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田中オフィス  作者: 和子
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第七十三話、From A:青森発、就職と転職

ーー隣の会社へーー

入社希望の深浦結羽に、メンバー紹介のあと、田中オフィスの業務について一通りの説明を終えると、水野所長が立ち上がった。

「じゃあ、お隣さんのところに行きましょうか」


結羽(ゆう)は少し驚いた表情を浮かべた。まだ胸の奥の緊張が解けきらない。翔太も「え、もう次?」といった顔で立ち上がる。


廊下を抜けると、すぐ隣に「合同会社ヒア・ウィゴー」と書かれたプレートが見えた。扉の向こうからは、談笑やキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。


「こちらは、うちのアライアンス先なんです。日々の案件でも協力関係にあってね。結羽さんも将来、仕事で関わることがあるでしょうから、一応ご紹介しておきましょう」


水野所長がそう説明すると、二人はうなずき合った。

――知らない世界が、また一つ開こうとしている。


結羽は胸の奥で小さく深呼吸し、扉が開くのを待った。



ーーヒア・ウィゴーへーー

水野所長に導かれ、翔太と結羽は隣のオフィスのインターフォンを鳴らした。


ドアを開けると、明るい声が飛び込んできた。

「いらっしゃいませ!」


出迎えたのは、肥後香津沙(ひごかづさ)。すぐ後ろには、穏やかな笑みを浮かべた肥後勝弥(かつや)が並ぶ。夫婦ならではの落ち着いた空気が、初対面の緊張をやわらげた。


さらに奥から二人組が現れる。包容力のある穏やかな表情の北盛夫(きたもりお)と、がっしりとした体格で鋭い眼差しを持つ飯野武(いいのたけし)。二人はそろって笑顔を見せ、威勢よく自己紹介を始めた。


「どうも、俺ら漫才師の北盛夫!」

「飯野武! 二人合わせて――」

「レンチンズです!」


二人は声をそろえてポーズをとる。胸の心臓辺りに手で四角い箱(たぶん電子レンジ)を作っている。結羽は思わず笑みをこぼした。


二人は芸歴二十年のベテラン。かつては「キタイノシンジン」として活動していたが、東京で再起をかけるために心機一転、名前を改めたのだという。


「俺ら、関西では"キタイノシンジン"ていう芸名で少しは売れたこともあるんですよ。でも東京ではまだ駆け出しなんですわ!」北が力強く言えば、

「せやけど名前は“新人”から卒業したかったんですよ。もうオッサンやし」飯野がさらりと笑いを取る。


臨機応変にボケとツッコミを切り替える二人のやりとりに、場が一気に賑やかになった。


翔太は、その場の空気に圧倒されながらも(これが芸能の世界か…)と胸を高鳴らせる。

――こうして、田中オフィスとヒア・ウィゴー、そしてレンチンズとの新しい縁が結ばれていったのである。


穏やかな笑顔を見せながら、香津沙は続けた。

「芸能の仕事で培ったプロモーションや広報のノウハウを、中小企業の皆さまの発信活動に活かせないかと思いまして。水野所長から声を掛けていただき、タレントを発掘してローカルエリアのビジネス活性化に寄与する、そんな経営方針の会社を立ち上げました。芸能もビジネスも、人にどう伝えるかが肝心。その部分では共通点が多いんですよ」


翔太と結羽は思わず「なるほど」とうなずき、芸能の世界とビジネスの現場が、思いのほか近しいものだと感じた。



ーー企業ビジネスと芸能ーー

ひととおり香津沙が会社の説明を終えると、隣に座っていた肥後勝弥が、椅子の背から軽く身を起こした。

「どうも、肥後勝弥と申します。こちらでは芸能事務所の運営をやっていますが――実は田中オフィスのほうでも、マーケティングのアドバイザーとして関わらせてもらってます」


結羽は思わず目を丸くした。芸能事務所と法律事務所がつながっているとは思っていなかったのだ。

勝弥は少し照れくさそうに笑う。

「芸能の世界って、結局は“どう伝えるか”“どう見せるか”の勝負なんです。それは企業活動でも同じことでしてね。田中社長から声をかけてもらって以来、タッグを組んで仕事をしてます」


横で香津沙がにこやかにうなずく。

「主人はちょっと真面目に話しましたけど、普段はこのレンチンズさんたちと一緒に、毎日わいわいやってるんですよ」


そう言われた途端、北盛夫と飯野武の二人が「いやいや、社長はボケもツッコミも自在ですから」「こっちが漫才師なのに、たまに出番を取られるんです」などと笑いを取る。

部屋にやわらかな笑い声が広がり、結羽と翔太の緊張もふっと解けていった。



ーー田中オフィスTokyoの命名者ーー

笑いが落ち着いたところで、水野が思い出したように口を開いた。

「そうそう、せっかくですから結羽さんにも伝えておきますね。実は、この『田中オフィスTokyo』という名前――名付け親は、こちらの肥後さんなんですよ」


「えっ?」と結羽は驚いた顔をする。翔太も大きな体を揺らして目を丸くした。

勝弥は軽く肩をすくめ、気恥ずかしそうに笑った。


「たいしたことじゃないですよ。水野所長から“東京の拠点を作るんだけど、どんな名前がいいだろうか?”って相談を受けましてね。シンプルで、海外の人にも分かりやすく、なおかつ信頼感がある名前にしようと考えたんです。それで、『Tokyo』のロゴを配したらどうかと提案しました」


香津沙が補足するように、にっこりと笑う。

「もともと法律事務所や行政書士事務所って、固い名前が多いでしょ。でも勝弥は、“これからはグローバル感と柔らかさも必要だ”って言ったんです」


結羽は「なるほど……」と感心してうなずいた。

「名前一つとっても、そんな意味が込められているんですね」


レンチンズの北盛夫が横から茶々を入れる。

「僕らのコンビ名なんか“レンチンズ”ですからね。レンジでチンするだけの軽さですよ」

「いやいや、あっためると本領発揮するって意味やろ!」と相方の飯野武がツッコミを入れる。


その場がまた笑いに包まれる。

結羽と翔太は、芸能の軽妙さとビジネスの堅実さが同居する不思議な空気に、ますますこの会社への興味を深めていった。



ーー最初はだれでもーー

応接の場が落ち着くと、深浦結羽(ふかうらゆう)は背筋を伸ばし、はきはきと声を出した。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私はまだ高校卒業見込みで、東京のビジネスのことはよく分かりません。だから失礼な聞き方してしまうことがあるとは思いますが、いろとお話を伺って、学ばせていただきたいという気持ちです。」


その素直な言葉に、肥後香津沙は微笑んでうなずく。

「最初はだれでもそうよ。そういう気持ちが大事なのよ。分からないことを正直に言えるって、立派なことだから」


続いて翔太が、少し照れながら口を開いた。

「僕は今日は付き添いで参りました。普段は新小岩で、笑角亭(しょうかくてい)来福(らいふく)師匠のもとで内弟子修行をしております」


その瞬間、レンチンズの二人が同時に「おおっ!」と声を上げた。

「来福師匠の弟子!? そんならワシら、あの師匠の弟弟子(おとうとでし)やで!」北盛夫が目を丸くする。

「せやせや。ワシらは桂昭和師匠の一門やけど、来福師匠はその兄弟子(あにでし)やねん。まさかこんなところで縁がつながるとはなぁ!」と飯野武も身を乗り出す。


翔太は驚きに目を見開いた。

「そうだったんですか! いやあ、世間って狭いもんですね」


結羽はぽかんと口を開け、思わず呟いた。

「え……東京って、意外と“つながり”があるんですね」


その言葉に場がどっと笑いに包まれる。

肥後勝弥が「せやなあ、東京のビジネスは広いようで狭い。人の縁で回ってるんですよ」と締めくくると、結羽もようやく緊張を解いて、みんなと一緒に笑うことができたのだった。



ーーまた別のつながりーー

田中オフィスに戻ると、応接スペースにはまた別の来客が控えていた。


「こんにちは、立花美波(たちばなみなみ)と申します」

落ち着いた笑みの女性が名乗る。飯田橋にある行政書士事務所の所長であり、開業から5年になるという。


「母の仕事の関係で、幼い頃から国際交流に深く関わって参りました。現在はベトナムやインドネシアなど、アジアの方々の、日本での就労支援を積極的に手がけています」


その説明に、事務所のメンバーたちは自然と背筋を伸ばした。


水野所長がにこやかに付け加える。

「立花先生とは以前からお付き合いを頂いておりますが、今日は実務連携のご相談も兼ねてお越しいただきました」


結羽と翔太は、今度は大人のプロフェッショナルな空気に圧倒されつつも、真剣に話を聞く。

事務所内は、昼間の賑やかな雰囲気とは少し違う、引き締まった空気に包まれていた。


挨拶のやり取りがひと段落したところで、水野が場を仕切った。


「せっかくの機会だから、説明しておこうか」

彼は立ち上がり、ラヴィに声をかける。

「ラヴィさん、ちょっとこちらに」


ラヴィ・シャルマが軽やかに歩み寄り、立花美波も自然に並ぶ。三人が並んだ姿は、不思議な調和を感じさせた。


水野は結羽と翔太に視線を向け、ゆっくりと告げた。

「私たちは――"ミズノギルド"のメンバーです」


結羽はきょとんとした表情を浮かべる。

「……また、別ユニット、ですか?」


その無邪気な問いに、水野、ラヴィ、立花の三人は思わず顔を見合わせて笑った。


「まあ、そう思われても仕方ないね」

立花が柔らかく笑い、水野が肩をすくめる。

「ユニットというより、ビジネスコンサルティングチームかな。司法書士、行政書士などそれぞれの専門性を持ち寄って協力しているんだよ」


結羽は恥ずかしそうに笑いながらも、その言葉を胸に刻んでいた。


水野は穏やかな声で続けた。

「あと、田中オフィス京都本社の藤島専務には、社労士と中小企業診断士として関わってもらっている。あと、さきほど佐藤さんの方から話のあった弁理士の猫田洋子さん。この五人が"ミズノギルド"の代表社員なんだ。運営はこの五人の合議で進められるんだよ」


結羽は、目を丸くしながらも感心したようにうなずいた。

「世の中には、こんな会社組織もあるんですね……」

だが、すぐにいたずらっぽい笑顔を浮かべて、冗談めかして口にした。

「なんか、ちょっと怪しい感じもしますけど」


その言葉に翔太が慌てて眉をひそめる。

「おい結羽、よせってば。失礼だろ」


しかし水野は、むしろ楽しそうに笑った。

「いやいや、至極、常識的なご感想だと思います」

軽く手を振りながら言葉を続ける。

「ただし、決して無茶なやり方はしていませんよ。さっき訪ねた"ヒア・ウイゴー"、そしてこの"ミズノギルド"も――田中オフィスにとっては、とても重要なアライアンス企業なんです」


その真剣な口ぶりに、結羽は思わず背筋を伸ばした。

翔太は横目で彼女を見ながら、(やっぱり東京の会社は、津軽じゃ想像もつかねぇ世界だな……)と、しみじみ思うのだった。



ーー付き添いの役割ーー

水野所長は、落ち着いた声で語りかけた。

「会社に所属して仕事をしていくうちに、世の中の仕組みも分かってきて、会社も姿形を変えていく。例えば、会社を作るお手伝いをする会社が、今は必要だと考えた。それが――『ミズノギルド』なんだよ」


深浦結羽の瞳が、ぱっと明るくなる。

「なんか、すごくやる気が出てきました!」


水野は思わず微笑んだ。内心では、社会人経験のない学生に来て早々、これだけの情報量を一気に浴びせたのはどうかとも思っていた。もしこれで怯むようなら、採用を慎重に見直さねばならない。そう腹をくくっていたのだ。

(さすが、最近の子は物怖じしないな……これなら安心してアルバイトも任せられる)


そう思った矢先、隣に座る翔太が口を挟む。

「結羽、もっとよく考えてからにしろ!」


結羽はきょとんとし、会話の空気が少し張り詰める。だが水野はやわらかい笑みを浮かべ、二人に向き直った。

「もちろん、時間はありますので。ゆっくり考えてくださればいいんですよ」


結羽の表情も和らぎ、翔太はまだ不安げながらも口を閉ざした。田中オフィスの空気には、不思議と人を前向きにさせる力があるように感じられた。


翔太は腕を組み、やや強い調子で言った。

「よく考えないで相撲の世界に入って……俺は正直、後悔してる。なんでも、じっくり考えねばダメだ」


水野所長はその言葉に小さく頷き、内心でつぶやいた。

(なるほど、付き添いの役割だ。……慎重に助言するいい友達を持ったということだ)


結羽はしばし黙り込み、翔太の横顔を見つめる。やがて、彼女は大きく息を吸って、まっすぐ水野に向き直った。

「翔太兄ちゃんの言うとおりだ。じっくり考えねば。……水野さん、私は明後日まで東京にいます。それまでに考えて、もう一度お返事させていただけますか?」


その言葉に、水野は心の中で小さくうなずいた。

(合格だ)


彼の目には、結羽という少女がはっきりと映っていた。好奇心旺盛で、正直で、努力家。積極性もある。そして今、友人の言葉に耳を傾け、客観的に自分の考えを冷静にまとめている。その姿勢は、社会人として必要な素養をすでに備えていた。

(もしこの子を採用できなかったとしたら……それは私の力量が足りなかったということだろう)


水野は笑みを浮かべ、穏やかな声で答えた。

「しっかり検討してください。質問があれば、こちらで実際に見てもらいながら説明できると思います」


こうして水野は、結羽と翔太、二人の判断を静かに待つことにした。



ーー面接を終えてーー

結羽は、ふと隣にいる翔太を見上げて、くすりと笑った。

「やっぱり翔太兄ちゃんに一緒に来てもらってよかった。わたし、いつも突っ走っちゃうほうだから……きっと、さっきも契約書にすぐサインしてたかもね」


その言葉に翔太は一瞬驚いた顔をしたが、結羽がにっこりと笑ってみせると、肩の力が抜けたように小さくうなずいた。


結羽は軽い調子で言葉を続けた。

「さて……じゃあ今度は私のほうが付き添いね。翔太にいちゃんの前の師匠と、今の師匠、ちゃんと会ってお話聞きたいわ」


その瞬間、翔太の表情が固まった。眉がひくりと動き、声が裏返る。

「べ、べつに……槍ヶ岳親方とは仲たがいしたわけじゃないし! 今の師匠だって、とても良くしてくれてるんだ。何の問題も無かったんだ」


あわてて言葉を重ねる翔太の姿に、結羽は思わず吹き出した。

「ふふっ、わかってるよ。でも、私も翔太兄ちゃんのいた世界を見てみたいんだもん」


彼女の無邪気な一言に、翔太は耳の先まで赤くしながら、困ったように視線をそらした。



ーー相撲部屋ーー

まず二人が訪ねたのは、新小岩にある槍ヶ岳部屋だった。

玄関の戸を開けるなり、親方とおかみさんは同時に目を丸くした。


「おお……翔太に、こんなええ彼女がいたんだな!」

「まあまあ、びっくりしたわぁ。翔太くん、隠してたのね・・・」


喜びを隠せない二人に、翔太はあわてて手を振った。

「ち、ちがいます!そんなんじゃないんです。結羽は東京で就職するっていうから、俺が保護者代わりに付き添って来ただけで……」


だが、親方も女将さんも聞いちゃいない。

「翔太、俺はな、相撲を辞めたとはいえ、いまでもお前の親代わりのつもりでいるんだ」

おかみさんもにっこりして、「翔太くんはお料理がとても上手で、他の子たちも皆、翔太さんを慕っていたのよ」と言葉を添える。


その温かさに触れた結羽だったが、思い切って一歩前に出た。

「たいへん失礼なことを申し上げます。……親方が見込んで翔太さんを相撲の世界に引っ張ったんですよね?見込み違いだったということもあるでしょう。でも、辞めさせるというのは、私は違うと思うんです」


その瞬間、翔太が顔を赤らめて声を荒げた。

「や、やめろ結羽!それは俺が自分で決めたことなんだ!」


しかし、親方はその言葉にうつむき、深い息を吐いた。

「いや……翔太。結羽さんの言うとおりだ。お前はまだ諦めてなかったのに、引導を渡したのはこの俺だ。これ以上、お前を苦しめることに、俺が耐えられんかったんだ……親方失格だな」


親方の声は震え、目は伏せられていた。

重たい沈黙が、稽古場の空気を支配する。翔太は拳を握りしめ、結羽は胸の奥が熱くなるのを感じていた。



ーー力不足ーー

重たい空気を取り除くように、おかみさんがゆっくりと口を開いた。

「翔太くんはね、入門したばかりの頃から、稽古より早く起きて掃除、洗濯、ちゃんこの手伝い……なんでも進んでやってくれたのよ」


その声はどこか誇らしく、しかし悔しさを含んでいた。

「本当なら、あの恵まれた体格を、まず相撲に集中させるべきだったのにね。けれど翔太くんは、『特別扱いはしないで下さい』って言ってね。雑用もこなしながら、人一倍稽古もしていたわ」


翔太はうつむいたまま、拳を膝の上に置いた。おかみさんの言葉は胸に刺さるが、そこには愛情しか感じられなかった。


親方が、低い声で続ける。

「あれなら、放っておいても強くなる……そう、安直に考えてしまったんだ」

その言葉には、深い悔恨がにじんでいた。


「翔太は普通の力士とは違った。強すぎる力をどう操るか、その技を特別に教えるべきだった。だが俺には、その能がなかった……。本当なら、名横綱の親方がおる部屋に推挙してやるべきだったのに……」


親方は両手を握りしめ、絞り出すように言葉を続けた。

「ワシは、宝物を授かったと勝手に思い込んだ。懐にしまいこんで、守ったつもりで、育てることを怠ってしまったんだ……」


沈黙が訪れた。

翔太は唇を噛みしめ、結羽は親方の自責の念と愛情の深さに胸が締めつけられた。


結羽は両手を膝の上に置き、姿勢を正した。

「今日、親方とおかみさんにお会いできて……ほんとうによかったです」


言葉にすると、胸の奥にあった小さな棘が、すっと抜けていくようだった。

「翔太兄ちゃんに優しく接してくださっていたことが、はっきりと伝わりました。私は、恨み言なんて持っていません」


おかみさんの目がふっと潤む。親方も息を飲み、結羽の言葉に耳を傾けた。


「なにより、翔太兄ちゃん自身が納得して決めたことですから。小さい頃から知っていますけど、兄ちゃんって、あまり自分の意見を言わなかったんです。……いつも私に譲ってくれる人でした」


翔太は驚いたように目を見開き、やがて視線をそらした。

結羽はふっと笑みを浮かべる。

「だから今日、親方とおかみさんにお会いして、ようやく安心しました。翔太兄ちゃんは、ほんとうに大切にされていたんだって。わたし、もう(わだかま)りなんてありません」


その言葉に、場の空気が和らいだ。

翔太の頬はわずかに赤らみ、親方と女将さんは静かに顔を見合わせてうなずいた。


結羽の心にかかっていた薄雲が晴れ、ようやくまっすぐに翔太の背中を見ることができるようになったのだった。



ーー親方の激励ーー

玄関先まで見送ってくれたおかみさんが、手を振りながら明るい声をかけた。

「また、いつでも来て頂戴。その時は特製ちゃんこ用意しておくから!」


結羽も翔太も、自然に笑顔になる。温かな香りの残る部屋を後にしながら、その言葉が胸に染みた。


親方は腕を組み、翔太をまっすぐ見据える。

「落語の世界も、土俵と同じで厳しい戦いがある。俺はいつでも翔太を応援してるぞ。もしも(くじ)けそうになったら……俺がぶつかり稽古で気合を入れなおしてやる!」


その力強い声に場が引き締まったかと思うと、おかみさんがすかさず茶目っ気を混ぜて口をはさんだ。

「あなたの方が、はじきとばされちゃうんじゃないの?」


結羽が思わず吹き出す。翔太も苦笑をこらえきれず肩を震わせた。


親方は一瞬きょとんとした後、豪快に笑った。

「ははは!そしたら俺は全場所休場だな。そうなったら翔太に槍ヶ岳部屋の親方代わってもらうか?」


その冗談に、一同は和やかに笑い声をあげた。

笑いの余韻を胸に、翔太と結羽は深く一礼し、温かな空気を背に受けながら槍ヶ岳部屋を後にしたのだった。



ーー笑角亭来福師匠の前でーー

次に訪れたのは、笑角亭来福師匠の家だった。畳の香りが漂う座敷に通され、来福師匠と向かい合って腰を落とすと、空気がぎゅっと締まった。


翔太は深呼吸して、少し照れくさそうに紹介した。

「師匠、こいつは俺の幼馴染(おさななじみ)で、深浦結羽(ふかうらゆう)といいます」


結羽は背筋を伸ばし、そのまま目を真っ直ぐに来福師匠に向けた。

「来福師匠、単刀直入にお伺いします。翔太兄ちゃんは、落語家の才能ってありますか? 翔太兄ちゃん、喋るのは苦手でして。ばあちゃんから聞いたんですけど、私が一つ下で六ヶ月でちゃんと話し始めたのに、もうすぐ二歳になる翔太兄ちゃんは一言も喋れなかったって……」


来福師匠は目を細めて首を傾げた。

「そりゃ重症やなあ……」


さらに反対側に首を傾げ直して、ゆっくりと口を開く。

「落語の才能は、今んところ、見えんなあ……」


場に一瞬の間が落ちる。だが来福はやがて豪快に笑った。

「でも安心してええで。落語の才能満ち溢れるワシがこの歳までぱっとせんやったんやから、才能だけではあらへん。噺家になるのに、才能はあんまり関係あらへんのや!」


そのまま目を細め、いたずらっぽく続ける。

「それよりも――“強すぎて前相撲では負け知らず、先輩力士を病院送りにして自分は部屋クビになった”、それで噺家を目指した。『角界の落伍(らくご)者』です、て(まくら)でやってみい。掴みはがっちりやで」


来福のドヤ顔に、結羽は少し首をかしげるものの、刺さらない様子ではなかった。師匠はさらに正直に言う。

「まあ、正直に言うたら往生(おうじょう)しまっせ〜。こんだけ覚えが悪いのも珍しい。昔のワシなら縁側から蹴り落としてやるところや!」


その言葉に、翔太は肩を落として目を伏せた。怒りでも(あざけ)りでもない、師匠の深い諦念(ていねん)と愛情がその声には滲んでいた。


来福はしばし沈黙し、やがて決めたように顔を上げた。

「そこでな、ワシはお前に名前をやることにした」


結羽はジト目で来福を見ていたが、その顔がぱっと明るくなる。翔太はきょとんとした表情だ。

「笑角亭力介(りきすけ)でどや、翔太!」


来福は身振り手振りを交えて説明する。

「落語っちゅうのはな、一人でいろんな登場人物を演じ分ける芸や。熊さんはこう、大家さんはこう、お侍さんはこうやって、演じ分けて見せる。言うたら『プロファイラー』みたいなもんやで」


※注 プロファイラーとは、犯罪心理分析官(警察官)を指し、犯罪現場に残された証拠や特徴から、犯人の人種、年齢、心理状態、行動パターンなどを科学的に分析・推測します。犯人像を絞り込み、捜査の方向性を決定したり、犯人特定に繋げたりすることが主な目的です。アメリカのFBI、イギリスの警察機関などで活用されており、来福師匠はそんな海外ドラマか映画でも見たのだろう。


きょとんとする二人の前で、来福はさらに身振りを大きくして、いくつかの声色を瞬時に切り替えながら演じてみせた。

「大家さん、まあまあ(ぶすっと) 熊さん、ええか?(ぶはは) お侍さん、ふんっ!(えらそうに)」

 

その軽やかな演技に、結羽はたちまち笑顔になり、翔太も思わず微かに口角を上げた。来福の声のひとつひとつには、厳しさの裏にある信頼と期待がこもっていた。


座敷には、滑稽さとぬくもりとが同居する空気が満ちていた。来福が名を授けたその瞬間から、翔太の「噺家」としての道は、小さな灯がともされたように感じられたのだった。



ーー来福師匠の教えーー

来福師匠は、しばらく翔太の顔を見つめたのち、ふっと口元をゆるめた。


「しゃべりたくなければ、しゃべらんでもええ」


その言葉に、翔太ははっとして顔を上げる。結羽も思わず目を見張った。落語といえば“しゃべりの芸”がすべてだと思っていたからだ。


師匠は翔太の大きな体を眺めながら、ゆっくりと続ける。


「おまえの図体を使うんや。でっかい体で“ふり芸”やってみい」


翔太はきょとんとして聞き返すように瞬きをした。来福は扇子を手に取り、軽く構えてみせる。


「落語の“振り芸”ゆうのはな、演目が終わったあとの『オチ』や『サゲ』とは別もんや。本編の途中でもええし、最後でもええ。噺家が登場人物になりきって、その人の仕草や口調を真似て、観客を笑わせる芸や」


師匠はすぐに腰をくねらせ、猫背になってよぼよぼ歩き出す。

「……よいしょ、よいしょ……」

今度は胸を張って偉そうに顎を突き出す。

「なにぃ? このわしに文句でもあるんか!」


たった数秒の変化に、座敷の空気がぱっと変わる。結羽は思わず笑い声をあげ、翔太も息を呑んだ。


「こうやってな、言葉がついてこなくても、仕草ひとつで客は笑うんや」


師匠の声はどこか厳しい響きを帯びる。

「ただし――死ぬ気でやれい! 命削るつもりで“ふり芸”やってみい。できれば落語会の歴史に残る名人や、そう謳われるくらいにや」


畳に響く師匠の声に、翔太の背筋がぞくりと伸びた。


「それにな、扇子や手拭は噺家の命や。箸にもなれば煙管にもなる。手拭きゃ手紙にも財布にも化ける。振りの芸や道具さばきを極めりゃ、それを強みにできる。噺は後から、いくらでもついてくるんや」


来福は扇子をぱちんと閉じ、翔太の目を射抜くように見つめた。


「翔太、お前に足りんのは言葉やない。死にものぐるいで芸にぶつかる覚悟や」


座敷はしんと静まり返った。結羽は固唾をのんで翔太を見守り、翔太は重く息を吐きながら、その言葉を胸に刻み込んでいた。



ーー来福流の指導ーー

来福師匠は扇子を机に置くと、翔太をじっと見据えた。


「翔太、お前はまず“道具”からや」


そう言って、扇子や手拭をひとつずつ並べ始める。まるで台所の棚に鍋や包丁を整えていくように、無駄のない動作だった。


「用意した道具で落語を廻すんや。扇子は箸にも煙管にも化ける。手拭は財布にも手紙にもなる。噺家にとって道具は調理器具みたいなもんや。これをきっちり整理して、どう使うか決めてから芸に入る」


結羽ははっと思い出した。翔太が何か作業を始める前には、必ず使う道具を整理整頓していることを。


来福は続ける。


「これはな、お前の特質に合わせたやり方や。台所を片づけてからでないと料理できんやろ? ほな、落語も同じや。道具を整え、場を整えてからでないと芸は回らん。無理にしゃべらんでもええ。まず“準備”があってこそや」


翔太は深く頷いた。胸の奥で、ようやく何かが噛み合ったような手応えがあった。



ーー力介の誕生ーー

来福はゆっくりと扇子を開き、先端で空を軽くひとさしした。

「さあ、翔太。片付けた台所から、扇子と手拭を手にとってみい。落語はお前の料理や。鍋を振るうみたいに、芸を廻すんやで」


その言葉に導かれるように、翔太はおそるおそる扇子を手に取った。ごつい掌に収まった白木の扇子が、いっそう小さく見える。だが彼は、深呼吸をひとつして、静かに腕を動かし始めた。


――蕎麦をたぐる。


ただそれだけの仕草だった。だが次の瞬間、結羽の目には、違うものが映っていた。


高座にいるように隣に座る大男の姿は、厳しい稽古を終えた力士が、すきっ腹に蕎麦を流し込む姿へと変わった。肩で息をし、湯気をあげる体から、汗と闘志の匂いまで立ちのぼってくるようだ。いや、それだけではない。工事現場で昼の休憩時間を迎えた労働者が、ラーメンをかき込む姿にも見える。


同じ仕草なのに、そこには複数の人生の影が映し出されていた。


結羽は、思わず息を呑んだ。

(翔太兄ちゃん……こんな芸を持ってたんだ)


来福は腕を組み、口角を上げた。

「結羽さん、どう見えた?」


「……力士が……それに働いてる人が……」結羽は震える声で答える。


来福は満足そうに頷き、扇子を鳴らすようにひらりと振った。

「せやろ。大きな体は小さな寄席の高座でも、野球場のバックスクリーンに変えてしまうんやで。翔太――いや、力介や。ワシはな、自分の持っている『ふり芸』、ぜんぶお前に引き継いでもろて、それ以上のことができる芸人になってもらいたいんや」


師匠の声は力強くもあり、どこか温かかった。その瞬間、翔太の胸に、これまで背負ってきた後悔や迷いが、すっと消えていくように感じられた。


こうして、翔太――いや「笑角亭力介」としての第一歩が、静かに踏み出されたのである。



ーーギガンティス高田物語ーー

翔太の蕎麦をたぐる仕草を見届けたあと、来福はふっと懐かしむように目を細めた。

「昔な、ギガンティス高田いうプロレスラーがおったんや」


突然の名前に、翔太と結羽は顔を見合わせる。


「昭和の人気番組でな、テレビをつけたらプロレスや。高田は『大和(やまと)の巨人』て呼ばれて、背ぇは二メートルを超えとった。ほんま日本人離れした体格でな。皆、テレビの前で釘付けになって応援しとったんや」


来福は、まるで高座で語るようにゆっくりと言葉を転がした。翔太の胸に、その巨体の男がスクリーンに映し出されるように浮かんでくる。


「せやけどな、団体が分裂したり、世の中は格闘技やボクシングの方に流れていった。『プロレスはショーや、見せもんや』って言われて、テレビの放送もなくなってしもうたんや」


結羽が小さく眉をひそめた。

「それで……高田さんはどうなったんですか?」


「お茶の間や」来福はにやりと笑った。

「プロレスの試合やのうて、テレビのバラエティ番組やCMに呼ばれてな。大男やのに、ニコニコして口数少のうてな。気取らん人柄で、芸能界でも(した)われとった。スターであると同時に、ほんまもんの『人気者』やったんや」


翔太は、その姿を想像して思わず背筋を伸ばした。大きな体が、舞台を圧迫するのではなく、場を温める力に変わる。そんな在り方が、確かに自分に重なって見えた。


来福は目を伏せ、小さくため息をついた。

「せやけど……まだ六十一歳で亡くならはってな。惜しまれて惜しまれて、テレビでもしばらく話題になっとった。スターいうのは、舞台が変わっても光を放つもんや。翔太、お前もそうなれ」


その言葉に、翔太の胸が熱くなる。扇子を持つ手に、無意識に力がこもった。



ーー師匠の言葉、弟子の決意ーー

来福は扇子をたたみ、じっと翔太を見つめた。

「翔太、おまえな、もし最初にどこかの落語家の弟子になっとったら、相撲と同じように『もの憶えのわるいやっちゃ』言われてたやろな」


翔太は思わず目を伏せたが、師匠の声はすぐに柔らかく続いた。

「けど最初がワシやった。落語会の異端児(いたんじ)や。そやけどな、人の本質を見抜くことだけは、誰にも負けへん。――おまえは人より時間かけて(しゃべ)りの修行すればええんや。でも途中で投げ出したらあかんで。

笑いたいやつには笑わせておけ。そうすればいずれ……『大トリ』の力介(りきすけ)になれるで!」


胸に響く言葉だった。翔太は、しばし黙ってから口を開いた。

「そういえば……槍ヶ岳親方から、よく言われました。『豚や牛は食うな。(トリ)を食え』って」


結羽が、ふっと笑った。

「それって力士の縁起かつぎよね。牛や豚みたいに前足をついてしまったら負けだから。

でも翔太兄ちゃん、もう力士やめたんだから、ハンバーグもステーキも安心して食べられるわよね?」


翔太も苦笑する。

「そうやな。やっと、豚肉も心置きなく食えるわ。師匠、今晩はハンバーグを用意します!」


その言葉に来福は目を細め、声を張り上げた。

「おう、ええやないか。けどまた太ってまうがな!結羽ちゃんも一緒に食べてって~な!」


相撲と落語、二つの門をくぐった翔太の修行は、まだ続いていく。だがその先には、確かに未来の「大トリ」への道が伸びていた。

ーー続くーー



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