第七話、田中オフィスに忍び寄る罠
ーーBECの衝撃ーー
午前十時、いつものように静かな田中オフィスに、突如として異様な空気が漂った。
「……やられた……」
デスクの上のPCを指さし、田中卓造社長が青ざめた顔で立ち上がっていた。額には玉のような汗がにじみ、声はかすかに震えている。
「こんどは……仕事のメールや……!」
その言葉に、水野幸一と稲田美穂の二人は目を見開いた。しかし次の瞬間、互いに視線を交わし、内心でため息をついた。
(またか……)
過去にも何度か怪しいメールには接してきた。しかし、今回は空気が違う。田中社長の様子が尋常ではない。
「社長、詳しく聞かせてください。」
水野が落ち着いた声で促すと、田中は震える手でノートパソコンの画面を示した。そこには一通のメールが表示されていた。
差出人:クライアント企業の経理部長
件名:[重要] 支払い先口座の変更について
本文:
「お世話になっております。弊社の銀行口座が変更となりましたので、今後の請求書の支払いは下記口座へお願いいたします。」
水野は即座にメールヘッダーを開き、目を細める。
「……これは……偽装メールです。」
水野の声に緊張が走る。
「アドレスをよく見てください。“i”が“1”になっています。巧妙ですね……」
稲田が小さく息をのんだ。
「BEC(ビジネスメール詐欺)ですね……! まさか、社長、本当に……?」
田中社長は何も言えず、ただ黙って頷いた。
「う、うちの経理が……やってもうたんや……1000万円や……」
一瞬、室内の空気が止まったように感じられた。稲田の顔からも血の気が引いていく。
「今すぐ銀行に連絡を!」
稲田の叫びに背中を押されるように、水野が動いた。電話を取り、まずは田中オフィスの取引銀行、続いて本物のクライアント企業へと次々に連絡を入れる。
その間、社内はまるで緊急対策室のような緊張感に包まれていた。普段はおっとりした田中社長も、ただ茫然と立ち尽くすことしかできない。
送金停止は間に合うのか。騙された資金は取り戻せるのか。
事務所に走る緊迫と、情報の錯綜。そして、見えない敵に対する怒りと悔しさ。
これは、デジタル時代に忍び寄る静かな犯罪「BEC」に翻弄された、あるオフィスの記録である。
ーー今、できることーー
田中社長は無言でPCに映し出されたメールを見つめていた。画面には、見慣れた取引先の経理担当者名とともに、「支払い先口座の変更について」との件名。
本文も完璧だった。語調、文体、レイアウト、すべて本物にしか見えない。そして添付されていた請求書までが、いつもと全く同じフォーマットだった。
「……振り込んでしもうた後でな、“念のため”って取引先に電話したんや……。そこで言われたんや……“うち、口座変えてませんよ”って……」
田中の声は、壊れそうなほどかすれていた。
「水野さん、すぐ銀行に連絡を!」
稲田の声が鋭く空気を割った。
水野はすぐに電話を取り、銀行のリスク管理部門へと連絡をつけた。送金は午前中――だがまだ、資金が相手方の口座に反映されていない可能性がある。わずかな希望に賭けて、送金停止と口座の凍結を要請する。
「……はい。至急、調査をお願いします。送金時間は9時42分、取引金額は1,000万円。相手口座は……」
一方そのころ、稲田は詐欺メールをプリントアウトし、詳細な分析を始めていた。差出人のメールアドレス、ヘッダー、添付ファイルのプロパティ。どれもが狡猾に偽装されていた。
「このメール…どう見ても本物にしか見えません。でも……社長が、いつもは欠かさずやってた“振込前の電話確認”を、今日に限って忘れてしまったんですよね。」
「つまり、“人の判断ミスを狙う”のがBECの本質なんだ。」
水野が受話器を置き、低い声で応じた。
「だからこれは、“技術の問題”じゃなく、“判断のルート”の問題。防げるはずのミスだった。」
田中は、机に両手をついたまま、うなだれていた。
「……ワシが、あかんかったんやな……。この歳で、情けないわ。」
だがその肩に、温かくも確かな手が置かれた。水野だった。
「社長、誰にでも起こりうることです。でも、ここからどう立て直すかが大事です。これを機に、“送金時のプロセス再構築”をやりましょう。ダブルチェック体制、そして“必ず電話確認”の徹底です。」
稲田も、社長の前にしゃがみ、まっすぐに目を見て言った。
「社長、私たち、ちゃんと守ります。これをチャンスにしましょう。BECの被害が起きたからこそ、リアルな危機として、他のクライアントにも伝えられます。情報セキュリティって言葉だけじゃなく、実体験として。」
田中の目が、ゆっくりと持ち上がった。そこには、まだ完全には戻らぬものの、確かに光が宿り始めていた。
「……水野くん、稲田くん……ほんま、頼もしいな……」
外は春の風が吹いていた。窓の外に目をやると、少しだけ空が晴れたような気がした。
ーー「痛み」を価値へ ーー
数日後、田中オフィスに一本の電話が入った。
「社長、銀行から連絡がありました!」
稲田の明るい声がオフィスに響く。
「送金停止、間に合ったそうです!詐欺口座は凍結されてて、被害額も全額回収の見込みだって!」
「ほぉ〜っ……」
社長の田中卓造は、深いため息をついて背もたれに体を預けた。
「ま、まぁワシの不注意から始まったんやけどな……」
だがその表情には、どこか安堵と前向きさが混ざっていた。
週末、次の動きが始まった。
BEC事件を教訓に、水野の提案で「社内送金マニュアル」の全面改訂が動き出す。
同時に、クライアント向けの**「BEC対策セミナー」**の準備が進められた。
「判断を狙う詐欺——この実態をきちんと伝えなきゃ。」
稲田は真剣な表情で事例をまとめ、PowerPointにスライドを起こしていく。
会議室にて:情報セキュリティの見直し会議
「そろそろ、社内の情報管理をちゃんと固めなあかんな…」
田中社長が眉間にシワを寄せながらつぶやく。
「せやけど、情報セキュリティ規定って、就業規則に入れるもんなんか?」
今日の会議には、水野、稲田、そして今回初めて正式に加わった経理担当・藤島光子の姿があった。
45歳。銀行出身。冷静でスマートな雰囲気を纏う、才色兼備の女性だ。
藤島は腕を組みながら、社長をじっと見つめた。
「社長、それでは甘いです」
「…うっ…」
「情報漏洩は、信用問題に直結します。秘密情報を扱う担当者には、処分規定を明文化して、就業規則に組み込むべきです。そして、全従業員に通達してください。」
稲田も続く。
「藤島さんの言う通りです。でも、それだけじゃ不十分だと思います。情報セキュリティ事故を起こした場合、就業規則以上に厳しい処分を明確にしないと意味がありません。個別に合意書を交わすべきです。」
「個別の合意書……そんな必要あるんか?」
田中社長は少し首をかしげる。
ここで水野が口を開いた。
「みなさんのご意見、いずれも重要です。ただ、それぞれの役割を分けて整理しましょう。」
「就業規則には、すでに“業務上知りえた秘密の漏洩禁止”という規定があります。これは全従業員に適用される“基本”です。」
「ただし、特定の職務に関して、より重い義務を課す場合は、“個別の合意”が必要です。たとえば、経理、システム、営業の中でも一部など、機密を扱う職種に限っては、秘密保持契約(NDA)を結ぶべきです。」
社長は少し考えてから、ポンと手を打った。
「なるほど!つまり、就業規則は全員への“土台”。そっから上に、必要な人には“個別ルール”を乗せるっちゅうことか!」
「その通りです」
水野は微笑んだ。
藤島も軽くうなずく。
「銀行では、まさにその通りにしていました。全員に共通の就業規則。特定部署には、さらに厳しい誓約書。それが基本です。」
稲田も、ノートを開きながら補足した。
「情報セキュリティは、制度と同じくらい“意識”の問題でもあります。社内研修も必要ですね。行動レベルで変えていかないと。」
田中社長は、大きくうなずいた。
「…ふむ、BEC詐欺、ワシはやられたけどな…」
「ワシがやられたおかげで、他の会社が守れるんやったら、安いもんや。」
「そう思ってもらえるなら、きっとこの出来事は“損失”じゃなくて“財産”になりますよ。」
水野が穏やかに返した。
こうして田中オフィスは、「痛み」の経験を糧に、
リアルなノウハウと現場の実感を携え、地域企業への新たな価値提供へと歩を進めていく。
ーー対策の具体化へ 、新たなルールーー
BEC事件の騒動から数日後。田中オフィスでは、対応策を講じるための緊急会議が開かれた。資料の束が並ぶ会議室に、静かな緊張が漂っている。
白板の前に立つのは、水野幸一。腕を組み、沈着な表情で議論の行方を見守っていた。その隣で、藤島光子が手元の資料をめくりながら冷静に意見を述べている。対面には、稲田美穂がまっすぐな眼差しで意見をぶつけていた。
「やっぱり、就業規則だけでは甘いですよね。」
稲田が口火を切る。
「一般的な規定じゃなくて、担当ごとに個別で合意を取るべきです。」
「その通りだね。」
水野が頷き、言葉を継ぐ。
「確かに就業規則に秘密保持義務は書かれているけれど、業務によって守るべき情報の中身は違う。それを明確にしたうえで、NDAとして個別契約にすれば、より実効性がある。」
「それに、秘密情報の管理体制も整えないといけないわ。」
藤島が落ち着いた声で続ける。
「私が銀行にいたときは、アクセス権限は厳格に管理されていた。情報に触れられるのは“必要な人だけ”だった。今のままじゃ、田中オフィスも脆弱よ。」
田中卓造社長は、腕を組んで唸った。
「ウチも大きくなったんやなあ……。気楽な司法書士事務所のつもりやったのに。」
「社長、今や当社は8人です。これからさらに増やそうというところですし。」
水野が少し微笑んで言う。
「このくらいのルール整備は、事業の成長に欠かせません。」
田中社長はしばし天井を仰ぎ、そしてゆっくりと頷いた。
「……せやな。よっしゃ、水野くん、稲田さん、藤島さん。ほな、具体的な案をまとめてくれへんか?」
「はい!」
三人の声が、力強く揃った。
こうして田中オフィスでは、以下の対策が正式に決定された。
✅ 就業規則に“情報漏洩の処分規定”を明記し、全従業員に通達
✅ 秘密情報を扱う担当者には“個別の秘密保持契約(NDA)”を締結
✅ 情報セキュリティ研修を定期的に実施し、全従業員の意識を向上
それは単なる防衛策ではなかった。
社内体制の強化を超え、田中オフィスが“次なるステージ”へと進む合図でもあった。
会議の終盤、水野がふと笑みを浮かべて言った。
「今回の件で社内のルールは整いましたが、同じような課題を抱えているクライアントも多いと思います。これを機に、情報セキュリティのコンサルティング業務を拡充してみるのもありですね。」
田中社長は、一拍おいてからニヤリと笑った。
「……せやな。ウチの経験、無駄にしたらアカン。むしろ、ビジネスチャンスや。」
こうして田中オフィスは、社内の情報管理体制を一新するとともに、クライアント企業にも同様の支援を提供する新たなサービスを立ち上げた。
地方の司法書士事務所が、コンサルティングへと歩を進める。
その進化は、まだ始まったばかりだった——。
ーーエピローグ:静かなる胎動ーー
こうして、BEC事件という苦い経験を糧に、田中オフィスは社内体制を大きく変革した。
かつて「気楽な司法書士事務所」であったこの場所は、今や法務、会計、経営、ITの知見が交差する、小さなプロフェッショナル集団へと変貌しつつある。
情報セキュリティ体制の強化を経て、彼らの視線は社外へと向けられていた。
「次は、我々が守る番だ。」
水野のその言葉が、オフィスの空気を静かに変えた。
メンバーは、今や8人。
経験豊富な営業の橋本和馬、誠実で几帳面な経理担当の佐々木恵。
IT基盤を支える技術畑の半田直樹。
そして、高卒ながら異業種から飛び込んできた、元気印の奥田珠実。
加えて、専務となった藤島、田中社長、水野、稲田。——8人の小さな船団が、次なる波に備えて帆を張りつつあった。
まだ誰も、この先に訪れる試練の全容を知らない。
ただ一つだけ確かなのは——
田中オフィスの命運をかけた戦いが、すぐそこまで来ているということだ。
そして物語は、静かに、しかし確実に加速していく——。
(つづく)