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田中オフィス  作者: 和子
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第六十五話、里山再生文化祭(前編)

--緊急イベント発令--

夏の午後、Sセミナーの自習室。窓から差し込む光に、紙のプリントがきらりと反射していた。

その静けさを破ったのは、三つ編みを揺らしながら立ち上がった江本愛子(えもとあいこ)だった。


「なあなあ、聞いて! 今度、駅前でイベントあるんやて!」


前のめりで身を乗り出す愛子に、周りの生徒さんたちが振り返る。

「ローカル線の駅前広場やけどな、地元の農家さんが野菜売ったり、屋台が並んだりするらしいんや。

でもな、まだスペース余っとるから――高校生も“夏休み文化祭”として出店してええんやて!」


「おおっ!」と声を上げたのは、真番(しんばん)高校の筋肉番長・前田明男(まえだあきお)

「文化祭やったら模擬店やろ!? プロレス研究会の展示でもええんか!?」

興奮気味に拳を握りしめる。


「アホか。イベントにリング立てられるかいな。」

隣で冷静にツッコむのは楽浪(らくろう)高校の丹波哲(たんばてつ)。腕を組んでため息をつきながらも、目はちょっと楽しげだ。


愛子はくすっと笑った。

「いやいや、そこまで大げさやないけど……でも、ワシらがやれることで出店したらおもしろいやろ? せっかくやし手伝ってくれへん?」


そのやり取りを静かに聞いていたのは、ノートPCを閉じたアバス・シャルマ。

「土日なら空いてる。夏休みにせっかく関西まで来たんだから、あちこち見て回りたいな」と落ち着いた声で尋ねる。


愛子は勢いよくうなずいた。

「ええで! ワシの後輩も来るんや! それにな――ワシこれでも臨屯(りんとん)高校の生徒会長やからな!」


胸を張る愛子に、前田が大声で応じ、丹波は呆れ顔で笑みを漏らす。

その輪に、アバスも小さく頷いた。


――夏の駅前イベント。

野菜やキッチンカーの香りが漂う広場に、彼らの“高校生文化祭スペース”が加わることになる。

それが、この夏のちょっとした冒険の始まりだった。



ーーローカル線、途中下車の風景ーー

帝スラ前駅。

なーんにもない。道路隔てた反対側にコンビニ「ロースリーマート」があるだけだ


「ふむ……」

腕を組んでいた丹波哲が口を開いた。眼鏡の奥の目が、妙に真剣だ。


「オレはTCGバトルコーナーをやらしてもらおうかと思う。必要なのはテントと、風除けのセパレータだけや。あと机二つ。

それで十分。なにせ、おれは"TCGジャッジマスター"の資格持っとるからな」


さらりと誇らしげに言い放つ丹波。

だがすぐさま、前田明男が噴き出した。


「はあ!? お前、本気マジか!?」

両手を大げさに振り回しながら、声を張り上げる。

「こんなローカル線の駅前に――わざわざカードゲームしに来るヤツなんておらんやろ!

見てみいや、周りは田んぼと雑木林やぞ!? 朝と夕方に工場勤務の人が乗り降りするだけや! 

お前のカード大会なんか、誰がわざわざ参加するねん!」


「……フッ。」

丹波は鼻で笑った。

「お前、何も分かっとらん。どんなローカル線の駅前でも、必ず“カードプレイヤー”は潜んどるもんや。

それに、公式ルールで裁けるジャッジがおるだけで、信頼度は段違いやぞ。地方イベントで資格持ちのジャッジなんて、そうそうおらん。

つまり――需要はある!」


「需要って……」

前田は頭をかきむしり、呆れ果てたようにため息をついた。

「ホンマにそんなやつ来るんか? まあ、来たら来たでええけどな。俺は焼きそばの屋台出したる。コッチの方がずっと盛り上がると思うわ!」


二人のやり取りに、愛子は両手を叩きながらケラケラ笑っている。

「ええやん! 野菜もあるし、屋台もあるし、カードもある! バリエーションがあってこそ文化祭や!」


アバスも苦笑いしつつ、

「カード大会と焼きそば……意外と相性いいかもしれないね。勝負が終わったら腹も減るだろうし」

と冷静に付け加えた。


真夏の駅前、準備中のテントの下で、高校生たちの“文化祭作戦会議”は熱を帯びていった。



ーーロバの出迎えーー

「さて、ここから小林自動車整備工場までは、バスで1時間半かかるのよ。次のバスは……2時間後かぁ」


「おまえ、調べとけよ」と前田が愚痴る。


「ネットでも拾っていない時刻表なのよ。まあ覚悟してきたわ!……どうする、歩くか?」


そのとき、大きなスーツケースを転がして近づいてきた若者が、前田たちに声をかけてきた。彼も、どうやら高校生のようだった。


「よかったら、一緒に途中まで行きますか?ぼくはあの山の中まで行くので、親戚が迎えに来てくれる予定なんです」

スーツケースを携えている。聞いてみると、親戚の家に泊まりにいくのだそうだ。


アバス、前田、丹波、江本の4人は、思わず胸をなでおろした。自分たち4人も一緒に乗せられるとなると、ワゴン車かミニバスなのだろうと思ったからだ。


「あ、あれだ」指差す方向を見ると……なんと、銀色のリヤカーを引くロバがいる。


「……あんなの、無理やろ。だって前、引っ張ってるの、ロバ1匹やで?」と丹波が半ば呆れたように言う。


駅前までゆっくりと到着したリヤカーから降りてきたのは、作業着を着た女性らしく、さっきの高校生と何やら楽しそうに話している。


するとその女性が4人のほうに向かって、にこやかに言った。「どうぞー、乗ってください」


4人がリヤカーに乗ると、6人分の体重となり、先ほどの高校生はスーツケースを持っているおそらく500キロは超えるだろう。それでも、ロバは悠然と首を振りながら前進を始める。


「ドンちゃん、帰りましょ」


その一言で、ロバはゆっくり方向を変え、山道へと進んでいった。



ーー急がずあせらずいきましょうーー

ロバリヤカーには、誰も手綱を握っているわけではなかった。それでも、まるで自分の意思で「帰途についている」かのように、ゆっくりと進んでいく。


女性は微笑みながら自己紹介した。

「私は高柳久美子といいます。この山の奥の農業実験場で働いている研究員です」


乗り合いを勧めてくれた高校生が、少し誇らしげに話し始めた。

「僕は高柳行雄といいます。親戚というのがこちらの久美子さんで、ぼくは甥にあたります。厨子(ずし)高校の1年です。1週間、泊まり込みで最前線の農業を勉強するつもりです」


前田が顔をしかめて訊いた。

「……あんな山奥で、何作ってはるんですか?」


久美子はうれしそうに答えた。

「お米よ。それと、いろいろな農作物。最近ようやく、土が呼吸を始めたの」


アバスが思い出したように口を開く。

「――あのレンチンズの番組、僕がバイトしている田中オフィスのテレビで見ていました!」


久美子は目を輝かせ、笑みを浮かべた。

「そう、見てくれていたのね」


ロバリヤカーは変わらず、誰に指示されるでもなく、静かに山道を進んでいく。その後ろ姿を見つめながら、4人は少し安心した気持ちになった。



ーー

程なくして、ロバリヤカーは小林自動車整備工場の前に到着した。


「おじさーん! 愛子きたでー!」

先頭に立って声を張り上げたのは、姪の愛子だった。


ガラガラと工場の引き戸が開き、中から油に染まった作業着姿の小林昭一が現れる。

「おお、愛子か。さすがやな、こんな山ん中の村までよう来たな」

昭一は嬉しそうに目を細めた。


ふと視線をやると、そこにはいつものロバリヤカーと、それを見守る高柳久美子の姿があった。

久美子が軽く肩をすくめて言う。

「駅まで甥の行雄を迎えに行ったら、たまたまこの子たちがいたの。一緒に連れてきたわ。里山イベントに参加するんですって?」


昭一は少し口ごもり、頭をかきながら応じた。

「ま、まあ……とにかく中に入ってくれ」


そう言って工場の戸を大きく開き、来客たちと久美子をまとめて中へと案内した。油と鉄の匂いが漂う作業場の奥には、整備中の古いトラックが鎮座していた。

承知しました。以下、小説風にまとめました。



ーーイベントの暗雲ーー

工場の中、油の匂いがわずかに漂う作業場に腰を下ろすと、愛子が真っ先に口を開いた。


「おじさん、イベントの運営要領、ちゃんと読んだで。学生参加枠けっこうあるやん。せやから高校の後輩と、今日つれてきた同じ塾の仲間も呼んだったんよ」


自信ありげに胸を張る愛子に、小林昭一の表情が曇った。

「それがな……なんか今になって反対が出てきとんのや」


思いもよらぬ言葉に、一同は驚いて顔を見合わせる。


久美子がすぐに口を挟んだ。

「この子たち、わざわざ京都から来たんですよ。もし中止なら、ちゃんと知らせてやらないと……」


しかし、昭一は大きく首を横に振った。

「いや、やる。そのつもりでここまで準備したんや」


力を込めるように言ってから、少し声を落とした。

「ただ……農家のうち数軒が、今になって『やっぱり辞めたい』って言うてきてな。野菜販売コーナーが淋しいもんになってしまうやろうな……」


昭一の言葉に、工場の空気がしんと静まり返った。誰もすぐには返事ができなかった。

それでも、彼の決意だけは確かにその場に響いていた。



ーーみんなでやらねばーー

小林自動車工場の作業場に置かれた丸椅子の輪の中で、重い沈黙が落ちていた。

最初に声をあげたのは久美子だった。


「野菜なら、ありますよ。農業実験場の畑でも収穫できる分は十分あります。でも……村全体でやらなければ意味がないですよね」


その言葉に、昭一は眉をひそめた。

だが、愛子がすかさず前に出る。


「人手なら、うちの高校の後輩をいくらでもよこせるよ。でも、この村が主催のイベントなんやから、村全体で一緒にやらなあかんやろ?」


気持ちのこもった言葉に、昭一は押し黙るしかなかった。


すると、少し緊張した面持ちでアバスが口を開いた。

「開催日は……8月31日の日曜日ですよね。まだ開始まで余裕はありますよね。だったら、少し検討してから決めましょうよ。こじんまりとやるのも、一つの方法だと思います」


三人の意見が響いた瞬間、場の空気がわずかに和らいだ。

イベント計画の行く先に深い靄がかかっていたが、それぞれの胸には「やめる理由よりも、続ける理由」を探そうとする灯がともり始めていた。



ーー最後の思い出ーー

「8月31日はアバスが帰る日やろ」

丹波がぽつりとつぶやいた。


工場の中に一瞬、気まずい沈黙が流れる。

アバスは少し考え込んだように視線を落としたが、すぐに顔を上げて笑った。


「だからこそ、最高の思い出にしたいんだ。その日のうちに帰れればいいさ。夏季自由研究のレポートは、もう大体できてるしね」


その言葉に、皆の表情がわずかにほころぶ。無理に場を明るくしようとしたのではなく、彼の真剣な思いが伝わったからだ。


アバスはさらに前のめりになり、手を軽く打った。

「まず、反対している関係者のお宅に話を聞いてみてはどうだろう。理由があるはずだし、それを知れば解決できるかもしれない。僕らも一緒に行って、話を聞かせてもらおうよ」


その提案に、工場の空気は確かに動いた。

「なるほどな……」と昭一が腕を組み、

「そうやな、言うてみなわからん」と丹波が頷いた。


久美子と愛子も顔を見合わせる。

小さな一歩ではあったが、イベントをつなぎとめるための確かな方策が見え始めた瞬間だった。


夜も更け、工場の打ち合わせは一段落した。

「遅くなりそうやな」誰かがそうつぶやくと、自然に宿泊の段取りが決まっていった。


愛子と高柳久美子、それに行男は、山奥の古民家に泊まることにした。古びた梁と囲炉裏の残るその家は、里山の夜を体験するには格好の場所だった。


一方で、アバスと前田明男、丹波哲は小林昭一の家に世話になることになった。畳敷きの居間に布団を並べると、どこか修学旅行のような空気が漂う。


前田と丹波は、それぞれ家に電話をかけていた。受話器を置いた前田が、ふとアバスに声をかける。

「アバスは電話したか?」


「うん、もう今日は遅くなると思って田中オフィスに連絡してあるよ。心配はいらない」

アバスは頷いて笑った。今夜は代わりに半田くんが泊まってくれるらしい。


その言葉に、丹波があごをかきながら振り向いた。

「江本、お前どうすんねん」


すると江本は、どこか照れくさそうに答えた。

「ワシは高柳さんのお宅に泊めてもらうことにしたわ。あした、あんたらと一緒に帰るって家に電話した」


部屋の中に、安堵の笑い声が広がった。

それぞれの寝床が決まり、明日に備える夜がようやく静かに始まろうとしていた。



ーー感激の旨さーー

小林昭一の家に集まった一行は、簡単に夕食をとることにした。

「まあ、田舎なんで野菜くらいしかないけど・・・」と小林が口を開く。


すると横で高柳久美子が、すました顔で補足した。

「お米も、野菜も、全部私の実験農場でとれたものよ」


二人がわざとらしく澄ました顔で食卓に並べると、誰もが反応を待ち構えていた。


「ありがとうございます。いただきます!」と一番に声をあげたのは前田だった。箸をつけた瞬間、目を丸くする。

「う、うまい!こんなの食べたの初めてや!」


高柳行男ですら、箸を止めて感嘆した。

「うちのご飯おいしいって、久美子さんから聞いてはいたけど、これ程とは・・・」


小林昭一は得意げに笑う。

「こんなの序の口さ。これは普通の電気釜で炊いたものだけど、高柳さんの家では『かまど』で炊いてるんだ」


「かまど!」江本が目を輝かせる。

「かまどで炊くのってすごく手がかかって火加減が難しいんですやろ? 高柳さん、ワシ、明日早起きしますから、かまど炊き体験させてください!」


だが小林は、どこか得意そうに首を振った。

「それについては申し訳ない、俺が解決済みや。といっても、倅の槌男と邑人英二さんって人が設計したんだがな、『全自動(かまど)炊き機』を高柳さんの家に作ってあるんや」


「名前だけだと、家電メーカーの商品名みたいですけど」丹波が首をかしげる。


そこにアバスが身を乗り出した。

「それホントだよ。テレビで見たんだけど、時代劇に出てきそうな竃で、外付けの操作盤や金属配管が出ていた」


高柳久美子は口元に笑みを浮かべ、手をひらひらさせた。

「説明しておくとね、今夜お米と水を入れて蓋をしておけば、竃の火加減の調整は、燃料の木質ペレットを追加して自動で管理するのよ」


「すごいじゃないですか!」とアバスはさらに身を乗り出す。

「これ、特許とっておいたほうがいいですよ」


だが久美子は、少し残念そうに語尾を伸ばした。

「でも、竃って、マンションやアパートに置けないじゃない? 家電メーカーもパテント料払ってまで生産しようとしないでしょうねぇ~」


一呼吸おいて、すぐに表情を切り替え、声を弾ませた。

「でも昔はどこの家でも竃しかなくて、江戸時代の長屋には一軒ごとに竃があったのよ。燃料が足りなくて、燃えるものなら雑巾の切れ端でも使っていた。これも江戸の街中にゴミが落ちていない理由の一つね」


「なるほど!」とアバスが手を打つ。

「弟が落語好きで、『へっつい幽霊』って話で知りました。江戸時代はエコ時代ですね」


「うまい!」と誰かが声を上げると、全員がどっと笑い声をあげた。


野菜と米の滋味深い味と、仲間たちの賑やかな会話。小林家の夜は、思いのほか楽しく、忘れられない夕餉(ゆうげ)となった。


山里の夜は、都会人には想像もつかないほど闇が濃い。


食事を終えた高柳久美子と兄の行男、そして泊まりに来た江本愛子は、静かな星空の下、ロバのリヤカーに乗り込んだ。きぃ、と車輪の音を立てながら、ゆっくりとリヤカーは山奥の研究所兼社宅へと向かう。


「おおきに、気ぃつけて帰りや」小林昭一が玄関先から声をかける。


去っていくリヤカーの後ろ姿を見届けながら、小林はふと笑みを浮かべた。

「実はな、あのロバリヤカー、ただの骨董(こっとう)もんやないんや。車体は俺が作ったけど、中身は電気モーター駆動や。図面と電気系統は(せがれ)邑人英二(むらびとえいじ)さんが手掛けたんやで」


彼は自慢げに腕を組み、語りを続ける。

「ロバの歩みに合わせてトルクを伝える仕組みになっとる。上り坂ではロバが重さを感じんようにアシストして、下り坂ではモーターがエンジンブレーキになって安全に運べるんや」


前田明男は、心配そうに首を傾げた。

「でも帰り道、街灯もないんですやろ? 熊とか出ぇへんのですか?」


小林は、にやりと笑って答える。

「それもだいたい対策済みや。ロバは危険を感じ取って、勝手に安全な道を選ぶ。それに人間には分からんけど、リヤカーの後ろから一定間隔で木酢液やカプサイシンを薄くスプレーしとるんや。獣避けにはもってこいやで。逆にガソリンの匂い、アレな、熊の好きな匂いや」


「へぇ~!」と前田は感心し、アバスも「熊よけの溶剤を農業用ドローンで散布してもいいですね」と瞳を輝かせた。


丹波哲は腕を組み、ロバの去っていった方向を見つめながら口を開いた。

「まさか田舎のロバリヤカーに、最先端の技術が搭載されているとはなぁ。都会のIT企業のオフィスでは、こんな発想出ぇへんで」


言葉は半ば呆れ口調だったが、その声色には素直な感心が滲んでいた。

「ロバの歩調にモーターを合わせるやなんて、トルクコンバータにAIついとるんやろか?」


その一言に、場の空気がふっと和み、前田は「たしかに、都会の技術より自然との相性がいいっすね」と笑った。

小林は「せやろ、田舎をなめたらあかんで」と胸を張り、アバスも「人と動物と機械の協働……これこそ未来の形かもしれませんね」と目を輝かせる。


誰からともなく笑いがこぼれ、土間に明るい笑い声が広がっていった。


星空の下、山道をのんびり進むリヤカーの鈴の音が、遠くから微かに響いてきていた。


――高柳久美子と行男、そして愛子の笑い声を乗せながら。


承知しました。それではいただいた場面を小説調にまとめてみます。


ーー帰ってきた二人ーー

そのとき、山道のほうから低いモーター音が近づいてきた。見れば、ヘッドライトを揺らしながら電気バイクが二台、並んで帰ってくる。ハンドルを握っていたのは邑人英二と小林槌男だった。


庭先にバイクを停めると、小林昭一が声を張る。

「ご苦労さん。みんなどんな感じや?」


槌男がヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いながら答えた。

「半分は『もうやらん』って言うて、残り半分は『まあ、今年限りならやってもええ』って感じですわ。ただ、今年あんまりお客来んようやったら来年はやめるって口そろえてました」


昭一は深いため息をつき、それから隣の邑人に視線を向ける。

「邑人さんもいろいろありがとうな。こんな村のごたごたに関わってもろて」


邑人は苦笑しつつも、目は楽しげだった。

「いやいや、みんないろんな考えがあって面白いですよ。こっちも勉強になりますわ……で、この子たちは?」


そう言ってアバス、前田、丹波の三人を見やる。昭一がすかさず答えた。

「この子らはうちの親戚の江本愛子の友達や。愛子は高柳さんとこの家に泊まるって、一緒に行ったわ」


そのとき槌男が笑いながら口をはさむ。

「あそこ、虫すごいっすよ!まあ、愛子なら平気やろけどな。『ワシ、世界中どこでも寝れるねん』って豪語してましたから」


前田が思わず吹き出し、「確かに!」と言って山のほうを見る。アバスも丹波も同意するようにうなずいた。

夕暮れの土間には、ひととき、明るい笑いが満ちていった。


--政治の話--

土間に集まった面々の間に、ふと重たい空気が漂った。邑人英二がぽつりと口を開く。

「賛成派の人が口を揃えて言うのはね……『小林昭一さん、村長選挙に立候補されるんでしょ?』いうことですわ。村の世話役の菱川さん一派は、それがおもしろくないんでしょうな」


昭一は一瞬きょとんとし、それから大きく嘆息した。

「そんなん、誰が言うとんのや……。わしは『みんなで協力していくなら、なんでもやります』て言うただけや。それが、いつのまに村長選挙の話になっとるんや。こんな限界集落で、選挙で村が分断してどうすんのや。なら……おれはイベントやめるで!」


声に力がこもった。広い土間にその言葉が響くと、誰もが言葉を失った。


アバス、前田、丹波――三人の高校生は、大人たちの思惑や政治の事情を飲み込めず、ただ戸惑いの表情を浮かべていた。だが、沈黙の中で、アバスが意を決したように一歩前へ出た。


「……よそ者で、学生の僕が言うのは出すぎたことだと思います。でも、言わせてください」


みんなの視線が彼に集まる。アバスは背筋を伸ばし、言葉を選ぶように続けた。

「イベントをやめるのは、違うと思います。僕たちが見てきた限り、この村にとって、あの催しは希望そのものです。政治の世界には関わらない――そうはっきり表明するほうが、正しいんじゃないでしょうか」


その声は学生らしい、きまじめさを残していたが、不思議と揺るぎがなかった。

大人たちは顔を見合わせ、昭一もまたしばらく黙り込んでいた。


昭一はしばらく黙っていたが、やがてはっと我に返ったように顔を上げた。

「……そうやな。大人の恥ずかしいところを見せて、すまんかったな」

その声は少し掠れていたが、確かな決意が宿っていた。


「イベントと村長選挙は関係ない。それを俺自身がみんなに話すわ。それから菱川さんと直接話す。イベントの結果がどうであれ、みんなでやらなければ意味がない。それをわかってもらうまで、何度でもやってみる」


その言葉に、高校生たちの胸はじんと熱くなった。


すると、邑人英二が口を開いた。

「そうはいっても……あまり時間がありませんよね」

彼は腕を組み、考えを整理するように言葉を選ぶ。

「明日、菱川さんのところに行ってみましょう。私に考えがあります」


昭一が驚いたように目を見開く。土間に集まった者たちは、また新しい展開の気配を感じてざわめいた。



ーー早朝のインスピレーションーー

一晩が過ぎ、村は清々しい朝を迎えた。まだ夜露の残る空気の中、アバスは一人早起きして外に出る。空は群青から淡い橙へと変わりつつあり、山の端に差す光が一日の始まりを告げていた。


「……この夜明けのように、村も明るくなってくれるといいのだけど」

アバスは息を吐きながら空を見上げ、そう心の中でつぶやいた。


ふと、昨夜の邑人英二の言葉がよぎる。

「邑人さん……不思議な人だな。なんか、田中オフィスの水野さんに雰囲気が似てる。あ、そうだ」


アバスはポケットからスマホを取り出し、愛用している学習アプリ「さきがけスクエア」を起動した。画面に現れたのは、学帽をちょこんとかぶったふっくらとした文鳥、「文一」先生である。


「おはようございます、アバスくん。今日も質問かな?」

小さな目がキラリと光り、丸い体を左右に揺らしている。


アバスはすぐさま質問を入力した。

『日本の50人もいない村で、村おこしのために青空マーケットの企画が持ち上がりました。最初は全員やる気だったのですが、村長選挙が近いため、賛成派と反対派に分かれてしまい、イベントの実施がピンチです。あと2週間しかなく、全員を説得する時間もありません。文一先生、お知恵を貸してください』


文一先生はしばし目を閉じ、羽をぷるぷると震わせてから口を開いた。


「ふむふむ、なるほど。時間が限られているのですね。では、こうしてみてはいかがでしょう?」


画面に、小さな黒板が現れ、チョークが勝手に文字を書き始めた。


---


【文一先生の策】


1. 「選挙と無関係」を形にする

 村長選挙とは関係ないことを明確に示すため、イベントの運営委員長を「村外の中立の人」に頼みましょう。たとえば、大学の先生や町役場の知人など、村の政治に関与しない人物です。


2. 「二本立て」にする

 マーケットを「村全体のお祭り」と「個人出店ブース」に分けます。祭り部分(音楽や子ども向けの催し)は全員で協力。出店は自由参加。これなら“やる/やらない”を選べるけれど、イベント自体は成立します。


3. 「短期決戦型の広報」

 2週間しかないのですから、SNSや町の掲示板を活用し「村長選挙とは無関係、村を楽しむ日」と強調して宣伝します。シンプルに「お客さんに楽しんでもらう」ことに集中させるのです。


---


黒板の字が書き終わると、文一先生はくるりと羽を広げた。

「すべての人を説得する必要はありません。中立の仕組みを作って、“やりたい人がやれる環境”を整えればいいのです。そうすれば、村は分断ではなく、多様性としてまとまることができますよ」


アバスは目を見開いた。なるほど、無理に全員を巻き込む必要はない。大切なのは「村を楽しむ」という一点を守ることだ。


「ありがとう、文一先生……」

アバスは小さく頭を下げた。スマホの画面の中で、文鳥の先生は満足げに「ピイ」と鳴いた。



ーーアバス計画の発表ーー

夜が明け、朝の澄み切った空気が漂う食卓で、アバスはレポート用紙を胸に抱えながら立ち上がった。今朝「文一先生」からもらったAI回答を写したものだ。


「みなさんに発表したいことがあります。AIで作られたものですが、参考になればと思います」


前田と丹波、大人たちの視線が彼に集まる。少し緊張しながらも、アバスは自分の設問と文一先生の回答を、しっかりとした声で読み上げた。


――『白か黒かではない、中立の立場を用意することが解決の糸口になる。』


読み終えると、しばし沈黙が流れた。大人たちは顔を見合わせ、高校生たちは意味を噛みしめるように頷いた。


すると、邑人英二が椅子を引いて立ち上がり、ぱちんと手を叩いた。

「すばらしい。アバスくん、ズバリ賞ですよ。『中立』こそ、私の考えのポイントでした」


その言葉に場が和み、アバスの顔に少し笑みが戻る。邑人は湯飲みを持ち上げ、一口すすってから語り始めた。


「では、私の作戦をお知らせしましょう。――青空マーケットを、政治と切り離した“第三の場”として立てるのです」


皆の視線が一斉に集まった。邑人は静かに続けた。


「具体的には、イベントの運営を“村の子どもたちと若者”に委ねる形にするんです。規模は縮小せざるおえませんがね、村の未来を担う彼らの活動に、大人は実行委員ではなく協力者として参加する。これなら賛成派も反対派も『子どもを応援する』立場になれる。選挙の争点ではなく、村の教育や未来のための活動と位置づければ、誰も表立って反対はできません」


小林昭一が「なるほど……」と低くうなずく。


邑人はさらに言葉を重ねた。

「そして“中立の場”として、収益の一部を村の共有基金に回す仕組みをつくりましょう。賛成派も反対派も恩恵を受ける形にすれば、誰も損はしません。大人たちが意地を張るより、子どもたちに恥をかかせる方がよほど悪い。そう考えてもらえば、きっと歩み寄れるはずです」


アバス、前田、丹波の三人は顔を見合わせた。自分たちが中心になる――それは大きな責任だが、同時にわくわくする挑戦でもあった。


「……なんか、すごいことになってきたな」前田がつぶやき、丹波が腕を組んで「おもしろいやん」と笑った。


アバスは拳をぎゅっと握りしめた。

「僕たちにできることなら、全力でやります!」


その言葉に、大人たちの顔に希望の色が差した。



ーー舞台の再構築ーー

邑人英二は、食卓の地図とレポート用紙を手元に置きながら、みんなの顔を順に見回した。


「あとで愛子くんが来てから、彼女の生徒会に協力をお願いすることになるだろう。村の子供たちは二十人くらい。大部分は小中学生だから、どうしても高校生のサポートが必要になる」


アバスたちは黙って聞き入っていた。邑人は続ける。


「出し物は輪投げ、金魚すくい、ザリガニつり……食べ物はわたあめとか、オーブントースターで焼いたマシュマロくらいだろうな。素朴でいい。あまり風呂敷は広げないで、概要だけ持っていく。そして――野菜の販売は高校生グループに任せよう」


前田が「なるほど」とつぶやき、丹波が「まあ、できそうやな」と腕を組む。


邑人は一呼吸置いて、声を落とした。

「そして、肝心のところだ。委員長を誰にお願いするか。……これは菱川さんに頼む」


昭一が思わず眉をひそめる。「菱川さんに……?」


邑人は頷いた。

「そう。大人が説得に行くより、若い君たちが『村の子供たちが楽しみにしている、その笑顔が見たいんです』と頼んだ方がいい。菱川さんは大人だから、後ろにいる村の有権者たちの顔を思い浮かべる。村長選も近い。となれば、“先の思惑”も働いて、結局は大人の対応で『いいでしょう』と引き受けてくれるはずだ」


「ただし」邑人は指を一本立てた。

「菱川さんを動かすには、彼のまわりにいる菱川派の人たちへの根回しも必要だ。……ここは大人の仕事になるが、子どもたちの声と合わせて二重の説得になる。そうすれば、流れはつくれる」


その場に漂っていた緊張が、次第に現実味を帯びた期待へと変わっていった。


アバスは思わず声をあげた。

「すごいですね……。でも、失礼ですけど、大人のやり方ってけっこういやらしいですね」


一瞬場が静まり返る。だが邑人は肩をすくめ、苦笑した。

「ありがとう。それはほめ言葉として受け取っておくよ」


昭一は小さく笑い、前田と丹波は顔を見合わせた。政治の駆け引きの裏にある“計算”を垣間見たようで、どこか背筋が伸びる思いがした。


ーー文一のアドバイスーー

「あれ、スマホを切り忘れたかな?」

アバスがポケットに手を入れると、軽やかな声が聞こえた。


「ワンポイントアドバイスである~!」

文鳥の文一先生の声だ。学帽をちょこんと傾けた姿が、スマホの画面に浮かび上がる。



――「今回は、日本史からの教訓を一つ紹介しよう。鎌倉時代の大事件、承久の乱である。


後鳥羽上皇は幕府を打倒しようと挙兵し、西日本を中心に多くの武士を味方につけた。一方、鎌倉幕府側の武士たちの心は揺れていた。というのも、彼らの主君はかつて仕えていた朝廷に逆らうことになる。『天皇や上皇に弓引くなどあってよいのか』――そう思った者は少なくなかったのだ。


このとき前面に立ったのが、尼将軍と呼ばれた北条政子である。政子は御家人を前にして演説を行い、こう訴えた。『これは幕府のためだけではない。頼朝公以来、皆で築いてきた武士の世を守るための戦いである。ここで上皇に従えば、我らの地位も恩賞もすべて失われる』と。


この言葉は揺れる御家人たちの心をまとめ、彼らを一致団結させた。結果、幕府方は西国へと大軍を送り、承久の乱は鎌倉方の勝利に終わったのである。


つまり、分裂しかけた勢力を強いリーダーシップと明快な理屈でまとめ上げ、共通の目的に意識を向けさせた――これこそが勝利の鍵だったのだ」


「承久の乱(西暦1221年)の語呂合わせは、"心を一つに(12)、二人(2)の遺(1)志"。朝敵のレッテルを貼られ、鎌倉の武士団の結束が崩れようとしていた。このピンチに、鎌倉幕府の未来を託された政子が、亡き夫の遺志を伝えて巨大な武士団を一つにまとめた、北条政子と彼女に寄り添う源頼朝の影をイメージすると覚えやすいかもよ」


アバスは画面を見つめ、自然と頷く。

「なるほど……村のイベントでも、政治の対立を脇に置いて『子どもたちの笑顔』を共通の目的にすれば、みんなまとめられるわけか」


文一先生は首をかしげ、ふわりと羽ばたく。

――「そのとおり!時代は違えど、人の心理は変わらない。中立的な立場で、全員が参加しやすい状況を作るのがポイントである~!」


アバスはスマホを握りしめ、決意を新たにした。

「邑人さん、小林さん、今日中に菱川さんに提案しましょう。子どもたちの笑顔のために!」



--歴史の勉強--

その一方で、江本と高柳久美子、そして行男は、今しがたロバリヤカーで小林自動車整備工場に到着したばかりだった。

高柳久美子は「今朝竃で炊いたご飯、おにぎりにして持ってきたわよ。みんなで食べてね」朝食はまだだったので、育ち盛りの3人は飛びついた。

「さきどり・スクエア、こんなことにも使えるんやな」

これまでの経緯をアバスたちから説明されて、江本愛子はスマホの中で、グニグニ動く文一のイラストを見つめて感心していた。


「承久の乱の語呂合わせは、“心を一つに(12)、二人(2)の遺(1)志”。

―――このピンチに、鎌倉幕府の未来を託された政子が、亡き夫の遺志を伝えて巨大な武士団を一つにまとめた……北条政子と、彼女に寄り添う源頼朝の影をイメージすると覚えやすいかもよ―――」


スマホの画面で、文一先生のアバターが得意げに指を立てる。

その解説を聞いた江本愛子は、ふいに目頭を押さえ、ついに声をあげてしまった。


「うおぉぉぉんっ! 夫婦愛が伝わってくる……! 朝からエエ話やなぁ……。ワシ、もう一個おにぎりもらうわぁ……!」


その姿は涙か雄叫びか判別できず、場の空気が一瞬止まる。


すかさず前田がツッコミを入れた。

「ホントに泣いとんのかい!お前もう朝飯食べて来たんやろ! 喰いすぎやで!」

前田は慌てて自分のおにぎりを確保しようとする。


周囲からどっと笑い声が広がり、シリアスな歴史談義の余韻が、温かくコミカルな雰囲気に包まれていった。



ーー私がもうオバサン?ーー

高柳行男は、初めて会う邑人英二に丁寧に挨拶する。

「高柳行男といいます。久美子さんの甥にあたります」


邑人英二は軽く会釈して言った。

「なるほど、高柳久美子さんは君のおばさんにあたるわけか」


久美子はちょっと眉をひそめて口を挟む。

「は~、その『オバサン』って呼ばれるのがイヤだから、久美子さん、もしくはお姉さん、というのが今回のお泊り条件だったのよ」


邑人は少し恐縮したように頭をかく。

「それは失礼しました。じゃあ、久美子お姉さんと呼ぶようにしますよ」


すると久美子は笑いながら言い返す。

「邑人さんのほうが、オジサンでしょ!」


その場はたちまち笑いに包まれ、初対面の緊張もすっかり和らいだ。

そのあとも、邑人の目は自然と行男に向けられていた。


「高柳行男くんか……おもしろそうな子だな」


声に出したのはそこまでだったが、心の奥では別の思いを抱いていた。

行男は特段、個性の強い学生には見えない。アバス、前田、丹波、江本――そんな個性派たちに隠れて、どうしても目立たなくなってしまう。


しかし邑人は直感的に感じていた。

(行男くん……君の潜在力はかなりのものだよ。まだ眠っているだけで、いざというときには……)


その眼差しは、師匠が弟子に向けるものにも似ていた。

行男自身は、まだそのことに気づいていなかった。



ーーイベント会場で会いましょうーー

バス停に並んだ愛子たち4人組は、去り際にそれぞれの思いを残した。


「昭一おじさん、ええ知らせ待ってるで。ワシ、後輩らに声かけとくよってな!」

愛子は拳を軽く突き上げ、頼もしさを見せた。


アバスは真剣なまなざしで邑人英二に向き直る。

「邑人さんの作戦、きっとうまくいきますよ。イベント当日は、かならず参加させていただきます」

その瞳には、異国にルーツを持つ彼なりの責任感が宿っていた。


丹波はやや緊張した面持ちで前に進み出ると、声を張った。

「ゲームコーナーの隅っこでいいんで、カードバトルのスペース作ってください。子供たちにTCGの楽しさを伝えたいんです。これは魂の伝承です!」

邑人は思わず笑い、そして力強く彼の手を握り返した。


「ええやないか。魂ごと伝えてやれ」


最後に前田が一歩進み出る。

「プロレスのリングはもう用意せんでもいいけど……野菜売り場は絶対手伝わせてください」

その誠実な願いに、邑人もまた深くうなずき、固く握手を交わした。


バスの扉が閉まり、4人の笑顔が車窓の向こうへと遠ざかっていく。邑人と小林親子はしばし見送ったあと、当初の計画どおり、反対派の人々のもとへと足を運んだ。


心配の種はただ一つ――「小林昭一が、村長選挙に出るのではないか」という噂であった。その疑念を一つひとつ解いてゆくうちに、住民の表情はやわらぎ、理解を示す声が次々と返ってきた。


「最初は集客に利用されるだけやと思っとったんやけどな……子供たちに故郷の思い出を残すいう、大事な目的があったんやな。是非やらしてください。菱川さんも、きっとわかってくれるわ」


そう言って背中を押してくれる者もいた。


邑人は静かに胸の奥で頷いた。――この祭りは、ただの集客イベントではない。未来に残す「物語」そのものになるのだ。



ーー最後の砦ーー

いよいよ、残るはただ一人――菱川ただ一人となった。


夕暮れの空気をまとった坂道を歩きながら、小林槌男がぽつりと言った。

「ここまで来たら、一人の反対者もなくイベントができるといいですね」


その言葉に、隣を歩く昭一がすぐさま首を振った。

「そんな簡単なもんやないで」

短くも重たい声だった。


邑人英二は両手をポケットに入れたまま、少し考え込むように歩みを緩めた。

「そうですね……正直、予想以上に反対派の説得が進んでしまいました。ある意味、誤算です」

彼は視線を先に向ける。そこには菱川家の高い黒塗りの門が見えていた。


「たぶん、もう誰かが菱川さんに『イベントに協力しましょう』と連絡しているはずです。人は自分の守りが崩れてくると……かえって頑なに門を閉ざすものですよ」


その言葉が終わると同時に、三人は門の前に立った。重厚な黒塗りの門は、沈黙そのもののようにそびえている。その表面に一枚の貼り紙が目に入った。


『交渉事、お断りします 菱川』


墨痕鮮やかな文字が、冷たい夜気よりも鋭く胸に突き刺さった。


槌男が思わず息を呑み、昭一は黙り込む。邑人は、静かに目を細めた。

――やはりここが最大の難関か。


このあと、菱川邸にどうやって切り込むか

ーー続くーー


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