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田中オフィス  作者: 和子
74/91

第六十五話、里山再生文化祭(後編)

ーー名家のお嬢様ーー

昭和五十一年、早春のこと。

湖国(ここく)の名家・菱川家の屋敷には、静かな緊張が張りつめていた。


応接間の座敷に当主・菱川師葛(もろかつ)が正座し、その隣には一人娘の弓枝が控える。まだ十六の少女は、薄紅の頬を伏せ、落ち着かぬ手を膝の上で組んでいた。ふすまの陰には、娘を気遣う母の姿もあった。


やがて襖が開き、西川家の父子が通された。

西川家は、戦国末期に近江商人として名を馳せ、昭和の今は美術品や民芸品を扱う商社「西川梟居堂(きゅうきょどう)」を営む旧家である。菱川と並び、地元では昔から由緒ある家格を誇ってきた。


「ようこそ、お運びいただきました」

師葛の低く響く声が、座敷の空気を一層引き締めた。


西川の当主は静かに頭を下げ、長男・澄人(すみと)も正座して続いた。三十二歳の澄人は高校の教員を務める身であったが、この日はただの教壇に立つ教師ではなく、一族の未来を背負う者としてここに座していた。


半世紀以上続く両家の縁が、この日、改めて試されようとしていた。


「はじめまして。西川澄人(にしかわすみと)と申します」


畳に正座した澄人は、深々と頭を下げた。


「……菱川弓枝(ひしかわゆみえ)と申します」


対座する少女は、頬を朱に染め、恥じらいを帯びて名乗った。視線はすぐに畳へ落ちたが、かすかにこちらをのぞいたその瞬間、澄人は息をのんだ。まだ年若く、教壇の前に立つ自分の生徒たちと変わらぬ年頃――そう思わせる面差しであった。


つい、教師としての癖が出る。

「弓枝さん、学校はどちらですか?」


不用意な問いに、少女ははっとして小さく答えた。

「……長浜中学でした。もう卒業して、いまは家事手伝いをしています」


澄人は胸の奥で自らをたしなめた。ここは生徒との対話の場ではない。古き家のしきたりに縛られた、両家の行く末を定める「顔合わせ」の席である。


もとは単純な話であった。

西川家の長男である澄人は、幼き頃より家業を継ぐと期待されていた。しかし彼は「教師の道を歩む」と宣言し、親の反対を押し切った。跡継ぎの重責を拒み、黒板の前に立つ道を選んだのである。


その結果、家督は弟の清人へと移った。もとより、弓枝が誕生したその時から、両家の親同士で決めた婚約者として、西川家と菱川家の縁談は結ばれていた。弓枝の兄・菱川師直(もろなお)が健在であったその頃には、両家の約束は保たれ、話は順調に進んでいた。


だが、運命は残酷にその均衡を打ち砕いた。

菱川家の長男・師直が、突如としてこの世を去ったのである。

以後、弓枝は家を背負う立場へと押し上げられた。まだ少女の面影を残す彼女にとって、それはあまりに過酷な宿命であった。


座敷の正面、西川家の当主は畳に両手をつき、深々と頭を下げた。

「本日は面目次第もございません。本来ならば、我が次男・清人(きよと)が弓枝さまを娶り、家を継ぐはずでございました。ところが菱川家のご長男・師直さまが急逝され、弓枝さまが跡を継がれることに……さりながら、当家の内輪の都合で、清人には跡継ぎを引き受けさせ、婿に出すことはできません。代わりに、不肖の長男・澄人をお連れいたしました。西川の勝手をお許しいただき、こうして席を設けていただきましたこと、心より御礼申し上げます」


厳粛な空気を破ったのは、菱川家の当主・師葛(もろかつ)の落ち着いた声だった。

「どうぞお顔をお上げください。澄人さんは学校の先生をなさっておられるとか。若者を導く学識あるお方を婿に迎えられるのは、我が家にとっても大きな救いです。師直を失った痛みは深い。ですが、こうして結ばれるご縁を、我らは感謝をもって受け入れましょう」


澄人は静かに頭を上げ、深く一礼した。

その視線の先には、弓枝のうつむいた姿があった。膝の上で組まれた両の手はわずかに震えていたが、その奥には確かな覚悟の影が見えた。


――この少女は、すでに運命を受け入れようと必死に心を制している。

澄人はかつて、家を継がぬと宣言し、夢に逃げたが、もはやここでは背を向けることは許されない。


澄人は胸の奥で、静かに誓いを立てた。

――この縁を守り、彼女の未来を支える。それが、教師としての道を選んだ自分に課せられた新たな務めなのだ。



ーー友との約束ーー

顔合わせの席を終え、西川家の親子は黒塗りの車に乗り込んだ。運転席には家の運転手が控え、静かに発進する。座席に沈むと、澄人はふっと肩で息をついた。


ほどなく、父が口を開いた。

「澄人、お前……言葉が軽すぎる」


澄人は横顔を見た。父の眉間には深い皺が刻まれている。

「……学校のことを尋ねたのが、いけなかったのでしょうか」


「いけないに決まっている。普通の縁談ではないのだ。相手は十六の娘だぞ。お前は三十二歳、学校の先生を務める大の大人だ。まるで生徒に話しかけるようにしてどうする。あれでは菱川の人々も、お前が配慮の足りない男ではないかと見られてしまう」


澄人は返す言葉を失った。たしかに、職業病のように口をついた問いだった。彼女の瞳の奥に幼さと緊張を見て、思わず声をかけてしまったのだ。


「そもそもは、お前の勝手から始まった話だ」

父の声は低く重く響いた。

「家業を継がず、教師になるなどと言い張った。そのために清人を跡継ぎに据え、菱川との縁談も清人の嫁として弓枝さんを迎える算段で回していた。―――だが菱川家のあと取り、師直殿が急逝され、弓枝さまが家を継ぐことになった。跡取りとなった清人を婿に出すわけにはいかん。……すべてはお前の決断の帰結だ」


車内には、エンジン音と道路を走るタイヤの響きだけが残った。


澄人は窓の外に視線をやった。暮れゆく町の街灯が点りはじめ、並ぶ家々の障子からは夕餉の明かりがもれている。


――家同士で結婚を決めるのは「勝手」ではないのか。

そう言い返すこともできた。だが、それはただの屁理屈だ。


「……はい。おっしゃるとおりです」

澄人は静かにそう答えた。


彼の胸の奥に、弓枝の姿が浮かんでいた。俯きながらも、必死に気丈さを保とうとしていたあの表情。十六歳の少女が背負わされた重責を思えば、三十二歳の自分が逃げるわけにはいかない。


――自分が選んだ道だ。責任を負うのもまた、自分だ。


車は暗くなった街道を走り続けていた。父の横顔は硬いままだったが、澄人の心には、ようやく小さな覚悟の灯がともり始めていた。


澄人の父親が言う「婿に入ったら、早く跡取りを作れ。無駄飯食いと言われないためにもな」


帰りの車内、父の叱責に言葉少なに答えたあとも、澄人の胸中には別の思いが去来していた。


――なぜ、自分はこの縁談を受け入れたのか。


それは、ただ家のためだけではなかった。


脳裏に浮かぶのは、亡き菱川師直の姿だった。


師直は二歳年下。小学校も中学も高校も、ずっと一緒に通った。気がつけばどこへ行くにも連れ立ち、澄人を「兄ちゃん」と呼んで慕った。澄人にとっても、実の弟のように思える存在だった。


よく菱川の屋敷を訪れた。今にして思えば、座敷の片隅で遊んでいた小さな女の子――それが弓枝だったのだ。記憶の中の幼女は、今や十六歳の少女に成長し、今日の顔合わせで澄人の前に座っていた。


「……まさか、あの子がなあ」

窓の外にぼんやりと灯を見ながら、澄人はつぶやいた。まだ幼さを残す一方で、凛とした美しさを備えた娘。あの震える手は、家を背負う者が必死に決意を固めようとしていた手であった。


思い返されるのは、師直が病床で洩らした言葉である。

一か月ほど前のことだった。見舞いに訪れた澄人に、やつれた顔で微笑みかけ、唐突に言った。


「澄人兄ちゃん……頼まれてくれよ」

「なんだよ、急に」


「菱川を守るには、妹の弓枝に婿を迎えんといかん。兄ちゃんはまだ独り身だろう?……弓枝と結婚して、菱川に入ってくれないか」


澄人は笑って答えた。

「おい、よせよ。お前、そんなことまで考えるな。早く元気になって家に戻れば済む話だ。いらん心配だぞ」


だが師直は、力なくも真剣な目を向けた。

「……もしもの時は、兄ちゃんしかおらんのだ」


その「もしも」が、現実になった。

師直は帰らぬ人となり、ほどなく澄人は父から呼び出された。


「お前は菱川家に婿に行け。……もう、勝手は許さんぞ」


父の厳しい声を前にしても、澄人の胸には師直の言葉が残っていた。妹を託すと告げられたあの日の記憶が、彼を逃れられぬ鎖のように縛っている。


――あれは約束だったのかもしれない。


車は暗い街道を走り続けていた。澄人はシートに身を預けながら、静かに目を閉じた。

十六歳の少女の震える手と、病床で笑っていた友の顔。その二つの像が、彼の心に重なって離れなかった。



ーー逆らえぬ運命ーー

兄の師直が亡くなったのは、ほんの数か月前のことだった。

その少し前から、家の中の空気はどこか暗く沈み、父母の口からも「今後の段取り」「菱川家の方針」といった言葉が、ぽつりぽつりと洩れるようになった。十六歳の弓枝には、意味はわかっても、心の底で受け入れがたい響きだった。


兄師直の葬儀の翌日、父の師葛が弓枝を呼びつけた。

座敷の正面に居ずまいを正した父の前に、弓枝は畏まって座る。背筋を伸ばしながらも、胸の奥はざわついていた。


父は低い声で言った。

「弓枝……いよいよお前にも覚悟を決めてもらわねばならない」


膝の上に置いた自分の両手が汗ばむのを、弓枝は感じていた。


「兄の師直が亡くなったあとは、お前が菱川家を継がねばならぬ」


その言葉を耳にした瞬間、弓枝の思考は途切れ、胸の奥に冷たい穴があいたように感じた。

――私が、継ぐ? 女の私が?


何かを考えようとしても、言葉が浮かばない。父の声だけが遠くから響いてくるようで、自分がこの場にいるのかどうかさえ曖昧になった。


確かに、うすうすは気づいていた。兄の病が深刻になるにつれ、親の口から「家の将来」という言葉が漏れることが増えていた。けれど、それはあくまで可能性のひとつであり、現実になるとは思っていなかった。


いざ「お前が継ぐ」と告げられると、全身から力が抜けていった。抗う術(あらがうすべ)など、初めから持っていない。自分の意志や夢など、この座敷には存在しないのだ。


ただ、父の言葉が未来を決め、少女の人生を塗り替えていく――。

その流れに呑み込まれるしかない無力感だけが、重く沈殿していた。


言葉を失う弓枝に、父はさらに追い討ちをかけるように告げた。

「中学校を卒業したら、家で家事手伝いをしてもらう。そして西川家から婿を迎える。結婚するのだ」


弓枝は目の前の父を見つめながら、胸の奥に黒い塊が広がっていくのを覚えた。


――なんという理不尽。

私の人生を、どうして家の都合でねじ曲げられねばならないのか。


戦後の学校教育で、自由や平等を教えられてきた。夢を持て、未来を選べ、と先生たちは言っていた。友人たちは「高校に進む」「看護師になる」と、未来を語り合っている。


なのに、私は……。


――どうして、家のためにすべてを差し出さねばならないの。


唇を噛みしめる。反発の言葉を口にすれば、父の威厳ある声に一蹴されるのは目に見えている。けれど心の奥で、少女としての叫びが消えなかった。


畳に落ちる父の影は重く、弓枝の胸には「逆らえぬ運命」という言葉が冷たく沈んでいった。



ーー師直からの手紙ーー

父・師葛は一通の封筒を弓枝に差し出した。表に「菱川弓枝殿」と書いてあり、糊でしっかりと封印されている。


「これは、師直からお前に宛てた手紙だ。書かせたものかどうかは、お前の目で確かめるといい」


父の言葉に、弓枝は小さく息を呑み、封を切った。


「……これ、お父様に聞かせながら読んで良い、と書いてある。読んでみますね……」


弓枝は手紙を開き、震える声で読み始めた。


『前略――この手紙は弓枝に読んでもらい、もしかしたら、お父さんにも読んでもらうことになると思います。まず最初に、お父さんとお母さんに感謝を伝えたい。短い生涯でしたが、弓枝と共に慈しみ育てていただいたことに、心から御礼申し上げます。そして、親孝行もできずに逝くことをお詫びします……』


母の肩が震え、嗚咽が漏れた。弓枝はその手を握り、先へと読み進める。


『ぼくは先日、見舞いに来てくれた西川澄人(にしかわすみと)さんにお願いしました。菱川に婿として来て、弓枝と結ばれてほしいと。西川家の現状を考えると、跡継ぎの清人(きよと)は婿に出されることはないでしょう。清人の妻はすでに決まっているようです。跡継ぎになる条件が清人の好きな人を妻にすることですから。すると、両家の婚姻の約束は果たされず、必然的に澄人兄さんが婿に入る話になるだろうと思いました。弓枝には過酷な運命と思われます……』


弓枝は息を整え、声を抑えながらも読み続けた。心の奥で問いかける。


(――だからといって、私の人生まで巻き込むの?)

弓枝は唇をかみしめた。兄の死去で、家の都合を押しつけられているだけではないのか。そんな思いが胸を締めつける。


しかし、それでも兄の本心を知りたくて、手紙を震える指でめくり、続きを読んだ。


『弓枝は、自分の人生を歩んでください。お父さん、お母さんにお願いします。死ぬ前の息子の最後の願いです。弓枝は自分の人生を切り開ける人です』


声が詰まり、一瞬、読み進めることをためらった。けれど、そこに記されていたのは「家を継げ」という強制ではなかった。

――え……?


思わず顔を上げる。そこに記されていたのは、家を背負えという重荷ではなかった。むしろ、自分の未来を尊重するようにと願う言葉だった。


菱川の家より、私の未来を考えてくれていたのだろうか……。

戸惑いの中で、胸にかかっていた重石がほんの少し動いた気がした。


胸の奥にずしりと重くのしかかっていた「運命の引導」が、ふいに柔らかくほどけていく。死の間際にまで妹の未来を思いやり、自由を託してくれた兄の心。涙が溢れ、文字がにじんで見えなくなった。


弓枝は嗚咽をこらえながらも、読み進めずにはいられなかった。そこに、兄が最後に残した真実があるのだから。


「全部……読まないといけませんか」

弓枝は父に問うた。師葛はただ黙って頷くだけだった。


弓枝は言葉を選び、読み続ける。


『お父さん、養子をもらうという方法もあります。それも無理であれば、菱川家は絶える運命でした。人生って素晴らしいものじゃないですか。弓枝にはそれを与えましょう。僕にはもう望めないものですから……』


手が震える。涙が止まらない。父も母も、ただ黙って手を握り合っている。


『僕は菱川家に生まれて毎日がとても楽しかった。それは弓枝が生まれてきたからです。歩けるようになると、なぜか僕のあとを追ってきて。学校から帰ると僕をぎゅっと掴んで、怒っているのかと思ったら、もう眠りこけている。大きくなると、学校でもらった習字の賞状を「お兄様、見て」と誇らしげに逆さまに広げて見せたり――。どれだけ毎日が楽しかったか、思い出したら話しきれない。僕はたくさんの思い出を貰って逝くことができます。ありがとう、弓枝。お父さん、お母さん。素晴らしい人生をありがとう』


弓枝は涙をこらえられなかった。父も母も、肩を震わせ嗚咽をこらえている。

ただ、手紙の文字だけが、温かく、重く、そして静かに家族の心に刻まれていた。


弓枝が涙をぬぐいながら手紙を読み進めると、まだ数行残っていることに気づいた。


『ついでに、これは推薦状です。澄人さんはいいですよ。よく遊びに来ていたでしょう。授業でわからないところを僕に詳しく教えてくれました。高校の先生になられて、勤めていらっしゃる高校では生徒の中で人気ナンバーワンです。校長先生にもお話を伺いました。『なるほど、近江の豪商西川屋の跡継ぎを蹴って学校の先生になったわけですな』と。いちおう澄人兄さんには因果を含めておきました。覚悟はできていると思いますよ。弓枝、話がこっちに進んでもまったく問題ないと思うよ。まあ、最終的に決めるのは弓枝自身だ。---無責任な兄より 草々』


弓枝は読みながら、思わず小さく笑ってしまった。


――推薦状って……師直、あの子ったら。

母も父も、思わず顔を見合わせ、くすくすと笑い声を漏らす。

師直の真剣な願いが、最後には兄らしい優しいまなざしでで締めくくられている。


「……師直兄さん、ほんとうに、最後まで笑わせる人ね」

弓枝は小さくつぶやき、涙をぬぐった手で手紙を抱きしめた。


しばし沈黙が落ちたのち、父が口を開く。

「師直は……お前を守ろうとしたのだな。そして、家族が離れてしまわぬようにと」


弓枝は驚いたように父を見つめた。これまで厳格で、家のことしか語らなかった父の声に、初めて柔らかさが宿っていた。


「……お父さま……」


父と娘の視線が重なり、張りつめていた壁が静かに溶けていく。

師直が最後まで気遣った「家族の分断」は、いまこの手紙によって越えられたのだ。


弓枝は深く息を吸い込み、胸の奥で小さく頷いた。

――兄の願いも、家の責任も、私が受け止める。もう、ひとりではない。



ーー弓枝の決意ーー

弓枝は手紙を抱きしめ、深呼吸をひとつして顔を上げた。


「あーもう、兄さんたら、天国からニヤニヤして見ているに決まっているわ」


ふっと笑いながらも、涙が頬を伝う。


「お父さん、弓枝は降参です。お話、進めてください」


師葛はしばらく娘をまじまじと見つめた。泣き腫らした瞳、震える肩。しかしその表情は、満面の笑顔に変わっていた。


――こういう娘だ、と父は胸の中で思った。


「すまない、弓枝。菱川家のために……」

師葛の声には、父としての覚悟と、娘への深い愛情が混ざっていた。


弓枝は強く頷き、力強く答えた。


「菱川家は私に任せて! 澄人さんと一緒に、しっかり守っていきます!」


その言葉に、師葛の肩の力が少しだけ抜けた。

涙と笑顔が混ざったその光景は、家族の新たな一歩を静かに祝福しているようだった。



ーー波乱の歳月を越えてーー

あの日、兄の手紙に背中を押され、弓枝は菱川家を背負う覚悟を決めた。

やがて澄人を伴侶に迎え、二人三脚で家を守り、村を支えてきた。授かった三人の子供たちは、みな健やかに育ち、それぞれの道を選んで都会に根を下ろした。


夫婦は静かに、けれど確かに幸福だった。

澄人は近江商人の家柄を捨てて教師の道を選んだ男だ。家庭でも常に生徒に接するように誠実で、厳しくも温かく家族を導いた。その澄人が七十四歳で天寿を全うしたとき、弓枝は深い悲しみに沈みつつも、彼が選んだ生き方を誇らしく思った。


――けれど、残された自分の道はまだ終わっていない。


子供たちは帰ってこない。それは都会で築いた生活があるからで、弓枝は無理に呼び戻すことを望んではいない。むしろ今、彼女の目に映るのは、村そのものの未来だった。


過疎と高齢化で疲弊する故郷(ふるさと)をどうにかしたい。兄の願った「分断を防ぐ」ことを、家族から村へと広げて果たしたい。その想いが、彼女を動かしていた。


幸い、そばには幼馴染の小林昭一がいる。少年の頃から少し頼りないところは変わらないが、心根の優しさは昔のまま。今も彼は、弓枝の手を取って歩調を合わせてくれる数少ない存在だった。


――この村をもう一度、笑顔で満たしたい。

弓枝はそう心に刻み、新しい挑戦へと踏み出していた。



ーー里山再生文化祭・前夜ーー

「小林さんが委員長、私が副委員長にご推挙いただきました。皆様のご期待に応えられるよう勤めさせていただきますので、ご協力のほどよろしくお願いいたします」


会議の冒頭で、菱川弓枝が凛とした声を響かせた。

進行の手際も慣れたもので、次々と議題を整理していく。村人たちの視線は自然と彼女に集まり、昭一はその横で、ただお飾りのように座っていた。


「よろしくお願いいたします……」


一応、委員長として立ち上がり、軽く頭を下げる。自分がやるべきことは、どうやら形だけの挨拶に過ぎないように思えた。


会議の準備についても同じだった。本来は昭一が一軒ずつお願いして回るはずが、弓枝はため息まじりに言った。


「昭一さん、そんな時間ないのよ。連絡網で回しましょう」


気づけば二日後、会議は滞りなく開かれ、しかもあっという間にイベントの日程が決まり、名称も全会一致で「里山再生文化祭」に決定していた。


(さすがだな……)


昭一は改めて、幼馴染の手腕に感心していた。かつて土地を提供して村を支えようとした弓枝の思いが、今もこうして村を動かしているのだと、ようやく気づき始めていた。



ーー 子供時代の記憶(アルバム)ーー

(さすがだな……)


昭一は改めて、幼馴染の手腕に感心していた。

ふと、心の奥に、遠い記憶の扉がひらく。


――小学生の頃の弓枝。

新聞部を自認して、手書きの新聞の原稿を集めて回っていた。


「小林君、みんなで川遊びに行ったときの面白い話、なんか無い?」

挿絵(By みてみん)

大きな瞳をきらきらさせながら、鉛筆とノートを手に迫ってくる。川で滑って泥まみれになったことまで記事にされたのを覚えている。恥ずかしかったが、不思議と腹は立たなかった。


放送部も兼務していた弓枝は、給食の時間になると放送室から声を響かせた。

自作のナレーションで一日の出来事を読み上げ、次に流れるのは小学唱歌のプログラム。

「今日の曲は『夏は来ぬ』です。放課後に視聴覚室でもう一度聞けますので、是非お越しください」

挿絵(By みてみん)

みんな笑いながら牛乳を飲んだ。あの澄んだ声はいまも耳に残っている。


中学に進むと、当然のように生徒会活動を始めた。

二年で副会長。三年間を通じて学校の中心にいた。

もし高校へ進んでいたら、どんな風に輝いただろう。

挿絵(By みてみん)

きっと生徒会長になり、村を出て大きな舞台へ羽ばたいたに違いない。


(そのときなら……「おれもなんか力になるよ」って、言えたかもしれない)


そんな想像をした瞬間、心の奥に一枚の場面がよみがえる。

あの日――いつものように菱川家の庭で会ったときのことだ。


いつもは眩しいほどの笑顔を向けてくれる彼女が、その日は違った。

唇を結び、少し俯いていた。


「……高校へは行けないの」


小さな声が震えていた。


「菱川家を継ぐため、結婚するの」


その言葉を聞いた瞬間、昭一は頭を殴られたような衝撃を受けた。

何かを答えることもできず、庭を飛び出していた。


――その後、どうやって家まで帰ったのか覚えていない。

ただ、胸の奥に穴が空いたようで、しばらく何も考えられなかった。


***


今、目の前にいる弓枝は、村の人々をまとめあげ、文化祭を仕切る副委員長として立っている。

その姿に、あの頃から続く強さと責任感を見て、昭一はまた小さく息を吐いた。


(やっぱり……昔から、弓枝はすごい人だったんだ)

そして、八月三十日。

前夜祭の夜が訪れた。


設営や準備に奔走した住民たちをねぎらうために催された宴。テントの下に机が並び、煮込み鍋の湯気や焼き鳥の香ばしい匂いが漂う。ビールの栓が抜かれ、村人の笑い声が広がっていく。


やがて壇上に立ったのは、やはり菱川弓枝だった。

静かに一礼して、ゆっくりと口を開く。


「みなさま、ご協力に感謝いたします。明日の準備が滞りなく完了しましたのも、子供たちにこの村の思い出を残すという目的にご賛同いただけたからであると、心より感謝申し上げます」


昭一は、盃を手にしたまま見上げていた。

彼女の言葉には、どこか寂しげな響きがあった。村を去った自分の子供たちの姿を、重ねているのかもしれない。


「明日のイベント進行は、高校生有志のグループで運営されます。相談役ということで、一部明日も仕事のあるかたにつきましては、まずは一休みいただき、明日の英気を養っていただきたいと思います。それでは、これより前夜祭開始でございます」


パンパン、と爆竹が鳴り響いた。

夜空に弾ける音と同時に、歓声が上がり、拍手が広がる。


村人たちの笑顔とざわめきに包まれながら、昭一は胸の奥に温かなものを感じていた。

この祭りは、弓枝ひとりの力ではない。けれど――彼女がいたからこそ、村はここまで辿り着いたのだ。


そして明日。

本当の祭りが始まる。



ーー前夜祭の舞台にてーー

「明日のイベント運営は、京都の高校生有志のグループで行われます」


マイクを持った菱川弓枝の声が、夜の広場に響いた。

前夜祭の提灯の明かりが揺れ、集まった村人たちは一斉に彼女を見つめる。


「そして今夜は一足早く――臨屯高校アイドル部のパフォーマンスをご覧いただきます。拍手でお迎えください!」


その言葉に、会場から大きな拍手と歓声が沸き起こった。

爆竹の火花がパチパチと弾け、夜空の下にざわめきが広がる。


舞台袖から、高校生たちが笑顔で飛び出してきた。

アイドルだけあって、少し大人っぽいきらびやかな衣装。でも、統一した手作りのリボンや、縫いぐるみをアクセサリにしたオリジナルコスチュームで、それぞれが眩しいほどの若さを表現していた。

挿絵(By みてみん) 挿絵(By みてみん)

「よっろしくお願いしまーす!」


マイクを握ったリーダー格の少女の声に、村人たちは思わず笑顔になる。

拍手が重なり、子供たちが最前列に駆け寄る。


軽快な音楽が流れ、彼女たちが一斉に踊り出した。

息の合った動き、溌剌とした歌声。都会では当たり前のパフォーマンスかもしれないが、この小さな村にとってはまぶしいほど新鮮だった。


「すごいなあ……テレビから出てきたみたいだ」

昭一は腕を組んだまま、舞台を見上げた。

村人たちの笑顔、子供のはしゃぐ声、若者の汗ばむ笑顔――その光景が胸にしみこんでくる。


ふと横を見ると、弓枝が拍手を送りながら小さく微笑んでいた。

その表情は、かつて新聞部を仕切っていた少女の面影を宿しているように見えた。


(弓枝は昔から、こうしてみんなをひとつにする存在だったな……)


昭一は静かに頷きながら、もう一度舞台に視線を戻した。

若い声が夜空に響き渡り、前夜祭は最高潮を迎えていた。



ーー里山再生文化祭・舞台ウラーー

「無事にイベント開催できましたね」


前田明男が、大きな肩を揺らしながら昭一と弓枝に声をかけた。

「武道」と大きくプリントされたTシャツを着込み、巨体を誇示するように胸を張っている。


「君たちの協力があってこそだよ」

昭一は目を細め、力強く答えた。


弓枝も隣で笑顔を見せる。

「明日もまたあるから、今日は皆さん、私の家に泊まってくれるのよね」


「すいません、押しかけて。でも十人ぐらいいるのに泊まれるなんて、すごいお屋敷ですね」

前田が照れくさそうに言う。


その横で、丹波は焼きイカを頬張りながら祭りの盛況を眺めていた。

「カードバトルコーナー、やっぱりやるんやったな。明日は子供も多いだろうから、ポシェモンカードの交換会でもやったらええかもしれん――それにしても……愛子も前夜祭に出るって言ってたけど、どこ行ったんや?」


昭一が苦笑いを浮かべる。

「愛子、おるで。今ステージや」


その視線の先――ライトを浴びて歌いながら踊る女子高生アイドルチーム。口パクかどうかはともかく、揃ったステップと笑顔は立派なものだった。


「愛子のような怪獣はおらへんな」

前田がぽつりと呟く。


やがて演目が終わり、観客の拍手の中でリーダーらしき美少女がステージを降り、こちらに向かって歩いてきた。

艶やかな髪、くっきりしたアイライン。舞台映えする見事な姿だ。


「おおっ!みんな遅いやないかい。ワシらのステージ終わってもうたわ」


その声を聞いた瞬間、前田と丹波は同時に固まった。

――紛れもなく、江本愛子の声だった。

挿絵(By みてみん)

「メイクや、こんなんチョチョイとどうにでもなんねん」

にやりと笑う愛子。

挿絵(By みてみん)

前田は口をパクパクさせ、丹波は言葉を失って目を丸くしている。


そんな二人を見て、アバスが肩を揺らしながら笑った。

「今のYouTubeやTikTokには、メイクのレクチャーがいっぱい上がってるからね。勉強すれば誰でも“別人”になれるんだよ」


提灯の明かりの下、前田と丹波はなおも呆然と立ち尽くしたままだった。

その横で、愛子は涼しい顔をして髪をかきあげ、舞台帰りの余韻を楽しんでいた。



ーー光の”ドローンショー”ーー


そこへ、小林槌男が汗を拭いながら大きなケースを抱えて現れた。

「アバスくん、できたで。振動にも強い“バーサライター”や。電池の都合でアニメーションは三分だけやけどな。あんまり離れると分かりづらいなー。それと、会場は明るすぎるから……向こうの山を背にした空き地がええ」


前田と丹波も呼び寄せられ、三人で手際よく三メートル四方の観賞コーナーを設置する。架設テントの骨組みだけを組み、屋根布の代わりに農業用ネットを張った。


「事故があったら大変だからね」

アバスが冷静に注意を促す。


やがて、アバスが自ら持参した大型ドローンの下部に槌男製のバーサライタを取り付けた。

「空中で静止したら、支脚が跳ね上がるようになってる。そしたら自動でスイッチが入る仕組みだ」


「その部分は本番一発勝負やな。でも大丈夫やろ」

槌男が自信半分、不安半分といった笑みを浮かべる。


ドローンがゆっくりと飛翔し、テント上空三メートルで静止した瞬間、バーサライタが閃光を放った。

突如、夜空に浮かび上がった光の軌跡に、子供も大人も目を丸くする。ざわめきは歓声に変わり、光の下へ人々が集まってきた。


「危ないですから、テントの下にお集まりください!」

槌男が声を張り上げ、群衆を誘導する。


アバスはリモコンを慎重に操り、ドローンを空中で静止させ続ける。光はやがて花火の映像となり、炸裂する音がスピーカーから響いた。続いて幾何学模様の魔方陣が描かれ、その中心から子供たちのよく知るアニメキャラクターが姿を現す。


「わあっ!」

子供たちの歓声が夜空を突き抜けた。


三分はあっという間に過ぎ、光が消えると「もっと見たいーっ!」という声があちこちから上がる。槌男は苦笑いしながら手を振った。

「ごめんごめん、こんどはもっと大容量バッテリー積んだの作るからさ、楽しみにしててや」


アバスは軽くうなずき、未来を見据えるように言った。

「今日はテスト飛行だからこの程度だけど、改良すれば鳥が滑空する様子も表現できる。さらにプログラミングして複数機を自律的に飛ばし、空中でダンスさせることも考えているんだ」


すると愛子が腰に手を当て、わざと大げさに叫んだ。

「そんなんあったら、ウチらアイドル部のダンスにお客さん来んようになるやんか! アバスくん、本番の文化祭に出すんは堪忍やで!」


その場がどっと笑いに包まれ、未来と現在が交差する夏の夜は、ますます熱を帯びていった。



ーー子供たちの未来ーー

光の残像が宙にほどけて消えると、子供たちの歓声と名残惜しそうなざわめきが夜気に溶けていった。

小林昭一と菱川弓枝は少し離れた場所から、その様子を並んで眺めていた。


「若い子たちの想像力やエネルギーは、本当にすごいですね」

弓枝の横顔は、光を映してやわらかく輝いていた。「未来はあの子たちが作っていくのでしょう」


昭一は腕を組み、しばらく子供たちの弾む笑い声を聞いていた。

「そうだな……大人たちの役目は、せいぜい故郷の思い出を残してやることくらいかもしれん」

ふと目を細める。「故郷や家を受け継がせることは二の次でいい。未来は子供たちが、自分たちで決めることだ」


弓枝は静かにうなずいた。

夜空の彼方で、まだかすかに光の残滓が瞬いていた。



ーー過去と現在の交差ーー

昭一はふと弓枝に尋ねた。

「俺も、自分の未来は逃げずに、自分で掴み取ればよかったな。弓枝さん、もしもだよ――50年前、俺が君を連れて村を出ようって言ったら、どうだったかな?」


弓枝はくすりと笑った。

「私、兄が生きていたら、中学を卒業してすぐお嫁に行くつもりだったのよ。……私、許婚者(いいなづけ)がいるって言ってなかったっけ?」


――ええっ!

昭一は心の中で驚きを隠せなかった。


「もし、一緒に村を出ようって言われても、ムリね、ごめんなさい」

弓枝は大げさに肩をすくめて言う。


「どのみち、ダメかぁ……」

昭一も思わず肩を落とした。


弓枝はいたずらっぽく、首をかしげて訊ねた。

「昭一くん、もしかして、私が初恋の相手だったりする?」


昭一は顔を赤らめ、下を向いてしまった。

その瞬間、ふいに音楽が流れ出す。フォークダンスの曲、「オクラホマミキサー」。


愛子や前田たちが声をかけに来る。

「小林さん、菱川さんも一緒に踊りましょうや!」

「そうや、高校の文化祭といえばフォークダンスやで!」


二人は自然にダンスの輪の中に引っ張りこまれていく。

腕を組み、足を揃え、笑い合いながら回ると――


まるで時間があのころに巻き戻ったかのように感じられた。

幼い頃の思い出も、青春のやわらかい日々も、すべて夜空の下で光の残像のようにふたりの心に浮かび上がる。

挿絵(By みてみん)

弓枝の笑顔、昭一の胸に残る懐かしい感触。

村の夏祭りの夜は、未来も過去も優しく交差し、静かに幕を閉じた。

ーーこの話終わり、また別の話へ続くーー




「バーサライター(PersoLa/POVディスプレイ)」は、残像効果(Persistence of Vision, POV) を利用した簡易ディスプレイ装置です。

[基本原理]

1列に並べた複数のLEDを、高速で点滅させながら棒状の基板ごと左右や円弧状に振ると、人間の目には「線ではなく面」や「文字・絵」が浮かんで見える。

これは人間の視覚が、0.05~0.1秒ほど前の映像を残像として保持する性質を利用しているためです。

[仕組み]

1. LEDが並んだ基板(細長い棒)をモーターや人の手で左右に動かす。

2. マイコン(Arduinoなど)がプログラムに従ってLEDを時系列で点灯させる。

3. 移動の軌跡とLEDの点滅パターンが重なり、空中に「文字」「絵」「アニメーション」が浮かび上がる。

[特徴]

軽量・省電力:LEDとマイコン、乾電池だけでも動作可能。

動作時間の制約:電池容量が小さいと数分しか持たない(アバスたちの話の通り)。

暗所で効果大:明るい場所では映像が見えづらい。

[実際の応用例]

*お祭りや学園祭の余興(夜空にメッセージや絵を表示)。

*サイリウムの代わりにライブ会場で使う。

*ドローンに取り付けて「空中ディスプレイ」にする試みもある。

つまり、アバスと槌男が使った「バーサライター」は、

LEDを搭載した細長い基板をドローンの機体に取り付け、空中で静止させてLED基板を回転させ、アニメーションを見せた――というイメージです。

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