第六十二話、ミズノギルド、13号案件(前編)
ーー事務所の移転と謎の依頼ーー
東京の空は、初秋の朝特有の清涼感を湛えていた。
六本木のオフィスビル五階。田中オフィスTokyoの扉には、まだ旧住所のプレートが掛かったままだった。
段ボールの山、梱包材の音、電話線の撤去。スタッフたちは引っ越しの最終準備に追われている。
新たな移転先は錦糸町。交通の便に優れるだけでなく、業務の方向性を大きく変える意味も込められていた。
今回を機に、西東京や三鷹、調布といった南西エリアの顧客案件は、立花司法書士の「飯田橋行政書士事務所」に引き継がれることとなる。
「任せてください。こういう地域密着型の案件は得意です」
立花は落ち着いた笑みを浮かべながら言った。
水野は、梱包の手を休めて答える。
「今度行く先は、雰囲気は変わりますけど、むしろ動きやすくなりますよ。国際色豊かな地域であり、下町の人情もある、案件も幅広い取り組みが出来ます」
確信を帯びた口調だった。
移転は単なる物理的な移動ではなく、次の布石。業務再編と人材の布陣をも視野に入れた戦略だった。
その言葉に、立花も静かにうなずいた。
「水野さんっていつも、入り組んだ仕事がお好きなようですね」
「手探りで取り組むことで、次のヒントが見つかるんです」
まるでRPGの冒険者のように、世界を探索しているようにもみえる。
彼の眼差しは、この再編がもたらす新たな役割の重さを見据えていた。
移転作業は着実に進む。だが休む間もなく、新たな依頼がすでに舞い込んでいた。
それは――「保育園の再開」という、一見すると単純な話だった。
ーー保育園を継ぐマジシャンーー
移転先の錦糸町のオフィスビルには二人の来客があった。
猫田洋子と、肥後香津沙。
ネコタ知財特許事務所にトレーニー出向する佐藤美咲との顔合わせが表向きの目的だった。
「素人の受け入れはできません。最低でも”知的財産管理技能検定2級”ぐらいは取得してきてください」
猫田洋子の要求を想像を絶する頑張りでクリアしてしまったのが、佐藤美咲である。
彼女はシャルユーの通信教育を使い、半年で試験に合格してしまったのだ。
背後には「アヌシュカちゃんの肖像権を守りたい」という、強烈な動機があった。
しかし、水野の目的はさらに奥にあった。
彼女を中心にした「知財管理システム」開発――長期戦略の一環だ。
一方で、香津沙には別の使命があった。
「例の件、『ミズノギルド13号案件』。――調べて来ましたよ」
香津沙が報告する依頼人は、「市ヶ谷姉妹」と名乗るマジシャン。
だが、彼女たちの素性は謎に満ちていた。
「横浜演芸場に出ていたらしいわ。……でも、それより大きいのは件の保育園。『小石川上水保育園』って超名門よ。世間にはあまり出ないけれど、上流階級の子女しか通えない特別な保育園。仕事に追われる人気女優や歌手の“隠し子”まで通っていた、って噂があるくらい。経営的には全く困っていなかったはずなの」
一通り聞いて水野は視線を上げた。
「なるほど。では、なぜ廃業を?」
香津沙は声を落とし、聞き取った話に推測もこめて、
「保育士不足でしょうね。昔は男性保育士も雇っていたんだけど……一部の保護者から“男は困る”って苦情が出て、結局辞めさせられた。その男性保育士を辞めさせたのが――市ヶ谷姉妹の片割れなの」
市ヶ谷姉妹と保育園の過去の接点が見えたことで、水野の表情が険しくなる。
表向きは「再開支援」。
だが、水野の直感は告げていた――この依頼の奥には、別の構造が潜んでいると。
ーー隠れた名門の再生、それとも?ーー
新しいサーバーラックの設置前の空き部屋が、臨時の会議室となり、そこにいる人たちが集まった。
園の名前を継ぐことは、ただの看板の引き継ぎではない。理念も、隠された物語も。
水野はそこに、知財・人脈・資金を横断する複雑なパズルを見ていた。
案件13号――それは、ただの依頼ではなく、解決すべきミッションであった。
話に参加する河村SEは、図面を脇に置き腕を組んでぽつりと呟く。
「……じゃあ、今回の事業継承の裏には、名門保育園に対する贖罪があるってことか」
彼は本日、Rシステム(N通信の子会社)SEとして、IntegrateSphereの設置前確認で訪れていたのだが、話題はすっかり「ミズノギルド案件13号」に移っていた。
その横で、好奇心旺盛な猫田洋子が口角を上げる。
「自分の過ちを隠すためのマジックショーか、それとも贖罪のための慈善事業か。どっちにしても、舞台裏は派手そうじゃない?」
この場にいる全員に投げかける彼女の笑みは挑発的で、どこか楽しげですらあった。
ラヴィ・シャルマが手帳を開きながら問いかける。
「で、第13号案件……あの保育園継承の件は、スタートアップ扱いでいいんですか?」
水野所長は即座に答えた。
「ええ。業種は前と同じ“保育園”ですが、オーナーは元ショービジネス。一旦は廃止した事業再生とブランド再生を兼ねるなら、立派なスタートアップです」
「ブランド再生?」
ラヴィが首を傾げると、水野は声を落として説明を続けた。
「閉園していた『小石川上水保育園』は、隠れた名門だったのです。上流家庭の子女が通い、特別な環境を築いていた。しかし、保育士不足で続けられなくなった。……そこに、市ヶ谷姉妹が名を継ごうとしている」
しばし沈黙が流れる。
その時、ずっと話を聞いていた猫田が、にやっと唇を歪めた。
「ふふん、ブランド再生とくれば知財の出番よ。園名も経営方針も、全部に意味が隠されてるんだから。名前を継ぐというのは、ただの看板の引き継ぎじゃない。理念や、隠された“物語”ごと受け継ぐことになる」
彼女の視線は、まるで見えない契約書の行間を読み取るように鋭かった。
今日、猫田洋子は単なる挨拶のために新社屋を訪れたはずだった。だが、話は思いがけず彼女の専門分野に滑り込み、場の空気に一層の緊張感をもたらしていた。
Integrate Sphereがいずれ設置されるフロアの中央で、田中オフィスの面々は改めて気づいていた。
――今回の依頼は、ただの「保育園再開」では終わらない。
ブランド、知財、挫折とリベンジ……すべてが絡み合った、厄介だがエキサイティングな案件になるだろう。
ーー看板に潜む影ーー
水野所長は姿勢を正し、ゆっくりと口を開いた。
「――先日、保育園跡地の近くの喫茶店で、市ヶ谷姉妹……いや、正式にはご夫婦らしいが、二人と会ってきました」
皆の視線が集まる。
「第一印象は、舞台人らしい身振りの大きさ。声のトーンもどこか芝居がかっていて、普通の依頼人とは違ったな。こちらが一言発すれば、すぐに“セリフ”のように返してくる。まるで面談というより、即興芝居に巻き込まれたような感覚だった」 そこに座るのは「市ヶ谷姉妹」――いや、戸籍上は姉妹ではなく、国際結婚した夫婦だった。
姉の市ヶ谷博子を演じるのは、女装した旦那・光博。
妹役の市ヶ谷ミカは本物の奥さんだ。二人とも年齢は五十代。ステージでは若作りをしていても、こうして近くで見ると、肌の張りや指先の皺に年輪が刻まれているのが分かる。
水野は持っていた缶コーヒーをのみ干し、淡々と語った。
「申し込み時に頂いた戸籍謄本によると、国際結婚のご夫婦です。ステージ上では“姉妹”として活動している」
香津沙が補足する。
「しかも結成して、まだ2年ほどなんですよ。地方営業ばかりで、テレビ出演もない。…地味で目立たないエンターティナー」
しかし、水野が次に告げた言葉は、場の空気を変えた。
「そして、結婚したのはつい3ヶ月前。この保育園の買収に、お二人は300万円を提示しています。借金もしていない。土地と建物は元オーナーが地主として貸しているので、純粋に“名前”と“経営権”だけにそれだけの金額を出すことができたという事実」
猫田が唇を歪めた。
「名門保育園の看板料……ブランド価格ってわけかしら」
水野はスマホを取り出し、画面を猫田に向けた。
そこには「こいしかわじょうすいほいくえん」と平仮名で記された看板が写っている。両端には、愛嬌のあるライオンとキリンの顔。
猫田は写真を見つめ、わずかに眉を動かした。
「……ふうん。見た目は平凡。どこにでもありそうな看板ね。でも、その画像、私に送って。調べる価値があるわ」
河村SEが小さく首をかしげた。
「ショービジネスと保育園……どう考えても接点が見えませんね」
水野が頷き、資料をめくる。
「市ヶ谷ミカは、帰化審査の評価に”ショービジネス活動の経歴”を利用したんだと思います。結婚による帰化は昔より厳しくなっているのに、彼女は”支障なし”とされた」
その瞬間、会議室の空気がわずかに引き締まった。
香津沙は微笑しながらも、眼差しを鋭くした。
「中年男女の国際結婚、何か裏があると思えるわ」
転送された保育園の看板を見て、佐藤美咲はぽつりとつぶやいた。
「……なんだか、あまりかわいくない看板ですね」
猫田は看板の画像をスマホで拡大し、じっと見つめた。そして不意に声を上げる。
「……多分、これよ」
「え?」一同が一斉に顔を向ける。
「保育園の看板。商標に近い効力を持つ場合があるの。場合によっては“営業表示の先使用権”が成立する。300万円の理由は……看板と名前、そのブランド力にあるのかもしれないわ」
水野は腕を組み、写真を再び凝視した。
「保育園経営は……子どもたちのためだけじゃなかった、ということか」
「無垢な笑顔の動物が描かれた看板は、一見、ただの飾り。しかしその裏に潜んでいたのは、事業継承をめぐるしたたかな計算だったとしたら・・・」。
猫田の視線は獲物を見つけた猫のように鋭くなり、声も低くなる。
「つまり、廃園になった“隠れた名門の価値”を引き継ぐってことね。鍵は……この看板なのかもしれないわね」
猫田洋子弁理士が意味深に言い放つ。
沈黙。重い空気。
河村SEがその沈黙を破った。
「……推測だけで語るのは、ドラマの探偵の仕事ですよね」
猫田は片眉を上げ、にやりと笑う。
「技術屋さんは、データが揃わないと動けないのかしら?」
「データを揃えて検証するのが僕の仕事です」
河村の声は穏やかだが、芯があった。
「じゃあ、その“揃えたデータ”で、この保育園再生計画の正体を暴いてみせてよ」
猫田の挑発は鋭く、刃のようだった。
河村はゆっくりと立ち上がり、ノートPCを引き寄せる。
「……いいですとも?推測合戦ではなく、証拠勝負にしましょう」
佐藤美咲が小さな声で呟く。
「……なんか、これから始まるのって、案件調査っていうより事件捜査の“頭脳戦”ですね」
猫田は笑みを深め、椅子にもたれかかった。
「負けないわよ、河村さん。知財の世界じゃ、最後に笑うのはいつだって“想像力の勝者”よ」
河村は表情を崩さず、静かに言った。
「……真実は必ず、事実の中に隠れているはずです」
その言葉に、猫田の微笑がわずかに揺らいだ。
ーー猫、まっしぐらーー
首都高を抜け、海が視界に光る。
香津沙の運転する車の助手席で、猫田は拳を握りしめていた。
「香津沙お姉さま……あんな石頭に、負けたくない!」
香津沙は前方を見据え、淡々と答える。
「突撃しても痛いだけよ。……情報を持っているのは人間のほう。市ヶ谷姉妹の足跡を追えば、謎は解ける」
猫田の瞳が鋭さを帯びる。
「さすが、お姉さま……読みが的確だわ」
ネオンサインが瞬く港町。
目指す横浜演芸場の赤い看板が近づいてくる。
香津沙は言った。
「舞台は整いつつあるわ。……洋子、準備は?」
猫田は背筋を伸ばし、静かにうなずく。
「ええ。――この幕が上がる瞬間を、楽しみにしているの」
彼女の声は、群衆のざわめきに溶け、夜の横浜に消えていった。
ーー現場主義ーー
午後の地下鉄は、通勤ラッシュのざわめきも去り、ほどよい静けさに包まれていた。水野と河村は、都営三田線の車両に揺られていた。窓の外に流れるトンネルの暗がりを眺めながら、河村が腕を組み、ぽつりと呟いた。
「現場百遍――などと言いますがね。調べれば調べるほど、周りの情景と繋がりが浮かび上がってくる。現場が色づき、立体的に見えてくるんです」
水野は頷き、隣の男の横顔を見やった。理屈っぽくもあるが、こういう感覚を言葉にするのが河村らしい。
「水野さんにとっては厄介な仕事と思われるかもしれませんが、私は大変意義深いものを感じています。この――”無分別知”とでも言うべき感覚。私はこれが大好きなんです」
千石駅で降り、地上に出ると、晩夏の熱気と蝉時雨が迎えた。大学や高校が点在する文京区の一角、緑とレンガが入り混じる街路を歩きながら、二人は目的地へと向かう。小石川上水保育園跡地。神田川上水の名残を抱く土地に、ひっそりとその名を残した場所だ。
「そうでないと、見えてこないものがありますよね」水野は応じた。「システム構築においても同じです。仕様書や要件定義だけでなく、現場の温度を肌で感じることが大切です」
河村はゆっくり頷き、目を細めた。
「”虚心坦懐”。私の座右の銘です。これを胸に刻んで、システム開発の仕事を続けてきました」
保育園跡地は、草むらに半ば隠された古びたフェンスに囲まれていた。かつての看板は色あせて文字が判別しづらいが、「小石川上水保育園」の輪郭は確かに残っている。
水野は立ち止まり、しばし沈黙した後に口を開いた。
「……今回の件、依頼内容どおりに素直に処理していけば、問題なく完遂できる。最初はそう思ったんです」
「しかし?」河村が促す。
「妙にひっかかるんです。依頼人は市ヶ谷姉妹――表向きは姉妹ですが、実は国際結婚のご夫婦。そして合同会社の設立、事業継承。さらに保育園のロゴが知財案件を匂わせている。突っ込みどころは多すぎて、核心から目をそらさせる意図があるように感じてしまう」
河村はフェンスに手をかけ、色あせた看板を見つめながら静かに頷いた。
「……13番目の案件か」
「はい」水野は視線を園庭跡に投げた。木陰に古びたブランコの残骸が揺れている。
「しっかり見据えて取り組まないといけません」
二人の足元に、セミの抜け殻が転がっていた。過ぎ去った夏の名残のように。だが、その殻の奥には、まだ羽化したばかりの何かが潜んでいる気配があった。
ーー猫田ヨーコ、横浜、横須賀ーー
夜の国道16号は、米軍関係者の車やトラックが行き交い、異国の匂いをまとうようにざわめいていた。
肥後香津沙がハンドルを握り、助手席で猫田洋子が窓の外を食い入るように見つめていた。
「香津沙お姉さま……横須賀なんて、まるで外国に来たみたいにゃん」
「そうね。港町は境界線があいまいになる場所。人も情報も、国境を越えて流れ込むわ」
やがて、二人の車は米軍基地のゲート近くの通りに停まった。周囲には英語の看板が躍り、ジャズのリズムが漏れ聞こえるバーが点在していた。彼女たちは、その一軒へと足を踏み入れた。
店内は薄暗く、煙草の煙とウイスキーの香りが入り混じり、アメリカ兵と地元の客が混ざり合って賑わっている。壁には古いブルースのポスター。テーブルランプが琥珀色の光を落としていた。
二人は店の奥の席に腰を下ろした。
香津沙は静かにメニューを閉じ、マスターに視線を向けて告げた。
「カシスソーダを」
その言葉には、さりげなく合図の意味が潜んでいた――“こっちを向いて”。
続いて、猫田が小さく胸を張りながら言った。
「エンジェルキッスでお願いします」
マスターは60代ほど、白髪まじりで目元に皺を刻んだ男だった。グラスを磨きながら、ちらりと香津沙を見やり、ふっと視線を合わせた。その一瞬に、長い年月を見通すような眼差しがあった。
「……誰かお探しですか?」と、低い声で切り出す。
香津沙は氷が溶ける前に、わずかに身を乗り出した。
「こちらに以前、よく“ミカさん”という方が出入りしていたと聞いたんだけど。もしご存知でしたら、教えていただけないかしら?」
猫田は黙ってストローをくわえながらも、瞳をきらりと光らせ、マスターの返答を待った。
店内の喧騒は続いているのに、二人のテーブルの周りだけが、どこか張り詰めた空気に包まれていた。
――横須賀の夜は、秘密を吐き出すのだろうか、それともさらに深い闇を示すのだろうか。
ーー合わないピースーー
マスターはカウンター越しにグラスを拭きながら、記憶の奥を辿るように言葉を紡いだ。
「……ミカさんはね、日本人じゃなかったよ。歌手としてビザを取って、日本に長く滞在してた。いつもこの店でジャズを歌ってたさ。声が透き通っててね、夜が一瞬で変わるような、不思議な力を持ってた」
香津沙は、指先でグラスの縁をなぞりながら、耳を傾けていた。
「彼女、こう言ってた。――『父親は日本人で、ずっと探しているの。もし、マスターが見つけたら教えてね」
猫田が身を乗り出す。「お父さんが日本人……にゃん?」
マスターは小さくうなずいた。
「そうだ。だけどある日彼女はこう言った。――『ご縁があって、今度日本の方と結婚するの。だから、次に来日したら帰化手続きして、日本人になるわ』って。……もう十年も前の話だが」
「十年……」香津沙はその数字を心の中で反芻した。
十年という時間は、ひとを変えるには充分すぎる。だが同時に、決定的な出来事を覆い隠してしまうのにも十分だった。
「最近は?」香津沙がさらに探りを入れる。
マスターは、手を止め、ふっと視線を落とした。
「いや、それ以来……ぷっつり来なくなった。まるで最初から、この町に存在していなかったみたいにな」
静寂が二人を包んだ。周囲のざわめきやジャズの音色が遠のいていく。
香津沙の胸中には、妙なざわめきが広がっていた。
――帰化、日本人になると言ったミカ。だが、それを果たしたのかどうかは分からない。結婚したのか、あるいは消えるように姿を隠したのか。
猫田が小声で呟く。「お姉さま……十年前って、市ヶ谷姉妹の足跡とはちょっとズレてるにゃん」
横須賀にいたミカという女性。ここまで合っていても、パズルのピースは収まらない・・・。
香津沙はグラスを持ち上げ、琥珀色の液体の奥を覗き込む。
そこに浮かぶ影は、消えたシンガーか、それとも――まだ知らぬ新しい謎の影か。
夜の横須賀の空気は、二人に次なる問いを突きつけていた。
「ミカは、いったいどこへ消えたのか――」
彼女の行方は、さらに深い闇へと沈み込んでいくようだった。
ーー「ミカ」は別人?--
香津沙は眉間に皺を寄せた。
――十年前に姿を消した歌手ミカ。
そして、二年前に突如現れた「市ヶ谷姉妹」。
結婚・入籍はわずか三か月前に為された。
時間軸は大きくずれている。マスターの知っている「ミカ」は別人なのか?
グラスを傾けながら、香津沙はさらりと尋ねた。
「ミカさんって……十年前は四十代くらい? 今なら五十代くらいになるのかしら。手品とか、そういう芸を見せることはあった?」
マスターはしばし考え込み、静かに首を振った。
「いや……私が見た当時は、二十歳前後に見えた。歌は抜群にうまかったが、手品なんて一度もやらなかったと思う」
その答えに、香津沙は思わず猫田と視線を交わす。
猫田は目を丸くして、小声で囁いた。
「じゃあ……今の市ヶ谷姉妹とは、別人の可能性が高いってことにゃん?」
香津沙は即答せず、じっと氷の解けかけたグラスを見つめていた。
――だが、もし別人だとしても、なぜ「横須賀のミカ」という噂が、市ヶ谷姉妹に繋がったのか?
――あるいは、同じ「ミカ」という名前を、誰かが意図的に重ねているのではないか?
香津沙は胸中で仮説を立てる。
1. 本当に同一人物:姿を消したミカが、何らかの理由で市ヶ谷姉妹の一員として再登場した。年齢や経歴を偽装して。
2. 名前を借りた誰か:本物のミカは別にいて、その存在を“カバー”として利用している。
3. 血縁関係:市ヶ谷姉妹のどちらかが、ミカの娘か、親族にあたる可能性。
「……どれも捨てがたいわね」香津沙は低く呟いた。
猫田がじれったそうに、「どうするの、お姉さま?」と身を乗り出す。
香津沙は視線をマスターに戻した。
「ミカさん、最後にここへ来たとき……何か言い残したことは?」
マスターは遠くを眺めるように天井を仰ぎ、しばらくしてから言った。
「……『次に来るときは、本当の名前で来るわ』って、そんなことを言ってた気がするな」
その言葉に、空気が張り詰めた。
猫田の背筋に冷たいものが走る。
香津沙は、カシスソーダを一口含み、心の奥で確信した。
――“ミカ”は、まだ別の名前を持っている。
そして、その名前こそが、市ヶ谷姉妹の正体に繋がるはずだ。
ーー手がかりのイリュージョンーー
香津沙はスマートフォンの画面をマスターの前に差し出した。
舞台照明に照らされた市ヶ谷姉妹の写真が数枚、そこに並んでいる。厚い舞台メイクにスポットライトの反射。決定的な証拠にはならないのを承知の上で、あえて見せてみたのだ。
マスターは目を細め、じっと画面を見つめる。
「……ぼやけているね。舞台の写真は、どうしても細部が見えにくい」
そう言いながらも、指先が一枚の写真の上で止まった。
「だが、こちらの人……顔つきが似ている。目元や口元が、ミカさんそっくりだ」
指差されたのは、市ヶ谷姉妹の“姉”──市ヶ谷光博だった。
香津沙は軽く息を呑む。
姉の方は、舞台では女装した男性で、ロングのスパンコールドレスを着ていた。派手な化粧で観客の注意をひきつける役割だ。その顔立ちに「ミカ」の面影があるという。
香津沙はさらに問いを重ねた。
「……じゃあ、こちらの女性は?」
市ヶ谷“ミカ”の写真を指差す。光博の隣に立つ、スパンコールのタキシード姿の妹。
マスターは一瞥しただけで、きっぱりと言い切った。
「こっちは、全くの別人だね。ミカさんとは似ても似つかん」
空気が重く沈む。
猫田は思わず声を潜めた。
「お姉さま……つまり、本当に“ミカ”と関係があるのは、妹じゃなくて姉の方……?」
香津沙は応えなかった。だが、胸の中で仮説が形を取り始めていた。
――十年前、突然姿を消した20代の歌手ミカ。
――二年前からマジックショーを始めた市ヶ谷姉妹。
――そして、姉・市ヶ谷光博の顔立ちに“ミカ”の影。
もしも、舞台メイクや衣装の裏で性別や経歴を偽装しているとすれば──「市ヶ谷光博」という存在そのものが、まるでトリックのように仕組まれた幻ではないのか。
香津沙は心の中で囁いた。
「……手品で観客を欺くように、自分の素性さえ“手品”で隠した……そう考えれば、すべてが一本の線に繋がる」
そして、マスターが言っていた言葉。「―――最後に会った時、ミカさんはこう言っていた。“私は次に来るとき、本当の名前で来るわ”って―――」
香津沙と猫田は同時に目を見開いた。
“本当の名前”──ミカ、というのは偽名で、それを引き継ぐのは市ヶ谷姉妹の妹「ミカ」。それは失われた歌手ミカの正体そのものを示しているのかもしれない。
ーーお姉さまとお泊り♡ーー
運転代行の車がバーの前に静かに停まった。
香津沙はマスターに会計を済ませ、軽く頭を下げて礼を言う。カウンター越しにマスターが手を振るのを背に、夜風の冷たさを感じながら外へ出た。
「……ふう、今夜は横浜に泊まるしかないわね」
香津沙が小さく呟くと、後ろから猫田洋子がほろ酔いの笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「香津沙お姉さまとお泊りなんて、夢のようですにゃん♡」
車の後部シートに並んで座ると、猫田はさっそく頬を寄せてきた。
香津沙は苦笑しながら、手で押し返す。
「別部屋とってあるから。……あんたは早く寝なさい。私は、今日の調査結果をレポートにまとめてから寝るつもりよ」
「ええ~、じゃあ今のうちに……お姉さまの香りを補給っと♡」
猫田は悪戯っぽく笑いながら、肩口にぴったりとくっついてくる。
窓の外、街灯が流れる。
香津沙は軽くため息をつきながらも、頭の中では今夜の会話を反芻していた。
──市ヶ谷姉妹(夫妻)。
舞台上で煌びやかに輝くその二人組のうち、姉・市ヶ谷光博の顔立ちに、かつて日本で「ミカ」と名乗った女性の影がある。
血のつながりは光博のほうに、しかし「名前」としての接点は妻の側に。
パズルのピースが増えた分、絵はますます混沌としていく。だが、その輪郭は僅かに浮かび上がりつつあった。
香津沙は目を閉じ、心の奥で呟く。
「……水野さんなら、この情報をどう料理するかしら」
彼は依頼を受けた以上、決して投げ出さない。必ず“回答”をひねり出す男だ。その答えが真実にどこまで迫るかは別としても、香津沙は、無意識にその展開を期待している自分を否定できなかった。
ーー真相へのアプローチーー
ホテルの一室。
香津沙がレポートに向かう背中を横目に、猫田洋子はソファへ深く身を沈めた。ほろ酔いの顔は、しかし妙に冴え渡っている。
「お姉さま──」と呼びかける声に、香津沙はペンを止めた。
「わたし、わかっちゃったにゃん」
洋子はグラスを軽く揺らしながら、まるで舞台の幕を引くように語り始めた。
「市ヶ谷ミカって人は、日本に来ていた“偽ミカ”の育ての親なんですよ。で、市ヶ谷光博は、その“偽ミカ”の父親──いや、きっと政治家の道楽息子あたり。だからこそ、堂々と保育園にまで預けられた」
香津沙は眉をひそめ、黙って続きを促した。
「小石川上水保育園に“偽ミカ”を預けていたのは光博本人。その時、園の男性保育士を辞めさせろと声を上げたのも彼だった。追い出されたのは外国人で──おそらく、本物の市ヶ谷ミカの血縁者、弟でしょうね」
部屋の空気が一瞬、冷え込む。洋子は笑みを浮かべ、さらに畳みかける。
「男性保育士を排除した結果、園は“長時間預かり”を女性保育士だけで回さなきゃいけなくなった。東京が待機児童ゼロを掲げて、優秀な人材は好待遇の職場へ引き抜かれていく。誰も長時間労働で名ばかりの高額保育に付き合いたくなくなったのよ」
ペン先が紙を強く押しつける音が響いた。香津沙の目が細くなる。
「しかも、時代が追い討ちをかけた。芸能人やインフルエンサーがシングルマザーを公言して、逆に支持を集める風潮。『隠すより、見せて味方を増やす』っていう戦略ね。結果、隠し子ビジネスなんてものは時代遅れになった」
洋子はグラスをテーブルに置き、ひとつため息をついた。
「“偽ミカ”を日陰者として囲い込むビジネスモデルは崩壊した。市ヶ谷姉妹──いや、市ヶ谷夫妻は、その瓦解の只中にいる。だからこそ、今こうして私たちの前に依頼を持ち込んでいるんです」
香津沙は振り返り、洋子を見つめた。
猫のような目をした弁理士は、もう謎を見透かしたかのように微笑んでいた。
「……一気にここまで組み立てたってわけね。恐ろしいわ、あなたの推理力」
「えへへ、猫は暗がりでもよく見えるんですよ、お姉さま」
洋子の声は甘やかに響きながらも、真相の輪郭を鋭く切り取っていた。
ーー真相の行く先ーー
香津沙は口をあんぐりと開け、猫田洋子の語りを途中で遮ることすら忘れていた。
「……園が対応できなくなり、母親に預けた。しかしそれでは母親は日本で仕事ができない。光博は親に頼り金を母親に渡し続けた。そして、しばらくして母親は子供をつれて自国に帰ってしまった。気づいたときは手遅れ。光博の父親は『諦めろ』と言って冷たい。母親は国で元恋人と結ばれ、貧しいながらも幸せに暮らした――」
猫田の言葉は、まるで記録映像を再生するかのように淀みなく続いた。
「……多分ね、元保育士の男の姉というのが“ミカ”よ。そして“偽ミカ”の育ての親。実母の国で育った彼女は、やがて大人になってから母と同じように日本で働くことを選んだ。横須賀あたりの母の知人を頼って渡日してね。そこでマスターと親しくなり、例のバーに出入りするようになった」
香津沙は眉をひそめた。「じゃあ、日本に来なくなったのは?」
猫田は薄笑いを浮かべ、猫のように肩をすくめる。
「結婚でもしたんでしょう。母の生き方をなぞるようにして、彼女は日本と故国を往復しながら生きる運命を選んだ。――でも、ここからが本筋にゃん」
「……」
「“ミカ”は娘を育ててやった見返りか、あるいは養育費をふんだくるつもりで市ヶ谷を訪ねていった。けれど光博は怒りではなく、深い感謝を示したのよ。『罪滅ぼしになんでもする』とまで言った。それが二年前。光博は“戸籍を貸す”という危ない橋を渡ってまで帰化を手助けしようとした」
香津沙は小さく息を呑む。「……まさか、それが」
「ええ。けれど帰化審査はそう甘くない。承認されなければすべては水泡に帰す。そこで考えたのが“ショービズの世界”。光博の人脈を使い、日本で活動する“国際結婚夫婦”の物語を捏造した。舞台やメディアに露出させ、いかにも文化交流の申し子のように装ったのね。――そして、三ヶ月前。ようやく入籍、帰化が承認された」
猫田は最後に両手を軽く開いてみせた。
「ふう~。あとは現地の石頭たちに任せるにゃん」
その語り口は軽妙だったが、背後に広がる真実の闇は重く、香津沙の心臓をじわじわと締め付けていくのだった。
ーー続くーー