田中オフィス外伝、シャトル!異国の空へ
(ep26)本編第二十五話、告白~そして別れ このアフターエピソードです。
(ep65)本編第六十一話、寄席から始まる国際交流 につながっていきます。
ーー石畳のはじまりーー
二年前――。
別れを告げられて、苦しみながらも了解し、握手を交わした。
彼女の背中が人混みに紛れていった瞬間を、柴田正史はいまだに鮮明に覚えていた。
学生時代から七年、隣にいることが当然だった稲田美穂。
別れの言葉は、彼女の唇から淡々とこぼれた。泣きもせず、責めもせず、ただ前を向いていた。
それがかえって、柴田の胸を締めつけた。
失意のまま荷物をまとめ、Oエナジーの辞令を胸に、彼は新しい任地ドイツへと向かった。
逃げたかった。
過去から、彼女の面影から、自分の弱さから。
——ベルリン、テーゲル空港近くの古いアパートの一室。
柴田正史、27歳。Oエナジーの再生エネルギープロジェクト、日独共同チームの若き技術員。
到着からまだ2日、時差ボケと闘いながら、ノートPCの前で資料をめくっていた。
机の上には、折り畳まれたままの一通の手紙。日本を発つ前日、稲田美穂から届いたものだった。宛名も、便箋も、あの頃と変わらぬ丁寧な文字。
「正史へ
あなたが、間もなくドイツに行くと聞いて、驚いたのと同時に、少しホッとした自分がいます。
…私は今、日々の仕事に打ち込んでいます。正直しんどいこともあるけど、それでも前に進んでいます。
あなたとの7年間は、私の中でずっと大切な時間です。あの頃、あなたが私を傷つけなかったこと、私はちゃんと覚えてる。
どうか元気で。ベルリンの空の下でも、あなたらしくいてください。
稲田美穂」
柴田は静かに手紙を閉じた。
——窓の外、ブランデンブルク門方面に薄曇りの夕日が落ちていく。
カップに残った冷めかけのコーヒーを口にし、彼はそっと笑った。
何かが終わったわけではない。すべては、ここからだ。
出向先の「グリーンホライズン・エナジー」は、バイオマスなどの再生エネルギーを軸に、環境と地域経済を同時に支えるヨーロッパのリーディングカンパニーだった。
この国での任務は、エネルギー効率の最適化と技術革新を目指す国際プロジェクト。
日本から来た専門チームの一員として、彼は胸を張って歩き始めた。
だが、時折ふとした瞬間に、美穂の横顔が脳裏をかすめる。
それは憎しみでも、執着でもなく、消えることのない「人生の一部」としての記憶だった。
ここなら過去を忘れられる――そんな期待が、心の奥で静かに芽生える。
それでも、柴田は前を向くことを選んだ。
石畳の街路を踏みしめるたび、過去は少しずつ足元に沈んでいく――
そんな気がしていた。
ーー再起と再生エネルギーの間にーー
ベルリン市内・グリーンホライズン・エナジー本社。
ガラス張りの打ち合わせルームから見える街並みは、歴史と未来が同居するようだった。
最初に握手を交わしたのは、プロジェクトのドイツ側責任者、ヴィルヘルム・ヴァイスだった。
長身で背筋の伸びた男。長年エネルギー業界の第一線にいながら、新しい技術や文化への受容を忘れない、柔軟な眼差しを持っている。
握手の手は温かく、目はまっすぐで、柴田の胸に静かな力を与えた。
言葉の壁は厚かった。柴田が使えるのは英語だけ。
それでも彼は逃げなかった。
会議では必死にメモを取り、帰宅後にはパソコンに向かって資料を練り直す。
ドイツ人のように定時でオフィスを出る姿を見せつつ、その後の自宅で深夜まで資料を整える――そんな二重の努力が、やがて周囲の信頼を得る形になった。
数週間後の午後、ヴィルヘルムは窓越しに庭を眺めていた。
バイオマス事業の利益で整備された緑が、初夏の陽光を受けて輝いている。
だが、彼の思考を占めていたのはその景色ではなかった。
「彼は驚くべき人物だ」
心の中で、ヴィルヘルムは穏やかに言葉を紡いだ。
「英語だけという制約がありながら、誰よりも熱心で、自分の限界を超えようとしている。
あの集中力と効率的な進め方…以前のイタリア人技術者のように、不満ばかりで何一つ進展しない人間とは違う」
デスクに置かれた資料に目を落とす。
柴田がまとめたデータは細部まで緻密で、修正の余地がほとんどない。
「これは、プロフェッショナルの仕事だ…」
口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「ドイツ流の効率を取り入れつつ、その根底には日本人特有の繊細さがある。彼にはもっと大きな役割を任せるべきだ」
ヴィルヘルム・ヴァイスはタブレットを指先でスライドしながら、柴田に話しかけた。
「シャバタサン、これが君たちのユニットで進める“都市間再生エネルギー分散モデル”だ。小型バイオマス発電ユニットと風力発電を複数点在させて、災害時にも孤立しないシステム…いいアイデアだ。だが、肝心なのは“人”と“街”だよ。」
「“人”と“街”……」
柴田はその言葉を噛みしめた。日本での仕事は数字と設備中心だった。だが、この国では人との信頼、文化の交差がすべての基礎にある。
その夜、アパートに戻った柴田は、キッチンでインスタントの味噌汁を作ってみた。
ヨーロッパの硬水では少し味が変わる。けれど、温かさは変わらない。
彼女のことを思い出す。稲田美穂。
司法書士としてまっすぐに生きる姿を、心から誇りに思っていた。
あの別れの日、何も責めず、涙も見せず、彼女はただ一言だけ言った。
「がんばって。私も、がんばる。」
柴田は深く息をついた。
もう戻れない時間がある。
でも、進んでいくことでしか、自分を許す道もない。
窓の外、テレビ塔が静かに灯りはじめる。
まだ肌寒い春のベルリン。けれど、街の匂いは少しずつ馴染んできた。
「やるしかないよな……」
独り言のように、でも力強く呟く。
ーー庭の緑とチェロの音色ーー
「これがプロフェッショナルだ……」
柴田が作成した資料に目を通しながら、ヴィルヘルムは静かに呟いた。
効率の中に誠実がある。それがドイツ式と日本式の“いいとこ取り”であると彼は感じていた。
ヴィルヘルムは、そっと立ち上がり、窓辺のチェロに手を伸ばした。
その低く暖かな音色がオフィスの空気を和らげる。ひとつの旋律は、彼の中で芽生えた「信頼」と「期待」のハーモニーだった。
ーー ヴィルヘルムの招待ーー
ヴィルヘルム・ヴァイスは、オフィスの窓から差し込む午後の光に目を細めた。
「柴田君、なかなかの熱心さだ。あの日本人、バドミントンまでやるんだったな。」
彼は、日本の提携企業Oエナジーの出向者プロフィールのデータを再読していた。デスクの上には、柴田が作成したプロジェクト資料の束。整然とした表も、細かく計算されたデータも、ヴィルヘルムの心をくすぐった。
その瞬間、ふと顔に笑みが広がる。
「・・・家族に紹介してみるか。」
ヴィルヘルムは電話を取り、妻ヘルガに連絡した。
「ヘルガ、土曜の昼、日本から来た柴田君を家に呼ぶぞ。」
ヴィルヘルムからの電話を受けた瞬間、妻ヘルガの心は踊った。
「あら、楽しそうね!もちろん準備は万全にするわ!」
ヘルガは電話を切るやいなや、廊下をすたすたと歩き、キッチンへ直行した。
エプロンを腰に巻きながら、脳内では既にヴァイス家流・おもてなしプロジェクトのガントチャートが描かれている。
1. 料理メニュー選定(本日中)
2. 食器・クロスの色合わせ(翌日午前)
3. リビング花飾り(当日朝)
4. 当日の立ち位置と会話誘導(当日昼)
「まずは食器ね…いや、待って。日本人のお客様なら、あの藍色の陶器を使いましょう。異国情緒を感じてもらえるはずよ。」
冷蔵庫の中身をざっと確認し、食材の在庫チェック。
「サーモンのムニエルは確定。付け合わせは…そうね、白アスパラも出してドイツらしさを。」
そして、彼女はふっと口角を上げる。
「オリバーはどうせ腕試しするでしょうね。リーザは…まあ、予測不能だけど。」
土曜の午前――リビングでは長男オリバーがラケットを片手にシャドースマッシュを繰り返す。
「ふふ、日本の元バドミントン選手……。これは腕の見せ所だな。」
オリバーの目は少年のように輝き、内心で「どこまでやるか見ものだ」と手薬煉を引いていた。
そして娘リーザは、父の一言を聞いただけで目を輝かせていた。
「日本人が我が家に来るなんて……!しかも、バドミントン選手!」
彼女は筋金入りの日本マンガファンで、自室の書棚にはマンガやキャラクターフィギュアがびっしり。特に、アニメ版「バドミントンのプリンスさま」はドイツ語字幕で、カートゥンチャンネルで放映されていた(全96話録画コンプ済)。
そして彼女も兄同様、バドミントンをやっていた。鍛え抜かれた割れた腹筋がその証拠である(臍ピアス装着済)。
ヴィルヘルムは椅子に座り直し、深く息をついた。
「柴田君、君にはこれから家族の昼食を通して、我が家の文化に触れてもらおう……さあ、どうなるか楽しみだ。」
こうして、柴田を巻き込むヴァイス家のドイツスタイルの昼食会の幕が、静かに、しかし確実に上がろうとしていた。
ーーようこそ、ヴァイス家へ!ーー
土曜の正午、ベルリン郊外の静かな住宅街。柴田正史は、胸ポケットに翻訳アプリを忍ばせつつ、ヴァイス邸のチャイムを鳴らした。
「シャバタくん!ようこそ、我が家へ!」
ドアを開けたのは、ヴィルヘルム・ヴァイス。週末モードでチェックのシャツをラフに着こなしている。
その背後から、エプロン姿の婦人が姿を現した。
「Ich bin Helga! ハジメマシテ!あ、合ってる?」
「は、はい、柴田です!お邪魔します!」
ヘルガは、柴田の手を両手で包むように握り、満面の笑み。
「今日はカモのローストとサーモンのムニエルよ!日本のお客さまに恥ずかしくないように、ちょっと頑張ったの!」
柴田がリビングに通されると、そこには背筋の伸びた若者が腕を組んで立っていた。
「オリバーだ。父から聞いたよ。君、バドミントンやってたらしいな?」
「え、あ、まあ……高校のときちょっと始めて……」
「“ちょっと”で勝てると思うなよ?」
なぜか、勝負の前の気迫を漂わせるオリバー。
いやいや、今日は昼食会だ。ラケット持ってきてないし。
そこへ、スキップでもしそうな勢いで娘が登場する。
「Konnichiwa!! わたし、リーザ!日本が大好きです!アニメ、マンガ、俳句もすこしやります!」
「は、俳句!?」
「春はあけぼの……って違った? 」
柴田は思わず笑ってしまった。
完全に“文化的集中砲火”を受けながらも、どこか懐かしい、居心地の良い時間に包まれていた。
食後、リビングにチェロの音色が響く。
ヴィルヘルムが弾く、バッハの無伴奏チェロ組曲。
「あのね……日本の“桜”のこと、もっと聞かせてほしい」
リーザの言葉に、柴田は小さくうなずいた。
「じゃあ、今度、春になったら……日本の写真、持ってきますよ」
「ほんと?楽しみにしてます!」
——異国の空の下、ひとつの食卓が、言葉を越えて心をつないでいく。
「ねえ・・・柴田さん!まるで、日本のアニメの主人公みたい!」
突然の言葉に柴田は少し面食らい、「えっ……何、アニメって?あの…僕はあまりアニメには詳しくないんだ……」と苦笑いした。
その時、オリバーが静かにラケットを2本持ち上げ、低い声で切り出した。
「話は後だ。柴田さん、食事が終わったら一戦どうだ?」
「えっ、一戦……ですか?」柴田が困惑すると、リーザがすかさず口を挟む。
「ちょっとオリバー!柴田さんはお父さんの大切なビジネスパートナーなのよ!」
だが、柴田は笑って首を振った。
「いや、せっかくだし……おいしい食事を頂いたあとだし、久しぶりに軽くラケットを握ってみようかな」
その瞬間、オリバーの表情が一変した。
「ほう・・・久しぶりねぇ。食後の腹ごなしとは、大した自信じゃないか?」
オリバーは、少し舐められたのかと、闘志を燃やしはじめた。
ーー庭先の決戦ーー(※謎ツッコミ有り)
芝生の庭に、即席のネットが張られた瞬間――そこはもう、静寂と緊張が支配するアリーナだった。(※お庭です)
観客席は三人だけ。だが、ヴィルヘルム、ヘルガ、リーザの視線は、観客百人分の熱量をそれぞれが持って、二人を見つめていた。(※実際は犬も寝てる)
青空は澄み、わずかな風がシャトルをいたずらに揺らす。まるで、試合の行方を試そうとするかのように。(※風は近所の換気扇のせいかもしれない)
「――第1ラリー、開始!」(※誰が審判?)
オリバーの腕がしなる。放たれたサーブは、獲物を狙う鷹の爪のように柴田のバックラインぎりぎりを襲う。(※鷹は出てこない)
しかし柴田は半歩踏み込み、地を這うドライブで切り返す! 芝生の上を、鋭い矢のようなシャトルが滑っていく。(※芝の手入れはヘルガ担当)
「おっと、いきなり攻めた!」(※解説も熱い)
ヴィルヘルムの声に、リーザの目が輝く。(※光の反射かもしれない)
オリバーは即座に跳躍。空中で体をひねり、鋼の弓から放たれた矢のごとくジャンピングスマッシュ!(※さっきから矢ばっかり)
シャトルが空気を裂く――だがその刹那、柴田の体が流れるように反転し、ラケットの先でギリギリすくい上げる!(※体幹つよスギィ!)
「ナイスリターン!」(※観客全員拍手、300人分)
リーザの拍手が響く。柴田はその勢いのまま前へと詰め、ネット際に羽根のようなドロップをそっと落とす。(※シャトルです。つまり羽根です)
オリバー、必死に飛び込むも一歩遅く、第1ポイントは柴田。(※最終的に柴田)
だが、その瞬間からオリバーのエンジンが唸りを上げた。(※比喩です)
クロスへ鋭く突き刺すスマッシュ――それを柴田は逆サイドへの高いロブで返す。(※空気抵抗ガン無視)
シャトルは空に吸い込まれ、弧を描いて落下。観客の首が、まるで操り人形のように同じ軌道を追った。(※この時、首痛めた人はいない)
「すごい……これが日本の武人の技……」(※バドミントンです)
リーザの声は、畏敬と興奮が混ざっていた。(※あと少し恋も)
そして訪れる最終ラリー。スコアはデュース、マッチポイント。(※庭試合でここまで熱くなるか)
オリバーが放った全力スマッシュは、稲妻のように柴田の胸元を突く!(※実際は秒速5mくらい)
だが柴田は体をそらし、逆手のバックハンド――その一瞬の閃きが、信じられない角度でシャトルを飛ばす。(※物理法則が泣いてる)
白帯すれすれ、吸い込まれるようにオリバーのコートへと落ちた。(※芝に埋まったわけではない)
「……くっ、さすがだ!」(※笑顔です)
息を切らせながら、オリバーは握手を差し出す。(※スポーツマンシップは満点)
ヴィルヘルムがゆっくりと頷き、穏やかに告げた。(※父親の貫禄・感)
「これで、オリバーも柴田君を認めただろう。今日からは家族のように接してくれ。」(※急な親族宣言)
夕陽が芝生を黄金色に染める中、拍手と笑い声が庭に溢れた――。(※あとバーベキューの匂いも)
ーーバドミントンの”Schatz”奪取計画ーー
リーザ・ヴァイスは、庭先で繰り広げられた兄と柴田の決闘を、息もつかず見つめていた。
打ち返されるシャトルの音が、自分の心臓の鼓動とぴたりと重なる。
――(かっこいい……)
そして、勝負が決した瞬間、雷鳴のような決意が胸を貫いた。
「柴田さんを――私のSchatz(宝物)にするわ!」(※異論は認めん)
ーー作戦コード:バドミントンの“Schatz”奪取計画!ーー
ドイツ語で恋人を指すその単語には、彼女にとって純白で、まばゆい意味があった。だが同時に、彼女の頭の中では綿密な作戦会議が始まり、心の奥からは“Pickeen!”という吹き出しの効果音が飛び出す。
[ ① Interesse wecken(興味を引け)作戦!]
柴田がオリバーとラリーを繰り広げているその最中、リーザは庭の隅から柴田に近づき、わざとらしく日本語の質問を投げかけた。
「日本語って難しいけど美しいですね。どうやったらそんな素敵な表現ができるんですか?」
柴田は、汗をぬぐう間もなく、真面目な顔で答えてくれる。ゲーム中なのにだ。
リーザはその姿を見て、心の中で拳を握りしめた。
(そうそう、この真面目さ!まるでアニメの主人公みたい!《効果音:キラッキラ☆》)
[ ②“Schatzmahlzeit”(宝物の食事)!]
昼食の席。リーザは彼の皿に、さりげなく「特製”Schatz”サラダ」を盛った。ニンジン多め、彩り豊か。
「これで私の料理の腕をアピールするわ!」
だが柴田は眉一つ動かさず、「“Schatz”サラダ?珍しいね」と真顔で食べ始めた。
一瞬だけ戸惑ったリーザだったが、すぐに別の感情が湧き上がる。
――(この人、なんでも受け入れるんだ…最高だわ!《効果音:ズキューン☆》)
[ ③“Kulturelle Eroberung”(文化による攻略)!]
昼下がり、リーザは自分のTシャツを少しめくり、さりげなくヘソピアスを見せる。
「日本ではこういうのって流行ってますか?」
柴田は明らかに困惑し、「あ、うーん、そんなに見たことないですね…」と返す。
リーザは気にも留めず、「じゃあ私は先取りね!」と勝手に盛り上がった。《効果音:パァーン!(謎の花火)》
[ ④“Höhepunkt”(クライマックス:ラケット交換)!]
試合が終わるやいなや、リーザは兄のラケットをひったくり、自分のものを、柴田に渡すラケットと交換するように仕向けた。
――(これで私のラケットを彼の部屋に飾れるわ!)
柴田は少し困った顔をしたが、礼儀正しく受け入れた。
「記念品の交換ですから、今度来るときに、僕のラケットを持ってきます」
リーザは内心でガッツポーズ。
――(これで“Schatz”のラケットを確保!)
庭の片隅で、ヴィルヘルムとヘルガが呆れ顔で見守っている。
しかしリーザの耳には、そんな視線よりも、心の中で鳴り響く勝利ファンファーレの方がずっと大きく響いていた。
*Angreifen! Mission erfullt.(攻撃!任務完了)*
ーー決戦のショッピングモールーー
土曜の朝の空気は、どこか浮き立つように澄んでいた。
ヴァイス家の庭に足を踏み入れた柴田を、リーザが弾むような足取りで迎える。
銀色のポニーテールが陽を跳ね返し、緑の瞳には狩人めいた光が宿っていた。
「柴田さん、ドイツ語で困ってるでしょ?私が助けてあげるわ!」
親切に聞こえるその言葉の裏で、リーザの手元の小さなノートには、前夜から練り上げたプラン”が細かく記されている。
一つひとつの行動が、今日の“獲物”を確実に仕留めるための布石だった。
裏口から出てきた兄のオリバーが、気軽に声をかける。
「俺も町に行こうか?」
リーザは迷いなく笑顔で拒絶した。
「い・い・え。これは教育的な目的ですから、邪魔しないで!」
その言い回しに、オリバーは苦笑するしかない。
「はいはい、教育的ね……」
ーー実地訓練:ショッピングモール作戦ーー
駅前のショッピングモールは、土曜らしい賑わいを見せていた。
リーザはまず、作戦の第一段階――カフェでの“実戦訓練”を開始する。
カウンター前で、彼女は店員に流れるようなドイツ語を投げかける。
その姿は舞台の主演女優のようで、注文を終えるとくるりと振り返った。
「どう?これが本場のドイツ語よ!かっこよく見える?」
柴田は内心で圧倒されながらも、ぎこちなく立ち上がった。
「じゃあ僕も……えっと、コーヒーください……Bitte……」
店員が笑顔でカップを差し出すと、リーザは子供のように手を叩いた。
「すごい!あなた、やればできる“Schatz”だわ!」
「え、”Schatz”?」
「ヒ・ミ・ツ♥」
ーーパン屋での最終攻防ーー
次なる作戦地点は、モールの一角にある老舗のパン屋だった。
石窯の香りが漂う中、リーザは棚から大ぶりのパンを持ち上げる。
「このパンはね、硬いの!歯の筋肉鍛えないとね!」
腕まくりして握りしめる様子は、ほとんど武器屋で得物を鑑定している風だ。
柴田はそっとパンを受け取った。引きつった笑みを浮かべながら、
「本当に……これは武器になる硬さですね」
パン屋で購入したものを、リーザが紙袋から一つ取り出した。
それは小さく、しかし明らかに特別な装飾が施された特製”Schatz”パンのStollenだった。
「これで私たち、”Schatz”の絆がさらに深まるのよ♪」
「……絆って?」
「ひ・み・つ♥」
(でもね、あなたが気づく頃には、もう私の”Schatz”になってるんだから!)
リーザは心の中でほくそ笑み、獲物を連れて次の店へと歩みを進めた。
ーーシュトーレンとブロートヒェンーー
ある日の夕暮れ。
仕事帰りの柴田は、ふと足を止めた。パン屋の橙色の灯りが、湿った石畳にやわらかく反射している。
扉を押すと、バターと焼きたての小麦の香りが胸いっぱいに広がった。
「Ein Brötchen, bitte……あ、あとKäsekuchenも」
ぎこちなさのない発音に、店員がにっこりと笑い、手早く包みを用意する。
その様子を店先から覗き込んでいたリーザは、目を見開いた。次の瞬間、何かが胸の奥で爆ぜたように、勢いよく駆け寄ってきた。
「この日本人がっ! 今やドイツで! スムーズに会話してるわっ!!」
彼女はその場で拍手を始めた。パン屋の奥から、つられるように店員も軽く手を叩く。いつの間にか、隣のスーパーの入り口でも、なぜかおじさんがパチパチと……。
柴田は耳まで真っ赤になり、俯きながらつぶやく。
「いや、ほんと、リーザさんのおかげで……」
「謙虚な**Schatz**だわっっ!!」
その声は、通路の先――チーズ売り場の冷蔵庫にまで届いた。
ーーアニメで学ぶドイツ語ーー
次の土曜日。リーザが柴田を呼び出し、ノートPCを開くなり宣言した。
「次の企画はこれ! アニメのドイツ語吹き替え版を観るの!」
「……あ、アニメですか」
「そう! 台詞が自然で、学習に最適なの!」
再生ボタンが押されると、画面には炎を背負ったスポーツ少年が現れた。熱血、友情、そして汗。
「ほら! この台詞よ! *Ich werde niemals aufgeben!*――“僕は絶対に諦めない!” 言ってみて!」
「イ、イッヒ・ヴェアデ・ニーマルス・アウフゲーベン……?」
「そうそう! カッコいい! ドイツ語ってこう言うと超熱いのよ!」
柴田は苦笑しつつも、「ドイツ語って、こんな風に言うとカッコいいですね」と素直に言葉を返した。
その瞬間――リーザの瞳がきらめく。
(勝ったわ……完全に私の**Schatz**よ!)
ーー作戦進捗100%の女ーー
ヴァイス家の二階。
リーザは自室で、秘密のノートを取り出していた。
《柴田捕獲作戦・進捗表》
フェーズ1:言語的接近 ✅
フェーズ2:”Schatz”パンによる精神的接触 ✅
フェーズ3:文化交流デート ▶実行中
「完璧ね。彼はもう私の”Schatz”だわ」
ノートの右下には、”Schatz”のイラストとハートマーク。
ギラギラしつつも、どこか可愛げのある決意表明である。
ーー”Schatz”と公園でーー
日曜の午後。
青空の下、ベルリン郊外の緑が生い茂る公園に、ふたりの姿があった。
「ここが、私のお気に入りの場所よ!」
リーザはスキップしながら、パン屋で買った小さな包みを取り出した。
「これ、”Schatz”パン!私たちのシンボルね!」
「えっ……シンボル?」
柴田は目を瞬かせながらも、パンを受け取った。
中には、”Schatz”の形に焼かれたライ麦パン――
ドイツの誇る“超ハード系”。だが、愛が詰まっている。
柴田は笑いながら、「ありがとう」と言った。
その笑顔を見たリーザは、心の中でファンファーレを鳴らしていた。
ーーオフィスのざわめきーー
日常の中で自然にドイツ語を口にする柴田に、社内の空気が少しずつ変わっていく。
「日本人の柴田が、こんなに自然に話せるなんて……」
そんな声が、グリーンホライズン・エナジーの廊下に広がっていた。
ある日、ヴィルヘルムのデスク前。
「ヴィルヘルムさん、最近ドイツ語が楽しくなってきました。リーザさんのおかげだと思います」
その言葉に、ヴィルヘルムは口元を押さえ、くっ、と笑いをこらえる。
「……まぁ、彼女の教え方は独特だからね。でも、成果が出ているのは確かだ。素晴らしいことだよ」
ふと、心の奥でつぶやく。
(……リーザの力も侮れないな。本当に)
まさか、娘のアニメオタク魂が国際ビジネスの橋渡しになるとは。
廊下の向こうでオリバーが腕を組みながらぼやく。
「……やりすぎだろ。完全に狩ってるぞ」
けれど、その口元は小さく緩んでいた。
ーー庭の花冠ーー
庭ではヘルガが、白いマーガレットを摘みながら微笑んでいた。
「リーザの情熱は大したものね。この花の冠を、あの子が頭に載せる日も近いわね……」
編まれていく花冠は、やがて誰かの未来の象徴となる――
“Schatz”と呼ばれる青年の未来も、知らぬ間にその輪の中へと織り込まれていた。
ただ一つ、柴田はまだ知らない。
この国では、二人の関係が「特別」だと互いに感じた瞬間、それはもう“付き合っている”ということになる――そんな文化を。
改まって「好きです、付き合ってください」と言う習慣は、ほとんどないのだ。
ーー出発前夜、”Schatz”旋風ーー
二年の任期が終わりに近づいていた。
ドイツの空にも、冬の匂いが漂い始めている。
柴田正史は、スーツの襟を整えて、ヴァイス邸の門をくぐった。
「……本当に、お世話になったな」
胸の奥に込み上げる想いを噛みしめながら、呼び鈴を鳴らす。
扉が開くと、飛び出してきたのはヘルガだった。
「まあまあ、柴田さん!今日は特別な日よ!さあ座って座って!」
笑顔はいつも以上に明るく、お茶を運ぶ手つきすら華やかだ。
(……なんだ?この歓迎ムード……)
柴田は一抹の不安を覚えた。
リビングに入ると、空気が違った。
何かが満ちている。妙な緊張感と、説明のつかない“エネルギー”が渦巻いていた。
奥ではヴィルヘルムが、険しい顔でチェロを弾いている。
その旋律はどこか不穏で、音がやけに乱れていた。
「……集中できん……」
ポツリとつぶやいた彼は、弓を止め、ちらりと柴田を見た。
その目は、何かを訴えていた。だが、その意味はまだ分からない。
そして視線を右に向けたとき、柴田はリビングの隅に“大きなスーツケース”を見つけた。
それを引っ張っているのは、息を切らしたオリバーだ。
「おいリーザ!これ本当に全部持ってくのか?重すぎだろ!」
「これでも必要最低限よ!」と堂々と返すリーザの声は、勝利宣言のようだった。
そのときだった。
柴田の前に、リーザが真っ直ぐに歩いてきた。
まるで舞台に登場するヒロインのように、堂々と、そしてキラキラと。
そして、息を吸い込み、宣言した。
「柴田さん、私も一緒に日本に行くわ!婚約者として当然のことよ!」
その言葉に、柴田の脳内でサイレンが鳴り響いた。
「えっ、ええええっ⁉ ちょ、ちょっと待って!いつの間に婚約なんて…?」
一気にパニック。
頭の中で過去の会話を必死に巻き戻す。
(あのとき?“Ja, gern”って言ったあれ?いや違う、”Schatz”パンか?いや待て、あの文化交流デート?)
――混乱の嵐である。
そのとき、チェロを置いたヴィルヘルムが重たい声で言った。
「柴田くん……こういうことは、もっと早く知らせてくれたら……
心の準備ができたのに……」
彼の語気は、まるで“知らぬ間に娘を奪われた父”そのものだった。
一方で、ヘルガはケーキ皿を持って颯爽と登場。
「まあまあ、私は聞いてましたよ。リーザが何度も熱心に話してくれたから!」
すでに心は“国際結婚にノリノリのお母さん”である。
柴田は静かに頭を抱えた。
(僕の知らないところで、いったい何が……)
そのとき、スーツケースと格闘していたオリバーがボソッと言った。
「おい、柴田さん。見てないで手伝ってくれよ
どう見ても、これ……リーザの策略だろ」
リーザはその言葉を完璧にスルー。
「お兄ちゃん、黙ってて!これは私たちの愛の旅なの!」
柴田はソファに座り込み、顔を覆った。
ヴィルヘルムの溜息。
ヘルガの上機嫌な笑顔。
リーザの押しの強さと、オリバーの肩すくめ。
それらが入り混じる中で、柴田はついに、悟りの境地にたどり着く。
「……ああ、もうこれは、万事休すだ……観念するしかないな……」
ーー完(いつかまた、日本で)ーー