第六十二話、ミズノギルド、13号案件(後編)
ーー小石川上水保育園跡地よりーー
午後の光が、喫茶「榊原」の木目のテーブルに薄い縞を落としていた。焙煎の匂いが、現場の土の匂いをゆっくりと上書きする。水野所長は氷の溶けはじめたアイスコーヒーを指で回し、向かいの河村SEはスマホを横向きにして、サムネイルの川を指先ですべらせていく。百枚を超える「検証ポイント」。フェンスの錆、敷石の段差、配電盤の銘板、そして――門扉前の白い丸皿。
「水野さんのLINEに送ります。コメント入れました」河村が小さく言う。
メッセージ欄には一行、「門扉前、猫に餌をやっていたらしい皿がある」。
送信音が短く跳ね、現場検証リストの骨格がまた一つ固まる。
水野は画面をのぞき込み、薄く笑った。「猫は大事ですよ。『人が寄る場所だった』という生活の痕跡になりますから」
「ええ。痕跡は理由になります」河村はうなずく。「再開の“理由”を、現場から拾い上げる。今日の仮説は四つにまとめます」
彼は紙ナプキンを裏返し、ボールペンでさらりと書きつける。
「①空き園舎の活用。構造はまだ生きています。外壁のクラックは許容範囲、梁は健在。水回りは交換が前提ですが、基礎は使える。
②地域の防災拠点。ここは高台で、旧給水ポイントが近い。倉庫だった部屋は備蓄庫に転用可能。避難導線、写真の通り??」
スマホ画面を指が滑り、避難経路の褪せたピクトグラムが拡大される。
「③学童保育などの事業拡大。昼の保育だけでは厳しい。放課後、長期休暇、親の就労支援まで外延を設ける。
④景観保護。並木と石垣、このエリアの記憶を守る。『残すために使う』って理屈は、住民説明で効きます」
水野は合いの手を入れる。「行政書類の文言にも落としやすい。『地域防災力の向上』と『子育ての多様な選択肢の確保』。根拠は君の写真で立つ」
河村は一拍置いてから、口調をさらに慎重にした。「ただ、事業化の難易度は高い。今の時代の保育園運営は、人員がボトルネックです。資格者の確保、シフト、代替要員……。家賃が発生するなら、経営を安定させるためには、“上客”で二十名くらいの子どもを受け入れないと採算が合いにくい」
「二十名……」水野は数字を反芻する。「定員じゃなく、継続率の高い実数としての二十か」
「はい。定員は飾りです。実入園の山と谷、季節要因、感染症。だから③を強くする。学童と短時間保育の組み合わせで、稼働率の谷を埋める。②の防災拠点と④の景観保護は、地域と行政を味方につけるための“理由”。そして①は初期投資の圧縮。四つは全部、費用と信頼の話につながる」
「猫の皿は?」水野が冗談めかして訊く。
「『人が戻ってきても違和感がない』という証拠です」河村は笑う。「近所の誰かが、ここに来て、世話をしていた。閉じているのに、完全には死んでいなかった。再開のストーリーに息を入れられる」
二人の間に少しだけ静けさが落ちる。氷が小さく鳴り、外の蝉時雨が一段落した。スマホの画面には、門扉の影が斜めに伸びる一枚が残っている。影の先に、白い皿がぽつり。
「この仮説を、姉妹にぶつけよう」水野が言う。「『好き』だけでは続かない。けれど、『好き』がなければ始まらない。その間を、数字と写真で埋める」
「はい」河村はKEEPのファイル名を「小石川\_現場検証\_初版」に変え、市ヶ谷姉妹に提案するための追加資料として準備した。「次は、ヒアリングです。採用計画、地域ニーズ、資金計画。聞く順番も設計します」
「順番?」
「まず“なぜ”。次に“誰に”。それから“どうやって”。最後に“いくらで”。順番を間違えると、全部が感情論か、全部が机上の理屈になる。両方を渡す橋が必要です」
水野は鞄に取材資料をまとめてしまい始めた。「橋は、河村さんの仮説でかけよう。私は、その橋脚を登記と契約で固める」
河村はポケットの中のスマホの重みを確かめる。百枚の断片は、物語の背骨になりつつある。あの白い皿も、きっとそのどこかに収まるはずだ。
河村SEのやり方は、まるで積み木を一つずつ置いていくようなものだった。焦って全体像を見せるのではなく、小さな塊を少しずつ重ね、確かめながら形をつくっていく。
「一見すると、スピード感の乏しいやり方に見えるでしょう」
スマホを操りながら河村がぽつりと言った。「でも、プログラムのコーディングと同じなんです。正しい道筋を示すためには、手順を外せない。基礎が狂えば、あとで必ずバグになる」
そう言いながらも、彼は指先で写真を数枚選択し、まとめてLINEのKEEPに飛ばす。フォルダの見出しには「園庭」「概観」「近隣」と簡潔にラベルがつけられていた。
「……まあ、少し端折りますけどね」
そう言って微笑むが、送信のログは几帳面に積み重なっていく。門扉前の皿の写真、崩れかけたブランコ、隣家の壁際に伸びた雑草。カテゴリーごとに束ねられた写真は、やがて一つの大きな検証リストへと形を変えていく。
水野所長はその様子を眺め、氷が溶けかけたグラスを手で持ち上げた。「河村さんは本当にコツコツだな。だが、そうやって積み上げたものは、最後に揺るがない」
河村は軽くうなずき、スマホをポケットにしまう。積み上げられた小さなブロックの数々は、保育園再生という不確かな未来を形に変えるための土台になろうとしていた。
ーー喫茶「榊原」ーー
水野所長は、冷めかけたコーヒーをひと口すすり、手帳を閉じた。視線は穏やかだが、その言葉は手順を重ねた検証と同じくらい整然としていた。
「基本スタンスとして、申し込みの受付はすべて行います。取り扱い可能であれば、正式に委託契約書を出してもらう。今はまだ、市ヶ谷さんから申し込み書類を受け取った段階にすぎません。あまり時間をかける気はありませんよ」
河村SEは頷きながら、相手の言葉を逃さず拾う。
「ただ、見極めなければいけないのは二つです」
水野は指を二本、机上に立てた。
「犯罪行為のサポートにならないこと。そして、コンサルフィーがいただけるだけのビジネス性があること。手数料をもらえるからといって、お金持ちの自損覚悟の遊びに付き合うつもりはないです。不毛ですからね」
その響きはきっぱりしていて、喫茶店の静寂の中で浮き立つようだった。
「市ヶ谷姉妹については?」河村が問いかける。
「少し制度の仕組みを利用しているフシはありますが……犯罪性は感じません」
水野は、そう言って淡く笑みを浮かべた。
河村は片眉を上げた。「お話では、芝居がかった応対をする方々ではありませんでしたか?」
「いいえ、台本を読まされている感じではなかったですね」水野は軽く首を振る。「ご自身を過大に見せるそぶりもなかった。言いにくいと思われる質問――例えば、『このご年齢で国際結婚とは、大胆なご決断ですね』と水を向けても、ご夫婦で顔を見合わせて、笑顔で返すぐらいでしたよ。『やっぱり、歳に合わないね』という冗談めかした感じでね」
「なるほど」河村は顎に手をやり、にっこり笑った。「安心しました。『13号案件』という響きに、なにか不穏な影を感じておられるのかと思いましたが……水野さんには、やはり心配ご無用でしたかな」
水野は、その笑みに応えるようにグラスの氷を転がした。
外では蝉の声がいよいよ強くなり、光の粒が店内の木枠に水の揺れを映していた。
窓際の席のテーブルの上には、現場写真を整理した河村SEのスマホと、水野所長の手帳。それらのあいだに、すでにいくつもの仮説と検証が積み重なっていた。
水野は少し姿勢を正し、静かな口調で言葉を紡いだ。
「ただ――事業の展開は、このまま正攻法で進めるのは悪手だと思います」
河村が目を上げる。
「昔ながらの、“子どもが多い時代”の保育モデルは、現状に沿っていません。行政もいまは試行錯誤の段階でしょう。かつてのように『箱ものありき』で施設を整えれば済んだ時代の方が、ある意味ではやりやすかったのかもしれません」
カップの縁に指をそえて、所長は考え込むように言葉を継いだ。
「でも――河村さんが先ほど示された四つの理由。あれは確かに、事業継続性の“柱”になります」
河村は軽く頷き、スマホの画面をタップして「園庭」「概観」「近隣」とラベルをつけたフォルダを確認する。その積み木のように積み上げられた記録が、確かな根拠の形を示していた。
「資金についても、ただ銀行融資に頼るだけでは難しいでしょう。クラウドファンディング、ソーシャルレンディング、公的融資……。多層的に組み合わせて提案していこうと思います」
水野の声は、冷静でありながらも、そこに確かな推進力が宿っていた。
「事業を再生させるなら、現代的な“共感”と“仕組み”を組み合わせるしかない。保育園をただ再開させるのではなく、“物語”として共感を呼び、なおかつ収益構造を立たせる。その両方を、同時に狙うのです」
河村は静かに笑った。
「なるほど……時代遅れな正攻法を避けつつ、未来志向の正統を打ち立てるわけですね」
水野所長は、グラスの底で溶け残った氷を小さく揺らした。しばらく思案したのち、視線を正面の河村SEへと向ける。
「そのためには――すべて話してもらわなければなりません」
その声音は落ち着いていたが、芯の強さがあった。
「一度聞いた以上は、可能なことはすべてやっていこうと思います。それが田中オフィスの“前衛”として作った〈ミズノギルド〉の役目なんです」
河村は、指先でスマホを閉じる仕草を止め、耳を傾けた。
「処理案件が増えてきたら、こちらでビジネスマッチングも行う。そうした複雑で多岐にわたる“ミニコンサルティング”をこなすのが、本来の役割です。小さな案件の中に潜む本筋を見つけ、つなげていく――その積み重ねが未来の礎になる」
淡々と語るその姿は、実務家の冷静さと指揮官の展望を兼ね備えていた。
河村はふっと笑みを浮かべ、深く頷いた。
「なるほど……つまりそのために、N通信とRシステムは、水野所長に選んでいただいたわけだ」
彼は背筋を伸ばし、冗談めかさず真剣に言葉を添える。
「――光栄です!」
その一言が喫茶店の空気をわずかに引き締め、氷のはぜる音が小さく響いた。外から差し込む午後の光が、二人の前に広がる資料とスマホの画面に反射し、静かな確信の色を帯びていた。
会話はひとつの節目に差しかかろうとしていた。
「つまり、もう調査や推理は必要ないと?」
河村SEが眉をひそめる。
水野は、ためらいなく答えた。
「河村さんが道を示してくれました。ナゾ解きのさらに先まで、すでにやってしまわれたのです。であれば、あとは市ヶ谷夫妻に話を聞くだけですよ」
言い切られて、河村は少し困った表情を浮かべた。
「んん~……実は、私、猫田さんとナゾ解き合戦中なんですよね。まだ、あちらの背景とかシッポをつかんでいなくて」
水野は苦笑しつつも、真顔で続けた。
「では、今度猫田弁理士が来られたら、私が裁定をしましょう。そして結果発表する。それで、どうです?」
河村はしばし黙し、やがて肩を落としたように微笑んだ。
「調査は、想像でなく、小さな証拠や証言を積み上げてするもの――それが私のポリシーなんですけど……。敗れてしまうかもしれませんね」
苦笑いに、氷が弾ける音がかぶさる。
その笑みの裏に、どこか寂しげな諦観がにじんだ。
ーー小さな喫茶店からのメッセージーー
午後の静かな時間、喫茶榊原の奥まったテーブルに、水野幸一と河村亮は腰を下ろしていた。店内にはジャズが小さく流れ、窓越しに差し込む光がテーブルの縁を淡く照らしている。
コーヒーの香りが漂う中、不意に声がかかった。
「すみません、立ち聞きしていたわけではないんですが……」
振り向くと、カウンターから歩み寄ってきたのは、この店の店主と思しき女性だった。年齢を重ねながらも凛とした気配を纏い、長年の経験からくる落ち着きがある。
「市ヶ谷さんご夫婦について、お耳に入れておいたほうがいいと思いまして。お話させていただいてかまいませんか?」
突然の申し出に、河村が一瞬眉を上げたが、水野が静かに応じる。
「ありがとうございます。私は司法書士をしております、水野幸一と申します。あなたは、この喫茶店を経営されているのですか?」
女性は軽く会釈をした。
「はい、榊原と申します。ここで二十年以上、店をやっております」
その声には、言葉を選ぶ慎重さと、伝えるべきものを胸に抱えた誠意があった。
「やたらと人のことを勝手に吹聴するのは、はしたない行為だと自分では思っております。その上で……お伝えしたいのです。市ヶ谷さんたちは、本気で、かつての小石川上水保育園を生き返らせようと取り組まれているのだ、と」
店内の空気が一瞬だけ張り詰め、水野と河村は互いに視線を交わす。
榊原の言葉は噂ではなく、確かな思いを伴った証言のように響いていた。
ーー小さな喫茶店からのメッセージ(二)ーー
榊原は、コーヒーカップを拭いていた手をそっとエプロンに添え、ゆっくりと語り始めた。
「二ヶ月前くらいに、お二人――市ヶ谷さんご夫婦は、ここに来られました。お紅茶を注文されたあと、店が暇そうなのを見計らって、わたしに声をかけてこられたんです」
水野と河村は、黙って耳を傾けていた。
「『以前、この界隈をよく訪れた者ですが、最近のことを教えていただきたい』――そう仰いました。いやな感じのする方々ではありませんでしたから、住民の方の個人的なことには触れないようにしつつ、このあたりのここ数年の様子を話しました」
榊原は視線を遠くにやり、あの日のことを思い出しているようだった。
「なぜそんなことをお尋ねになるのかと、恐る恐る問い返したんです。すると、ご主人がこう答えました――『私たちは、小石川上水保育園を再活動させるために来たのです』」
言葉に力を込めるように榊原は続けた。
「奥様は日本語が不慣れな様子で、ご主人がわたしの話を英語交じりの、どこか外国の言葉で奥様に伝えておられました。最近は子供が少なくなってきたこと、空き家が増えてきたこと……わたし自身の思い出も含めてお話ししたんです。ご夫婦は大変喜ばれて、奥さんがカタコトの日本語でこうおっしゃいました――『ごしんせつに、とてもありがとうございます』と」
榊原の声は柔らかく、それでいて確かな響きを持っていた。
水野は顎に手をやり、静かに頷く。河村もまた、深く息を吐いて、その光景を思い浮かべているようだった。
店の窓から差し込む午後の光は、まるで榊原の語る記憶を優しく照らし出すかのようだった。
ーー小さな喫茶店からのメッセージ(三)ーー
榊原は一度言葉を切り、カウンターの上に置いた手を見つめながら、少し考え込むようにして話を続けた。
「伺った内容の細かいところまでは覚えておりませんが……概要で言うと、こういうことでした」
水野と河村は自然と背筋を伸ばし、榊原の声に耳を傾けた。
「まず――市ヶ谷さんは、かつてご自身のお子さんをこの小石川上水保育園に、まだ生まれたばかりの頃から預けておられたそうです。ですが、そこで勤めていた外国人の男性保育士とトラブルになった。その保育士というのが……奥様、ミカさんの弟さんだったのだそうです」
河村がわずかに目を見開く。榊原は続けた。
「さらに当時、そのお子さんの母親――つまり、市ヶ谷さんのパートナーは、その男性保育士と同郷の外国人女性で、日本で働きながらシングルマザーとして子育てをされていたとか。ですが、結果的にその保育士が全員辞めることになり……人手不足が深刻化し、補充も間に合わず、保育園は閉園に追い込まれてしまった」
店内の時計の音が、しんとした空気にやけに大きく響いた。
「その後は……市ヶ谷さんの金銭的な援助で、その女性は仕事を辞めて子育てを続けておられたそうですが……やがて子供を連れて、黙って国に帰ってしまったと」
榊原は小さく息を吐いた。
「残された娘さんは、ミカさんが育てた――そういう経緯だと伺っています。だからこそ、市ヶ谷さんは数ヶ月前にミカさんとご入籍された。二年前には身元引受人としてミカさんを日本に呼び寄せ、二人でマジックショーの芸人として活動していたそうです。そして、ご結婚され、最近は帰化審査も通った……そういうお話でした」
水野は腕を組み、静かに頷いた。
「なるほど……私は市ヶ谷さんからの依頼で、会社設立などの手続きをお手伝いしています。その一環で、あの保育園の現地調査のため、こちらの河村さんと打ち合わせをしていたのです」
河村も軽く頭を下げる。
「遅ればせながら……河村と申します。Rシステムという会社で、システムエンジニアをしております」
水野は鞄から名刺入れを取り出し、自身の司法書士事務所「ミズノギルド」と田中オフィスの名刺を差し出した。河村もそれにならって名刺を渡す。榊原は両手でそれを受け取り、目を通した。
「司法書士さんに、システム会社さん……そうですか」
そして、にこやかに表情をほころばせた。
「もう、話は進んでいるんですね」
長年この喫茶店で数多くの人間模様を見てきた榊原の笑みには、安堵と期待が入り混じっていた。
ーー小さな喫茶店からのメッセージ(四)ーー
水野は、榊原の穏やかな表情を見つめながら、胸の奥で思案していた。
――この方にも、私の立場を明確にしておく必要がある。
喫茶榊原は、この地域に根を張る存在だ。もし保育園が再開されれば、保護者や職員だけでなく、この店もまた少なからず影響を受ける。ステークホルダーとして、あらかじめ伝えておかねばならない。
水野はカップをそっとソーサーに戻し、落ち着いた口調で切り出した。
「榊原さん――私は市ヶ谷夫妻の事業計画について、個人的に持つ懸念を払拭しておきたいと考え、独自に調査を進めて参りました」
榊原は驚いたように目を瞬かせ、黙って耳を傾けた。
「失礼ながら、ここに限らず、保育園の経営は慢性的な人手不足に悩まされております。また、共働きが一般化した現代において、保育サービスへの需要は高まる一方ですが、それを支える現場の労力は限界に近い。非常に困難な状況にあるのです」
彼の言葉は淡々としていながら、どこか重みを帯びていた。
「市ヶ谷夫妻のご計画も、決して容易なものではないと私は考えています。ですから、今回の調査の結果いかんによっては、計画の見直しを提案するつもりでおります」
榊原はしばらく水野を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。市ヶ谷さんに寄り添いつつも、冷静に状況を見極めようとされているのですね」
店内の静寂に、温かいコーヒーの香りが漂っていた。水野の言葉は、この場所を大切に思う者へ向けられた誠意の告白でもあった。
ーー小さな喫茶店からのメッセージ(五)ーー
榊原はしばし水野を見つめ、感嘆の息を洩らした。
「水野さんは、本当に信頼できる方なのですね。依頼人の本当の利益を考え、無理と分かればあえて思いとどまることも進言する……自分の利益だけを追う人には、とてもできないことだと思います」
その真摯な言葉に、水野は静かに頭を下げた。
榊原は店内のマガジンラックに歩み寄り、手慣れた様子で数冊の区報をめくる。やがて一枚を開き、水野の前に差し出した。
「ご覧ください。ちょうどこれを思い出したのです」
紙面の囲み記事にはこうあった。
――「国際協力保育所、託児所の開設募集について」。
記事によれば、海外都市と協力協定を結び、保育士の教育実習生を受け入れる施設を公募するという。東京都知事の肝いりで成立した、外国人保育士養成を支援する新しい制度。可決されたのは一年前で、いよいよ今年の十月から取り扱いが始まるとある。
水野は記事に目を落とし、やがて河村と視線を交わした。次の瞬間、二人の口元に同時に笑みが広がる。
「……これだったんですね!」
希望の光を見いだした瞬間だった。
長らく難題と見えていた「人手不足」という壁に、突破口が開けたのだ。市ヶ谷夫妻の計画を支える現実的な道筋が、今まさに見えてきた。
コーヒーの香りに包まれた喫茶榊原の空間に、二人の心からの喜びが広がっていった。
ーー謎解きは契約締結の前にーー
榊原喫茶店の奥のテーブルに、重厚な雰囲気が漂っていた。
水野所長が主催する今回の会合は、正式な契約締結に向けての大一番である。
列席者は多彩だった。
行政書士のラヴィ・シャルマ。
弁理士の猫田洋子。
肥後香津沙。
Rシステムの河村SE。
そして主役である市ヶ谷夫妻――いや、正確には「市ヶ谷姉妹」とも呼ばれてきた二人。
水野は冒頭、丁寧に頭を下げて口を開いた。
「ミズノギルド13号案件。今回は私の見通しが及ばず、多くの皆様からご教示、ご協力をいただきました。その結果、無事に市ヶ谷様と契約を結ぶ段取りとなった次第です。心より感謝申し上げます。経緯については私からご説明すべきかと思いましたが、市ヶ谷様ご自身のご希望により、この場で直接お話しいただくことになりました。それでは――光博様、お願いいたします」
促され、市ヶ谷光博は静かに立ち上がった。
一瞬、喫茶店の古時計の音だけが場を満たす。
「本日は、遠路お運びいただき誠にありがとうございます」
彼は深々と頭を下げた。
「まず初めに、私の言葉足らずのせいで、水野所長をはじめ多くの方々に多大なご迷惑をおかけしました。この場を借りて、心よりお詫び申し上げます」
彼の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
同席者たちの視線が自然と彼に集まる。
「さて……私と妻のミカは合同会社を設立し、閉園していた『小石川上水保育所』を再開させるプロジェクトに取り組むこととなりました。今日まで、皆様のご支援なくしてここまで来ることはできません」
光博は一度言葉を切り、店内を見渡した。
その目は、長い年月を経てようやく辿り着いた場所を確かめるかのように、柔らかく揺れていた。
「ですが――そもそも閉園に至った原因。それは二十年前、私の若さゆえの、そして自分勝手な行いにありました」
その一言に、会合の空気が変わった。
ざわめきはなく、ただ緊張の糸が張りつめる。
「これからお話しすることは、私にとって恥であり、同時に償いでもあります。二十年に及ぶ物語の真実を、ここで皆さまにお伝えしなければならないと思うのです」
そう言い切った光博の姿に、全員が息を飲んだ。
ラヴィ・シャルマは胸に手を当て、猫田は鋭い眼差しで先を促す。肥後は神妙に目を伏せ、河村SEは顎に手を当てて構えた。
そして水野は、静かにうなずきながら心の中でつぶやいた。
――これが核心だ。二十年の時を越えた真実が、ついに明かされる。
古時計が時を刻む音だけが、会合の空気をさらに重く引き締めていた。
ーー完結編に続くーー