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田中オフィス  作者: 和子
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第七十一話、受け継がれる魂

ーー夏コミケ2025ーー

世界には数えきれないほどの祭りがある。

その多くは神への祈りや、歴史の記憶を伝えるために続いてきた。太鼓の音に血を騒がせるものもあれば、厳かな儀式の形を残すものもある。


だが――宗教にも政治にも縛られず、ただ人々の情熱と遊び心だけで連綿と続いてきた祭りが、いったいどれほどあるだろうか。


コミックマーケット。

通称「コミケ」と呼ばれるこの催しは、その稀有な例に数えられるだろう。


1975年、東京の一角でひっそりと始まった小さな集まり。

それが今では正式ナンバーが100を超え、半世紀の歴史を刻むに至った。


そこに政治的な意図もなければ、宗教的な権威もない。

ただ「好き」という衝動に突き動かされた人々が集い、自らの創作を披露し、また誰かの熱を受け取って帰ってゆく――。


そう、これは世界でも稀な、純粋なるアマチュアリズムの祭典。

そして今、また夏の東京で、その扉が開こうとしていた。



ーーコミケの利益ーー

会場の片隅、コスプレエリアへと続くロッカールームの前は、すでに行列ができていた。

夏の日差しの下、色とりどりの衣装を抱えた参加者たちが汗を拭いながら順番を待っている。


「ここで着替えるんですね?」とリーザが目を輝かせる。


猫田洋子は涼しい顔で頷いた。

「そう。コスプレイヤーは必ず、会場のロッカールームで着替えるのがルール。外から衣装のまま来るのはご法度なのよ」


「なるほど、まるで儀式のようです」リーザは真剣にうなずく。


洋子は続けた。

「ここから人気が出て、芸能人やグラビアアイドルになる人もいるわ。でもね――」彼女はわざとらしく肩をすくめる。

「コミケ自体では商業利用はできない仕組みになってるの。あくまで『個人の表現の場』ってこと」


佐藤美咲が興味深そうに尋ねた。

「じゃあ、二次創作マンガを売ってるのは……?」


「利益を目的にしてないから成立してるのよ」洋子は指先で空を切るようにして答える。

「製本だって高価なオフセットのフルカラー印刷が普通。経費を考えれば、ほとんど赤字。みんな、それでも描きたいからやってるの」


リーザは目を輝かせ、胸の前で手を組んだ。

「純粋な情熱……!まさに祭典ですね!」


洋子は「まあね」と笑いながら、群衆を見渡した。

そこには、ただ好きなものを好きな形で表現しようとする人々の、真剣で熱っぽい空気が広がっていた。



ーー猫田洋子の著作権解説ーー

東京ビッグサイトの熱気の中。

人の波を横目に、猫田洋子は涼しい顔で控えフロアのベンチに腰掛けた。周囲が汗だくで水分補給に必死な中、彼女の周りだけは不思議と冷風が流れているようだった。


「もしよ」

猫田は扇子をひらりと広げ、視線を遠くの企業ブースに向けた。


「コミケで利益が出る漫画出版のビジネスモデルを作ったとすると、その瞬間、著作権者や隣接権を持つメディアミックスが黙っていない。訴訟、差し止め請求……いいわよ、それくらいなら想定内。でもね、恐ろしいのは莫大な逸失利益を根拠にした損害賠償請求よ。億単位、下手すれば桁がひとつ増える」


ごくり、とリーザが息を呑んだ。


「で、でも……オリジナル作品なら安全では?」

佐藤美咲が恐る恐る尋ねる。


猫田は小さく笑う。

「甘いわね。仮にオリジナリティが認められたとしても、個人の趣味から始まった同人作家が、出版社や製作委員会と長期の訴訟戦を続けられる? 弁護士費用だけで干上がるわよ」


「じゃ、どうすれば……」

たまちゃんが思わず聞く。


猫田は扇子をパチンと閉じて、挑むように言い放った。


「バランスよ。潰されないための、絶妙な均衡で成り立つ“暗黙のシステム”」


彼女は指を折りながら語る。


「第一に、利益が出ても“目立たない範囲”で抑えること。

第二に、公式に利益を還元する“グレーな寄付”の仕組みを残すこと。

第三に、二次創作はあくまで“愛”の発露であって、営利ではないという文化的装置を共同体で維持すること」


「文化的装置……?」とリーザ。


「そう。要するに、商業出版利権と直接ぶつからないよう、みんなでルールを守る“村社会の知恵”よ」


猫田はふっと笑って立ち上がった。

「著作権に殺されないための知恵。それがコミケを五十年続けてきた秘密。……法律じゃなく、空気と習慣が守ってきたの。地道に同人活動続けていれば、出版社やプロの漫画家の目に留まったことが切欠で、商業作家になった人も多いのよ」


そこまで言って、彼女は日傘を開いた。

眩しい夏空を遮りながら、言葉を締める。

「ね、これって一番日本らしい“均衡の文化”だと思わない?」


その声には、勝者のような自信と、策士の笑みが滲んでいた。



ーー東京へは、もう何度も行きましたねーー

「懐かしいなあ、東京。下宿時代を思い出すぜ」

竹中駿也は、炎天下にそびえる東京駅舎を見上げて、胸の奥に懐かしさをこみあげさせていた。

横に立つ半田直樹も、同じ景色を見上げている。


(この二人は田中オフィスの「変人師弟コンビ」、ネーミングはワタシ。日々の業務でも、会議でも、二人一緒、セットで動いている・・・。)


「誰に話してるの?たまちゃん」

ふと呟いた一言に半田が首をひねる。


「い、いや!なんでもないッス!」と慌てて手を振る。

そして今回は、奥田“たまちゃん”珠実も一緒だった。


「東京駅舎全景をフレームに入れて、僕のところまでズームイン!そんな感じで頼むよ、主任」


竹中顧問は総裁Z動画の撮影指示を半田直樹に伝えると足早に東京駅入り口まで戻っていった。田中オフィスでは、互いを「主任」「顧問」と呼び合っている。


「この距離だと、光学ズームと、電子ズームを両方使って編集で繋ぐしかないな・・・それより、東京駅一帯をパンしてワイプで顧問の動画フレーム入れたほうがいいんじゃないかな?たまちゃん、追っかけてスマホで近接の顧問もとっておいてよ」


たまちゃんは、合点だい!と言って竹中顧問をダッシュで追いかける。


夏休みを利用してはるばる東京まで来た理由は、夏コミケ2025、この半世紀以上続く日本独自のイベントを舞台に、総裁Zとしても参加してきた記録を残ためだ。勿論、提案してきた田中オフィスTokyoの佐藤美咲だ。


そして竹中顧問のもう一つの目的は()()()()()、ではなく水野幸一に会って今後の田中オフィスTokyoの成長戦略会議で直接対談である。


東京事務所は2年で黒字化し、さらにミズノギルドという新組織も設立している。田中社長も安心して任せているものの、あんまり口を出したくない。そこで社長は、竹中顧問と水野所長の直接会談を考えたのだ。


「社長は言ってたな『竹中顧問もミズノギルドに誘われたら行ってしまいそうやけど』と心配していたよ」

ミズノギルドに呼ばれなくて、社長は拗ねてるのかなと竹中顧問は思った。社長にはこう言っておいた。


「田中オフィスが主体で、ミズノギルドは水野くんが動きやすいように作った会社です。社内起業も彼の計画のうちですよ、あくまで田中オフィスのためです。どんなビジョンを描いているのか、水野さんにしっかり聞いてきますよ」


竹中顧問は水野所長に早く会いたい気持ちが抑えられない。たまちゃんが総裁Zの動画撮影を終えると、半田主任を東京駅入り口に呼び寄せた。大きなリュックとスーツケース2個を引っ張ってやっと半田くんが到着すると、

「よし、主任、まずはコミケ会場だ!あっちでTokyoチームと合流するんだからな」


半田は「やっぱり今日も変わらないな」とため息をつき、たまちゃんは「また始まった」と笑っていた。


真夏の東京駅前。

変人師弟と女子アナ役の三人は、すでに祭りの始まりを告げるかのように、わくわくとした空気をまとっていた。



ーーカモメに揺られてコミケ会場へーー

「いつもゆれてえる、ゆりぃかぁもめ~」と竹中顧問はこぶしを回しながらホームにむかう。


半田主任は、

「それ、連絡線ですよ。これから乗るのは新交通システム”ゆりかもめ”です」


竹中顧問は

「でも晴海(はるみ)にいくんだろ?」

とドヤ顔。半田主任は苦笑いしながら

「東京ビッグサイト駅ですよ」と言う。


やがて到着した東京ビッグサイト。鋭角的な逆ピラミッドの威容に、一行はしばし圧倒される。


そして――本当に驚くべきはその人、人、人!

「見ろ、ひとが……人混みのようだ!」

顧問がまるでアニメの悪役のように叫んだ。


「……()()()しく言いますね」

たまちゃんが半目でつぶやく。

「要は『人が多くてびっくりした』ってことですよね……あっ!美咲ちゃん!」


彼女は人混みの中から駆けてくる佐藤美咲に気づくと、全速力で走り出した。

そして――インターセプト・ハイタッチ! さらに友情のバロムクロス!


その脇で、半田主任は苦笑いを浮かべつつ、待ち合わせ組の男性に手を振った。

倉持くん――おそらく強制的に駆り出されたであろう彼である。


さらに人混みを目をこらしてみると……。

日傘、UVカットロング手袋、サングラスにマスクという完全防御スタイル。

あれはきっと肥後香津沙さんに違いない。


そして――そこには、見慣れぬ二人の影も混じっていた。


「今日は竹中顧問も来られています!」

たまちゃんは胸を張って、Tokyoメンバーに紹介した。


「マーケティング実証動画を発表している“総裁Z”でご覧になった人もいると思います」


その瞬間、数人の目がキラリと光った。

「あの、総裁Z!?」「本物が……生で!?」

場の空気が一気にざわつく。


竹中顧問は一歩前に出て、深々と頭を下げた。

「初めまして、竹中駿也です。TSA(Top Senior Adviser)として、田中オフィスの皆様とお仕事ご一緒させていただいています」


そして――おもむろに両手を広げ、例の“アレ”をやり出した。

「ゼエッットオーー!」

(※おそらく動画内でおなじみのポーズ)


……周囲が一瞬シーンとなったあと、謎の拍手と小さな歓声が起こる。


顧問はその余韻にのせて、ターゲットを定めた。

「あなたが、東京のマブダチとたまちゃんがいつも言っている『佐藤美咲』さんですね」


佐藤美咲は「えっ、ええ、そうです……」と、なぜかピンと背筋を伸ばす。


竹中顧問は満面の笑みで彼女を指さした。

「そう……思ったとおり! オタクの波動を感じますよ!」


「えっ、そんな……!」美咲はなぜか赤面。


顧問はさらに言葉を重ねた。

「でも同時に……オフィスの癒し手でもある。あなたはまるで、メガネの少女ロボット――“アラララちゃん”のようですね」


「……アラララちゃん……」

美咲は困惑と照れ笑いを同時に浮かべ、なぜか後ろでたまちゃんが「出たッ!」と拳を握っていた。


場の空気は、オタク談義に突入する前の、適度な温度で満たされていった。


続いて竹中顧問の視線が、じわりと一点に吸い寄せられた。

その先には、日傘・サングラス・マスク・ロング手袋で完全防御――まさに真夏のフルアーマーをまとった肥後香津沙の姿があった。


「たまちゃんから、聞いていますよ」

顧問は腕を組み、どこか芝居がかった口調で言う。


「あなた、オフィスTokyoの水野所長のタッグパートナー……”肥後勝弥”さんの奥さんで、やり手の芸能プロモーター、『ヒア・ウイゴー』の肥後香津沙さんでしょう」


香津沙は無言で軽く会釈――だが、サングラスの奥の視線は読めない。


竹中はさらにドヤ顔で続けた。

「ああ、イメージが沸きますよ……!」


彼は片手を天に掲げ、朗々と語りだす。

「映画『嵐の谷のジェシカ』に登場する帝国皇女――『クシャトリア殿下』!」


「え?」「ク、クシャトリア?」

周囲のTokyoメンバーがざわつく。


「皇女としての威厳と冷静さ、そして戦略家としての強さを秘めた美しさ!」

顧問の声は高まっていく。


「物語の前半では、主人公ジェシカの敵として立ちはだかるが……ラストでは嵐の谷に押し寄せる魔物の群れを――!」

彼は両手を広げ、謎のポーズを決めた。

「薙ぎ払ったぁぁぁ!」


……沈黙。


たまちゃんが、ぽつりと呟いた。

「……今はUV降り注ぐ中、日傘とサングラスとマスクと手袋で薙ぎ払ってますけどね」


周囲からどっと笑いが起きる。

香津沙は肩をすくめ、日傘をくるりと回した。


「クシャトリア殿下、ね。覚えておきますわ」

その声音には、たしかに“皇女”の余裕がにじんでいた。



ーー戦慄の出会いーー

炎天下。

じりじりとアスファルトが焼ける中、佐藤美咲は「これは長い初対面トークになる」と直感し、ささっと紹介に切り替えた。


「で、こちらが私の後任の柴田リーザさん。日本語会話はOKですよ」


紹介された女性は一歩前へ出て、日差しにきらめく笑顔を浮かべる。

「私、柴田リーザいいます。日本人男性と結婚、帰化して柴田姓になりました。旧姓はヴァイスです。日本の文化に心酔しています。特にアニメが大好きなの! 今日は憧れのアニオタの祭典コミケに参加できて、この上もない栄光です!」


完璧な日本語に、周囲が「おお……」と軽く感心する。

だが、美咲はすかさず次のカードを切った。


「そしてしばらくの間、私が出向する先の上司である猫田洋子お嬢様です」


そこに現れたのは、真夏の空気を一変させるほどの存在感を放つ猫田洋子。

扇子をぱちんと閉じて、竹中顧問を見据える。


「ふうん……総裁Z、生で見たわ。予想通りの変態紳士(へんたいしんし)ね。あ、これは最大級の褒めことばだから」


言い切った。

その声音には、容赦のなさと一種の愉悦が混じっている。


竹中顧問は、目を細めて唇を吊り上げる。

「ほう、私を前にして臆することなく言い切るとは……その精神力をどこまで維持できるか、見ものだな」


一瞬にして二人の間に漂う“異様な静圧”。

真夏の熱気をも凍りつかせるような空気が場を支配した。


「ご、ゴング……鳴らしたいッスね!」

たまちゃんは興奮で身を乗り出す。まるで観客席から試合開始を煽るリングアナのように。


だが美咲は冷や汗を浮かべていた。

「お嬢様のご機嫌が……悪くならなければいいけど……」


さらに横で黙って様子を見ていた肥後香津沙は、サングラスの奥で目を細める。

(これは……オタク談義の域を超えて、もはや“覇権争い”……。このバトル、常軌を逸する危険がある)


太陽は燦々と輝いているのに、その場だけは異界の格闘場のように冷え、重々しい。

祭典の熱気とは別種の、背筋に戦慄を走らせる“異次元の闘気”が、今まさに立ち上がろうとしていた――。



ーー水曜の稽古ーー

水曜日の午後、アビシェク・シャルマは学校が終わると足早に電車へ乗り込む。向かう先は、師匠・笑角亭来福の家である。週に一度の稽古の日。冬休みが来るまでは、このペースでやるしかない。それでもアビシェクは不満を抱いていなかった。むしろ、楽しみが二つある。


一つはもちろん、落語の稽古。もう一つは――岩木翔太に会えることだ。


翔太は、かつて新小岩の相撲部屋にいた青年で、三年間ちゃんこ長に付いて調理を学んでいた。その経験から作る料理は、まかないとは思えぬ旨さだ。翔太が鍋を振るえば、野菜も肉もすべてが力士の胃袋を満たす温かい料理に変わる。アビシェクはそれを週に一度、師匠の家で味わえるのである。


「翔太さんのご飯は、ほんとに最高だな」

アビシェクが箸を進めながら言うと、翔太は少し照れ笑いを浮かべた。相撲をやめてから、体は少しスリムになった。元々太りにくい体質なのだろう。がっしりとした肩幅を残しつつも、輪郭はすっきりとしていた。


それに比べて、師匠の来福はどうだろう。

「師匠、少しふっくらしてきましたね」

アビシェクは思わず口にした。


来福は「おう、やっぱり分かるか」と豪快に笑った。確かに、顔にはつやがあり、健康そうではある。ただ、移動のときの荷物持ちはいつも翔太が引き受けてくれる。必然的に師匠は動かなくなり、運動不足もあるのだろう。


「まだ稽古は別メニューやな」

来福は湯呑を置きながらつぶやいた。


翔太は、毎日稽古してもなかなか上達の兆しが見えない。優しい性格というものは芸事一般に向かないのかもしれない。それでも、彼が真面目に続けているのは分かる。だが一方で、アビシェクは週に一度の稽古でも、吸い込むように落語を覚えていった。


その差は歴然としていたが、三人の関係は温かかった。翔太は料理で二人を支え、来福は笑いで場を和ませ、アビシェクは未来への希望を感じていた。


水曜日の夕暮れ、ちゃぶ台を囲む時間は、彼にとって稽古以上に大切な学びの場になっていた。



ーー皿洗いの哲学ーー

食事が終わると、台所には水音が広がった。翔太が鍋を片付け、アビシェクが皿をすすぐ。二人の呼吸は、もう何度も繰り返してきたように自然に噛み合っていた。


アビシェクは、手を動かしながら口を開いた。

「今は、ネタを覚えるより、落語の裏方の仕事に取り組んだほうがいいと僕は思います。体験から言うと、いろいろな仕事をさせてもらう中で落語の世界そのものがよく見えてきますし、先輩や師匠たちにお話を聞けるチャンスも多いです」


皿を受け取った翔太は、布巾で水気を拭きながら、少し苦笑いを浮かべた。

「俺、要領が悪くてな。力仕事ならいいけど、細かい作法なんか頭に入らないんだよ」


アビシェクは手を止めず、すすぎの水を切りながら首をかしげる。

「んー、そこはあまり考えすぎない方がいいと思いますよ。間違えて怒られながら、体で覚えていくつもりでやればいいんです」


翔太は「なるほどなあ」と小さく頷いた。だが、自分にそんな器用さがあるだろうか、と胸の奥で不安もわいていた。


アビシェクは笑みを浮かべ、続ける。

「僕は動機が“夏休みの自由研究”だったんです。だから稽古や裏方のことを、あとでレポート用紙に書き出したりしました。まとめていくと、自分がどれだけ学んだかも見えてきますし」


翔太はその言葉に目を丸くした。

「自由研究から始めて、ここまで来たのか」


その感心の声に、アビシェクは少し照れくさそうに笑った。皿を並べる音が、二人の間に小さなリズムを刻む。


――師匠の前で稽古する時間だけが修行ではない。台所の片隅にも、落語家を育てる学びがあるのだ。翔太はそのことを、年下の兄弟子の言葉から初めて実感しつつあった。



ーー初心の稽古ーー

「翔太さんは、なんでもキッチリやる人なんですね」

アビシェクが皿を拭きながら言った。


「皿洗いしたあとの水の切り方、皿の片付け方……前に見た師匠の台所はもっとごちゃごちゃしてましたけど、今は実にきれいに整理されてます」


翔太は、少し照れくさそうに笑いながら返す。

「俺、きちんと並んでいないと料理の手順とか混乱しちゃうんだ。整理しておくと、次に使うとき考えずにすぐできるからね」


その言葉に、アビシェクは深く感心した。翔太は決して要領が悪いわけではなかった。むしろ、準備さえ整えば実力を存分に発揮できる人なのだ。


おそらく相撲のときも同じだったのだろう。相手が真正面からぶつかってくるなら、翔太は「力押し」をして、お約束通りごろんと投げられる。だが、前相撲や他部屋の出稽古の相手力士は翔太の巨体を崩そうと、思いがけない手を繰り出してくる。すると翔太はパニックとなり「怪力で腕や体を掴み、一気に投げ飛ばす」この方法に頼らざるを得ず、結果として相手に大怪我を負わせてしまうのだ。技の積み重ねが少ない翔太には苦しかったに違いない。地道(じみち)な稽古を続けていれば、大器晩成の力士となっていたかもしれない――。


「焦らず、ゆっくりやるで」

師匠・来福の言葉が頭をよぎる。やはり彼は、翔太の資質を見抜いていたのだろう。


そのとき、アビシェクが振り向き、声をかけた。

「師匠、今日は初心に返って、一番最初の稽古からやり直しできませんか?」


その意図を、来福はすぐに察した。翔太と一緒に稽古を進めたい――その心遣いが伝わってきたのだ。


「よし、翔太、アビ介。稽古つけてやるから、そこ座れ」


ちょこん、と座るアビシェク。ずしん、と腰を下ろす翔太。二人の姿を前に、来福はふと遠い昔を思い出した。


(ワシが入門した頃の桂昭和師匠……どんな思いで稽古をつけてくれてたんやろな)


懐かしい記憶に胸をよぎらせながらも、今は目の前の弟子たちだ。来福は、いつになく楽しげに声を張り上げた。


「さあ、やるで!」


その声に応えるように、弟子二人の背筋がぴんと伸びた。小さな座敷に、新しい稽古の気配が満ちていった。



ーー新しい酒、新しい夜ーー

錦糸町の新事務所。IntegrateSphereの設置がようやく完了し、静かに稼働を始めた機器が規則的に光を放っていた。


「ここからが本番ですね。ソフトのセットアップに入ります」

河村SEが、落ち着いた口調で水野所長に告げた。


その横で腕を組んでいたラヴィ・シャルマ行政書士が、目を輝かせる。元SEらしい自信に満ちた表情だった。

「いよいよ、僕たちの出番ですね。これから倉持くんと一緒に環境設定を進めます。VDI環境でのPC利用、本社と同じ会計ソフトの導入……それをクリアしたら、知財法務システムへの挑戦ですよ」


「ラヴィさんは意気込み十分ですね」

水野は苦笑しながら、現実的な一言を添えた。

「まずは安定稼働してからですよ。どんな最新システムでも、最初は誤作動くらい覚悟しておいた方がいいと思います」


「おっしゃる通りですね」

河村SEはうなずき、少し身を乗り出した。

「“新しい酒は新しい革袋に盛れ”といいます。これは、新しい思想や物事には、それにふさわしい新しい形式や方法が必要である、というたとえです。古い形式や常識にこだわれば、新しいものを活かせず、両方をダメにしてしまう……新約聖書に由来する比喩なんですよ」


ラヴィは興味深そうに頷き、続ける。

「面白いですね。ただ、ヒンドゥー教の考えでは少し違います。新しい考えや古い教えの解釈の違い、そうした多様さを受け入れる姿勢が重要視されます。必ずしも“新しい革袋”でなければならないとは考えませんね」


河村SEは目を細め、ふっと笑った。

「そうです、そうですよ。革袋は新しくても古くてもいいんです。大事なのは、新しい酒を注ぎ込むこと」


「美味しいお酒なら、新しくても古くても関係ないですね」

水野はそう応じ、肩の力を抜いた笑みを浮かべた。

「ただし、飲みすぎて悪酔いしないように、ですけど」


その言葉に、三人の間に笑いが広がった。


「今日は一段落しましたし、軽く飲みに行きませんか?」

水野の提案に、ラヴィも河村も迷わず頷いた。


オフィスの明かりを落とし、彼らは錦糸町の夜へと流れていった。街の灯りが、まるで新しい門出を祝福するように輝いていた。

ーー続くーー

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