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田中オフィス  作者: 和子
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第六十九話、封じられた力、いずこへ

ーー最後の報告ーー

楠木が天城コンサルティングを訪れるのは、数週間ぶりのことだった。

かつて執務室へと続く廊下を歩くたび、胸の奥に重石を置かれたような緊張を覚えたものだ。磨き上げられた黒光りする床、大理石の壁面に映える油絵、深紅の絨毯。すべてが、この会社の繁栄と権威を象徴していた。


いま、最上階に足を踏み入れる自分には、もうかつてのような執着も迷いもない。青と白――二枚のディスクに込められた記憶は遠い。拘泥する理由は、もうなかった。


執務室の扉を開けると、そこには老いた天城会長がひとり、巨大な机の向こうで中空をぼんやりと見つめていた。

壁一面の書棚と、天井まで届く重厚なカーテンに包まれたその部屋は、相変わらず訪れる者を威圧する。だが、その主の眼差しは、往年の鋭さを欠いている。


「会長、お久しぶりでございます」

楠木は深く頭を垂れ、声をかけた。


しかし返事はない。

わずかに視線を寄越したかと思うと、すぐに興味を失ったように別の虚空を見つめる。


(やはり、もう対話は叶わないか……)

心のうちで楠木はつぶやいた。


だが、隣室には秘書が耳を澄ませている気配がある。楠木は心得て、芝居のように報告を続けた。


「すっかりご無沙汰いたしました。会長のご指示どおり、N通信の高柳様にもお会いし、ディスクの仕組みを伺ってまいりました。しかし……あちら様も、あの出来事を快く思ってはおられず、詳しいことはご存じないとのことでした。むしろN通信としては、AI法務システムの再構築を進めており、近く現行システムのアップグレード版を展開するとのことです。訴訟問題も決着を見れば、性能はJurisWorksを凌ぐものとなるやもしれません――」


言葉の途中、空気が裂けた。


「下がれ、痴れ者!」


老いた声とは思えぬ迫力が室内に響いた。

机を打つ音はなかっが、かつての総帥の威容が一瞬、蘇ったかのようであった。


楠木の胸はかすかに震えた。だが、次の瞬間、会長は再び虚ろな眼で遠くを見つめ、声を失った。


静まり返った室内で、楠木はそっと封筒を机に置いた。

中には、青と白の二枚のディスクが収められている。


「ディスクはお返し申し上げます。ご期待に沿えず、申し訳ございません」


声は低く、儀礼のようでありながら、どこか別れの響きを帯びていた。


楠木は一礼し、踵を返す。

扉を閉める間際、隣室の秘書に向かって言った。


「会長のご機嫌を損ねてしまったようです。当分お邪魔することはありません」


その言葉を残し、楠木は重い扉を押し開けた。

背後に広がる重役室は、再び沈黙に沈み、ただ老会長の虚ろな視線だけが、濃紺の帳のような空間を支配していた。



ーー青と白のディスクの行方ーー

秘書の仕事は、もはや会長の秘書業務というより、介護に近かった。

食事の世話、衣服の用意、粗相(そそう)の始末――。

それでも「会長付秘書」という肩書と、女子社員の三倍にものぼる給与は、彼女の生活を支えていた。


だがその生活も、長くは続かないらしい。


「いつも本当に苦労かけて申し訳ない」

海北社長に呼び出された日のことを思い出す。

「会長は老人ホームに行ってもらうことにした。頷いていたので、気が変わらんうちに手続きを進めようと思う。そうしたら、君の処遇も考えなくてはならない。――心配はいらない。当社では君の行き先も用意している」


優しい言葉の裏に、減給の現実が透けて見えていた。

高い給与に合わせた暮らし――高級マンション、ブランド品、そして何より、ストレスを紛らわせるために通っていた高級ホストクラブ。

そのすべてが崩れていくのかと思うと、胸に黒い穴が開くような不安が広がる。


「これからは慎ましくやらなくちゃね……」

小さく吐息をこぼし、視線を机の上に移したときだった。


――あった。


封筒。

楠木が置いていった、青と白の二枚のディスク。

その存在を忘れたわけではない。かつては自分が管理を任されていたのだ。


指先が封筒に触れる。

ひやりとした紙の感触が、不思議に重みを持つ。


「会長、これは元の場所に戻しておきますね」

そう声をかけたが、老人は虚空を見つめたまま、微動だにしない。


返事はない。

いや、返事があったところで関係はないのだ。


秘書は封筒を抱え、隣室へと移った。

扉を閉め、机の引き出しを開けるふりをして、ゆっくりと自身のバッグに滑り込ませる。


心臓が高鳴る。

汗ばんだ掌をハンカチでぬぐう。

「戻す」つもりだった。

――はずなのに。


バッグの奥に沈んだ封筒は、ひそやかに彼女の未来を握りしめる。


この先、彼女がどうなるのかは誰にもわからない。

ただひとつ確かなのは、天城会長の執務室から消えたその瞬間――

青と白のディスクは、新たな魔の手に落ちたのだ。



ーー闇のディスクーー

渋谷・宇田川町の雑踏を抜け、ビルの二階にあるパブ「Flight」へ続く狭い階段を上がると、そこだけ時が止まったような静けさがあった。カウンターに腰を掛けていたのは、背広姿の地味なサラリーマン風の男。年の頃は四十前後、眼鏡の奥の目は疲れ果て、しかしどこか鋭さを隠し持っていた。


30分遅れて現れたのは、会長秘書の伴坂清美(ともさかきよみ)。黒のワンピースに小さなバッグを肩にかけ、いつもは堅実にまとめた髪をほどき、妙な色気を漂わせていた。


「お待たせ」

隣に腰を下ろし、低い声で囁く。

「前金は確かにいただいたわ。約束通り──取ってきた。お探しのもの、多分これで間違いないはず」


封筒を滑らせるように差し出すと、男は無言でそれを受け取り、バッグへと移した。


「間違いないかどうかは、こちらで調べさせてもらいます。その結果が出ないと、約束の残りの報酬はお渡しできませんのでね」


声は冷たく、しかし妙に事務的だった。


伴坂はグラスに口をつけながら、挑むように言う。

「コピーをとって、原本だけ返してもらえないかしら?」


男は鼻で笑った。

「暗号化のガードが掛かっていても、解除ができればね。そうでなければ、原本はしばらくこちらで預からせてもらうことになる。依頼主の意向次第では……二度と返せないかもしれない」


その言葉に伴坂の眉がわずかに動いた。しかしすぐに唇を湿らせ、強気に言い放つ。

「いいわ……どうせ私は退職するつもり。いずれにしても、そのディスクがご希望のものなら、報酬は全額──5千万円、間違いなくいただけるのよね?」


男は静かに頷き、椅子を引いた。

「使い終えたら、当然お返しできますよ。退職については……しばらく様子を見た方がいい」


それだけ言い残して、足早にパブを後にした。


伴坂はカウンターに残された氷を見つめながら、深く息を吐いた。

「やってしまった……」

唇から零れた呟きは、誰の耳にも届かない。


彼女の胸には、不安と高揚がないまぜになった妙な熱が渦巻いていた。会社に裏切りを働き、悪の片棒を担いでしまったことへの恐怖。そして、巨額の報酬が待っているという甘美な期待。


サラリーマン風の男もまた、ビルを出て夜風に吹かれながら、自嘲気味に笑っていた。

「これで俺も……もう後戻りはできん」


社会のひずみが生んだ二人の人生は、すでに道を踏み外していた。

光の届かぬ路地裏で、交わされたディスクは静かに未来を狂わせていく。



ーー未完の大器ーー

夏の盛りを過ぎた午後。

笑角亭来福の家には、涼しい風が通り抜けていた。


アビシェクは、この夏の内弟子修行を終え、最終の挨拶に訪れていた。

師匠のもとで過ごした数週間は、彼にとって忘れられぬ時間となった。


寄席の裏方、茶碗洗い、衣装の管理。舞台に上がれば、前座として「笑角亭アビ介」と名乗り、高座に挑む経験も与えられた。

中学生の自由課題としては、あまりに贅沢で濃厚すぎるほどの体験。彼の書いたレポートは、きっと教師も驚くに違いなかった。


来福の隣に並んでアビシェクを見送るのは、3日前に新弟子となったばかりの若者、岩木翔太。

身長190センチを越す大男で、その影が畳の上に長く伸びていた。


「アビ介兄さん、本当にありがとうございました。師匠のお世話は、これから俺がしっかり引き継ぎます」


その声は真っすぐで、力士時代に培った気迫を滲ませていた。


アビシェクは慌てて手を振った。

「兄さんはやめてくださいよ。僕より四つも年上じゃないですか。ただのアビ介でいいんです」


翔太は一瞬目を丸くし、それから大きな笑みを浮かべた。

「……そうか。じゃあ、アビ介。休みの日は来てくれるんだろ?また一緒に師匠に稽古つけてもらおう」


岩木翔太。

かつて近所の槍ヶ岳部屋で汗を流していた力士である。とはいえ、番付すら持たぬ下働きに過ぎなかった。稽古場では力の強さを恐れられ、思うように前に進めずにいた。


だが、この夏。

迷いの果てに翔太はひとつの決断を下した。

力で人を押し倒す世界から離れ、言葉と笑いで人を立ち上がらせる世界へ。


来福は電子タバコをくゆらせながら、二人を交互に眺めた。

「未完の大器やな……」


師匠が呟いたその言葉は、翔太だけでなく、アビシェクの胸にも染み入った。

どちらもまだ完成にはほど遠い。

けれども、この場所から新たな道を歩み出そうとしている。


蝉の声が遠ざかり、夕暮れの気配が差し込む。

アビシェクは一礼し、軽やかな足取りで門を出た。

翔太はその背を見送りながら、畳に響く自分の呼吸を確かめるように、深く息を吸い込んだ。


未完の大器――。

その言葉は、翔太の胸に、重く、しかしどこか希望のように響いていた。



ーー買い物中の遭遇ーー

笑角亭来福の家で噺家修行の毎日、アビシェクはアビ介と呼ばれて内弟子となり、師匠の家事、炊事、洗濯、掃除なんでも体当たりで取り組んでいた。「落語の稽古お?そんなの二の次や!」


業務スーパーの青果売り場は、湿り気を帯びた空気と、わずかに土の匂いが混じっていた。

アビシェクは買い物かごを片手に、並んだレンコンをじっと見つめていた。


「……どれがいいんだろう」

手に取った一本は大ぶりだったが、端の色が少し黒ずんでいる。迷っていると、隣から低い声がした。


「それ、もう色が変わってきてる。痛み始まってるよ」


振り向くと、そこにはがっしりとした体躯の青年が立っていた。

浴衣姿に、まるで柱のような肩幅。


「小ぶりでも、こっちの方がいい」

青年は別のレンコンを差し出した。


アビシェクはきょとんとした顔で問いかける。

「色が変わっていると、腐っているんですか?」


青年は、ちらりと彼を見てから、にかっと笑った。

「いや、そういうわけじゃないんだ。"野菜はね"、俺は農家の生まれだからさ。家でよく聞かされてたんだ」


その一言に、アビシェクは胸の奥が温かくなるのを感じた。

肌の色や言葉の違いを意識させない、さりげない気遣いがそこにあったからだ。


「お兄さん、アドバイスありがとう。……あの、お兄さんも落語家ですか?」

つい口にすると、自分でも可笑しくなった。

青年は、坊主頭にしていて、ただにっこりと笑った。


「浴衣を着てるし……あっ、わかった! 力士の若手の方ですね。どうりで大きいわけだ」


その笑みの素直さに、アビシェクは思わず自己紹介をした。


「ぼく、アビシェクといいます。こう見えて日本人なんですよ。今は、落語家の笑角亭来福師匠の内弟子で修行中なんです」


「へえ」青年は目を細めた。

「俺は岩木翔太。そこの槍ヶ岳部屋で修行中なんだ」


「槍ヶ岳部屋……!」アビシェクは思わず声を上げた。


翔太は照れくさそうに頭をかいた。

「俺さ、新恋話寄席の一階にある喫茶店でよく休憩してんだ。だから、来福師匠にも声かけてもらったことがあるんだよ」


レンコンの並ぶスーパーの一角で、落語家志望の少年と力士の卵が、思いがけず縁を結んだ。

まだ誰も知らない。

この出会いが、のちに「未完の大器」と呼ばれる若者の物語の始まりになることを――。



ーー業務スーパーの一角でーー

レンコン売り場の前。

アビシェクと岩木翔太は、思いがけず言葉を交わすことになった。


「槍ヶ岳部屋で修行中なんだ」

翔太がそう名乗ると、アビシェクの目は輝いた。


「すごい……!どうしてお兄さんは力士になったんですか?」


翔太は少し驚いた顔をしたが、すぐに肩を揺らして笑った。

「そう聞かれるのは初めてだな。理由か……」


彼はかごを片手にしながら、少し遠い目をした。


「俺、青森の農家の生まれなんだ。小さいころから田んぼや畑を手伝ってさ。米袋や肥料の袋を担ぐのが当たり前で……気づいたら同じ年の子より体も力もずっと大きかった」


「なるほど、だからこんなに大きいんですね」

アビシェクは尊敬の眼差しを向けた。


翔太は頷き、続けた。

「でもな、地元じゃ『大きいだけの鈍い奴』って言われてたんだ。勉強は苦手だし、都会に出ていく気もなかった。そんなときだよ、巡業で来てた関取に声かけられたのは」


「声を……?」


「ああ。地元の体育館で相撲をとらされたんだ。俺はただ本気でぶつかっただけだったけど、見てた親方が笑ってさ。『お前には力士の骨格がある』って」


翔太は少し照れくさそうに笑いながら、肩をすくめた。

「俺、あの言葉に救われたんだ。『大きいだけ』じゃなくて、『大きいからこそ』できることがあるんだって思えた。だから、中学を出たら槍ヶ岳部屋に入門して……今に至るってわけさ」


アビシェクは真剣な表情で頷いた。

「すごいなあ……ぼくも、落語でそういう瞬間がありました。師匠に『芸名』をもらったとき、自分の居場所を見つけた気がして」


翔太の目が一瞬、柔らかく光った。

「似てるかもしれないな。人に名前をもらったり、見てもらったりすることで、自分の生き方が決まっていくんだ」


スーパーのざわめきの中で、二人の言葉は不思議と静かに響いた。

まだ道の途中にいる者同士。

落語家を志す少年と、力士を目指す青年。


誰もが「未完の大器」と呼ぶには早すぎる。

だが確かに、この二人の出会いは未来の物語を予感させるものだった。



ーー大器は目覚めずーー

台所に立つアビシェクは、玉ねぎを刻みながら声を上げた。

「師匠、今日、買い物してたら力士の人に声をかけられました。よく“ことの葉”にいたらしいですよ。中学を卒業してすぐ入門して、三年目の十八歳だそうです。まだ番付前だそうですよ」


ちゃぶ台の前で新聞を広げていた来福が、ふと顔を上げる。

「おお、あの大きな人か……。まだ番付表にも名前がないんか。未完の大器やな」


来福は新聞をたたみ、渋い顔をした。

「厳しい世界やからな。序の口に上がれば、それ以下に落ちることはない。せやけど、いつまでも番付前っちゅうのは……よっぽど弱いか、そもそも力士に向いてへんか、そのどっちかや」


アビシェクは頷きながら、水を張った鍋を火にかけた。

白い湯気がふわりと立ちのぼると同時に、彼の頭の中に“ことのは帳”の一節が浮かび上がる。


――「自分は相撲に向いてないんじゃないかと最近思います。相撲部屋に入門して三年になるけど、未だに“番付前”。ついに後輩にも抜かれた。今年ダメだったら国に帰って就職しよう……」


確か、そんな言葉が記されていた。

あれを書いたのは岩木翔太に違いない。今ではそう確信していた。


「……岩木さん、あんなに大きくて、優しそうなのに」

アビシェクは小さくつぶやいた。鍋の中で玉ねぎが静かに沈み、甘い香りが広がっていく。


来福は湯呑を手に取り、深いため息をもらした。

「大器っちゅうのはな、形になるまでじっと待っとるもんや。せやけど、待てるかどうかは本人次第やで」


その言葉は、アビシェクの胸に重く響いた。

翔太は果たして「未完の大器」から見事に花開くのか、それとも静かに故郷へ帰ってしまうのか。


夕餉の香りが部屋を満たすなか、アビシェクの心には、あの力士の大きな背中が焼きついて離れなかった。



ーー岩木翔太ーー

新小岩駅の周辺には、いくつかの相撲部屋が点在している。

その中でも「槍ヶ岳部屋」は、まだ創設間もない若い部屋だった。槍ヶ岳親方は当初、「相撲の稽古は隠すものやない」との考えから、土俵を囲う稽古場(けいこば)をガラス張りにした。朝早く足を運べば、弟子たちが黙々と四股を踏み、汗を飛ばし、ぶつかり合う様子を間近に見ることができる。


その熱気は、ガラスを通して外に立つ者にまで伝わってくるほどだ。いつしかここは、外国人観光客にとっての隠れたフォトスポットになっていた。


その稽古場のなかに、ひときわ大きな影があった。

岩木翔太。身長も体重も群を抜き、存在そのものが壁のようだった。だが彼にはまだ四股名が与えられていない。番付表にも名がなく、稽古場ではただ黙って立ち、他の弟子の様子を眺めることが多かった。


「岩木! ぼーっと突っ立っとらんで、四股でも踏めぇい!」

親方の叱声が飛ぶ。翔太は黙ってうなずくと、大きな体をゆっくりと後ろに向け、四股を踏みはじめた。


――翔太には、ぶつかり稽古が許されていなかった。


入門当初、彼も他の新弟子と同じように先輩に胸を借り、投げ飛ばされ、受け身をとることで体を鍛えてきた。しごきの一環として、先輩が容赦なく叩きつけるのも伝統だった。

だがある日、その均衡は崩れた。


土俵の上で繰り返される激しい当たりに、翔太の体は本能で反応した。

気づけば先輩の腕をつかみ、反射的に投げ飛ばしていたのだ。


「ぐっ――!」


大きな音と共に先輩の体が土俵に叩きつけられる。通常なら後輩が投げられ、受け身で衝撃を逃がすところだ。だが投げられたのは先輩の方だった。腕を押さえ、うめきながら立ち上がれない。

稽古場に緊張が走り、呼び出された救急車のサイレンがやがて遠ざかっていった。


診断は骨折。先輩は稽古場に戻ることすら難しくなった。


槍ヶ岳親方は、その光景を無言で見つめていた。

確かに翔太には天賦の才がある。力士に不可欠な「馬力」と「体格」を持ち合わせていた。だが同時に、致命的な欠陥も露わになった。


――力の加減ができない。


相撲は「力の競技」であると同時に、「力を制御する競技」でもある。

だが翔太には、その微妙な調整ができなかった。彼の腕力は、敵を倒すのではなく、壊してしまう危うさを秘めていた。


それ以来、翔太はぶつかり稽古から外され、黙々と四股を踏み続ける日々を送っている。

その大きな背中は、誰よりも強そうでありながら、同時に孤独と挫折の影をまとっていた。



ーー翔太の居場所ーー

槍ヶ岳部屋の稽古場には、最近ブラインドが下ろされるようになった。

かつてはガラス越しに弟子たちの稽古姿を誰でも見られたが、今は外から中の様子をうかがうことはできない。理由を知る者は多くなかったが、その影には岩木翔太の存在がある。


午前十時ごろになると、翔太は稽古場を抜け出し、台所へと足を運ぶのが日課となっていた。

「ちゃんこ長、すみません、手伝います」

その声に振り向いたのは、年嵩(としかさ)の力士・ちゃんこ長と女将(おかみ)さん。すでにちゃんこの大鍋に火が入り、調理場は湯気と食欲をそそる香りで満ちていた。


「おう、翔太。悪いな、こっち手が足りなくてな」

「はい」


翔太に任されたのはサイドメニューの準備だった。

今日は大量のポテトサラダ。彼はLLサイズのピーラー手袋をはめると、山のように積まれたジャガイモを次々とつかみ、あっという間に皮をむいていく。


「細かい芽もちゃんと取ってくれよ」

ちゃんこ長の声に、翔太は黙ってうなずいた。

その大きな腕が動くたびに、ジャガイモの皮が雪崩のようにボウルへと落ちていく。蒸し器に放り込んだ後、蒸し上がったら、熱々の芋をハンドマッシャーで一気に潰していく。


ぐっ、ぐっ、と押し込むたび、芋がつぶれ、滑らかになっていく。


「翔太君のおかげで、フードプロセッサーがいらないわ!」

女将さんが笑うと、調理場に少しだけ柔らかな空気が流れた。


オーブントースターでは、五台並べて食パンがこんがりと色づいていく。ご飯茶碗が整然と並び、目玉焼きがフライパンの上でじゅうじゅうと音を立てていた。相撲部屋の朝食――ちゃんこと言いながら、そこには和洋折衷の温かい食卓が広がっていた。


翔太は手を止めずに、心の中で小さくつぶやいた。

(ご飯の準備で俺の居場所がある……でも、土俵じゃない)


外の光が差し込む窓辺に、ふと目をやる。

ブラインドの隙間からこぼれる陽射しは、稽古場の土の匂いを遠く思わせた。

翔太はその光に目を細めながら、黙々とジャガイモを潰し続けていた。


ーー土俵の外の威容ーー

昼近く、ちゃんこ場の座敷に弟子たちがぞろぞろと集まってきた。

鍋の湯気が立ちのぼり、魚や鶏の出汁の香りが広がっている。


「ほいほい、みんな並んでな」

年嵩のちゃんこ長が大きなお玉を片手に声を張り上げ、鍋から汁をすくって弟子たちの椀に盛っていく。


その傍らでは、翔太が山盛りの皿を抱えて動き回っていた。

「ポテサラはちゃんこ食べてる人もどうぞ。岩木がたっぷりつくってくれたんすよ」

ちゃんこ長の声に応じて、弟子たちが次々と箸を伸ばす。


十両以上の力士がまだいない槍ヶ岳部屋では、ほかの大部屋にあるような厳しい上下関係はあまり感じられない。

兄弟子も弟弟子も、同じ座布団に腰を下ろし、冗談を飛ばし合いながら和気あいあいと昼食を楽しんでいた。


そんな輪の中を、翔太は大きな体でゆっくりと歩き、茶碗を配り、皿を並べて回る。

ひとりひとりに声をかけるその姿は、まるで相撲部屋の給仕役というより、大きな山が食卓の間を動いているようでもあった。


土俵の上では居場所を見いだせない岩木翔太。

だが、炊事場とちゃんこ場を行き来する彼の威容は、ほかの部屋では決して見られない光景となっていた。


弟子たちが笑い声を上げる中、その大きな背中だけは、どこか静かに孤独を抱えていた。



ーー親方の胸の内ーー

昼食を終え、ちゃんこ場が一息ついたころ。

翔太は大きな体で食器を片付けながら、弟弟子たちに笑顔で声をかけていた。


「茶碗、こっちに集めてください。あとで一気に洗いますから」

「おおきに、翔太兄ちゃん」

無邪気に応じる声に、場は和やかさを増していく。


その様子を、稽古場から戻ってきた槍ヶ岳親方は、障子の陰からじっと見ていた。

湯気の残る空間で、弟子たちの輪の中心にいるのは、やはり翔太の大きな背中だった。


――岩木は……俺のところに来なければ、大成したかもしれんな。


心の奥で、親方はため息をひとつついた。


才能ある若者なら、十八の年で早くも十両に上がる者もいる。

大きな部屋であれば、毎日のように三役クラスと稽古をつけてもらえ、その力を余すことなく引き出せる。

翔太の剛力も、本来ならその流れに乗れば、どこまでも伸びただろう。


だが現実は違った。

入門当初、翔太が稽古で先輩を骨折させた出来事は、瞬く間に相撲界に広まった。

親方は何度か、他所の部屋に受け入れを打診した。

「強い関取になるから」と説いたが、返ってくる答えは決まっていた。


――今の時代、大器の片鱗に目を輝かせる親方なんて、そうはいない。

どの親方もまず恐れるのは、自分の弟子が怪我をさせられることだった。


「よく言い聞かせれば伸びる。あいつはきっと化けるんだ」

そう力説しても、誰も取り合わなかった。


その結果、翔太はこうして炊事場とちゃんこ場に居場所を見つけるしかなくなった。

弟弟子(おとうとでし)たちに慕われながらも、土俵の上では「未完の大器」のまま立ち尽くしている。


親方はふと拳を握り、心の奥で小さくつぶやいた。


「……すまんな、岩木。お前を生かせる道を、俺が見つけられないんだ」


翔太の大きな背中は、湯気の中でゆっくりと動き、弟子たちの笑い声に溶け込んでいった。



ーーことのは帳の向こう側ーー

岩木翔太は、稽古を終えた夕暮れ時、買い物帰りにふらりと喫茶「ことの葉」に立ち寄るのが習慣になっていた。

ガラス窓から差し込むやわらかな光の中、アイスコーヒーのグラスに水滴がつたう。


力士の世界では、稽古場以外での自由は限られている。特に槍ヶ岳部屋は新興の部屋で規律が厳しく、スマホの持ち込みは禁止。

だから翔太にとっての唯一の息抜きは、この店に置かれた「ことのは帳」だった。

ノートに思い思いの言葉が書かれていて、見知らぬ誰かと心を通わせられる、不思議な交換日記のような存在だった。


――今日は新しい書き込みがあるかな。


ページをめくると、見覚えのある自分の文字があった。

数日前、翔太はそこに「相撲に向いてないんじゃないかと思う。入門して三年、まだ番付前。今年ダメなら国に帰ろうかと考えている」と書いてしまったのだ。


そのすぐ下に、新しい書き込みが添えられていた。


――「石の上にも三年」っていいますよ。僕の周りにも二年、三年、頑張っている人はたくさんいます。うちの師匠は二十年かかったって言ってます。またつらいことがあったら、書き込んでください。(同じ修行中の仲間です)


翔太はページを見つめ、ふっと口元をゆるめた。

自分の言葉に目を留めて、励ましの返事を書いてくれる人がいる――ただそれだけのことが、胸を温かくした。


「……二十年、か」

思わずつぶやくと、近くでカップを並べていたマスターがちらりと翔太を見て、にやりと笑った。


翔太は、ゆっくりとノートにペンを走らせる。


――ありがとうございます。同じ修行中というのが心強いです。僕も、もう少し踏ん張ってみます。


書き終えたページを見て、翔太は心の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

相撲の世界では孤独だった彼の思いが、この小さなノートを通じて、確かに誰かとつながった瞬間だった。


その日、喫茶「ことの葉」を出て行く大きな背中の足取りは、いつもより少しだけ柔らかに見えた。



ーースーパーの仲間ーー

翔太とアビ介は、その後もよくスーパーで顔を合わせた。


「お、また会ったな」

大きな体に買い物かごを持って、翔太が笑う。中には山盛りの鶏むね肉とキャベツ。


「力士さんは、やっぱりたくさん食べるんですね」

アビシェクが感心すると、翔太は照れ笑いを浮かべた。

「食うのも稽古のうち、って言われるんだ。けどな、最近は食べるより考えることのほうが多い」


そんなときは決まって、翔太はレンコンや大根の鮮度を見分けるコツを教えてくれた。

「ここが固いだろ。これはまだ新しい証拠だ」

「葉っぱが少しでもしおれてたら、根っこも弱ってるんだ」


アビシェクはメモを取りながら頷き、まるで師匠から稽古を受けるような気持ちになった。


レジに並ぶと、翔太はひそひそ声で言う。

「実はな、稽古場にいるのが辛くて……時々逃げ出したくなるんだ。けど、こうして普通に買い物してると、少し落ち着くんだよ」


アビシェクは、その横顔を見つめながら答えた。

「ぼくもです。落語の稽古で失敗ばかりして、逃げたくなることもあります。でも……翔太さんが頑張ってるのを見てると、ぼくも続けようと思えるんです」


翔太は大きな肩を揺らして笑った。

「なんだよ、お前、俺より年下なのにしっかりしてんな」


買い物袋を提げて別れるころには、二人の距離は少しずつ縮まっていた。

アビシェクにとって翔太は「力士の人」から「友だち」へと変わり始めていた。



ーー迷いの取組ーー

閉店間際のスーパー。

蛍光灯が少し暗くなった店内で、翔太とアビシェクはまたばったり顔を合わせた。


「やあ、翔太さん」

「おう。……ちょっといいか、話したいことがあるんだ」


二人は買い物袋を提げたまま、駐車場の隅のベンチに腰を下ろした。

秋の風が少し涼しく吹き抜ける。


翔太はしばらく口を閉ざしていたが、やがて低い声で言った。

「番付を上げるためには、まず前相撲に出なきゃならない。……わかるよな」


アビシェクは頷く。

翔太は俯いたまま続けた。


「入門した頃は、俺も挑戦してたんだ。何度も何度も負けて、それでもまた挑んで……。でも、最近は遠慮してる。挑戦すればするほど、自分の相撲がダメなんだって突きつけられる気がして」


大きな手が膝の上で固く握りしめられている。


「なんでだろうな。取り組みになると、頭が真っ白になって、うまく考えられなくなるんだ。で、変なところで力が入っちまって……」

言葉を切り、翔太は唇を噛んだ。

「相手にケガをさせちゃうんだよ」


その声には、悔しさよりも深い恐れがにじんでいた。


アビシェクはしばらく黙って聞いていたが、やがて小さな声で言った。

「翔太さん……やさしいんですね」


翔太は驚いたように顔を上げる。

「え?」


「だって、強くなりたいなら勝つことだけ考えればいいのに。相手をケガさせることを気にしてしまう。それって翔太さんの心が、本当にやさしいからじゃないですか」


翔太の胸に、その言葉は思いがけない灯火のようにともった。

夜風が吹き抜けても、その灯は消えずに残り続けた。



ーー折れた腕ーー

夜のスーパーでの告白のあと、数日して。

翔太はまたアビシェクの前で重い口を開いた。


「……じつはまだずっと胸に引っかかって、言えなかったことがある」


アビシェクは真剣なまなざしで耳を傾ける。

翔太は、買い物袋を足もとに置き、膝に肘をついてうつむいた。


「出稽古に来た、他の部屋の力士がいてな。俺に目をつけたんだ。『でかい体してるくせに、まだ番付前かよ』って。よせばいいのに、そのときは俺を練習相手にした」


翔太の声は震えていた。


「最初は普通の当たりだった。けど……俺、変に力が入っちまって。気づいたら、相手が稽古場の端でうずくまってて……」


翔太は拳を固く握りしめた。


「……腕を折っちまったんだ」


アビシェクは息を呑んだ。


「その場は親方や稽古仲間がすぐ駆け寄って、大ごとにはならなかった。『稽古中の事故だ』ってことになった。けど……俺の中では事故なんかじゃない。怖くなったんだよ。俺が土俵に上がると、また誰かを壊すんじゃないかって」


翔太の声には、苦しみと罪の意識が混じっていた。


アビシェクは何も言えなかった。ただ、目の前の大きな背中が、誰よりも弱々しく見えて、胸が締めつけられる思いだった。


翔太はぽつりとつぶやいた。

「それ以来……前相撲に出る気持ちが、どうしても湧かなくなってしまったんだ。

おれは、もう……相撲はむりだ」


風のない駐車場に、その声は静かに沈んでいった。



ーー熊と言われてーー

ある日の稽古後。

翔太は汗まみれのまま、稽古場の裏手に呼び出された。

親方は腕を組み、じっと彼を見つめていた。


「翔太、お前には力はある」


その言葉に、一瞬胸が熱くなる。だが、続く声は冷たかった。


「だがな……相撲には向かない」


翔太の顔がこわばる。


「お前は制御ができん。力をぶつけるだけで、自分も相手も潰しかねん。それじゃ……熊と同じだ」


その比喩は、まるで鉄槌のように翔太の胸を打った。

熊。

荒々しく、強大で、しかし人を傷つける存在。

力士ではなく、ただの野獣――。


翔太は何も言えず、ただ土俵に落ちる自分の汗を見つめた。

親方は続けた。


「このまま続ければ、また誰かの骨を折る。お前のためにも、相手のためにも……引き際を考えろ」


翔太は唇を噛みしめた。

稽古場の土の匂いが、いつになく重苦しく感じられる。


(俺は……相撲に向いてないのか? 本当にただの熊なのか?)


その問いが胸の奥でこだまし、翔太は立ち上がる気力さえ失っていた。



ーー熊の握力ーー

夕方のスーパー。

アビシェクは豆腐を手に取っていたとき、後ろから声をかけられた。


「おう、アビ介」


翔太だった。大きな手には、肉と牛乳がぎっしり詰まったかご。

二人は自然に並んで歩きながら、いつものように会話が始まった。


「……この前な、親方から言われたんだ」

翔太は苦笑いを浮かべ、ぼそりと続けた。

「『お前は相撲には向かない。力はあるが制御できん。それじゃ熊と同じだ』ってな」


アビシェクは思わず目を丸くした。

「く、熊……?」


「そう。まあ、そう言われても仕方ないんだ」

翔太は自分の手のひらを見下ろした。ごつごつとした分厚い手。

「俺、握力が百二十キロあるんだよ」


「ひゃ、ひゃくにじゅっ……!」

アビシェクは思わず声を上げ、持っていた豆腐を落としそうになった。


翔太は肩をすくめる。

「こりゃ熊だよな。冗談抜きで、人を壊しちまう。だから怖いんだ。土俵に上がるのが」


夕暮れの光に照らされたその横顔は、力士というよりも、迷える大きな青年のものだった。

アビシェクは胸の奥がじんわり熱くなり、ただ真剣にうなずいた。



ーー落語の道ーー

翔太は、毎日裏方の仕事に汗を流していた。

土俵を掃き、ちゃんこの支度をし、荷物を運び、雑務に明け暮れる。

「タダ飯を食うわけにはいかない」

そう自分に言い聞かせながら、三年が過ぎた。


気づけば後輩たちが次々と序の口に上がっていく。

自分だけが、未だに番付にすら名を連ねていない。

親方も困っていた。


「他の部屋に譲るわけにもいかん……かといって他の業界に送り込むのも危うい。

プロレスや格闘技は所詮興行だ。相手に怪我させれば取り返しがつかん」


思案の果て、翔太は下働きとして置かれ続けていた。


そんな折、近所の居酒屋で来福師匠が槍ヶ岳親方の飲み仲間として顔を出していた。

グラスを傾けながら、師匠は笑って言った。


「そんなら、ウチでやらしてみるか? 落語の弟子に」


親方が目を細める。

「……落語の高座では腕力は使えん、か」


「そうや。つまり、人に怪我させることはない」


しばし沈黙が流れた。親方は翔太の大きな背中を思い浮かべ、口を開いた。

「角界でも、力や体格に恵まれながら大成せん力士はおる。

……逸材と思って誘ったんだが、申し訳ないことになったな」


そして翌日、翔太に向き直る。

「一応、力に頼らん相撲を練習してみろ。それでも無理やと思ったら

──落語の世界に行ってみるか?」


翔太は一瞬、土俵の記憶を振り返った。

怪我を負わせたあの音、後輩に追い抜かれる悔しさ、そして親方の苦い顔。


「……僕、相撲は無理だと思います」

意外なほどあっさりと、翔太は言った。

「落語の世界で、自分を試してみたいです」


その言葉に、親方は一応、頷いて見せた。

槍ヶ岳部屋の師弟の間に、ふいに静かな風が吹いた。


稽古場の上がりかまちで、翔太は大きな体をきちんと正座させ、真剣な眼差しで親方に向かっていた。


「翔太……おまえ、そんなにあっさりと決めてしまっていいのか。一生のことだぞ? もう少し考えたらどうだ」


親方の声には、説得というよりも戸惑いがにじんでいた。思えば、あの巨体の弟子を初めて見たとき、荒削りでも未来を感じさせるものがあった。それが今、相撲をやめると言い出すとは。


翔太は背筋をすっと伸ばし、力強く、しかし柔らかい声で返した。

「おれ、人に勝っても、あんまり嬉しくないんです。まして怪我をさせると……申し訳なくて心が苦しくなります。たぶん、勝負事に向かないんだと思います」


言葉は素直で、濁りがなかった。


「国に帰って農家をやることも考えました。でも、せっかく東京に来たんだから、たくさん勉強して帰りたいです。それって、これからの人生に役立つと思うんです」


親方はしばし黙り込み、翔太の決意を測るようにじっと見つめた。いつもの素朴さの奥に、揺るがぬ意志が宿っている。


(……参ったな。食事の支度は誰がする?弟子の胃袋を満たすのは大仕事だぞ。まさか、この俺がスーパーの買い出しに行く羽目になるのか?)


心の中で苦笑しながらも、親方は翔太の誠実さに押されてしまっていた。

彼が土俵を去る未来は、寂しさと同時に、どこか祝福すべき道のようにも思えてきたのだった。


――槍ヶ岳親方は気づいていた。翔太は「力士」としてよりも、「人」として大きく成長しようとしているのだ、と。



ーー来福家、足元注意ーー

電話口でのやり取りは、いつもよりも賑やかだった。


「さよか、うまいこと話が進んでよかったな。で、いつからこっち来るんや?」

受話器の向こうで、来福師匠の声がひときわ高まる。


槍ヶ岳親方が答える。「え、明日、挨拶に行くってさ」


「……あびすけぇ!」

思わず声を裏返した来福師匠は、畳の上にごろんと転がり、天井を仰いだ。突然の知らせに頭の中は大混乱である。


だが、隣で麦茶を飲んでいたアビ介は、いたって冷静に頷いた。

「岩木翔太さんは、料理の腕前と買い物の目利きがバツグンですからね。ぼくもあと三日で学校が始まりますし、安心して師匠のお世話を頼めます。いやあ、グッドタイミング!」


「おまえなぁ……!」来福師匠は思わず頭を抱えた。

「この家、築五十年やぞ。床が抜けたら、どないすんねん!」


けれどアビ介はにこにこと笑い、心配のかけらも見せない。翔太の大きな背中を想像しているのだろうか、むしろ誇らしげですらあった。


電話の向こうでも、槍ヶ岳親方が苦笑している気配が伝わる。

「まあまあ、師匠。困惑してんのは俺ら大人だけかもしれん。翔太も、アビ介くんも、新しいスタートを楽しみにしとるみたいや」


若者たちは迷いなく、未来を見ている。

心配や戸惑いに押しつぶされそうなのは、むしろ彼らを送り出す側の大人たちのほうだった。


だが、それでいいのかもしれない。

新しい道を踏み出す喜びは、時に他人の不安をも軽々と飛び越えてしまう。


来福師匠はため息をひとつついて、柱を軽く叩いた。

「……ほな、床、大工さんに見てもろとくか」


その声には、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。

明日の挨拶が、(にぎ)やかなものになるのを、心のどこかで楽しみにしている自分に気づいていたからだ。

ーー続くーー

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