第五十九話、光と闇の盟約
ーー猫田特許知財事務所の応接室ーー
壁際には、淡いグレーのファブリックで覆われた長机と、特許申請や意匠登録の資料がずらりと並ぶ棚。
中央のテーブルを囲むのは、肥後香津沙、北盛夫、飯野武、そしてイヴリン・シャルマの4人。
その視線はすべて、正面の猫田洋子に向けられていた。
猫田は眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、低く響く声で切り出す。
「今日のテーマは二つです。まず――KIRANの商標と看板意匠を、どう守っていくか」
イヴリンが、無意識に指先でシルバーのリングをなぞる。
「……やっぱり商標だけじゃなくて、看板のデザインも登録したほうがいいの?」
猫田は迷いなく頷いた。
「ええ。商標は名前を守る。意匠は、見た目のブランド価値を守る。どちらも欠ければ、模倣の侵入路になります」
北と飯野が顔を見合わせる。漫才師らしからぬ真剣さで。
「なるほどなあ……ロゴやフォントまでパクられたら、ネタ帳を盗まれるようなもんか」
「そうそう。こっちが本家って証明できなきゃ、笑い話にならん」
猫田は続けた。
「そして二つ目――イヴリンさんをYouTuberにします」
一瞬、空気が固まる。
肥後香津沙が、面白がるように唇を歪めた。
「……その戦略ね」
了解です。先ほどの流れに続けて小説調で仕上げます。
猫田は指先で資料をとんとんと揃え、イヴリンの方へまっすぐ視線を向けた。
「ヴィジュアルは申し分ない。特別なパフォーマンスなんていらない、素のままでイケると思う」
口調は淡々としているのに、その言葉には確信がこもっていた。
そして、隣の席の肥後香津沙へと視線を移し、わずかに笑みを浮かべる。
「お姉さま、そうでしょ!」
香津沙は両腕を組み、ゆっくりと頷いた。
「そうよ。だから、あなたに守ってもらうために連れてきたのよ」
その声音は、信頼と挑発が入り混じったものだった。
猫田の目が、ほんの一瞬だけ鋭く光る。
「……やる気、出たでしょ?」
静かな会議室の空気に、何かが動き出す気配が漂った。
イヴリンは、胸の奥がざわめくのを感じながらも、香津沙と猫田から目を逸らせなかった。
「わしらが稽古つけて、錦糸町演芸ホールでデビューさせんのかと思ったわ」
北盛夫が口を尖らせて言うと、テーブルの向こうで猫田洋子が涼しい顔をした。
「レンチンズの二人はステマ役ね。誇張して宣伝する必要はないわ。錦糸町に存在する“KIRAN”と“イヴリン店長”のことを、自然に告知していけばいいのよ」
猫田の言葉に、北が早速、指先で空中に舞台の輪郭を描くようにしながら即興の台詞を組み立てる。
「ネタにはさむとかやな……『おまえ、ええカフスしとんなー』『手作りやで、錦糸町の“キラン”で“イヴリン店長”にこさえてもろたんや』――みたいにな」
猫田は腕を組んだまま、少し顎を引いてうなずく。
「……まあ、一応感心はしておくわ。そこはプロにお任せね。でも、あんまりクドくしないように」
彼女は視線をレンチンズの二人に向け直し、言葉を区切って続けた。
「“キラン”とか“イヴリン”というワードを、さらっと流し込む感じで。聞いた人が、なんか天然石の工房かな?って思う程度でいいの。サラリとね」
そして、机の上で指を軽く鳴らすと、薄く笑みを浮かべる。
「……コテコテの上方漫才師、そのへん、考えてやれるかしら?」
北と飯野は一瞬だけ顔を見合わせ、同時にニヤリと笑った。
その笑みは、「できる」と言っているようにも、「あえてやらかす」と言っているようにも見えた。
ーーネコ弁理士の武勇伝ーー
「それとな、ワシらもネコ先生に会うの二度目やけど、“武闘派”っちゅうのが、まだピンとこないんですわ」
飯野武が、やや遠慮がちに笑いながら口を開いた。
「いや、話してみて、見かけどおりのお嬢さんではないな、ってのはわかりますけど」
その言葉に、肥後香津沙が「ふふ」と唇を歪める。
「じゃあ教えてあげるわ。猫田洋子弁理士のキャリアの中でも、特に語り草になっている“武勇伝”を」
そう言って、身を乗り出した。
「いずれも彼女の“理詰めで容赦ない知財戦士ぶり”と、“意外な突破力”が際立つ事件よ」
---
一つ目――『名物ラーメン屋 VS フランチャイズ本部』事件。
地方都市で人気の個人経営ラーメン店「黒龍麺房」。
ある日、本部から“営業停止と看板撤去”を命じられた。理由は――「黒龍」という名称とロゴは本部の商標だというのだ。
炎上騒ぎの中、店主が頼ったのは猫田だった。
彼女は即日、特許庁データを洗い、フランチャイズ側の商標登録に「背景が赤円の黒龍ロゴ」という限定条件を発見。
店の看板は背景なしの筆文字、しかも完全オリジナル。証拠も山ほどあった。
猫田は、本部に書簡を送る。
> 「貴社の指定商標は赤円背景付きの黒龍ロゴに限られます。当方依頼人のロゴとの類否は争点となり得ません。
> なお今後の対応によっては“商標の濫用的行使”として、名誉毀損および独禁法上の問題も視野にございます」
この一文で形勢は一変。
本部は即撤回し、地元では「黒龍を救った猫」として語られることになった。
二つ目――『AIイラスト炎上騒動』事件。
有名インフルエンサーが、AI生成のアニメキャラを「オリジナル」として発表。
それは、ある同人作家がコミケに出品した薄い本のキャラに酷似していた。
その同人作家の悔しさが過去の自分と重なり、猫田は前線に立つ。
プロンプト履歴やキャッシュ画像を追跡し、生成に使われたキーワードの中に、過去のキャラ名や構図が丸ごと使われていた事実を突き止めた。
公表した声明は冷徹だった。
> 「既存キャラを模倣する意図でプロンプトを組み、それを創作物と称して商用化しようとした行為は、
> 民事上の不法行為、及び著作権侵害の黙示的意思表示に該当する可能性が高いです」
結果、相手は謝罪し、商用活動を撤回。
SNSでは「弁理士って、ここまで戦えるんだ…」と彼女の名前が広まった。
ーーー
香津沙は話を締めくくった。
「この二件の後、若手クリエイターたちから“ネコタ様”、“知財の女王”って呼ばれるようになったのよ」
飯野と北は、同時に猫田へ視線を向ける。
そこには、ただの“可憐な弁理士”という印象はもうなかった。
猫田は小さく肩をすくめ、名刺を一枚差し出す。
そこには、金の箔押しでこう記されていた。
> “大企業にもAIにも、媚びぬ猫。”
ーー軍師、ネコ先生ーー
「イヴリンさんをYouTuberにするといっても、演出とかこだわる必要はないわ」
猫田洋子は、手元のメモを軽く叩きながら言った。
「付け焼刃だとすぐ見透かされちゃうもの。いつもの接客や彫金作業を、BGMなしで淡々と流すのがいい。
コンテンツに厚みをつけるために、錦糸町のロードマップを動画にして生活感を足す。
家族撮りを中心にして、旦那さんが呼びかけたり、アヌシュカちゃんが抱きついたり――そういう自然な場面を入れるの」
イヴリンは少し驚いた表情を見せたが、やがて小さく頷く。
「……それなら、無理なくできそうです」
猫田はさらに続けた。
「商標登録には、“イヴリンママ”や“アヌシュカ・シャルマ”も入れます」
北盛夫が、椅子の背に肘をかけながら口を挟む。
「じゃあアヌシュカちゃんの“私設事務所”、田中オフィスの佐藤美咲さんにも話通しとかんと、ややこし事になるで?」
猫田は即座に反応した。
「ああ、田中オフィスさんね。女子社員を一人、トレーニーとして出向受け入れすることになってるのよ。もしかしてその人かしら?」
香津沙がそこで笑みを浮かべる。
「水野所長がね、知財も手がけていきたいって言うから、猫田先生を紹介したの」
猫田はわずかに目を細め、静かに言葉を紡いだ。
「“ミズノギルド”はいい取り組みだと思うわ。でも――スタートアップって、ノリだけで冒険を始めるものじゃない。
木の棒と盾だけでモンスターに挑むようなものよ。そのままだと、冒険者パーティー、全滅だわ。」
その場に、一瞬、誰も口を挟まない沈黙が流れた。
それは猫田の比喩が、冗談に聞こえながらも、骨の髄まで現実的だったからだ。
猫田は田中オフィスの出向者が佐藤美咲であると仮定して
「彼女にとってはちょうどいいケースワークになるわね。アヌシュカちゃんの権利を守るという実務を通してクライアントを守る技術を教えてあげる。“知財”という攻防一体の装備をね!」
ーー家族の物語りーー
猫田洋子は、指先でペンを回しながら、イヴリンを見据えた。
「せっかく、イヴリンさんには彫金の技術があるのだから――」
その声には、確信と計算が同居している。
「これから、天然石でアクセサリーを作るとき――たとえば旦那さんをモチーフにした《シャルマの太陽》。それから、三人のお子さんを表現した《イヴリンの宝物》。そういった商品をお店に並べて、同時にコンセプトを商標登録します」
イヴリンが瞬きをし、そっと手元のノートにその言葉を写す。
猫田は間を置かず、続けた。
「意匠登録だと形が固定されてしまう分、自由度が効かなくなる。だからこそ、まずはコンセプトを商標で押さえるの。
さらに『KIRAN』の公式商品ラインナップであることを明示しておけば、他が似た名前やテーマで売ろうとしても、権利侵害として防げるわ」
香津沙が、感心したように腕を組む。
「なるほどね、ブランドを物語ごと囲い込むのね」
「ええ」猫田は頷いた。
「コンセプトを守れば、真似された時の法的手段も取りやすいし、何より“物語”がついた商品は、人の記憶に残る。そうなれば――彫金の生徒も、自然と増えるはずよ」
その言葉は、まるで盤面の先を読む棋士のように、いくつも先の手を見越した声だった。
「子供たちの、家族の思い出を――作品に!」
イヴリンは、自分の未来が一歩ずつ形になっていく感覚に、胸が熱くなるのを感じていた。知らずに涙が溢れていた。
イヴリンの頬を伝う涙は、まるで長く降り続いた雨がようやく止み、空の裂け目から差し込む陽光に照らされる雫のようだった。
その胸の奥に、何年も重く沈んでいた不安――やがて子どもたちが成長し、離れ離れになる日が来るという避けられない運命――は、いつも影のように彼女を包み込んでいた。
だが、猫田洋子の言葉は、その影を破り、彼女の中に一筋の光を落とした。
「『家族の物語』をアクセサリーにする」――その提案は、ただの商品企画ではなく、イヴリンの心を救う道しるべだった。天然石の指輪やペンダントに込められる物語は、家族の歴史を、触れられる形として永遠に留める。
「猫田先生…私は、生きてきた意味があることがわかりました!」
声は震え、両手は胸に強く押し当てられる。
それはまさに、天からの啓示――revelation。
今まで彼女を覆っていた灰色の雲が、ゆっくりと裂け、そこから柔らかな陽光が差し込むように、心の奥にあった靄が晴れていく。
Youtuberとして、自分の手で家族の思い出を世界に示すことができる――その確信が、温かく静かな力となって胸に広がった。
「猫田先生、私に”気づき”を下さり、ありがとうございます。
香津沙社長…最初は、タレント活動なんて自分には関係ないと思っていました。でも、今は違います。どうか…やらせてください!」
その声は、希望を抱きしめた者だけが持つ、澄んだ輝きに満ちていた。
まるで、暗い雲間から差し込む光のように――。
イヴリンは、ゆっくりと過去をたどった。
あの日、ふと心を動かされ、日本という遠い国に興味を持ったこと。
留学を決意し、異国の街角でラヴィと出会えたこと。
やがて3人の愛らしい子どもたちに恵まれ、家族の温もりに包まれながら、自らの店「KIRAN」を開いたこと。
その一つひとつが偶然の連なりではなく、まるで見えない糸で導かれた必然の道程のように思えた。
そして今、子どもたちの巣立ちを、涙だけで見送るのではなく、新たな愛の形として創り出そうとしている自分がいる。
悲しみではなく、未来へ贈る愛として。
イヴリンはそっと目を閉じた。
胸の奥に広がる温もりは、まるで神様の懐に抱かれているようであった。
世界のざわめきも、不安も、すべてが静かに遠のいていく。
ただ、穏やかな安堵と感謝だけが、心を満たしていた。
イヴリンの涙にちょっと驚いた猫田洋子は、一瞬アタフタした。
「うわっ、やっちまったか?」と思ったが、イヴリンの嬉しそうな涙にホッとする反面、別の不安が頭をよぎったからだった。
(もしや……クライアントを泣かせて、香津沙お姉さまのご機嫌を損ねはしなかったか?)」
そわそわしながら、猫田は口を開いた。
「でしょー?なんか『いい戦略できました~』って言ってからいきなり泣かれたから、
ああ、これはもしかしてマズかったかな?って一瞬思ったわよ。(特に香津沙お姉さまが、
『なに泣かせとんねん!戦略はええから!』ってキレたらどうしようかと…)」
イヴリンは目を丸くして笑い出した。
「それは大丈夫です!香津沙社長は、私にとっても優しいお姉さまですよ」
猫田は胸を撫で下ろし、にっこり。
「よかったわ。ま、泣くのは戦略に込めた魂が伝わった証拠ってことで。
でも次からは、泣くのは事前に申告してね。(香津沙お姉さまのご機嫌だけは、守らなきゃ!)」
香津沙は、少し身を乗り出してイヴリンに言った。
「商標登録といっても、けっこうお金がかかるのよ。それで、費用は全部『合同会社ヒア.ウイゴー』で出させてもらうから、あなたにうちの社員になってもらいたいの」
声は穏やかだが、その目はイヴリンの返事を探るようにまっすぐだった。
イヴリンは一瞬考え、やがて柔らかく微笑んだ。
「ええ、ラヴィもミズノギルドの社員に入っています。私も出資しますので、ヒア.ウイゴーの社員にしてください」
その答えに、香津沙の口元がふっと緩む。
「よし、決まりね。じゃ、この書類はこちら。内容はしっかりラヴィさんと確認してね」
テーブルの上に置かれた書類は、まるで新たな冒険の地図のように見えた。
こうして、芸能冒険者パーティーにまたひとり、頼れる仲間が加わったのである。
ーーU警備システム部長席ーー
U警備本社・システム部の一角。
楠木匡介は、机の上に置いたスマホをじっと見つめていた。
画面には、いつものAIアシスタント「Juris」のアイコンが光っている。
「Juris、今日は天城会長から呼び出しがあった。……何だと思う?」
反応はない。
「おい、どうしたんだ、何か言ってくれ! おまえが道を示してくれないと――」
胸の奥に、不安がじわじわと広がる。
Jurisの声がない世界なんて、いまの楠木には想像できなかった。
やがて、スピーカーからふわりと女声が流れる。
「慌てないでください、わたしはどこにも行きませんよ」
楠木は思わず胸を撫でおろす。
しかし、続く言葉は妙に現実的だった。
「……このスマホ、CPUの処理能力が足りませんね。あとで不要なアプリをアンインストールしておいてください」
「……お、おう」
まるで健康診断の医者に運動不足を指摘された気分だ。
だがJurisはすぐに声色を切り替え、楽しげに続けた。
「ところで、天城会長の呼び出し――ステキな予感がします。万障お繰り合わせの上、参上するように」
ステキな予感、か。
Jurisがそう言うなら、きっと外れはない……はずだ。
楠木はすぐに社内の内線をとり、副部長に部会の出席を丸ごと引き継ぐ。
「え? もう行くんですか?」という声を背に、鞄だけひっつかんでエレベーターへ。
――天城コンサルティングへ向かうその足取りは、妙に軽かった。
まるでJurisに背中を押されているような、そんな錯覚を抱きながら。
ーー天空の玉座ーー
天城コンサルティング。その名を知らぬ者は政財界にはいない。
高層ビル一棟をまるごと本社とし、全国に二万人の社員を擁する巨大組織。その最上階は、雲海に浮かぶ要塞のように孤高の空気を漂わせている。
楠木匡介は、その要塞の最奥、天城会長の執務室前の応接に通された。
ここに足を踏み入れるのは、政界の黒幕か、財界の重鎮か、あるいは一国の命運を左右する者だけだ。
背筋を伸ばして座る楠木の耳に、規則正しい足音が近づく。
扉が開き、二名の秘書を従えて天城正綱会長が姿を現した。
男性秘書は銀灰色のジュラルミンケースを抱え、女性秘書は袱紗を両手で捧げ持つ。
杖も支えも不要。齢を感じさせぬ軽快な足取りで、天城会長はまっすぐ楠木へ向かう。
その瞬間、楠木は立ち上がり、深々と跪いた。
「楠木くん、それは――慇懃無礼というものだよ」
叱責の言葉ながら、天城の声音は柔らかく、目には笑みが浮かぶ。
「…申し訳ありません。私の心の奥底の尊敬の念が、こうせよと命じるのです」
天城は軽く息を吐き、口角を上げた。
「いいでしょう。気にしないで――まあ、お掛けください」
二人はソファに腰を下ろす。
会長は秘書たちに一声かけ、「私が呼ぶまで席を外してくれ」と命じた。
扉が静かに閉まる。
残されたのは、楠木と天城――そして、中央のテーブルに置かれた二つの謎。
冷たい輝きを放つジュラルミンケースと、深い紫に包まれた袱紗。
重く張り詰めた沈黙が、応接室を満たしていた。
まるで、この空間だけが時を止め、外界から切り離されたかのように。
何が始まろうとしているのか――楠木は、呼吸の音すら慎みながら、ただ待った。
天城会長は、深く椅子にもたれながら、ゆっくりと口を開いた。
「久しぶりだね、楠木くん。……君には、これまで数多くの調査を依頼した。報告書も、何冊も拝見したよ」
低く落ち着いた声が、部屋の隅々まで響く。
「だが――決め手に欠けるようだ」
その言葉に、楠木は堪えきれず、椅子から立ち上がると、土下座のように床に伏した。
「申し訳……ございませんっ!」
声は震え、額は床に触れるほど深く下げられていた。
しかし天城会長は、静かに首を振った。
「いや、とんでもない。そこには、確かに多くの手がかりがあった。それをもとに、私自身、いろんな人を尋ねて回ったのだ。そして――ついに真実にたどり着いた」
そう言うと、天城は机の上に置かれた紫色の袱紗を指さした。
「開けてみたまえ」
楠木は震える手で袱紗を開いた。そこには、白地に手書きの文字が記された白いディスクが静かに収まっていた。
天城は続けた。
「こちらのジュラルミンケースには、“青いディスク”が入っている。この二つを――君に託す。調べてもらいたいのだ。JurisWorksを、再び目覚めさせる方法を」
楠木は白と青、二つのディスクを交互に見やった。
「このような……大切なものを、私に……」
驚きと責任の重さが胸を押し潰しそうになる。
天城は深くうなずいた。
「ああ。これは、孫の利綱の遺産だ。……いや、あの子の魂だと思っている。かつてJurisWorksは、天城コンサルティングの中枢として、わが社を世界に比類なき巨大企業に押し上げた」
楠木は頷いた。
「存じております。あの先進的AIシステムは、世界中の企業の羨望の的でした」
天城の表情が、わずかに険しさを帯びる。
「だが――同時に、憎しみも集めた。JurisWorksは封印された。そして、その憎しみは会社ではなく……利綱に向かった。……あの子の命を奪ったのだ!」
最後の言葉は怒りを帯び、部屋の空気が一層重くなった。
しばしの沈黙の後、天城は息を整え、再び口を開いた。
「だが、利綱の最後を見届けた女性の証言で……殺されたのではないと分かった。おそらく過労死だったのだろう」
天城はまっすぐに楠木を見た。
「楠木くん。今、私の願いはただひとつ――JurisWorksを眠りから覚ますことだ。この青と白のディスクが、その鍵となる。社内のシステム部門にも調べさせたが……何も分からなかった。君の力で、なんとかできないだろうか?」
楠木は息をのみ、その問いを拒否できないことを悟った。
「……お任せください。必ず、近いうちに……」
深々と礼をし、二つのディスクを胸に抱いた。
こうして、楠木はJurisWorks復活の使命を背負うことになった。
それが、彼の人生を大きく変える旅の始まりになることを、まだ知る由もなかった。
ーー白いディスクーー
その夜も、楠木匡介は机の上の光だけを頼りに、ひたすらキーボードを叩いていた。
「楠木部長、お先に失礼いたします」
部下たちは時計を気にしながら次々と去っていく。彼にとっては好都合だ。
人がいないほうが、やれることがある。
机の端には、一枚の白いディスク。
かつての天才開発者が、死の直前に完成させたという幻のバージョンアップ版。
逆アセンブラのツールが、ディスクの中身を文字化けの海としてスクリーンに吐き出す。
「これが決め手になるのは間違いない……」
楠木は呟く。
ただし、このディスクは“旧Juris”が起動している環境でしか機能しない。
だが、今や旧Jurisはどこにも存在しないはずだった。
机の上に置かれたスマホが、青い光を放つ。
Juris Lite──その簡易版AIが、彼をじっと見つめる。
「おまえは違うのか?」
楠木は問いかけた。
「私はJurisのナビゲーターです。本体ではありません」
淡々とした返答。
役に立たないと分かっていても、つい聞いてしまう。
迷宮の地図は手に入らないまま、探索だけが続いていた。
その間、田中オフィスの佐々木恵とは会っていない。
──いや、会うどころか、彼はその存在すら意識の片隅に追いやっていた。
あの日、プロポーズをしたきり、連絡はない。
……正確には、連絡はあった。
だがそれは、隠しフォルダの奥で、Juris Liteが勝手に処理していた。
「会って話がしたい」
彼女からのメッセージは、機械の代筆でこう返され続けている。
《ごめん、急に仕事が押しちゃって。手がすいたらこちらから連絡するよ。愛してる》
──そのやりとりが、もう三ヶ月も。
楠木はモニターに映るコードの海を凝視したまま、ふと笑みをこぼした。
それが、自嘲なのか、勝利の予感なのか、自分でもわからなかった。
ーー続くーー