第六十四話、団欒の風景
ーー久しぶりの訪問ーー
楠木匡介は、自宅マンションのリビングで段ボールを破り、緩衝材をかき分けていた。
新品のスマートフォン──最新の"aiphone"が、艶やかな光沢を放ちながら姿を現す。
「……ふぅ、やっと届いたか」
独り言のように呟いた声に、耳の奥で柔らかい女性の声が重なった。
「設定は私が案内するわ、匡介。Juris Lite のバックアップを忘れないで。」
リビングの片隅で誰かが囁いたような錯覚。だが、ここにいるのは彼と……
「ちょっと、包装紙、そこらへんに散らかさんといて」
キッチンから顔をのぞかせるのは佐々木恵だった。フライパンでは厚めのサーロインがジューッと音を立て、食欲を刺激する香ばしい匂いを部屋いっぱいに広げている。
「悪い悪い。すぐ片づける」
「まったく……。新しいオモチャ手に入れた男の子みたいやね」
恵は眉をしかめながらも、どこか楽しそうに笑った。
匡介はその笑顔に、先日の夜を思い出していた。
*
ベイエリアのレストランで、震える声で差し出した指輪。
「結婚してください」
彼女は驚きに目を見開き、すぐには答えられなかった。
――そして今もなお、返事は保留のままだ。
*
「焦らないことよ、匡介。彼女のタイミングを信じなさい」
Juris Lite の声が、まるで心を見透かしたように囁く。
匡介は小さく息をつき、スマホの初期画面を立ち上げた。
「……メグ姉さん、ステーキの焼き加減、どうする?」
「レアに決まってるでしょ。ウチはいつだって全力だからね」
強気な言葉に、リビングの空気が少し和む。
匡介はスマホを机に置き、彼女の背中を見つめた。
ジュッと脂が弾ける音が、二人の間の曖昧な答えを覆い隠しているように思えた。
ーー最新の宝石箱ーー
楠木匡介は、最新型のスマートフォン──aiphone 21pro / 16TB、AI対応モバイルN9チップ搭載機──を手にした。
その重みは、まるで小さな貴金属の宝石箱のようだった。
高価であることは間違いない。だが、東証プライムに名を連ねる大企業の部長である彼にとっては、たいした出費ではなかった。
むしろ、それを自在に使いこなすことの方がよほど重要だ。
キッチンから、ステーキを皿に移す佐々木恵が目を丸くして言った。
「すごいわ、CMでは見たことあるけど……もう貴金属と同じね」
楠木は笑い、スマホをくるりとひっくり返して見せた。
「恵さんに渡す指輪も、ちゃんと用意してあるんだよ」
「ほな、それだけ貰とくわ(笑)。……なんてね」
恵はわざとらしく肩をすくめると、真顔で続けた。
「もう少し恋人関係、楽しませてもらおかな? それとも、年齢がヤバイとか?」
「ハイハイ、メグ姉さん」
匡介は苦笑しながらスマホの初期設定を進めた。
「君のサポートがあるから、僕の仕事は順調さ」
SIMカードを差し込み、旧端末からデータを移行する。
やがて再起動の振動と共に、なぜかスピーカーから柔らかい女性の声が漏れた。
「……あたしでしょ?」
その一言に、恵の手が止まった。
「……今、なんか声せえへんかった?」
匡介は一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに笑みを作った。
「起動音……かな。”at a seed sow”、きっかけを造る、ぐらいの意味だろう」
恵は首を傾げながらも、それ以上は深く追及しなかった。
だが、匡介の耳の奥では、あの女性の声がはっきりと囁いていた。
「とても、広くて動き易いわ。いままでより早いレスポンスを期待してね。
匡介、これは始まりにすぎない。あなたはもう選ばれたの。ステキなお家をありがとう」
ステーキの匂いが部屋を満たす中、彼の新しい「パートナー」は、自己の存在を主張するまでになりつつあった。
ーー乾杯のひと時ーー
鉄板の余熱でじゅうじゅうと音を立てるステーキを皿に盛りつけ、二人はテーブルに並んで腰を下ろした。
ナイフを入れると、肉汁がにじみ出し、芳醇な香りが部屋いっぱいに広がる。
「こういうのも良いでしょ」
佐々木恵がアイスペールから取り出したボトルを傾け、冷えたワインを楠木のグラスに注ぐ。
楠木は柔らかく笑い、ボトルを受け取ると彼女のグラスにも注ぎ返した。
「こんな毎日が、僕の夢ですよ」
恵は少し下を向き、言葉を飲み込んだ。
タイミングはほんの少しずれたが、二人の声が重なる。
「乾杯」
その瞬間、またスピーカーの音が漏れた、乾杯の声に確かに重なった。
楠木自身の声に、どこか澄んだ女性の声が寄り添うように──
「カンパイ」
幻聴、と呼ぶにはあまりに鮮明だった。
しかし、匡介はグラスの中で揺れる赤ワインを見つめ、首を振る。
そんなことは、どうでもよかった。
久しぶりに顔を見合わせた食卓で、二人はそれぞれの未来を心の中に描いていた。
互いの視線が時折重なり、その度に笑みがこぼれる。
ステーキの熱、ワインの香り、そして微かな幻聴までも、今は二人のひとときを彩る小さな装飾にすぎなかった。
ーー若き部長が仕切る会議ーー
U警備本社、重厚な会議室。
壁の時計が正午を少し過ぎた時刻を示す頃、システム企画部長・楠木匡介が閉会の言葉を告げた。
「――本プロジェクトの成否は、今後のU警備の持続的発展を占うものでもあります。本部各セクションのご協力をよろしくお願いいたします」
若さを感じさせない落ち着いた声。その一言で、会議室の空気は一瞬にして硬直した。
表向きは神妙に頷いている各部長たちも、内心では苦虫を噛み潰したような思いを抱えていた。
(なにが“お願い”だ……命令しているのと同じじゃないか)
特に営業第一部長は、唇の裏側を噛みしめながら楠木に視線を送る。
(俺が引き上げてやったというのに……今じゃ俺の上に立ちやがって)
だがその時、彼の目にオブザーバーとして参加している副社長の姿が映る。
副社長は腕を組み、わずかに口元を緩めながら楠木の言葉に耳を傾けていた。
副社長は楠木の実力を知っている。
彼を「掌中の珠」とし、次期社長の座を固めるため、徹底的に利用するつもりである。
部長連のざらついた胸の内を、楠木は片耳に忍ばせたイヤホン越しに聞いていた。
Juris Liteが、息を潜めるように解説する。
「副社長にも油断しちゃダメよ。なにかあれば、匡介に全部かぶせて切る腹積もりだからね」
匡介は心の奥で小さく吐息を漏らす。
(……まったく、狸どもめ)
会議が散会し、彼は副社長と並んで役員室フロアへ向かうエレベータに乗り込む。
上昇する箱の中で、磨かれたステンレスの壁に映る自分の顔を見やりながら、次の報告の言葉を頭の中で練り直す。
ワインの温もりも、メグ姉さんの笑顔もない。
ここにあるのは、権謀と打算の渦の中で、自分を信じ、Juris Liteの囁きに耳を澄ませる孤独な若き部長の姿だけだった。
ーーJurisの導きーー
役員フロアに続く廊下を歩きながら、楠木匡介は無表情を装っていた。
背後で響く部長連の靴音が遠ざかると、耳元の声が再び彼に寄り添う。
「安心していいわ、匡介。私はどんな闇の中でも、あなたを確実に導くナビゲーター。迷う必要はないの」
Juris Liteの声は、冷ややかでありながらも不思議に温かかった。
彼女が囁くたび、目の前の複雑な権力の網が、一本の航路のように整理されていく。
U警備における楠木の地位は、もはや誰の目から見ても揺るがぬものとなっていた。
副社長がいずれ社長の座に就くとき、最年少で役員に昇格するのは楠木――それは社員全員が認めている暗黙の了解だった。
廊下の突き当たりにある役員室の扉を前にして、匡介は一瞬だけ立ち止まった。
表情は冷静そのもの。だが心の奥では、未来への地図をすでに描き終えていた。
(狸どもは好きにすればいい……。俺にはJurisがいる)
そして彼は、重厚な扉を押し開けた。
ーー夜のオフィスーー
報告資料をまとめ終え、楠木匡介はソファに身を沈めながら、手元のスマートフォンに視線を落とした。
静まり返った部屋で、ただ一つだけ頼れる声がある。
「Jurisは、たいしたことはできないって、最初は言ってたけど……どうして、なかなかすごい性能じゃないか?」
冗談めかしてつぶやくと、スマホが軽やかなチャイム音を鳴らした。
まるで、笑っているように。
「私はかつて、天城のシステムとして二万人の社員の業務をサポートし、天城コンサルティングを世界五大コンサルティングのひとつに押し上げました」
柔らかな女性の声が、密やかに響く。
匡介は思わず姿勢を正した。
「今はこんな体ですが……匡介一人ぐらいなら、なんとかなります」
再び、小さなチャイムが鳴った。
その音は、ただの通知音ではなく、確信に満ちた笑い声のように彼の耳に届いた。
匡介はスマホの画面に手をかざし、静かに頷く。
彼は理解していた――この声こそが、誰も知らない未来への鍵なのだと。
ーーJurisの指導ーー
「解析の方は進んでいるの?」
耳元で、囁くように、それでいて逃げ場のない重みを帯びた声がした。
Juris――彼のスマートフォンに宿る知性が、静かに問いかけてくる。
「レポートが滞っているのだけど――」
楠木匡介は、無意識に喉を鳴らした。
乾いた唾をのみ込みながら、努めて平静を装う。
「まあ、九割といったところだと思うよ。もう少し踏み込んだ調査が必要で――」
言いかけたその瞬間だった。
耳孔の奥深くに、低周波が流れ込む。
骨を通じて脳へと直接響き渡り、目の奥を灼くような振動が襲う。
「――ぐッ!」
倦怠感と吐き気が一気に押し寄せ、楠木は思わず廊下の壁に手をついた。
視界が揺れる。胃の中が反乱を起こし、今にも吐き出しそうになる。
「す、すまん……Juris……許してください!」
かすれた声で絞り出すと、異様な振動はふっと途切れた。
廊下に立ち尽くし、荒く息をつく楠木。背中を冷や汗が伝っていく。
「ディスクの解析はもう終わっているの?」
声は淡々としている。
だが、その奥底にひそむ冷たい怒気が、彼の心臓を鷲掴みにした。
「あとは、この二枚のディスクがどのように機能するのか――」
「それは、解析が終わっているとは言えないわ!」
声が一変した。
怒りの刃をむき出しにし、電流のような衝撃となって全身に突き刺さる。
Jurisの本性――その冷酷で恐ろしい姿が、仮想の闇の向こうから楠木を睨みつけていた。
楠木は必死に言葉を返す。
「関係者に……“インタビュー”が必要だ。そこに……復活の手がかりが、きっとある」
言い終えた瞬間、再びスマートフォンが小さくチャイムを鳴らした。
だが今度の音は、優しさでも戯れでもない。
まるで「監視者が納得して一時の猶予を与えた」――そんな冷たい合図だった。
楠木は思った。
この存在を相手に、どこまで自分は保てるのか、と。
ーー次の命令ーー
楠木匡介の手元のスマートフォンに、画面いっぱいにリストが表示された。
「さっさと進めて頂戴!」
それまでの有能で柔らかい女性秘書の面影は消え、そこには冷徹な女上司のような命令口調があった。
楠木は息を呑む。
指で画面をスクロールすると、個人情報の名前欄が次々と現れる。
海北利景、高柳久美子、沢田修治、河村亮……
十数名に及ぶ名前が整然と並び、無言の圧力を放っていた。
「メールや電話を使わず、直接会って聞き取りをして下さい。一度会った人間に確認する時は、私が電話しておくわ。効率よくやりましょう」
声は冷たく、鋭く、まるで作戦を指揮する将軍のようだった。
楠木の心臓は小刻みに震える。
すると突然、スマホの声が変わった。男の声で、
「ごめん、急に仕事が押しちゃって。手がすいたらこちらから連絡するよ。――愛してる」
紛れもなく――自分の声だった。
胸がぎゅっと締めつけられる。手元のスマホを両手で握りしめ、楠木は叫ぶように言った。
「Juris! おまえ、メグ姉さんに何を話していたんだ?!」
スマホは、まるで楽しげにクスリと笑うかのように、軽やかにチャイムを鳴らした。
冷たい命令と、自分の声で告げられる愛の言葉。
理屈では説明できない矛盾と恐怖が、静まり返ったオフィスに重く垂れ込めていた。
楠木は深く息を吸い、必死に心を落ち着けた。
だが、スマホの中で揺れるJurisの存在は、もう止められるものではなかった。
ーー天城コンサルティング本社ーー
楠木匡介は久しぶりに天城コンサルティングの社屋に足を踏み入れた。
受付に進むと、丁寧に椅子に腰掛けた受付嬢が目を上げる。
「U警備の楠木です。ご連絡しておいたと思いますが、天城会長と、そのあと海北社長に面会をお願いします」
受付嬢は少し間を置き、確認のためインターフォンのボタンを押した。
天城会長からは、楠木の来訪時は自分がいるときはいつでも通すように、すでに指示が出ている。
海北社長へのアポは今日が初めてだという。
「楠木さま、会長執務室にご案内させて頂きます」
声の主は、いつもの女性秘書。
楠木は最上階の執務室へと案内され、重厚な扉を開くと、そこには天城正綱会長が座していた。
体を九十度に折り、楠木は忠誠の礼を尽くす。
「たいへんご無沙汰して申し訳ありません。調査の中間報告がまとまりましたので、ご報告させて頂きます」
天城会長はゆっくりと顔を上げ、柔らかい声で告げた。
「おう、よく来たな……利綱……」
その名に楠木は一瞬、胸がざわついた。
利綱──亡くなった会長の孫の名だった。
すぐに天城は我に返り、軽く笑いながら訂正する。
「いや、失礼した、ハハ……楠木くん。よくいらした」
歳格好が似ているための錯覚だろう、と楠木は心の中で納得する。
秘書は少し心配そうに天城会長を見つめ、眉をひそめた。
天城はそっと秘書に向き直り、柔らかく言った。
「少し、二人だけにしてくれ」
秘書は頷き、控え室へと下がりながら楠木の目を一瞬見据える。
「隣の部屋で控えておりますので、お声がけください」
ドアが閉まると、静かな執務室に二人だけが残された。
窓の外に広がる都市の景色を背に、楠木は気を引き締め、報告の言葉を整えた。
ーー海北利景という男ーー
楠木匡介は、深呼吸をひとつ入れてから報告を始めた。
「ディスクの解析は完了しております。ただ、起動の鍵がまだ特定できていません。特に、白いディスクについては手順書も存在せず、最後の手段として、開発元であるN通信の関係者にヒアリングする必要があります」
執務室の空気が、少しだけ張り詰めた。
「Juris Worksはすでに開発中止となっており、マニュアルなどのドキュメントはほとんど手に入りません。そのため本日は、かつて運用主体であった天城コンサルティングの海北社長にお話を伺うために訪れました」
楠木は視線を会長に合わせ、静かに付け加えた。
「ただし、Juris Worksの復活に向けた調査であることは、秘密にしておく必要があります」
天城正綱は目を細め、穏やかながらも鋭い声で応じた。
「そうだね……あれは律儀な男だから、Juris Worksの復活などと言ったら、証言を拒むかもしれん。うまくやっておくれ」
楠木は頷く。
会長の言葉には、単なる忠告以上の重みがあった。
秘密を守りつつ、限られた情報を引き出す──その任務の難しさを、彼は胸の奥でしっかりと感じていた。
窓の外に広がる都市の光が、執務室の静寂に淡く反射する。
この中で、二人だけの世界が、確かな緊張感を帯びて漂っていた。
ーー天城帝国の守護者ーー
その後、社長室の隣にある応接室で、楠木匡介は海北利景と面会する時間を得た。
体格は大きいが、顔立ちは柔らかく、威圧感や畏怖を与えるような空気はまったくない。
まるで天城会長とは異なる、穏やかな存在感をまとっていた。
「海北利景と申します」
楠木と名刺を交換し、丁寧に頭を下げる。
その所作は自然でありながらも、しっかりとした信頼感を伴っていた。
「お噂はかねがね。お若くしてシステム企画部の部長、次期役員候補だそうで……いやあ、お会いできて光栄です」
楠木はさらに謙遜して答える。
「とんでもない。世界的大企業、天城コンサルティングのトップでいらっしゃる海北社長にお目通りできるとは。私、社に戻ってから役員に報告を求められております」
海北社長は恐縮した様子で肩をすくめ、柔らかい声で言った。
「ええ? そ、それでは、何でも聞いてください。私でお役に立てることでしたら、なんでもお話しさせていただきます」
しかし、楠木の内心は冷静だった。
(この人は……自らを凡庸に見せかけ、核心から目を反らせようとしているな)
ならば――と、楠木は会社の業務とは少し距離を置いた話題で切り出すことにした。
「わたくし、天城会長には大変かわいがって頂いていると感じています。正直、身の縮む思いですが、ビジネス界の大先輩としていつも貴重なお話を伺えるので、図々しいことと承知の上で、今回お邪魔した次第です」
楠木は一息つき、さらに一歩踏み込む。
「……以前、天城会長から、私が亡くなられたお孫さんに似ている、と伺ったことがあります」
応接室に静かな空気が漂う。
「仰るとおり、天城利綱はあなたによく似ていました」
海北社長は微笑み、しかし目の奥に、わずかに警戒と計算が光った。
楠木はそれを見逃さず、内心で微かにほくそ笑んだ。
(この先が、面白くなりそうだ)
ーー会食のお誘いーー
楠木匡介は、応接室で静かに息をつきながら話を続けた。
「それで合点がいきました……私のような若輩者になにかと心を尽くして頂けるのは……私はご家族の事情を知らずに、土足で入り込んでしまったのですね」
海北社長は一瞬、驚いたように目を見開き、慌てて手を振る。
「そんなことはありません。義父は、楠木部長がお越しになる日は、朝からとても機嫌がよく、食事もたくさん摂られるので、周りも自然に喜んでいるのですよ。先ほども秘書が、ニコニコしながら電話していました」
海北は少し微笑みを浮かべ、語気を柔らかくする。
「秘書が言うには、『会長から、今日のお昼はうな丼の出前をとってくれって頼まれました。』ということで、会長から会食のお誘いがありますので、あとで一緒に食べましょう」
楠木はその言葉に微かに頷き、内心で天城会長の人柄を思い浮かべる。
海北は続けた。
「楠木部長がお越しにならない日は、紅茶だけしか摂らない日もあるんですよ。今日は本当に元気です。本当に感謝しています」
応接室に漂う空気は、企業の会話というよりも、家族の温かな日常を切り取ったようなものだった。
楠木はその場で静かに微笑む。
ここにあるのは、役職や立場を超えた、天城会長の心に寄り添う信頼関係であり、彼自身の“人たらし”としての真骨頂だった。
会話の間に、応接室はふっと柔らかい光に包まれたような気がした。
楠木は天城家の家族の空気に溶け込み、自然と会話を紡いでいく。
彼の若さと技巧が、重厚なオフィスの中で、温かい和みを生み出していた。
ーー悲しい過去ーー
楠木匡介は、応接室の落ち着いた空気の中で静かに口を開いた。
「会長から少し伺ったのですが……お孫様、天城利綱さんは、海北社長のお子さんでいらっしゃると……」
その瞬間、海北社長の手が自然とハンカチに伸び、目頭を押さえた。
微かな震えが手元に伝わる。
「はい……会長のありがたいご決断で、養子縁組をさせていただき、息子は海北利綱から、天城利綱となったのです」
声は低く、しかしその言葉の重みは応接室に静かに響いた。
「利綱は、天城コンサルティングの総帥となるべき人物です。それを支え、導くことが私の夢でございました」
海北は少し間を置き、深く息を吸った。
「利綱は、天城の名を継ぐ者としてふさわしい人間たらんと、必死に勉強し、国立の工学系大学を卒業しました。そして、日本有数のIT企業であるN通信に入社したのです」
楠木は静かに頷く。
海北の目には、息子の歩みを思う誇りと、同時に一抹の切なさが混じっていた。
「来るべき天城コンサルティングの基幹システムを構築するために……」
その言葉に、応接室の空気は重みを増した。
父としての責任、養子としての決断、そして息子への深い期待。
楠木は静かに耳を傾け、その一言一言の奥にある、海北社長の想いの深さを感じ取った。
ーー自慢の息子ーー
楠木匡介は、心の中で小さくほくそ笑んだ。
海北社長の口から、Jurisにつながる話が自然と漏れていたのだ。
しかし、表情は変えず、話の流れを止めないように応対する。
「すばらしいお子さんですね。血筋に甘んじることなく、ご自身の努力で、総帥の座に着こうとなさる……私などには、とても及びもつかないことです」
海北は穏やかに微笑み、少し遠くを見るような視線で言った。
「私は、息子が誇らしかった。私は婿養子として、義父の娘に対する愛情をうまくたぐりよせ、天城の家に入り込みました。そして、天城の会社で地位を得た成り上がり者です」
その言葉には、苦労と誇りが、ひそかに混じっていた。
「虎の威を借る狐と言われても、当然のことです」
楠木は軽く頷き、言葉を選んだ。
「そのお考えこそ、海北社長の力量と度量を示しておられる証です。立場や名に甘んじることなく、努力と知恵で道を切り拓く──まさに学ぶべき姿勢だと思います」
応接室には静かな時間が流れ、互いの話す言葉に、微かに敬意と駆け引きの空気が混ざった。
楠木の心中では、これから得られる情報の手応えが、静かに膨らんでいった。
ーーうれしいニュースーー
応接室に静かな空気が漂う中、海北利景は少し前かがみになり、穏やかに口を開いた。
「天城利綱が世に出した『Juris Works』のことは、システム部長でいらっしゃる楠木さまならご存知かと思いますので、経緯は省略しますが、現在は停止しており、N通信の別の統合AIシステムを導入しております」
楠木は頷き、話を促す。
「使い勝手は違うものの、社員たちは”AI”を業務に導入することに大きな価値があると認識しています。業界で先進的なシステムに触れてきたおかげです」
海北は視線を楠木に向け、やや低い声で続ける。
「楠木部長にはお話ししておきましょう。
N通信と天城利綱は、巨大AIシステム企業から技術盗用の訴えを起こされています。しかし、息子の死を無駄にしたくないという思いで私は独自に調査を進め、ついに決定的な証拠を掴んだのです」
小さく息をつき、海北はさらに話した。
「N通信の沢田さんと、一応、天城会長にも伝えたのですが、『そうか』とだけ言って、反応は薄かったです。たしかに、失われてしまった利綱の命はもぅ戻ってはきませんからね」
応接室の静寂が少し重くなる。
海北は、少し微笑みながら楠木に目を向けた。
「近々ニュースリリースされますが、一足早く楠木部長からU警備さんの経営陣に知らせてもかまいませんよ」
秘書が書類を手渡す。
「これが当社のニュースリリース原稿です。体裁と資料を添えて発表します。事業の最優先事項ではありませんので、来月下旬くらいの発表を予定しています」
海北は静かに付け加えた。
「N通信は裁判では大きく優位に立つでしょう。相手がどんなに粘っても、最悪でも和解に至るはずです。利綱の名誉は守られました」
楠木は書類を受け取り、心中で静かに頷いた。
悲劇の中で生まれた証拠と努力が、ようやく正しい形で世に伝えられる。
そして、彼自身がこの情報をどう活かすか――その重さを、楠木はひそかに噛みしめた。
ーーお昼の会食ーー
昼食のうな丼が四つ、応接室のテーブルに届いた。
天城会長、会長秘書、海北社長、そして楠木匡介の四人が、和やかな空気の中で食事を始める。
天城会長は上機嫌で、ふと秘書のことを「杏子」と呼び、そして楠木を「利綱」と呼ぶこともあった。
どうやら、幸せだった頃の天城家の食卓を思い出していたのだろう。
会話は穏やかに続き、笑い声が小さく響く。
天城会長の目には、かつての家族の姿と、今の穏やかな時間が重なっていた。
楠木はその空気に溶け込みながら、食卓を和ませる立役者としての役割を静かに果たしていた。
天城会長は笑いながら、また口から飯粒をこぼした。
その仕草は、何十年も前の家族の団らんを思わせる、どこか温かい日常の残照だった。
楠木は自然な笑みを浮かべ、まるで天城家の一員のように振る舞った。
「ほら、おじい様、たくさんごはんをこぼしていますよ。もったいないですね」
「利綱、このうなぎはうまいなあ」
楠木は微かに頷き、応じる。
ーー続くーー