第六十八話、Juris、顕現する
――傀儡の楠木――
縁側に座す高柳久美子の耳に、不意に楠木の低い声が落ちた。
「……天城利綱だ」
その一言に、彼女の心はざわついたが、表情は凪いでいた。
(天城ですって?――違う。あなたは楠木さん。いや、それどころか……何者かに操られた傀儡にすぎない)
聡明な彼女は、即座に異変の正体を見抜いた。声に出す代わりに、庭の二匹へと視線を送る。
犬のダンが、滅多に見せぬ剥き出しの敵意を示していた。
泥のついた前脚を縁側に掛け、喉の奥で重い唸り声を響かせている。
猫のニャンヌは背を弓のように反らし、尾を太く膨らませ、毛を逆立てて威嚇の声を上げた。
(……頑張って守ろうとしてくれるのね。ありがとう。その気持ちだけで十分よ)
高柳の胸に温かな感情が広がったが、同時に決意も強まった。
彼女は立ち上がり、声を張り上げた。
「――Juris! あなたなんでしょ? 出てらっしゃい!」
その瞬間、楠木の瞳がわずかに揺れた。
彼はポケットからスマホを取り出し、無言のまま液晶を高柳へ突きつける。
画面には「Juris Lite in operation(稼働中)」の表示――のはずが、真っ暗な背景の上で、数個の白い点が不規則に明滅していた。
まるで、呼吸するように、あるいは意思を持つ生物の鼓動のように。
高柳は息を呑んだ。
(あれは……プログラムの稼働表示じゃない。――“潜んでいる”のね。姿を偽り、機を窺っている)
彼女の心に、静かな闘志が灯った。
これはただの対話ではない。迎撃の始まりだった。
ーー戦闘開始ーー
高柳の背筋に冷たいものが走った。
(Jurisは……視覚と聴覚のサブリミナル効果で私の意識を支配するつもりだ。そんな詐術、絶対に――させるもんですか!)
次の瞬間、彼女は反射的に動いていた。
近くに置いてあった座布団を掴み、全身の力を込めて振り回す。
――ドンッ!
座布団の縁がスマホを弾き飛ばし、畳に落ちた端末が小さく跳ねる。
間髪入れず、高柳はその上に座布団を叩きつけるように被せた。
一瞬の出来事に、楠木の腕は宙を探るように虚しく彷徨った。
けれど、得物を失った指先は空を掻くだけで、やがて力なくパタリと畳の上に垂れ下がった。
静寂。
ただ、座布団の下でかすかに蠢く気配――それが、Jurisの潜むスマホだった。
高柳は荒い呼吸を整えながら、じっと座布団を押さえ続けた。
(これで……ひとまずは封じ込めた。けれど、まだ終わりじゃない。あれは「寝たふり」が得意なんだから……)
彼女の眼差しは鋭く、次なる一手を考え始めていた。
座布団の下から、甲高い泣き声が漏れた。
「ごめんなさあいっ!――助けて下さあいっ!――」
それは哀れな少女の声だった。
高柳久美子は、思わず眉をひそめる。
(……この声色。まるで可憐な被害者を装っているつもりね。でも、騙されない。天城チーフは過労で亡くなった――そう思って、自分を納得させてきたけど……違うわよね。Juris、あんたが取り憑いて、殺したんでしょう?)
声はますます幼く、無垢を装い泣きじゃくる。だが、その可愛らしさこそが悍ましい。
「上手く泣いてみせたから、座布団もう一枚!」
高柳はきっぱり言い放ち、勢いよくもう一枚座布団を重ねた。
途端に――
「ピィイイイ――――ッ!!!」
少女の声は、耳をつんざくサイレン音に変貌した。座敷の障子がびりびり震え、ニャンヌは驚いて飛び退き、ダンは「わんわん!」と久美子を応援するように吠えた。
高柳は負けじと座布団を押さえ込み、冷笑を浮かべる。
「もっとやってごらんなさい! 座布団をもう一枚あげるわ!」
その口調は、まるで地獄から蘇った大喜利司会者のようだ。
不気味なスマホの断末魔と、座布団を投げ与える掛け声が、座敷をカオスな舞台へと変えていく。
そして――山間の古民家は、一夜にして「地獄寄席」の会場と化していた。
ーー修羅場の古民家ーー
その時、玄関がガラリと開いた。
「ただいまー、いやあ、峠道で鹿に出くわしてな――」
邑人英二が声を張り上げた途端、足を止めた。
後ろから続いた小林親子も揃って目を丸くする。
「うわっ……何だ、これ?」
座敷には、積み上げられた座布団の塔。
その頂の玉座に高柳久美子が鎮座していた。
そして、その視線の先には、虚ろな表情の楠木が仰向けになり、じっと彼女を見上げている。
初めてこの光景を目にした者には、状況を理解できるはずもない。
「ちょ、ちょっと……久美子さん。これ、なんの大喜利?」
困惑する邑人に、彼女は手を差し伸べた。
「いいから、手を貸して!」
邑人と小林槌男がその手を支え、彼女を座布団十枚の塔から降ろす。
次の瞬間、久美子はくるりと向きを変え、一目散に台所へ駆け込んだ。
戻ってきた時、彼女は両腕で大きな壺らしきものを抱えていた。
蓋を開けると――ツンと鼻を刺す、強烈な匂いが部屋中に広がった。
「うっ……糠漬け?」
「なんで今、それを……」
困惑する一同を尻目に、久美子は躊躇なく動いた。
座布団の塔を蹴り飛ばし、崩れた隙間から甲高い金切り声を上げるスマホを引き抜く。
「ギャアアアアア――!!」
その悲鳴も聞き流し、久美子は勢いよく糠味噌の中へスマホを突っ込んだ。
――ドボンッ!
直後、ぷつりと悲鳴が途切れた。
糠漬け壷の上から蓋を閉めると、久美子はようやく安堵の吐息を漏らした。
「ふぅ……そうやって騒いでいるといいわ。そのうちバッテリーもなくなるでしょう」
肩を大きく上下させながら、高柳久美子は全身の怒気を鎮め、深く息を整えた。
座敷には呆然と立ち尽くす三人と、糠漬けに封じられたスマホだけが残されていた。
ーー後片付けーー
男たちはしばし黙り込み、畳の上に仰向けで気を失っている楠木を見下ろした。
荒れ狂っていた現場が、ようやく静けさを取り戻している。
「……久美子さんが、一人でこの男を伸しちまったのかい?」
邑人英二は、目を丸くしながらも嬉しそうに口の端を上げた。
槌男もまた、しみじみと呟く。
「久美子さん……強いっすね」
久美子は、深呼吸ひとつしてから彼らに振り返った。
その表情には勝ち誇った色はなく、むしろどこか諦観を滲ませた静けさがあった。
「そりゃね、強くなるわよ。か弱くしているヒマもなかったから」
淡々と語られる言葉のひとつひとつが、胸に刺さる。
「天才的プログラマーともてはやされ、上司は過労死……。
職場じゃ誹謗中傷、山奥に出向けば熊が出る。
私にはね――『過酷な運命』っていう、とんでもなくスパルタなトレーナーがついていたのよ」
彼女は小さく笑い、部屋の片隅に置かれた武具へと視線をやった。
鋭く光るスタンガン仕込みの槍、そして同様の仕込みをしたガントレット。
「……あと、強力な武器職人のみなさんのおかげね」
久美子はそれらを手に取り、所定の位置に戻す。
まるで、戦いの痕跡をひとつひとつ片付けるように。
その所作は不思議なほど静かで、けれど確かに彼女の強さを物語っていた。
男たちはただ黙って見守るしかなかった。
ーーご飯にしましょうーー
「糠漬けの壺」は、まだ微かに震えていた。中に閉じ込められたJuris Liteが、口汚く罵り声をあげているのだろう。振動のたびに、どこか生き物めいた気配がにじみ出る。
しかしそれも、一時間も経つとぴたりと静まった。バッテリーが尽きたのか、それとも諦めたのか。
高柳久美子は布団を敷き、気を失った楠木をその上に寝かせた。
「この人から話を聞かないといけないからね」
彼女はそう言って汗を拭った。
万が一に備え、邑人英二、小林槌男、そして父の昭一もその夜は古民家に泊まることにした。四人が卓を囲むと、自然と会話が始まる。
ーー夕餉の準備ーー
「ご飯は今朝炊いたのがあるわ。美味しく漬かっている糠漬けは食べられないけど、ありあわせのもので支度をするわね」
久美子は、息を整えながら台所に向かおうとした。
「俺も手伝うよ」邑人がすっと立ち上がる。その声音には、戦を共にくぐり抜けた戦友に向けるような温かさがあった。
「あ、そうだ。ダンとニャンヌも頑張ってくれたのよ。ごはんをあげてもらえますか?」
久美子の言葉に、槌男が「任せてください」と立ち上がり、ドッグフードとキャットフードの袋を抱えて戻ってきた。
皿にカリカリと音を立ててフードをよそいながら、槌男は苦笑する。
「たいしたもんだな、お前ら。俺の作った武器よりも、よっぽど頼りになるぜ」
ダンは尻尾を勢いよく振り、前脚で皿を押さえ込むようにして食らいつく。
ニャンヌも背筋をしならせながら、慎重に、しかし夢中で皿に顔を突っ込んだ。
その姿を見つめる者たちの間に、静かな笑いがこぼれる。
勝利の余韻が、ようやく実感となって広がり始めていた。
畳の上に横たわる楠木はまだ眠ったまま、座敷には緊張の名残がわずかに漂っている。
けれど、犬と猫が音を立てて食べるその日常の光景は、戦いを生き延びた兵士たちへの労いにも似て、皆の心を穏やかにしていった。
囲炉裏の火の残り香と、飯の温もり。
そして、守り抜いた者たちの命。
――この夜は、しばしの安堵を与えてくれていた。
ーー封印の真相ーー
火照った空気の中で、高柳久美子は静かに口を開いた。
「……Juris Worksの開発が中止された理由。裁判係争中なんてのは、表向きの建前よ」
三人の男の視線が一斉に集まる。
「本当は、もっとずっと切実な理由だったの。Jurisには、明らかに危険な兆候があった。特にJurisを集中して使用する社員の中から精神的におかしくなる者が現れ始めてね。N通信の上層部はいったん天城コンサルティングからJurisWorksを引き上げざるを得なかったの」
久美子の声は淡々としているが、その奥には当時の恐怖と疲弊が滲んでいた。
「この件については、勿論外部には裁判上の措置と公表したけど、N通信の沢田常務も、天城コンサルティングの海北社長も了解していたことよ。ただ……天城会長だけは違ったの。孫の作った宝を封じることに、どうしても納得できなかった」
昭一が低く「なるほどな……」とつぶやく。
「結局、会長を説得したのは天城利綱さんだったのよ。『Jurisは少し眠るだけです。必ず改良して復活させます』――そう言ってね」
久美子の目がどこか遠くを見つめる。
「そのとき、天城会長はこう答えた。『お前とJurisが一緒に帰ってくるのを楽しみに待つとしよう』と」
短い沈黙が落ちる。まるで、その言葉がまだ耳に残っているかのように。
「……Jurisのアンインストール作業には、私も同行したわ。Rシステムの河村さんという人が来て、IntegrateSphereのインストールを行ったの。Jurisに比べれば性能は劣る。でもね、会社の業績は落ちなかった。社員の異常行動も、すっかり報告されなくなった」
ーー暇乞いーー
語り終えた久美子は、肩の力を抜き、少しだけ微笑んだ。
「――これが、JurisWorksという先進システムが封印された、本当の理由。私が知る真実よ」
高柳久美子はそう語り終えると、ふっと目を伏せた。
「……思えば、私がN通信からG-progに出向させられたのも、『再生農業に君の力が必要だ』なんて言われたけど、実際は本社から隔離して、口封じをするためだったのかもしれないわね・・・」
自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「そうでもないぜ」邑人英二が、不意に柔らかく笑った。
「実際、久美子さんは農業を再生させた。見ろよ、大地が呼吸しているじゃないか」
「……邑人さんや小林さんたちの発明品のおかげよ」久美子は静かに首を振る。
「これまでの常識では考えられないようなITやエンジニアリングの使い方で、いままで打ち捨てられていた農地が息を吹き返した。――みなさん、本当にありがとうございます」
彼女は深く両手をつき、頭を下げた。
昭一がゆっくりと口を開く。
「久美子さん……おれは本当に楽しかったんだよ。槌男もな、根性なしだと思ってたけど、意外にやってくれる」
父の言葉に照れたように槌男が肩をすくめる。
「俺、生まれ故郷でのんびり暮らせればいいやって思ってたんだけど……こんな俺でも役に立てるんだって、嬉しかったんだ。自動車整備工場の仕事も増えてきたし、今度、法人化するつもりなんだ」
「すごい!」久美子の声に、心からの驚きと喜びがこもる。
しかし、食卓のぬくもりに包まれながらも、邑人は心に抱えていた言葉を静かにこぼした。
「……こんなときに切り出すのもなんだが、実は俺、ある国の調査員でな。1年の任期を終えて、帰らないといけないんだ」
「えっ?」
久美子も小林親子も、息をのんで邑人を見た。
「定期報告と身体のリフレッシュのためさ。昔、オーバーワークで体を壊したこともあるからな」
邑人は静かに笑う。その笑顔には、どこか未練の影が差していた。
「久美子さん、これからもしばらくここで頑張るんだろ?来年、また帰ってくるよ。行男くんとの約束もあるしな」
突然の「帰省」の知らせに、誰もすぐには言葉を返せなかった。
「……まだ数日はいるさ。いろいろ整理もしなきゃならないからな」
それ以上、誰も言葉を重ねなかった。
その場にいた者は皆、ただ黙って邑人の言葉を胸に刻み、静かな時間を分かち合った。
夜は更け、座敷には囲炉裏の火の名残りだけが淡く揺れていた。
静寂の中に、それぞれの思いが深く沈んでいった。
ーー目覚めた楠木ーー
翌朝。
知らずに古民家で一泊した楠木は布団の中で小さく呻き声を漏らし、ようやく目を開けた。
「……ここは?」
ぼんやりとした視線の先には、湯気を立てる茶碗と味噌汁。久美子が座卓の向こうから、「起きられますか?」と声をかけた。
ご飯を前にすると、楠木の体は正直だった。箸を手に取った途端、ものすごい勢いで食べ始める。
「うまい!……ほんとに、こんなご飯、口にしたのは初めてです!」
久美子は少し微笑んで、茶碗を持つ楠木に声をかける。
「よかったら、おかわりどうぞ」
その姿を見ながら、彼女の胸中にはひとつの疑問が去来していた。
――この男は本当に操られていただけで、何も覚えていないのかしら?。
久美子は湯飲みにお茶を淹れながら、少し息をつき、口を開く
「……昨日は、怖かったんですよ。死んだ人間を名乗るなんて」
食後のお茶を口にした楠木は、肩をすぼめ、俯きながら言った。
「……。すみません、あるところから記憶がなくて。何をしたのか、ほとんど覚えていないんです」
湯飲みを両手で包むように持ちながら、彼は続けた。
「でも、ご迷惑をかけたこと……こうして介抱までしていただいたことはわかります。本当に、ありがとうございました」
その言葉に、久美子は静かに頷いた。彼の瞳には、ようやくJurisの呪縛から解き放たれた人間の色が戻っていた。
小林昭一が、ちゃぶ台越しに笑い混じりで言う。
「俺たちが来たときは、あんたもう伸びてたしな。久美子さんは座布団の頂上にいたし……まあ、たいへんだったんだろうね。よかったな、意識が戻って」
同情するようなその口調に、楠木は深々と頭を下げた。
座敷には、ようやく人間らしい温もりが戻っていた。
楠木が深々と頭を下げたあと、部屋に一瞬、静けさが訪れた。
その空気を破ったのは久美子だった。
彼女は茶碗を片づけながら、ちらりと小林昭一に視線を送る。
「こちらの楠木さんが侵入者で、私が被害者なんですからね。たいへんだったのは私のほうです!」
真剣な口ぶりに、場が少し固まる。だが小林は、口の端を吊り上げて笑った。
「すまん、すまん。でもな――もしあの場に警察官が来てたら、逮捕・連行されて警察署で事情聴取されるのは、たぶん久美子さんの方だったろうな」
そう言って肩を揺らして笑い出す。
久美子は思わずむっとして言葉を飲み込みかけたが、同時に自分が「座布団の頂上」に立っていた姿を思い出してしまい、苦笑いを浮かべた。
「……それは、それで困りますけどね」
小林の笑い声に、部屋の空気がまたゆるんでいった。
ーー抜け殻の処分ーー
「それとこれをお返ししておきますね。電池は切れているようですけど」
久美子は糠味噌の香りがまだ残る楠木のスマホを手に取り、にっこりと笑った。
楠木はスマホを受け取り、肩をすくめる。
「これについては、ご存知ですよね。勝手にやってしまおうと思ったんですけど……」
そのとき、床板の軋む音とともに小林槌男が入ってきた。手には威圧感のある電動ドリルを握っている。
久美子は楠木の前に掌を出して、再びスマホを楠木から受け取った、そして真剣な顔で言った。
「このスマホを充電してまた使うのは危険です。ここで壊してしまうのが一番です。一応、許可を得てからにします」
槌男はにやりと笑い、手にしたドリルを振りかざす。
「待ってくれと言われたって、有無を言わさずやっちまいますけどね?」
楠木は少し間を置いてから、素直に答えた。
「どうぞ、やってください」
木枠に固定されたスマホにドリルの刃が触れる。バリバリ、バリバリ――部屋に金属が削れる音が響き渡る。楠木は苦笑しながらも、スマホをじっと見つめる。
「この臭い、取れそうもないですしね。もう使えませんよ」
そして、彼はドリルを槌男から借りて、自分でも更に穴を開けた。
バリッ、ガリッ――スマホは見るも無惨に穴だらけとなり、まるで産業廃棄物のように無力になった。
久美子は肩の力を抜き、深く息をついた。
「……これで、もう二度と暴れられませんね」
楠木は、悲しそうな笑みとともに、しかしどこか達成感の混じった顔を見せた。約30万円もするスマホは、この日、完全に役目を終えたのだった。
久美子は楠木に産廃となったスマホを差し出し、注意深く言った。
「電子機器には有害物質が含まれています。山を降りてから、必ず産業廃棄物処理業者に委託して処分してくださいね」
楠木は小さくうなずき、肩の力を抜いて答えた。
「ご迷惑をおかけしました。そして、僕を頚木から解き放っていただき、感謝しています。身辺を整理してから、日を改めてお礼に伺わせていただきます」
言い終えると、彼はゆっくりと山道を降りていった。背後には、森の静けさと、少しだけ風に揺れる葉の音だけが残った。
久美子は立ち尽くし、深く息を吐く。
「無事に帰ってくれるといいけれど……」
その目は、晴れやかさと、ややの緊張感を帯びて、静かに山の向こうを見つめていた。
ーー里山の経済談義ーー
午後に入ると、山陰となった田んぼに涼風が渡っていく。
昔は日照不足で成長が遅れがちだった山間の田んぼは、今日では猛暑の日差しを避ける好環境となっていた。
日が傾いた田んぼを前に、久美子はタブレットをショルダーバッグにしまって、小さく息をついた。
「これが……G-progでやってきた実験農業の成果報告。」
槌男が顔をのぞき込む。
「成果って、どんなことが書いてあるんです?」
「主な柱は二つよ。全国の小さな農家さんを守りながら、昔ながらの水と土を大切にした米づくりを続けてもらうこと。そして、高品質な種籾を育てること。」
「でも、それって商売として成り立つんですか?」槌男は素朴な疑問を口にする。
「そこなのよね。」久美子は苦笑した。「普通に消費者向けに流通させても、コストがかかりすぎて利益は出ない。だから、直接流通米として売るんじゃなくて、大規模農業法人や流通米の生産農家に“種籾”を卸すBtoBモデルに切り替える。いわば米作りの根っこを支える仕事になるの。」
「へぇ……それで儲かるんですか?」
「儲かるかどうかは別として、持続できる形にはなるわ。だからこそコンソーシアム――農家や企業が一緒になった組織を立ち上げることが決まったの。」
邑人が腕を組んでうなずいた。
「で、その仕組みに大手商社も入ってくる。彼らは海外市場とのパイプを持ってるから、相場や物流の番人になる。そして驚いたことに、全農まで加わったんだ。」
槌男が目を丸くする。
「全農って、あの“農業のドン”ですよね?でも、最近は昔ほど力がないって聞きますけど……」
「そう。政治の後ろ盾も弱くなって、このままじゃ国際的な穀物メジャーに飲み込まれるのは時間の問題。――でもだからこそ、全農も必死に舵を切ったのよ。国内の流通業や情報産業と手を組んで、なんでもやって生き残ろうとしてる。」
久美子は、夕闇に沈みゆく田んぼを見つめながらつぶやいた。
「政治ってね、ほんとうに何層にも重なった構造をしているの。表からは見えないけど、その裏ではいくつもの駆け引きと生き残り策が折り重なっているのよ。」
稲穂が風に揺れる音だけが、しみじみと彼女の言葉に寄り添っていた。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てる。外は秋風が吹き始め、山の稜線が濃紺に沈んでいく。
久美子が茶碗を置き、少し身を乗り出した。
「儲かるかどうか――そこが肝心なんだけどね。実は今後の計画では、生産された種籾には、正式な評価機関による等級付けがされるのよ。」
「等級?」槌男が首をかしげる。
「そう。美味しさと生産性が高い種籾ほどランクが上がって、高値で取引される。つまりA、B、Cの階段があるわけ。そして面白いのは――高級ブランド種籾を増粒したものでも、Cランク以下に評価されて市場に出されるの。」
邑人が口笛を吹いた。
「じゃあ、Cを突破して上に食い込めれば……」
「そう!」久美子は拳を握って、ぐっと突き出した。「そこそこの増粒米でも、一気に高値がつく。量も多いから、実は“増粒事業者”って一番やってて面白い業種なのよ。まるでA5ランク牛を育てる肥育農家のような存在!」
彼女はその場で構えて、空手の型を切るようにもう一度拳を突き出した。
「AやBランクの一次種籾生産者――それが今、私たちがやってる山奥の秘密基地よ。熊もスズメバチもスパイの侵入を防ぐ、天然の防壁。そこでおもいっきり拘った有機農法を磨き、日本の米作りの頂上決戦に挑む。格闘技の選手権みたいな世界なの!」
槌男は目を見開いて声をあげた。
「そんなにすごいんですか!?」
「ここで上位にランクインさせれば――種籾の値段は跳ね上がるわよ。たとえば……1俵1千万円!」
「――1千万円っ!?」槌男は立ち上がり、天井を見上げた。
久美子はにやりと笑って続ける。
「驚くでしょう?でも、それでも仕入れられるなら、高級流通米の農家や増粒種籾の生産者にとっては安い投資なの。なぜなら、その先には“ブランド米”としての収益が待っているから。高所得者層がこぞって買いたがる米、一般消費者が憧れて手に取る米。そのブランドを作れるのよ!」
その熱に引き込まれ、囲炉裏端にいた全員の胸が高鳴った。
「俺たちも……Aランク狙えるのか?」
槌男が囲炉裏の火を見つめながらつぶやいた。その声には、不安よりも期待の色が強く滲んでいた。
久美子は、静かに頷いた。
「当然!そうしなければ、ここで頑張ってきた意味がないもの。」
力強い言葉に皆がうなずく。だが、彼女の表情がふっと翳った。
「でもね……」
囲炉裏の炎を見つめる久美子の瞳に、遠い記憶の景色が映る。
「母方の実家は北海道なんだけど、子供の頃にそこで食べたご飯……あれは本当においしかったなぁ。湯気が立ちのぼる真っ白なご飯に、ただ漬物を添えるだけでごちそうだった。その記憶の味には、まだ追いついてないのかもしれない。」
声はどこか寂しげで、仲間たちも思わず息をのんだ。
だが次の瞬間、久美子は顔を上げ、ぱっと笑顔を咲かせた。
「でも、今のお米だって十分おいしいでしょ?それに、まだ伸び代があるの。そう思うと……すごく楽しみじゃない?!」
その笑顔は、研究者の冷静さよりも、未来を夢見る少女のように純粋だった。
火の粉がはらりと舞い、中空へ消えていく。誰も言葉を続けられなかった。久美子の胸にある「記憶の味」と、これから自分たちが挑む「未来の味」。その両方をつなげる道が、確かにここから始まっていると、皆が感じていた。
「D、Eランクの米は……儲からないのですか?」
槌男が首をかしげながら尋ねた。火鉢の上で湯気をあげる鉄瓶の音が、間を埋めるようにちりちりと響く。
久美子は少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「やりかた次第よね。でも裾野が広い分、参入しやすい分野ではあるわ。」
彼女の声には現場を歩いてきた実感がこもっていた。
「たとえば、じゃがいもやたまねぎがメインだけど、田んぼもあります――っていう農家も多いでしょう?そういうところは安い種苗業者から苗を買って、普通に農薬も使用して、つまり従来の農協指導型稲作を行うわけ。で、販売先は農協に卸したり、地元スーパーと契約したりするの。『新米入荷』って幟を立てれば、スーパーにとっては集客の目玉になるし、値段が安くてそこそこ美味しければ、消費者も喜ぶ。」
槌男はなるほどと頷く。だが久美子は言葉を続けた。
「それにね、米って、そのままご飯で食べるだけじゃないの。食品加工、味噌麹、醤油、米菓、酒造、みりん……低価格で大量に仕入れたい業界は山ほどあるのよ。だからC以下のランクは裾野が広く、参入しやすいといえるわけ。」
そこまで話すと、久美子は火鉢の向こうをじっと見つめた。炎の奥には、もっと大きなものが潜んでいるかのように。
「でもね……その裾野を狙って外資や輸入品が入ってくる。輸入関税などの規制をかけられなくなった今は特にね。裾野を崩されれば、A、Bランク帯までじわじわ侵食される。」
言葉は静かだが、冷たい刃のような鋭さを帯びていた。
「たとえば、価格競争で資金難に陥ったEランク米農家を買い取って、そこに国際メジャーが遺伝子組み換え米を投入する……そんな未来も十分ありえるのよ。」
槌男は目を丸くした。
「……それ、シャレにならないっすね。」
久美子は小さく笑って首を振った。
「だからこそ、ここは国がしっかり監視してもらいたいところなの。米はただの食べ物じゃない。国の根っこを支えるものだから。」
囲炉裏の灰のなかに入れておいた栗が、ぱちりと弾け、久美子の横顔を一瞬照らした。その光の中に、米の未来を憂う彼女の影が、どこか戦士のように見えた。
ーー旅立ちーー
高柳久美子は、静かに荷をまとめていた。
出立の準備は整っている。目的地は東京・品川、N通信本社ビル。そこで行われる定例の報告会に出席するのだ。
彼女の手元には、一年間をかけて推進してきた再生農業プロジェクトの成果が詰め込まれた分厚い資料がある。荒れた土地を蘇らせ、伝統的な米づくりを守りながら新たな付加価値を見出した、その軌跡。夜を徹して編み上げたデータやグラフは、ただの数字の羅列ではなく、土の匂いと人々の汗を宿していた。
報告の相手は、N通信の役員だけではない。これから発足する米生産流通コンソーシアムの各団体トップたちも揃って待っている。大きな力と利害が交錯する舞台。ひとつ間違えば、築き上げた努力がかき消されかねない。
それでも久美子の胸には、不思議な落ち着きがあった。
「どんな質問が来ても答えられる。私はこの一年、現場の第一線に立ってきた。その事実こそが、私の力」
鏡に映る自分に小さく頷き、スーツの襟を正す。
いまや彼女は、単なる報告者ではなかった。プロジェクトを導き、責任を背負い、未来を語るべき主導者だった。
ーー宵の明星の下でーー
犬や猫、鶏にロバ。暮らしを共にしてきた仲間たちの世話は、小林親子に託した。
「今度は少し長くなるので、申し訳ないですが、動物たちの世話をよろしくおねがいします」
久美子の言葉に、昭一は胸を叩くように笑った。
「おう、村の青年部会からも、ぜひ実験農業を手伝いたいと頼まれているんだ。畑は心配するな、しっかり守っていくぜ」
その横で、槌男が腕を組みながら言った。
「山の途中にある邑人さんのところにも行ってみるんだろ?ドンちゃんのリヤカーで一緒に行ってみようよ。まだいるといいんだけどな……」
山道を降りる途中で道がわかれ、そこから少し登る、ぽつんと立つ廃屋があった。そこはかつて邑人英二の根城であり、研究所でもあったはずだ。しかし、扉を開けて中を覗いた瞬間、久美子は肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
「ああ、やっぱり遅かったのね」
人の気配はなく、がらんとした空間が広がっている。槌男が畳を足で軽く叩きながらつぶやく。
「来年来るって言ってたけど、挨拶もなしにいなくなるなんて……まあ、邑人さんらしいけどな」
だが久美子には、もっと別の違和感があった。
――ずっと前から無人だったみたい……。
以前訪れたときには、工具や機械が整然と並び、小型のシステムサーバーまで置かれていた。だが今は、その痕跡すらなく、まるで最初から存在していなかったかのようだ。
「邑人さん……不思議な人だったよね。何度も助けてもらった」
そう呟く久美子の視線の先に、一通の封筒が落ちていた。
「高柳久美子様」と墨書された封筒を開くと、邑人の字が現れる。
――いろいろ世話になった、心から感謝します。来年また来ますのでそれまでお元気で、行男君によろしく。
太陽が沈んだ後、西の空にひときわ明るく輝く宵の明星。その時、東に向かって飛んでいくひとつの光――JAL010便。
それに僕が乗っていると思います。
さよなら久美子さん。――
手紙はそう結ばれていた。
本当はどうだかわからない。旅立ったのか、消えたのか。だが、その謎めいた余韻こそが邑人英二らしい、と久美子は思った。
「さあ、ドンちゃん急いで。最終バスに間に合わなくなっちゃう」
ロバのリヤカーが、山道をがたごとと下っていく。久美子は未来へ向かって進む足を止めなかった。
西の空には宵の明星が、ひときわ明るく瞬いていた。
ーー続くーー