で一緒に仕事ができる日を、楽しみにしているよ」
二人の視線が重なり、酒席のざわめきの中に静かな決意の気配が漂った。
ーーおめでたい知らせーー
夜も更け、帰り支度を始めた竹中顧問の口元に、ふっと晴れやかな笑みが浮かんだ。
「今日は本当にいい日だった。せっかくだから――水野所長。明日、オフィスTokyoの皆さんに挨拶をしたあとで、総裁Zの『行動経済学セミナー』を短時間やらせてもらうのはどうだろうか? 一時間ぐらい、三時の休憩前にでも」
その提案に、水野の表情がぱっと明るくなる。
「貴重な機会です。ぜひお願いします。隣のヒア・ウイゴーの皆さんにもお声がけしてよろしいですか?」
竹中顧問はすっと背筋を伸ばし、襟を正した。
「もちろん! 聴講者は多ければ多いほどいい。大学では講堂で三百人を相手に話したこともある。白熱したディスカッションにまで発展したものだよ」
その言葉には、ただの自己顕示ではなく、知識を伝え、共有することへの情熱が滲んでいた。
水野は深く頷き、心の中で明日のセミナーの光景を思い描いた。
竹中顧問は、寿司の桶を片付けながらふいに切り出した。
「それと、半田くんとたまちゃんなんだが……もうお気づきだろうとは思うが、ふたりは付き合っている。いつか結婚するときに、僕に仲人を頼みたいと言ってきたんだ。だが――田中社長も、橋本部長も、僕も独身だ。だから、水野さんに頼みにくるかもしれないよ」
水野は目を瞬かせ、思わず苦笑をもらす。
「私も、独身なのですが?」
竹中顧問はニヤリと笑い、目尻を細めて挑発するように言った。
「稲田さんのことだよ。水野所長と結婚が近いんじゃないのか? 半田たちはまだ若いが……水野さんたちはもう、話を進めているんだろう?」
「いやぁ……」水野は頭をかきながら曖昧に笑う。「京都本社のみなさんはご存知なんですか? それとも、稲田さんから直接きいたんですか?」
竹中顧問は上着を羽織り、玄関に立つと、振り返って片眉を上げた。
「二人の仲は公然の事実! 京都本社では一般常識になっているさ。稲田さんはね、一緒に働いている島原さんと、そのご主人に頼もうとしているよ。――だから、水野さんも覚悟して、順番を守ったほうがいい」
そう言い残し、夜風を背に竹中顧問は去っていった。
「半年後の転勤か・・・準備をすすめたほうがよさそうだな」
9月には夏休みをとって、稲田美穂がこの部屋に泊まりに来る。将来設計が否応なしにスケジューリングされていく。
ーー続くーー