第八話、田中オフィス VS. E不動産会社・前編
田中オフィスの会議室。稲田さんが営業カバンを机に置き、肩を落としてため息をつく。その様子を見て、藤島さんがコーヒーを淹れながら声をかけた。
「稲田さん、大変そうね。何かあったの?」
「ええ……。」稲田さんはカップを受け取りながら話し始める。「E不動産の営業部長に、ウチで作ったソフトの販売について提案したんです。でも、あの人、『著作権はこちらにある』とか言い出して……。」
藤島さんの眉がピクリと動く。「そのソフト、田中オフィスが開発したんでしょう?」
「そうです。でも部長は、『アルゴリズムには著作権なんてないし、ソフトのアイデアはウチのノウハウだから、そっちには権利はない』って言うんです。」
「うーん、それって……。」藤島さんが考え込んでいると、隣のデスクで資料を見ていた水野さんが顔を上げた。「なるほど。ちょっと整理しようか。」
ーー水野さんの解説ーー
水野さんはホワイトボードに簡単な図を書きながら話し始める。
「まず、ソフトウェアの著作権についてだけど、アルゴリズム自体には確かに著作権はない。でも、ソフトウェアとして具体的にプログラムコードを書いた場合、そのコードには著作権が発生する。」
「ですよね?」稲田さんが頷く。「じゃあ、田中オフィスに権利があるんですよね?」
「基本的にはね。でも、問題はそのソフトがE不動産会社の依頼で開発されたものかどうか。」
水野さんは続ける。「契約の内容によるけど、もし『受託開発』として発注されていて、契約で著作権の譲渡が明記されていれば、権利はE不動産にある。でも、そんな契約してないよね?」
「もちろんです!」稲田さんが力強く言う。「ウチが自社開発したものを提案しただけです!」
「なら、田中オフィスの著作物ってことになる。」水野さんは頷いた。「E不動産のノウハウを元に開発したって言ってるけど、アイデアや業務フローには著作権はない。だから、具体的なコードを書いたのがウチなら、権利はこっちにある。」
藤島さんも納得したように頷く。「要するに、E不動産側は勝手に権利を主張しているだけね。でも、このままじゃ話が進まないわ。」
ーー田中オフィスの戦略ーー
「このまま揉めると、販売計画にも影響が出そうですね……。」稲田さんが不安そうに言うと、水野さんが冷静に提案した。
「まず、E不動産に正式な契約書を交わしていないことを明確に伝えよう。その上で、田中オフィスが開発元であることを再確認する。」
「でも、E不動産と揉めるのは避けたいですよね……。」藤島さんが慎重に言う。
「そうやな。」田中社長が、腕を組んで話に入った。「E不動産は今後の取引相手にもなりうる。強く言い過ぎてもあかんし、でも譲りすぎても損や。」
「そこで、提案です。」水野さんがホワイトボードに妥協案を書いた。
① 田中オフィスが開発元であることを明記する
② E不動産を販売代理店とすることで手数料を支払う
③ 今後の改修やカスタマイズはE不動産の要望を反映できる形にする(ただし別途費用)
田中社長は腕を解くと、両腿を手のひらでパン、と叩き、
「ええな…これなら、E不動産も販売で儲かるし、ウチの権利も守れる。E不動産の営業部長が一番気にしてるのは、自社の利益やろ?」
藤島さんが微笑んだ。「なるほどね。交渉の余地は十分ありそうね。」
「明日、交渉には私が同席します!」水野さんが気合を入れる。
「無理せんと、スマートに頼むで。」田中社長が笑った。「あんまり熱くなると、相手が引いてしまうからな。」
「はい!」
こうして、田中オフィスの著作権問題は、戦略的交渉フェーズへと突入する——。
ーーE不動産との交渉、水野 vs. 永島営業部長ーー
E不動産の会議室。
広い窓から見える高層ビル群の景色が、まるでこの不動産会社の力を象徴するようだった。
水野さんは、少し緊張しながらも笑顔をつくり、目の前に座る永島営業部長に向かって話し始めた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
永島部長は、恰幅のいい体を椅子に預けながら腕を組み、鋭い目で二人を見た。「どうも。」
稲田が緊張しながらも、しっかりとした口調で挨拶を終え、水野を紹介した。
「こちら、水野です。当社のコンサルティング業務を統括しています。今回の件について、弊社の水野が同席させていただきす。水野は弊社の会計・法務面を統括しておりますので、今回の契約について詳しくお話をさせていただければと思います。」
水野さんが軽く会釈しながら、落ち着いた口調で言った。
「初めまして、水野です。お時間をいただき、ありがとうございます。」
永島部長はジロリと水野さんを見る。
「ほう、法務の方が出てくるとは……そんな大げさな話でしたかな?」
「いえいえ。」水野さんは微笑みながら、ゆっくりと手元の資料を開く。「私は単に、契約内容を整理して、両社にとって納得のいく形を作りたいだけです。」
水野さんが軽く会釈し、永島部長の目をまっすぐに見据える。恰幅の良い永島部長は、腕を組みながら椅子にふんぞり返り、挑発的な笑みを浮かべた。
「水野さん?あんたも司法書士か?」
水野さんは微笑をたたえたまま、即答した。
「はい、でも公認会計士でもあります。今日はビジネス上の認識ですこし行き違いがあったようなので、一度お話させていただきたいと参りました。」
永島部長が「ほぉ?」と少しだけ身を乗り出したが、すぐにまた背もたれに寄りかかった。
「でも、田中オフィスは司法書士事務所だろう? 代書屋が我々の本業に割って入るつもりか?」
稲田の表情がこわばる。田中オフィスの努力を無下にされたようで、思わず口を開きかけるが、水野が静かに手を上げて制した。
水野はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。
「確かに、司法書士は昔から『代書屋』と呼ばれることもあります。しかし、それはあくまで一側面に過ぎません。我々は企業法務の専門家であり、経営のリスク管理を支える存在です。貴社が扱う不動産取引のリスクを最低限に抑えるのも、我々の仕事の一環です。」
永島部長の目が細くなる。「へぇ、なかなか口が立つじゃないか。」彼は腕を組み直し、探るような目つきで言った。「じゃあ、まず聞こうか。君たち、ウチのノウハウで作ったソフトの権利を主張するつもりかね?」
水野さんは、すぐには答えず、微笑を絶やさずに静かに相手の目を見つめた。
この瞬間から、二人の駆け引きが始まった——。
ーー水野 vs. 永島、知的財産権の攻防戦ーー
曇りガラス越しに射す午後の日差しが、会議室のテーブルに淡く落ちていた。
長方形のテーブルを挟み、水野幸一は静かに姿勢を正す。スーツの袖口を軽く整え、資料のファイルを開いた。
向かいに座るのは、E不動産・営業部長の永島。年季の入ったスーツと、眉間に寄る皺が、その場に漂う空気に一種の緊張感を与えていた。
「まず、契約を確認させてください。」
静かだが確固たる口調で、水野が口を開く。
「これまでの取引の中で、E不動産様が弊社に対し、ソフトウェア開発の著作権を譲渡するような契約は交わしておりませんよね?」
永島は眉をひそめ、鼻を鳴らすように答えた。
「そりゃそうだ。契約なんて細かくはしていない。だが、このソフトはウチの業務ノウハウを使って作ったものだ。常識的に考えても、ウチのものじゃないのか?」
水野はわずかに頷いた。反論するのではなく、まずは相手の主張を受け止める。
彼の交渉術は常に冷静で、理詰めだ。
「なるほど。ノウハウというのは大切ですね。ですが、法律上、『アイデア』や『業務ノウハウ』自体には著作権は発生しません。著作権は具体的な創作物に対して発生するものであり、このソフトウェアのプログラムコードは弊社の開発チームがゼロから書き上げたものです。」
その言葉に永島が口を開きかけたが、水野は間髪を入れず続けた。
「確かに、E不動産様の業務を参考にして開発しました。ですが、それを言うなら、どんな業務システムも、クライアントの業務に合わせて作るものです。それでもシステム開発会社の著作物になるのが一般的です。」
「……しかしなあ。」
永島部長は目を細め、言葉を選ぶように低くつぶやいた。「このソフトは、ウチの業務に最適化されてるじゃないか。つまり、ウチのノウハウがなければ作れなかったってことだろう?」
沈黙が数秒だけ流れた。
そして、水野さんは静かに資料に目を落とし、指先でそのページを押さえた。
「一つ、ご提案があります。」
その声は柔らかだったが、芯があった。
永島部長の目が動く。水野はゆっくりと顔を上げ、淡々と告げた。
「E不動産様を正式な販売代理店として位置付け、販売手数料を上乗せする形でご協力いただくのはいかがでしょう?」
永島部長の表情が動く。目尻がわずかに上がった。
「ほう?」
「つまり、著作権は弊社にあることを前提としながらも、E不動産様の販売チャネルを活かして販売を行い、その対価として十分な手数料をお支払いするという形です。」
永島部長は腕を組んで考え込んだ。
そのまま10秒ほど沈黙が流れた後、ふと肩の力が抜けたようにニヤリと笑った。
「……ふむ。手数料を出しますよ、と来たか。」
「もちろん、交渉の余地はございます。」
淡々とした水野さんの返答に、永島部長はもう一度笑った。
その笑みには、敗北ではなく、ビジネスマンとしての興味と期待が滲んでいた。
「……面白い。詳しく聞こうか。」
その瞬間、知的財産をめぐる攻防は、新たなフェーズへと進んだ。
ーー永島部長の本音ーー
水野さんの冷静な態度に、永島部長は一瞬考え込んだようだった。しかし、すぐに腕を組み直し、顎を少し上げて言い放つ。
「水野さん、あんたの言うことはもっともらしいが、どうも腑に落ちないんだよ。」
「どの点でしょうか?」
水野さんは穏やかに尋ねる。
永島部長は指を三本立てる。
「大きく三つある。」
① 、販売収入の分配
「まず、営業努力の割合を考えれば、このソフトの販売で得られる収入は、販売元であるウチのものになるべきだ。手数料を上乗せって話だったが、それじゃ我々の利益が限定的になる。売るのはウチの人間なんだから、収益もウチに入るべきだろ?」
② 、知的財産の帰属
「次に、知的財産の問題だ。会社が持つノウハウや業務知識は会社の資産だ。それを他社と共有するなんて、あり得ない。ウチの業務フローが外部の会社に利用されるのは、会社の資産を奪われるのと同じだ。」
③ 、外部の人間によるビジネス化への抵抗
「最後に、これはオレの個人的な意見でもあるが……お前ら、ウチの仕事を横から見てソフトウェア化して、ビジネスにしようとしてるだけじゃないか? そんなもん、タダで渡せるわけがない。」
永島部長の語気が強まる。彼は自社の業務が単なる「下請け作業」として見なされることを嫌っている。賃貸管理部門は、不動産会社の安定収益を支える重要な柱だ。だが、地味な業務であり、会社内でも評価されづらい。しかし、このソフトは違う。営業マンがスマホ一つで全契約を完了できるようになり、賃貸をサブスク化できる。これは、業界を激変させる可能性を持つツールだった。
永島部長は、このソフトをなんとしても手に入れたいのだ。
水野さんの視線が鋭くなる。
「……なるほど。」と、一拍おいてから、静かに言葉を継いだ。
「お話は理解しました。それでは、一つずつ整理しましょう。」
水野は落ち着いた表情でノートを開き、永島部長の不満点を指でなぞるように確認する。
「まず、販売収益の問題ですが、販売をE不動産が担う以上、適正な利益配分は考慮すべきでしょう。ただし、開発コストを負担したのは当社ですから、その点を無視するわけにはいきません。」
「ふん……」
「次に、知的財産の問題ですが、今回のソフトウェアは、貴社の業務フローを反映したものではありますが、コード自体は当社が開発したものです。アルゴリズム自体に著作権はない、という主張は理解しますが、具体的な実装には権利が発生します。」
「それは……まあ、理屈の上ではそうだが……」
「そして、最後の点。『外部の人間に利用される』という懸念については、我々も誤解を招かないよう慎重に対応したいと考えています。 これは、E不動産の業務効率を大きく向上させ、貴社のビジネスモデルを強化するためのものです。つまり、我々がやろうとしているのは、『奪う』ことではなく、『提供する』ことです。」
水野は、少し身を乗り出して続ける。
「このソフトの販売によって、貴社の立場はむしろ強化されます。不動産業界でデジタル化が遅れているのはご存知のはず。もし貴社が先んじてこのシステムを導入し、市場に広めれば、業界標準を作る側になれる。」
永島部長がわずかに目を細めた。
「……業界標準、か。」
「ええ。つまり、このソフトをどう扱うかで、E不動産のポジションが変わるんです。業界を変えるリーダーになるのか、それともただの追随者になるのか。 それを決めるのは、貴社次第です。」
部屋に緊張が走る。
稲田さんが密かに拳を握る。
永島部長は、じっと水野を見つめた。
「……ほう。」
交渉の行方は、まだわからない。
このようなやり取りを手始めに、田中オフィスとE不動産との交渉は、数度にわたる議論を経て、最終的にE不動産の社長の決断によって合意に至った。「販売手数料にインセンティブを上乗せする」 という形で折り合いがつき、E不動産は販売元としての立場を確保しつつ、田中オフィスもソフトウェアの販売とカスタマイズで新しい顧客を獲得。結果として、司法書士業務の案件も大幅に増え、事務所の収益は大きく伸びることになった。
ーー田中社長、大喜び!ーー
「これは祝いや!スナック貸し切りや!」
田中社長は上機嫌で、いつものスナックを貸し切ることを決めた。全社員を招待し、慰労パーティーを開くことになった。
ーーエピローグ : スナックに響く未来の音ーー
夜のとばりが静かに街を包みこむ頃、駅前の小さなスナックでは、にぎやかな笑い声と拍手が交差していた。
カラオケのマイクを握りしめているのは、田中卓造社長。
背筋をピンと伸ばし、少し照れくさそうにしながらも、「これぞ関西演歌や!」と叫んだあと、渋い声で『浪速恋しぐれ』を熱唱し始めた。
「社長、ええ声してるわ〜!」
「演歌になるとテンションちゃうな!」
周囲の社員たちから笑いと歓声が飛ぶ。
カウンターでは、水野幸一が一人、静かにグラスを傾けていた。琥珀色のウイスキーが氷の中でかすかに揺れる。
その隣に座っていたのは、正式に専務となった藤島光子。今日のスーツ姿もどこか気品を感じさせる。
「水野さん、あなたの交渉術、すごかったわね。」
グラスを置いた水野は、肩をすくめて微笑んだ。
「いや、永島部長もしたたかでしたよ。でも、今回は田中オフィスにとっても、E不動産にとっても良い形になったと思います。……稲田さんもしっかり対応してくれました。」
すると、その稲田美穂が奥の席から聞こえてきた会話に気づき、そっと近づいてきた。
手にはオレンジジュース、頬にはほんのりとした赤み。
「ええ、これからさらに忙しくなりそうですね。でも、営業って、奥が深いですねぇ……私ももう少し勉強しないと!」
水野は、彼女の成長を感じて、少しだけ口元を緩めた。
「ま、そのうち慣れるさ。大事なのは、相手の立場を考えて動くことだ。」
「はいっ!」
背後では、システム担当の半田くんが「田中社長、次はデュエットですよー!」と叫び、営業の橋本が手拍子を始めている。経理の佐々木さんも、ちょこんと座りながらもマラカスで参加。
新しく入ったばかりの若い事務員も「すごーい!昭和のカラオケってこんな感じなんですね!」と無邪気にはしゃぐ姿に、皆が思わず笑う。
藤島専務は、賑わう店内を見渡しながら、ふと呟いた。
「田中オフィスも、いよいよ本格的に成長していく時期ね。」
その横顔には、かつての大手銀行では味わえなかった、確かな手応えがあった。
扉の外では、春の夜風がやさしく街を撫でている。
笑い声と演歌が入り混じるこの空間の中に、小さなオフィスの大きな可能性が確かに息づいていた。
田中オフィスの新たな未来が、ここから始まる――!
(後編につづく)