第六十話、アビシェクの内弟子日記
ーー8月1日(金) 晴れ時々くもりーー
午前中、いつものように数学の練習問題と読書感想文の続きをやっつけた。
僕は夏休みの宿題を午前中に片づけると決めている。なぜなら午後からは、もっと面白い「自由研究」が待っているからだ。
自由研究のテーマは――「落語家の弟子修行」。
師匠、笑角亭来福さんの弟子になって、もう一週間になる。
今日はいよいよ錦糸町演芸ホールに同行だ。
昼過ぎ、師匠の家の前で待っていると、師匠はいつものアロハシャツ姿で現れた。
「おう、アビ坊。今日は舞台裏の空気、よう見とくんやで」
標準語と関西弁のミックスみたいな喋り方は、落語より不思議で面白い。
電車で錦糸町に着き、演芸ホールの入り口をくぐる。
中は舞台の木の香りと、売店の焼きだんごの匂いが混ざっていた。
受付のお姉さんに師匠が深く頭を下げると、手を振りかけていた僕も、慌ててまねした。
舞台袖では、出番前の噺家さんたちが声を出したり、ネタ帳をめくったりしている。
着物の袖からのぞく腕時計が、なんだかカッコよかった。
師匠は袖の端っこで僕に耳打ちした。
「ここはな、みんながネタを温める場所や。お笑いも料理と一緒、温度が大事なんやで」
今日の僕の役目は、師匠の出番が近づいたら座布団を整えること。
それだけなのに、なぜか心臓がドキドキして、手のひらが汗でじっとり。
ネタは温めるけど、座布団は温まっているといけないのだ。
座布団の返し方――やってみると意外と難しい。
練習のとき、先輩が「やってみな」と言った。
僕は両腕をクロスして、両端を掴み、サッとひっくり返した。
けれど、どうにも様にならない。
座布団の四方には、一箇所だけ縫い目のない部分がある。
そこをお客様側に向けるのが決まりらしい。
縫い目――つまり「切れ目」をお客様に向けないのは、縁起をかつぐためだという。
なるほど、座布団一枚にも、そんな意味が込められているのか。
先輩のやり方は、まるで舞のようだった。
座布団の後方にひざ立ちになり、右手で手前を、左手で左側を掴む。
そのまま右手を上げて、一瞬、座布団が垂直になる。
そして左手を右へ移動し、同時に右手を手前へ戻す――すると、ふわりと裏返る。
音もなく、形も崩れず、座布団はきれいに裏返しで元の位置におさまった。
軽く手で左右にほこりを払う(しぐさ)たかが返す、されど返す。
所作の美しさに、僕は思わず息を呑んだ。
ーー8月2日(土) 晴れーー
今日は師匠の主戦場、「新恋話寄席」に行った。
師匠の家から歩いてすぐ。新小岩の商店街のビルの2階にある、小さな寄席だ。
客席は20人くらい。畳のにおいがして、なんだか家みたいに落ち着く。
1階には喫茶店「ことの葉」があって、オーナー夫婦が寄席の大家さんである。
寄席の主催者は席亭と呼ばれるのだが、ここ新恋話寄席は席亭が都度変わる。
常連のスポンサーもいるが、若手落語家の勉強会であれば一門の師匠が、独演会では落語家本人が、商店会会長が主催者としてなる場合もある。
控えの間に入ると、前座の先輩が声をかけてきた。
「アビ介(アビシェクの前座名)、今日はお茶出しとお絞りの取り替えな」
やり方を一度だけ教えてもらって、いざ実践。
でも、いざやってみると意外と難しい。
お茶の湯気で眼鏡が曇るし、お絞りをきれいにたたむのも時間がかかる。
先輩たちは忙しそうで、2回も3回も聞ける雰囲気じゃない。
とりあえず「見よう見まね」で動くことにした。
そんな中、背後から声が飛ぶ。
「アビ介、お茶切らしてるぞ。コンビニで買ってきてくれ」
あわてて外へ走り、急いで戻ると、今度は別の声。
「アビ介、師匠にお絞りもってって」
両手に荷物を抱えて、畳の上を急いで歩いたその瞬間――足がもつれた。
「ズルッ」
あっという間にお尻から着地。
すると、あちこちから笑い声。
「アビ介、高座に上がるまえから滑ってどうすんだ!」
師匠や先輩方もニコニコしている。
…あれ、なんかウケてる?
僕は心の中でガッツポーズをした。
(ボク、しっかり笑い取ってるじゃん!)
今日の教訓――寄席は舞台だけじゃない。控えの間からもう“芸”が始まっている。
ーー8月2日(土) 晴れ (続き)ーー
新恋話寄席でのお手伝いが一段落して、師匠に「1階、降りるで」と声をかけられた。
寄席の1階は喫茶「ことの葉」。木のドアを開けると、コーヒーと焼き立てワッフルの甘い匂いがふわっと広がった。
奥の席に座ると、師匠が「マスター、アイスココアふたつ」と注文してくれた。
僕はストローで氷をカランと鳴らしながら飲んでいると、師匠が笑いながら言った。
「見とったで。今のうちから真打さんたち笑わしてるんや、たいしたもんやで」
――これ、褒めてますよね? いや、たぶん褒めてる。
でも続けて、ちょっと低い声でこう言った。
「でもな、お客さんを笑わせんと一人前とは言えんな」
それから、目を細めて僕をじっと見つめる。
「アビ介、お前はワシの見立てより筋がいい。それでも二つ目になれんのは10年先やな」
10年…! 僕が24歳になるまで!?
心の中で遠い未来を想像していたら、師匠の声が続く。
「それがもっと早くなるか、遅くなるかはお前次第や。先輩たちの言うことすること、言われることされること、全部頭の中で絵に書いて残すんや。マネするのもええ。でもいわれた仕事はしっかりやらなあかん。畳でこけてるようじゃダメや。頭をフル回転させるんや!」
暖かいけど、芯のある言葉だった。
アイスココアは冷たいのに、胸の中はなぜかぽかぽかしていた。
今日の教え――笑わせるのは、転んでウケを取ることじゃない。本当の笑いは、お客さんの心にちゃんと届くものだ。
ーー8月3日(日) 晴れーー
今日は“二箇所回り”というやつだ。
午前中は錦糸町演芸ホール。
師匠のお弁当と、身の回りの荷物を持ってお供する。
楽屋の大部屋に着くと、他の噺家さんたちが湯呑を片手にネタ帳をのぞいていた。
昼は師匠と一緒にお弁当を食べる。おかずは唐揚げと卵焼き。こういう時の卵焼きは、なんだか特別うまい。
午後3時ごろ、新恋話寄席へ移動。
今日はお客さんの座布団を並べるのが僕の担当。
でも、ただ置くだけじゃない。座布団の端がきちんと揃っているか、シワがないか、先輩がじっと見ている。
ちょっと緊張しながらも、なんとかOKをもらった。
17時頃、師匠の家に戻ると、師匠はちゃぶ台の横で気持ちよさそうに寝ていた。
「師匠、時間です」
小声で起こすと、むくっと起き上がって「おう」と一言。
着物に着替え、18時ちょうどに師匠を送り出した。
そのあと、僕は師匠の部屋を片付け、掃除機をかける。
ちゃぶ台の上の湯呑を洗って、夏休みの宿題も少し進めた。
明日は師匠がお休みなので、竹ノ塚の家に帰る。
次の泊まりは8月6日(水)から。月曜と火曜は僕の休みだ。
久しぶりにアヌシュカと遊ぼう。修行の成果でたっぷり笑わせてやるつもりだ。
ーー8月6日(水) 晴れーー
今日からまた師匠のもとで内弟子修行が再開。
荷物を置いたら、いきなり師匠が言った。
「アビ介、将棋できるか?」
え、将棋?
「パパに教わってチェスならできます」
そう答えると、師匠はニヤッと笑って言った。
「将棋はな、落語にもよう登場するんや。知っといたほうがええで。…でも新作落語やったらチェスやオセロでもええかもな」
そう言いながら、ちゃぶ台の上に将棋盤を広げる。
師匠は駒を並べながら、ざっと説明してくれた。
「王将・玉将、金銀2枚、桂馬2枚、香車2枚、桂馬の上に左角行、右に飛車。最前衛に歩が9枚や。取った駒は、開いてるマスならどこでも置ける。ただし縦に2歩はアカン(”と金”はOKや)。動きは…やりながら覚えるやろ」
僕は将棋の駒を見ながら、頭の中でチェスに変換する。
歩は pawn、飛車は rook、角は bishop…いや、師匠は「クイーン」って言ったけど、それは飛車と角を合わせたイメージだ。
香車は縦にしか進めない rook、桂馬は knight に似てるけど飛び方が独特、金銀は…なんか複雑だ。
王将はもちろん king。
説明が終わると、すぐにゲーム開始。
「歩はこうや」
師匠が一手進める。僕も同じ駒を真似して動かす。
駒同士が近づくと、ちょっと緊張する。
角や飛車、香車の通り道が開いたとき――そこが一番危ない、と師匠は言う。
最初は駒の動きに迷ってばかりだったけど、なんとなく“攻めの形”が見えてくると、ちょっとだけ面白くなってきた。
今日の教訓――将棋も落語も、まずは真似から。だけど、油断すると一手でひっくり返される。
ーー8月6日(水) 晴れ (続き)
将棋の駒を動かしていると、師匠がふと手を止めた。
「アビ介、上方将棋に『大名将棋』いう噺があるんや」
師匠は駒をぽん、と盤の真ん中に置きながら話し始めた。
「これはな、自分の都合でルールを曲げるお殿様が出てくる。普通に将棋やる連中も、「まった!」とかズルしてくるやつはおるが、殿様だから、堂々とルールを曲げてくる。たとえば『今日は金は斜めにしか進めんのや』とか、『飛車はワシの番だけ二歩動ける』とか。
ほな家来たちは『ははぁ〜』言うて従うやろ。でもな、そうやって好き放題やってるうちに、逆に負けてしもうて…そしたら『将棋やったら切腹じゃ!』や」
師匠は少し笑って、僕の顔をのぞき込んだ。
「強いもんには逆らえん。けど笑いもんにはできる。…この話聞いた人、どんなこと思たんやろな?」
僕は駒を握ったまま考えた。
チェスでも将棋でも、ルールを自分だけ変えたら、それはもうゲームじゃない。
でも噺の中では、それを笑いに変えてしまう。
…もしかして、それが落語の力なのかもしれない。
師匠は何も言わずに、盤の端にある僕の飛車を指さした。
「ほれ、考えてる間にやられるで」
盤上では、すでに師匠の角が僕の陣地に切り込んでいた。
ーー8月6日(水) 晴れ (続きの続き)ーー
師匠と将棋を続けながら、僕はふと思った。
「落語って、話の中に、『それって間違っているんじゃないの?じゃあこうしてみよう』、とか。普通の人たちの生活の中にちょっとした気づきを与えて、ただ笑うだけでなく、深く考えさせる。」
師匠が駒を置きながら「ほう、どういうこっちゃ?」と首をかしげる。
僕は少し考えてから話し始めた。
「僕が生まれたばかりのことを、父が話してくれたことがあります」
「アビシェクが生まれたばかりのころ、パパは乳母車を押して公園に行ったことがある。
ベンチに座っていたおばあさんが、もの物珍しそうにこっちを見て、近づいてきた。
『こんにちは』
『こんにちは。お散歩ですか?』と言うと。
おばあさんは少し驚いた顔をして言った。
『日本語わかるのね。赤ちゃん見せてくれる?』
『どうぞ』と乳母車をのぞかせると――そのおばあさん、顔を顰めて
『まあ栗みたい!』
パパはその言葉の意味をすぐに理解した。
アビシェクの肌の色のことだ。
でも、パパは笑ってこう言ったんだ。
『栗ではありませんよ。トゲもありませんし、拾ってきたわけでもありません。
――でも栗と同じところがあります。かわいくて甘い香りがします』ってね」
ここまで話すと、師匠は手を叩いて笑った。
「うまい! ザブトン10枚や!」
それから少し真面目な顔になって、
「ラヴィさん、賢いなあ。アビシェクがよい子に育つわけや」と言った。
僕はうなずいて言った。
「うん、落語にも通じるところがありますね」
相手を笑わせながら、ちゃんと優しさを届ける。
駒を動かす手のように、その一手には意味がある――そう思った。
ーー8月7日(木) 快晴ーー
今日も気温は35度を超えている。
じりじりと焼けるような日差しの中、僕は来福師匠のお供で出かけた。
最近、師匠が力を入れている「出張稽古」というものがある。
地域の落語愛好家の会に呼ばれて、一席演じたあと、解説を加え、アマチュア落語家にコーチングをするのだ。
意外なほど評判がいいらしく、僕が内弟子になってから、もう2回目の出張になる。
行き先は、公民館や図書館の文化ホール。
だいたい必要な機材は揃っているけれど、師匠のノートパソコンや小物はリュックに詰めて、僕が運ぶ。
こういう地味な役目が、妙にうれしい。
そういえば、出張落語の説明会で使うパワーポイントの資料も、僕が作った。
以前、アバス兄さんにパワポの使い方を教わっておいて本当に良かった。
師匠が資料を見て「ええやん、これ」と言ってくれたときの、胸の中の誇らしさ――
それも、この炎天下の暑さに負けないくらい熱かった。
公民館の広間にパイプ椅子を並べ終えると、もう背中に汗がにじんでいた。
それでも開場すれば、三十人以上のお客さんが席を埋めていた。
いつもの新恋話寄席よりずっと多い。
師匠は二十分ほどの新作落語をやり終えると、軽く一礼して挨拶を始めた。
「えー本日は、大変お暑い中、せっかく公民館に涼みに来ていただいたのに、暑苦しい噺家の落語にお付き合いいただき、感謝の言葉もございません。よっこいしょ」
立ち上がって、着物の裾を軽く整える。
それだけで客席から笑いがこぼれるのは、やっぱり師匠の間合いだ。
マイクを手に、師匠はプロジェクターのパワーポイントをめくっていく。
「落語の寄席はもっと狭い所で、ウチの近くの新恋話寄席は二十人くらいしか入れません」
写真を指示棒で示しながら話が続く。
「楽屋裏はもっと狭くて八畳間ぐらい。ここでネタ帳んだり、着替えしたり、休憩したりします。四人ぐらい入ると足の踏み場もありませんな。前座さんが給湯室で真打のお茶を入れたりしています。ほら、この子や」
画面には、湯呑を盆に載せて運んでいる僕の写真が映し出されていた。
師匠はすかさず壇上の僕本人を指して、指示棒を軽く振る。
客席がどっと笑う。
僕は少しだけ背筋を伸ばし、でも笑顔を崩さないようにした。
「こういう会場を利用させてもらえて、本当にありがたいと思ってます。上方落語は胃にもたれる、というお声もいただいておりますので、江戸前の新鮮なネタを用意した若手もおります。新恋話落語チームのURLは、えいちてーてーぴーえす、ころんすらすら、しんこいわよせ、どっと、こむ。[https://shinkoiwayose.com]でございますので、お問い合わせはこちらまで」
師匠の声は、笑いと拍手に包まれながら、広間の隅々まで届いていた。
僕は壇上で、その背中をまじまじと見つめていた。
ああ、やっぱりこの人の弟子で良かった——そう、胸の奥で思いながら。
このパワポの内容は、もうすっかり覚えている。
自分で構成を考え、スライドを並べたからだ。
やっぱり、人に説明する準備をすると頭に入る。
——中間や期末テストのときも、この方法を使ってみよう。
師匠の説明は、次のページに移った。
「2020年の新型コロナのときは、参りましたな。『密です』ゆうて、真っ先に自粛させられました」
画面には、シャッターを下ろした寄席の写真。
師匠は首をすくめて、客席からため息混じりの笑いを引き出す。
「今は2025年。すったもんだありまして、ようやく皆さんを寄席にお誘いできるようになりました。密だからこそ、お客さんの反応が伝わりやすく、若手に格好の修行場となっております」
僕は横で頷く。
確かに、客席との距離が近い分、笑いも、ため息も、すぐ飛んでくる。
一言一言が、まるで目の前で刀を受けているように鋭く刺さるのだ。
師匠の口調は、少し熱を帯びてきた。
「勉強会と称して、客席がほとんど前座と二つ目だけの日もあります。大きい演芸場はそれはそれで鍛えられるんですが……寄席の勉強会は、ほとんど笑うやつもおらず、穴の開くほどジーッと見られるんで、戦いのリング上みたいな緊迫感がありますな」
画面には、寄席の狭い舞台から見た、観客席の写真。
その無表情な観客の中に、自分の姿を重ねる若手も多いはずだ。
「その様子を見るために、ワシら真打も勉強会に参加しますんや。なんか指導するわけでもありませんが……若手同士のスパーリングで強くなっていく人も多いです」
師匠はそう言いながら、スライドを切り替えた。
次の写真には、舞台袖から覗く真打の姿。
あの背中が、若手にとっての「見られている」緊張感そのものなんだ。
僕は胸の奥で、またひとつ小さく決意を固めた。
——いつか、このリングで堂々と立てる日まで。
ーー8月8日(金)ーー
朝方に少し雨。窓の外が白く煙っていたのは、きっとそのせいだ。
けれど午前のうちに雲は消え、あとは陽射しが容赦なく照りつける。
今日も、蒸し暑くなりそうだ。
今日のお出かけ先は大学。
てっきり落語研究会だと思っていたのに、案内されたのは英語弁論部の部室だった。
中はクーラーの冷気と、紙とインクの匂いが混じっていて、外の暑さを忘れさせる。
この部には、落語の翻訳を自主的に行っているグループがいるという。
師匠は椅子に腰を下ろしながら言った。
「古典落語の英文紹介サイトは結構あるけど、ワシのやるような新作落語はほとんどないからな。助かります」
グループ代表の学生は、少し照れ笑いを浮かべて答えた。
「とんでもないです。僕たちの研究、教授連にも好評で、お借りした師匠の動画に英文アテレコと字幕を入れて発表しています」
パソコンの画面には、師匠の噺と、それに合わせた英語字幕。
動きも表情も、間違いなくあの落語だ。時間配分も測ったようにピッタリだった。
この英語音声と字幕はスマホでも再生できるようにしてあって、外国人観光客が寄席を楽しむためのツールとして公開しているらしい。
「大学生のお兄さんたちは、すごいな……」
僕は心の中でつぶやいた。
いつか、自分の落語にも、こうして字幕をつけてもらえる日が来るのだろうか。
サークル代表のお兄さんが、にこやかに言った。
「今回、師匠の『金庫破りの銀二』を翻訳してみました。これ、絶対外国人観光客にウケますよ」
師匠はうれしそうに眉を上げて、
「そうですか、ウチのアビ介に聞かせてよろしいですか?」
と僕のほうをちらりと見た。
「アビ介は家でバイリンガルしてますので、今、感想聞いてみたいと思いませんか?」
お兄さんの顔がぱっと明るくなった。
「そりゃすごい! アビ介くん、ぜひお願いします」
パソコンのスピーカーから、軽快な英語が流れはじめた。
耳を傾けると、リズムも間も絶妙で、噺の面白さがちゃんと生きている。
さすが、“伝える英語”を学んでいる人たちだ――ああ、こんな表現になるのか、と僕は感動した。
再生が終わると、思わず言葉が出た。
「すばらしいです。あとで父や母にも聞かせてみます! きっと大笑いですよ」
部屋の中が、少しだけ誇らしい空気に包まれた。
暑い夏の日なのに、その空気はひんやりとして心地よかった。
ーー8月9日(土) 晴れーー
連日の炎天下で、さすがに体が重い。
でも修行中の身、しかも課題の自由研究の一環だと思えば、弱音は吐けない。
今日は夕方の寄席の前、先輩や仲間たちと一階の喫茶店「ことの葉」に立ち寄った。
冷房の効いた店内に入った瞬間、ほっと体がゆるむ。
先輩の前座、叫日家むん句兄さんが、テーブル下のマガジンラックからA3サイズのくたびれたノートを取り出した。
「アビ介くん、これ知ってる?」とやさしい声。
その名前とは正反対に、茶髪のボブヘアーで細身、少しオカマっぽい話し方をする兄さんだ。
「これは“言の葉通信”っていって、誰でも自由に書いていいノートなの。読んだら、自分もなんか書いとくのがマナーよ」
すすめられてページをめくると、どれも3〜4行の短い文章。
中には、1ページいっぱいにイラストを描いて、詩を添えている人もいた。
ただのノートなのに、何だか宝箱を開けたような気持ちになった。
ページをめくっていくと、ふいに目にとまる一文があった。
角ばった男っぽい文字。
> 自分は相撲に向いてないんじゃないかと最近思います。
> 相撲部屋に入門して3年になるけど、未だに”番付前”。
> ついに後輩にも抜かれた。
> 今年ダメだったら国に帰って就職しよう・・・
読み上げると、むん句兄さんはうなずいた。
「力士を目指して悩みを書き込む人もいるんですね」
「ああ、この辺は相撲部屋もいくつかあるからね。辞めてくお相撲さんも多いわよね」
「僕は師匠から、二つ目になるまで10年以上かかるかもって言われてます。20年かかっても諦めるつもりはありません」
そう言うと、むん句兄さんは少し笑って首を振った。
「現実を前にしては諦めも必要。アタシはあと5年で目が出なかったら、実家の仕事を継ぐわ。親にも約束したしね。でもギリギリまで引かない覚悟よ」
一見なよなよして見える先輩が、実は強い覚悟で臨んでいる。
その姿に、少し驚き、そして胸の奥が熱くなった。
ーー8月10日(日) 曇りのち雨ーー
台風が近づいているらしい。朝から空はどんより。午後からは雨になるそうだ。
今日は師匠が錦糸町演芸ホールで午後の部と夕方の部、まさかのダブルヘッダー。
今週は大看板の飛鳥山ひばり師匠が法事でお休み中。
女性落語家の中でも指折りの人気者だ。ホールの集客の半分はあの師匠の存在と言っても過言じゃない。
その穴を埋めるべく、来福師匠の双肩に期待と責任がのしかかっている。
「生憎の雨で客足も鈍るだろうけど、手ぇぬかんで!」
楽屋で師匠が両手をぐっと握って気合を入れた。
その声はまるで、波打ち際に立つ漁師が嵐の海に挑むときのようだった。
僕は思わず「八卦良い!」と心の中で唱えた。
たとえ空は暗く、風が湿っていても、師匠の背中は晴れて見える。
ーーおかえり、アビシェクーー
19時。
玄関のドアを開けると、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐった。
「アヌシュカ、ただいま!」
声をかけると、奥のリビングからパタパタと足音が近づいてくる。
今日が8歳の誕生日の妹アヌシュカが、満面の笑みで飛びついてきた。
「アビシェク!おかえりなさい!」
リビングには父ラヴィと母イヴリン、そして遠くに住むアバス兄さんがZoomの画面越しに映っていた。
「アバス兄さん、今年はママのケーキが食べられなくて残念だね~」
「そうだな」とアバスが笑い返す。
なにか、スマホの向こう側が騒がしい。画面の中で走り回り、奇声をあげる女の子たちの様子が見える。
「実は、島原さんがアヌシュカのためにバースデイケーキを焼いてくれたんです!――そして今、ここは島原さんのおうちなんだよ!」
島原家では、真奈美さんの「あんたたち、騒いでないで手伝いなさい!」という声が聞こえる。
真奈美さんはこの夏、田中オフィスに泊り込みバイトをするアバスくんの寮母さん役を買って出た。ご主人の智充さん、14歳の長女・美奈子と、13歳の次女・真美、そして、同じ田中オフィスの伊原隆志行政書士の娘、伊原真由(7歳、小学1年生のしっかり者)をこの夏ホームステイで預かって、娘たちの実の妹のようにして面倒をみていた。
その真美が、画面の向こうでアバスのスマホを奪い取るように顔を出した。
「真美でーす! ハッピバースデー! 初めましてアヌシュカ! こちら、アヌシュカパーティー第二会場・島原家でーす!」
すると、真由もすかさず割り込む。
「アヌシュカちゃーん! 真由ですよー。1年生の7歳です!」
さらに、美奈子が低音ボイスでアピールする。
「アビシェクくん、同じ中二の美奈子ですよ。(低音で)現在彼氏募集中なんス、よろしければライン交換ヨロシクゥ!」
「ちょっと、お姉ちゃんズルい!」と真美が笑いながら抗議する。
メイン会場を上回る勢いで盛り上がる第二会場に、アヌシュカは両手をあげて叫んだ。
「うは~! アヌシュカの誕生日、お祭りみたいになっちゃった!」
ラヴィはそんな様子を見て、イヴリンに目をやりながら笑った。
「こりゃみんな、今夜は夜更かししそうだな」
二人の笑顔の間には、雨音さえ消えるほどの温かさがあった。
ーー舞台を見つけたイヴリンーー
ラヴィは、最近のイヴリンの変化を密かに喜んでいた。
長男アバスが長期の泊まり込みバイトと夏期講習に通い始めたとき、イヴリンはその背中を見送りながら、子供が成長して巣立っていく淋しさを痛感したようだった。
いつか来る別れの日を、考えないように、その淋しさを紛らわすかのように、彼女は仕事に没頭していた。ラヴィは、イヴリンの胸のうちの苦悩を痛いほど感じていた。
だが、最近になって様子が変わった。
「ヒア.ウイゴー」の活動に参加し、YouTube動画の撮影や編集を手がけるようになってから、イヴリンは急に積極的で、そして明るくなったのだ。
「ラヴィ、今日、自宅で撮影するの。ソファに寝転がってると、そのまま配信されちゃうかもよ!」
突然の一言に、ラヴィは反射的に飛び上がった。
イヴリン、なにか新しい希望を見つけたようだ。
——自分の「舞台」を見つけたのだな。
そう思うと、胸の奥に温かいものが広がった。
その夜。
「ケーキ完成! さあ、Zoomで合図して! クラッカー鳴らすわよ!」
イヴリンは笑顔で台所から出てきた。
画面の向こうでは、島原智充が声を張り上げていた。
「はいっ! こちら島原です。京都からシャンパン抜きます! あ、未成年はシャンメリーね! じゃあ、いきまーす——」
「3、2、1!」
「ハッピーバースデー!」
京都と東京のスマホ画面越しに、シャンパンの音とクラッカーの破裂音が同時に響いた。
その瞬間、離れているはずの二つの部屋が、一つの祝いの場になったようだった。
ラヴィは、クラッカーの紙吹雪の向こうに、笑顔で「舞台」に立つイヴリンの姿を見ていた。
ーー飲みたいオジサンーー
島原家の居間は、ケーキの甘い香りと、シャンパンの泡の匂いでむせかえるようだった。
京都の夜は、クーラーを切って外の空気で涼を取っている。障子の向こうから、虫の声が細く流れ込んでくる。
――しかし、テーブルの一角では、涼しさとは無縁の三人がすっかり出来上がっていた。面白いので、アバスくんがZoomで映像を東京のシャルマ家に流す。
田中社長は、ビールのあとにシャンパンを立て続けにあおり、舌がまともに回らない。顔は茹でダコのように真っ赤だ。
「アヌシュカはん……おおきくなったら……わが社、田中オフィスに……来てなぁ……。いま、若い人材……必要しておる!き、君はわが社の希望のひかりや……!」
隣の竹中顧問は、さらに輪をかけて夢見心地だった。
スマホの画面をのぞき込みながら、潤んだ目で言う。
「おお……スマホ越しに……天使が……見える……。君は、あの……魔法少女リリー……そう、君の笑顔が……町中にゆめと笑いを……ふりまくのだ……」
画面の向こうで、酒にはちょっと強い智充さんが、苦笑しながら手を振った。
「オジサンたち、ちょっと飲みすぎてるみたいですね~。アヌシュカちゃん、ウチの娘たちも楽しみにしてるから、こんど京都に遊びにきてね~」
アヌシュカは目を丸くし、ケーキの横で小さく「はい」と答えた。
その声に、田中社長と竹中顧問は同時にナゾの拍手をし、感嘆のため息を漏らす。まるで天から祝福を受けたような顔をしている。
宴は、甘くて、少しおかしくて、温かかった。
ーー続くーー