第六十五話、里山再生文化祭(中編)
――閉ざされた門――
夕暮れどきの風が、ひっそりとした菱川家の黒門を撫でていた。古びた板戸に貼られた紙切れは、村の駅前イベントへの不参加を表明するものだった。墨痕鮮やかな筆文字が、逆に孤高の意志を際立たせている。
小林昭一と槌男、そして居候の邑人英二は、その貼紙を前に立ち尽くしていた。
『交渉事、お断りします 菱川』
「菱川さんだけを孤立させるわけにはいかないな」
昭一が低くつぶやく。
「義理立てして賛成から反対に寝返る者が出るかもしれん。うっかりすると、オセロの駒みたいに一気に逆転されることもありうるぞ」
邑人英二は腕を組み、目を細めた。風来坊の佇まいに似合わず、その視線は冷静に事の成り行きを測っているようだった。
槌男が口を開いた。
「菱川さんは地元の名家で、駅前の帝スラの工場の土地も、全部あの人が提供したんだ。影響力は大きいよ」
邑人がうなずく。
「いまは一人暮らしらしいが、地元での発言力はまだ健在だろう。それに、このイベントは村全員の総意で挙行されなければ意味がない」
しばし沈黙が落ちた。重苦しい空気の中で、昭一が二人に向き直った。
「ここは、俺一人で説得してみる。お前たちは帰って待っていてくれ」
槌男は一瞬迷ったが、父の顔に宿る決意を見て、静かにうなずいた。
「……わかった。父さんに任せよう」
そして邑人の肩を軽く叩き、二人は黒門を背にして歩き出した。背後に残る昭一の姿は、まるで村そのものの運命を背負って立つかのように見えた。
――勝手知ったる人の家――
小林昭一は、菱川家の黒門を離れ、裏手へと回った。
垣根と塀のあいだは狭く、人ひとりがやっと通れるほどだ。子供のころから知り尽くした道筋だった。
一見、そこは頑丈な柵で仕切られている。だが昭一には仕掛けがわかっていた。
「たしか……この木戸は引けども開かないが、引き戸の左に手をかけると――」
独り言のように言いながら手をかけると、木戸はぎしりともいわず、音もなく手前に開いた。引き戸ではなく、蝶番で支えられた開き戸だったのだ。
「……昔のまんまか。よくここから弓枝さんのところに通ったもんだ」
懐かしさに胸が締めつけられ、記憶を辿りながら、足取りは自然とゆっくりになる。館の塀を巡り、裏庭の方へ向かい、石と植木で整えられた庭のある縁側の方へ回ると、そこに人影があった。
熊手で刈り取った雑草を集めている老婦人。作業服の袖をまくり上げたその姿は、幼馴染の――菱川弓枝だった。
ふと視線が合った瞬間、二人は動きを止めた。五十年という歳月が、一気に溶けて消えてしまったかのようだった。
最初に声を発したのは昭一だ。
「や、やあ……菱川さん」
弓枝は驚きに目を見開き、すぐに小さく声を返した。
「小林さん……」
空気が一瞬、あの頃の夕暮れに戻ったようだった。
そして弓枝はふっと笑みを浮かべた。
「昔はよく、どこからともなく入ってきたわよね」
昭一は頭をかき、申し訳なさそうに言った。
「ごめん……なんとか話がしたいと思って……」
弓枝は熊手を縁側に立てかけると、静かに言った。
「そんなところに立っていてもしょうがないでしょう? どうぞ、家にあがって」
その声には、拒むよりも先に許す響きがあった。
――接触を拒むように貼り紙に書いたのは弓枝自身だが、同時に、
昭一なら、きっと昔のように工夫して入って来る――そう信じてもいたのだろう。
昭一の胸に、不意に熱いものが込み上げてきた。
ーー手入れされた庭園ーー
昭一は縁側に腰を下ろし、しばらく無言で庭園を眺めていた。
池のほとりに並ぶ石灯籠、四季折々の草木に彩られた景色は、かつての隆盛を今に伝えている。
「立派なもんだな……」
ぽつりと漏らした言葉は、庭というよりも、この家の歴史そのものに向けられていた。
いわゆる「近江商人」の邸宅とは趣を異にしている。江戸時代より昔、東近江は安土城や長浜城の威勢を背に商工業が栄えたが、ここは琵琶湖から東に離れた山裾の村だ。豪商が庇護する絵師や職人が住み、独自の文化を育んで発展してきた。
菱川家もその名家のひとつである。
座敷には、弓枝が季節ごとに選んだ浮世絵や花鳥図の掛け軸がさりげなく掛けられている。昭一は鑑定眼など持ち合わせないが、由緒あるものだと感じられた。
そのとき、弓枝が湯気の立つ湯飲みと急須を乗せたお盆を手にして現れた。
「そんな所じゃなくて、座敷へどうぞ」
彼は油で黒ずんだ作業着の袖を見下ろし、自嘲気味に笑った。
「俺はこのとおり油まみれでね。畳や美術品を汚しでもしたら大変だ」
縁側に腰を下ろす昭一の横に、そっと盆を置く。
「じゃ、わたしもここにするわ」
そう言ってその隣に腰を下ろした。
二人の間に漂うのは、五十年の歳月を超えて戻ってきたような、静かで落ち着いた空気だった。
――それぞれの人生――
「今日は久しぶりに弓枝さんに会えたんだ。村の揉め事は少し忘れよう」
昭一は湯飲みを手に取り、ほっと息をついた。
「いまは、ここに一人暮らしと聞いたんだが……たまには子供たちが遊びに来るのかい?」
弓枝は首を横に振り、寂しげに笑った。
「もう何年も帰ってこないわ。孫もね、もう成人したのよ」
そう言うと、作業着のポケットからスマホを取り出した。画面を開き、昭一に差し出す。
「ほら、メールは送ってくるけどね」
そこには、晴れ着をまとった孫の写真が映っていた。華やかな振袖に身を包んだ姿が、誇らしげに微笑んでいる。
「成人式のときの写真よ」
弓枝は淡々と言った。
「お祝いだけ、現金書留で送っといたわ。どうせ挨拶にも来ないからね」
明るく振る舞う声色の奥に、長年の孤独が滲んでいた。昭一は写真に目を落としながら、何とも言えぬ思いで唇を噛んだ。
ーー家制度の運命ーー
「跡継ぎの男の子がいなくなってしまった菱川家は、娘に婿をとって後を継がせることにした。当時としては、世間一般でいうところの、“幸せ”な結婚というのでしょうね。」
弓枝は言葉を切り、深く息を整えた。視線は庭に落ちているが、その瞳ははるか過去を見つめているようだった。
「十六で、親の決めた相手と結婚して……十七で子供が生まれたの」
昭一は思わず息をのんだ。
「菱川の家系を残すために、まだ16歳の娘を結婚させたのよ」
淡々と語るその声音の奥には、血を吐くような痛みが隠されていた。
それは、まだ幼さの残る少女が、家の名のために自分の未来を差し出した記憶。時代と家制度の犠牲となった生身の言葉だった。
庭を渡る風が縁側をかすめ、二人の沈黙を長く引き延ばした。
「それから間もなく、昭一さんが自衛隊に入ったって、聞いたの・・・」
弓枝の声には、遠い日の出来事を確かめるような響きがあった。
昭一はうなずき、言葉を引き取った。
「ただ、この村から離れたかったんだ。自衛隊に入れば、心を無にできる。弱い自分を鍛え直したい……そんな気持ちもあった」
そう言って、ふっと口元をほころばせる。
「俺は貧乏農家の倅だ。けど、自衛隊で自動車整備士の資格も取れた。おかげで今こうして飯が食えていける。それから、結婚して子供もできた」
湯呑を手に取り、ひと息に茶を飲み干す。茶渋がついた器の底が夕映えを映していた。
「俺も、弓枝さんも――それぞれに、ふさわしい人生だったんじゃないかな?」
昭一の言葉に、弓枝は返事をしなかった。ただ、縁側に並んだ二人の沈黙が、長い歳月を越えてもまだ寄り添うことの難しさを物語っていた。
「そうね……主人は、本当のところ、とても優しい人でした」
弓枝は遠い記憶を呼び戻すように、しばらく目を閉じた。
「入り婿という気兼ねもあったのでしょう。十六も年下の私に、兄のように接してくれました。主人は三十二歳で私と結婚し、菱川姓となりましたの。もとは“西川先生”と呼ばれて、高等学校の教師をしていた人でした」
昭一は軽く目を見開いた。弓枝は続ける。
「菱川家にはわずかの畑はありましたけれど、主な収入は田畑や家作の賃料でした。その管理をするのが家業でしてね。戦前までの菱川家は、たくさんの職人や絵師を抱えて、西川家と大きな商いをしていたそうです。両家は古くから昵懇の間柄で、私が生まれた時、すでに親同士で結婚の約束が交わされていました。その時は、歳の近い男の子に私が嫁ぐはずでしたが……」
弓枝は苦笑のように首を振った。
「菱川家は私ひとりが跡取りとなってしまった。それで、商売を継がずに教師になった西川家の上の兄が婿に出されることになったんです。下の弟は素直に嫁をもらって、西川家の暖簾を継ぎました。こうして十六歳も年の離れた夫婦が出来上がったというわけです」
その声には、恨みの響きはなく、むしろ淡い慈しみがあった。
「主人は亡くなる少し前に、私に『申し訳ないことをした』と謝ったんですよ。私は何も恨んでいなかったのにね……」
弓枝の視線は、どこか宙をさまよった。
「実家を出る時に、父親から『早く子を作れ、無駄飯喰いになるなよ』と言いわれたそうです。陣痛に苦しむ私を見て、主人はこう思ったそうです、『自分は来世は畜生道に堕ちるだろう』とね」
そこまで語ると、弓枝は小さく息をつき、掌を重ね合わせるように膝の上で指を組んだ。亡き夫の冥福を祈る姿にも見えた。
昭一は、ただ黙って、菱川弓枝の人生が紡ぐ言葉を受け止めていた。
「亡くなった菱川さん……俺には良い思い出しかないよ」
昭一は茶碗を手にしたまま、ふっと目を細めた。
「車の修理なんかで、うちをよく利用してくれたよ。エンジンの調子が悪いとか、タイヤが擦り減ったとか、ささいなことでも顔を出してくれてね。そして、『小林さんに見てもらえると安心して運転できるよ』と言って、修理代を払う時なんか、代金のほかにビール券をくれたりしてさ。あの人、えらぶったところが全然なくてね。どんな相手にも腰を低くして、笑顔で世間話をして帰る人だった」
弓枝は、黙って聞いていた。
昭一は茶を飲み干し、縁側にそっと置いた。
「……弓枝さんにも、きっとよくしてくれたんだな」
その言葉に、弓枝の表情が一瞬ゆるんだ。まるで、胸の奥にしまい込んできた思い出に、そっと光が差し込むようであった。
ーー教師と教え子の夫婦ーー
「ええ、元学校の先生ということもあってね。高校にも行けなかった私に、『君だけの家庭教師になりたい』って言ってくれたんです」
弓枝はどこか誇らしげに微笑んだ。
「主人は社会科の先生だったのだけど、数学や英語、現代国語まで教えてくれてね。物理や化学は、自分の元の職場の同僚を呼んできて、うちで講義をしてくれたこともあるのよ」
昭一は思わず吹き出した。
「そりゃあうらやましいな。俺なんかレンジャー訓練で、百キロ担いで走ってたんだ。しまいにゃ幻覚まで見えたんだぜ」
弓枝は目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「新兵さんのスパルタ教育ね―――ウチの主人の教育熱もすごかったのよ。私、赤ん坊をおんぶして逃げ出したこともあったんだから!」
二人は顔を見合わせ、笑い声が自然に重なった。
「こんな話ができる日が来るとはな」昭一が感慨深げに言った後、ふと問いかけた。
「弓枝さん、お子さんは何人いるんです?」
「三人です。でもね、だれも菱川家を継がずに、都会で就職して、それぞれ所帯を持ちました。婿取りまでしても結局跡継ぎが出来ないなんて……菱川家の運命だったのでしょうね」
弓枝の声は淡々としていたが、そこに滲む諦念を昭一は敏感に感じ取った。
「今はどこでも跡継ぎなんて、なり手がないよ」
昭一はそう言いながら、しみじみと茶碗を手に取った。二人の間に流れる静けさは、重さではなく、どこか温かな余韻を含んでいた。
弓枝は湯呑みに静かにお茶を継ぎ足しながら、ふと柔らかい声で言った。
「でもね、いいこともあったの。一番下の子が成人したとき、私はまだ四十歳だったのよ」
昭一は手を止めて耳を傾ける。
「それで主人に『大学へ行きたい』って相談したの。もうそのときまでには高卒認定試験にも合格していたから、思い切って慶応大学の通信教育、法学部に入ったのよ。そして、ちゃんと卒業できたわ」
そう言って、弓枝は座敷の鴨居を指さした。そこには堂々と、黒々とした文字の並ぶ額縁がかけられている。
「ほら、あれが卒業証書」
昭一は目を細め、ちらりとその証書を見上げた。額に収まる紙片は年月の色を帯びていたが、その輝きは失われていない。
「……立派なもんだな」
言葉少なにそうつぶやいた昭一の声には、敬意と、少しの驚きが混じっていた。
――政治の世界へ――
「その頃までには、菱川家も代替わりして、主人が当主となっていたのよ」
弓枝は少し遠くを見るように語り出した。
「私は主人を手伝いながら、村の世話役としていろいろな行事を取り仕切るようになったわ。大学まで出させてもらったおかげで、気後れせずに仕事に関わっていけたの」
茶の間に差し込む午後の光の中、彼女の言葉は静かに、しかし確かな重みをもって響く。
「それから何年かしてね、議員も二期務めたのよ」
その声は淡々としているのに、不思議と凛とした響きがあった。昭一はしばらく言葉を失い、ただ目の前の女性が歩んできた道の確かさに、感心の念を抱いていた。
――貼紙の理由――
「まだそんなに元気なんだから、議員を続ければよかったのに・・・」昭一がそう口にすると、弓枝はゆっくりと首を横に振った。
「主人がね、七十四歳で亡くなったのよ。だから三期目は辞退したの」
言葉の端に、ほんの少し影が差す。それでも彼女の声には悔いの響きはなかった。
「それからは、あまり外に出ることもなくなったけれど、世話役の仕事は続けていたわ。でも、元議員の"つて"で陳情の仲立ちをしてほしいとか、頼みごとも多くてね」
ふと弓枝は笑みを浮かべる。
「ほら、門に貼ってあったでしょう。“交渉ごとお断り”って札」
昭一は思わず頷いた。確かに玄関先に掲げられたその札が、彼女の静かな日々を守っているのだと、今さらながらに理解した。
――降伏の白旗――
「さて――不法侵入の理由は、例の駅前マーケットの件でしょ?」
弓枝はお茶をすするような自然さで切り出した。
「古くからのつきあいの人たちが、あんまりあーだこーだうるさいから、ちょっとデマを流してみたのよ」
昭一は、すでに察していた。
「菱川さんだろ、やっぱり」
弓枝は少女のように、うふふ、と笑った。
「『小林昭一さんは、こんどの村長選挙に出るかもよ』ってね」
いたずらっぽく昭一の顔を覗き込む。
「そしたら、賛成派と反対派に割れちゃったの。政治の世界で覚えた悪いやり方なんだけど……周りの人間の本心が現れるからね。菱川家に義理立てする者、小林さんにすりよる者、様子見で中立をとる人。きっちり分かれるのよ」
そして小さく肩をすくめる。
「でも、小林さんはそれをしっかりまとめ上げた。菱川弓枝は四面楚歌で、降参です」
そう言いながらも、どこか嬉しそうな表情を隠しきれない。その無邪気さに、昭一もつられて笑ってしまった。
ーーイベント改革案ーー
「でも俺は、菱川さんに政治の駆け引きは似合わないと思うよ……俺の知っている菱川さんなら」
昭一が静かに言うと、弓枝は大げさに手を合わせた。
「本っ当にごめんなさい! わたし、嫌な女になっちゃった?」
昭一は慌てず、落ち着いた調子で続けた。
「一緒に駅前マーケットやろう。村民全員で、村の子供たちに故郷の思い出を残してやりたいんだ」
弓枝の笑顔がふっと消え、真顔に変わる。
「私の思い出は、菱川家とこの村に全部飲み込まれてしまったの……そんな私を見て育った子供たちは、戻ってこないし、思い出したくもないのでしょうね」
昭一は言葉を探し、口ごもる。
「それは……ちがう。うまく言えないけど……」
弓枝はしばらく沈黙し、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ、駅前マーケットを、文化祭みたいにできないかしら?」
「文化祭?」昭一は聞き返し、すぐに顔を輝かせた。
「いいじゃないか! なんでもいい、弓枝さんが参加してくれるのなら! 明日から俺がイベントのタイトルの変更を村の全員に知らせるよ。『里山再生文化祭』でどうだい!」
その声には、未来へ踏み出そうとする確かな熱がこもっていた。
――続く――