第五十八話、田中オフィスTokyo・東へ
ーー老王の帰還ーー
高柳の古民家で一泊した天城正綱は、孫の利綱の遺品を手に入れ、その最期の情景を知ることができた。長い放浪の旅はようやく大方の目的を果たしたのだった。
迎えに来たヘリコプターの中で、娘婿の海北利景は、ただ静かに彼の体調を気遣う。「とにかく、ご無事でなによりでした」それだけだった。そこには「会長のお立場をお考えください」とか、「社員が必死に探しておりました」といった非難の言葉は一切ない。まさに忠臣そのものだ。
この男はそれ以上でもそれ以下でもない。私心というものを一切殺し、天城コンサルティングの運営のためだけに生き、今もなお会社を成長させている。
(よい部下に恵まれたのだろうな)
最高の婿と孫を残して、娘の杏子はこの世を去った。そして、その孫はかけがえのない伴侶:高柳久美子とともに、この祖父のもとへ結婚の挨拶に来るはずだった。
(私は恵まれすぎた。神が戒めにきたのか、それとも悪魔が呪いをかけていったのか)
正綱は、残されたわずかな人生を、死んでいった者たちのために全力で戦うことが、自分の幕引きにふさわしいと考えた。そのために今は休息が必要だと感じた彼は、「帰ったら、楠木くんに会わねばならん」と呟きながら、再び深い眠りに落ちていった。
ーー六本木、すし詰めの会議室でーー
六本木の田中オフィスTokyo会議室。
長方形のテーブルを挟んで、今日は東京メンバーだけ――とはいえ、すでに満員だ。
奥の壁際、ホワイトボードを背にして座るのは、N通信の沢田修治常務と、Rシステムの河村亮SE。
役員とエンジニア、立場も雰囲気も正反対だが、不思議と並んで座る姿は落ち着いて見える。
そのすぐ横の角位置には、水野幸一所長がパイプ椅子に腰を下ろしている。
きっちり背筋を伸ばし、膝の上には開いたファイル。目線は冷静だが、何かを計算しているような静かな光を宿していた。
右隣にはラヴィ・シャルマ。背の高い体格を折りたたむように座り、きちんと揃えた両手をテーブルの上に置いている。
その隣には肥後勝弥――元大手広告代理店の敏腕マーケターで、今は嘱託アドバイザー。
濃紺のスーツに差し色のポケットチーフ。軽く組んだ脚と余裕の笑みは、狭い会議室でも妙に絵になる。
テーブルの反対側には倉持渉と佐藤美咲。倉持は姿勢を正して前を向き、さながら真面目な生徒のよう。
佐藤は配る湯のみを持ったまま、小さく横歩きしている。ほんの数歩で、他人の肘や椅子にぶつかりそうになる。
「少し窮屈ですが、皆さんご辛抱ください」
水野が穏やかに言うと、部屋の空気がわずかに緩んだ。
「それでは――Integrate Sphereについては、日々WANでご利用いただいておりますが、速度や利便性の面で、不便を感じることもあったかと思います。
今回、東京にもサーバを置くことで、データの相互バックアップも可能となり、セキュリティ面でも検討すべき要素が出てきます」
ラヴィが真剣な表情で頷き、佐藤美咲はペンを持つ手をそっと構える。
肥後勝弥は顎に手を当て、「ふむ、これは面白くなりそうだ」と心の中で呟く。
「URS(ユーザ要求仕様書)は再来週までに出していただきますが、この席で疑問点を洗い出しておければと思います」
水野の声が落ち着いて響くと、部屋の空気が再び引き締まった。
窓の外の午後の陽射しが、ホワイトボードの端を照らす。
この小さな会議室で交わされるやり取りが、やがてTokyoオフィスの未来を形作っていく――
そんな予感が、全員の胸の奥で密やかに膨らんでいった。
ーー導入の経緯ーー
六本木の田中オフィスTokyo会議室は、ぎゅうぎゅう詰めだった。
ホワイトボードを背にしたN通信の沢田常務とRシステムの河村SE、そしてその横にパイプ椅子の水野幸一。
右隣にはラヴィ・シャルマ、その隣に肥後勝弥。反対側には倉持渉と佐藤美咲。
湯気の立つ湯のみが配られ、部屋の温度は少しずつ上がっていた。
水野は一息置いて、ゆっくりと口を開いた。
「本社のIntegrate Sphereはすでに皆さんも、東京からもWANを経由してその機能を使っています。
ただ、WAN越しではどうしてもレスポンスに限界がある。今回、東京にもサーバを置く理由は、速度の向上や相互バックアップだけではありません」
視線が一斉に水野へ向かう。
「東京は、多くの顧客会計アカウントを持っています。田中オフィスの有料会計管理業務だけじゃなく、ミズノギルド顧客向けの無料アカウントや、低価格サブスク型のアカウントもある。
さらに要望に応じて、アライアンス先の業務システムもカバーする構想です」
ラヴィが軽く眉を上げる。水野はホワイトボードに「外部アライアンス」と書き、マーカーの先で軽く叩いた。
「たとえば――合同会社ヒア.ウイゴーのタレント権利管理システムのようなものも、東京サーバで取り入れる予定です。
こうなってくると、本社と完全に同じサーバではなく、独立した運用が必要になる」
肥後が腕を組みながら「ほぉ、マーケットの広がりを見越してるわけだ」と小さく呟く。
「今はまだ利用規模は限られていますが、将来的にはサーバの拡張も視野に入れています」
水野はそう言い切り、手元のファイルを閉じた。
会議室の空気は、先ほどまでの窮屈さから、少し熱を帯びたものへと変わっていく。
それは新しい仕組みが形になる予感――いや、それ以上に、東京オフィスが本社とは別の鼓動を打ち始める瞬間だった。
ーー東京サーバ計画、錦糸町へーー
質問の先陣を切ったのは、肥後勝弥であった。
肥後が「つまり、アライアンス先の業務システムも視野に入る、ということですか?」と確認すると、水野は頷いた。
「その通りです。たとえば――合同会社ヒア.ウイゴーの業務システムのような、特殊だけどニーズの高い仕組みも取り入れられる。こうなると、本社とは独立した東京専用サーバが必要になるわけです。今はまだ小規模ですが、将来的には拡張も視野に入れています」
一呼吸おいて、彼は表情を少し和らげた。
「そして……今この会議室をご覧になってもわかる通り、このオフィスビルは正直、手狭です。そこで、事務所の移転も計画しています。場所は――錦糸町です」
その名が出た瞬間、場の空気がわずかに変わった。
「都心から少し離れますが、新宿まで三十分圏内。古くは武蔵野国と下総国の境が両国で、文化の集中する場所でした。明治以降は大衆演芸や相撲の街として栄え、近年では観光やビジネスで国際色豊かなエリアになっています」
ラヴィがふと笑みを浮かべた。
「イヴリンのやっている”KIRAN”がここにあります。ウチのアビシェクの修行場所に近いな。今、新小岩にいるんですよ」
佐藤美咲も嬉しそうに身を乗り出す。
「錦糸町演芸ホールに近いですね! 私、最近押しの芸人さんたちがいるんです」
肥後も肩を揺らして笑った。
「ヒア.ウイゴーも最近はこちらに軸足を移しているし、香津沙社長(奥さん)も、やりやすくなるだろうな」
窮屈な会議室の中で、錦糸町の新しい拠点を思い描く空気が、じわじわと広がっていった。
ーー黒字化の報せと次の一手ーー
「水野所長、オフィスTokyoは開設してまだ二年過ぎたばかりですよね?」
倉持渉が、遠慮がちながらも率直な疑問を口にした。「まだ事業の安定化に注力する時期だと思うのですが?」
会議室の空気が一瞬だけ固まる。
しかし水野幸一は、あっさりと、しかし自信を滲ませて答えた。
「今期で黒字化達成です。」
その一言に、ざわっと周囲が反応する。
ラヴィ・シャルマの目が丸くなり、佐藤美咲は「えっ!」と小さく声を漏らす。
水野は続けた。
「皆さんのおかげで順調に収益をあげてきました。あとで今年度の中間決算書をメールしときますね。」
その声音には、感謝と次への決意が入り混じっている。
「それがあるので、黒字決算で落ち着くことなく、次の投資戦略を田中社長に進言したのです。」
彼は少し笑いながら、社長の言葉を真似た。
「”本社も負けとられんな~”て言ってました。」
その場の空気は、先ほどまでの驚きから一転、穏やかな笑いに包まれた。
黒字化という確かな成果が、未来への道を開いている――そんな手応えを、全員が感じていた。
ーーミズノギルドの舞台裏ーー
「最近始めた“ミズノギルド”は、もう十二件の案件を処理して、六百万円ぐらいのコミッション収入を得ているんですよ。」
水野幸一は、淡々とした口調ながらも、どこか誇らしげだった。
会議室の空気が少しざわめく。
たった数か月でこれだけの実績――数字は雄弁に、その立ち上げの成功を物語っている。
だが、その後に続いた言葉は、意外な方向に転がった。
「……ただ、ギルド設立の際、私がうっかりしていて、社会保険の手続きがおくれちゃいまして。」
「えっ?」と、佐藤美咲が首を傾げる。
水野は苦笑いを浮かべながら説明を続けた。
「当面、無給として、業務をすべて田中オフィスTokyoに委託しました。で、手数料はすべてこちらの収益として計上されています。」
場の空気が、驚きと安堵と少しの笑いで揺れる。
単なる手続きミスが、結果的にオフィスTokyoの数字を押し上げることになるとは――。
「これも本社に連絡すると、田中社長は「まぁ、結果オーライやな」って言ってました。
その声に、会議室の空気が少しだけ柔らかくなった。
ーー制服騒動、ギルドの行方ーー
「今後は、田中オフィスTokyoは営業中の既存企業の会計業務を扱い、ミズノギルドはスタートアップ専門の窓口となります。」
水野幸一が、淡々と未来図を語った。
会議室の空気は、その方針の明確さに静かに引き締まる。
だが、次の瞬間、その緊張を破る声が上がった。
「……あの~」
控えめに手を上げたのは佐藤美咲だ。
「ミズノギルドのお手伝い、わたしもできませんか?」
水野が一瞬きょとんとした隙をついて、美咲は続ける。
「京都本社の奥田さんが、『ウチもギルドの受付嬢やるっス!』って言って、制服のイラスト送ってきたんです」
そう言って、彼女は一枚のプリントアウトをテーブルに置いた。
そこには――装飾の多い胸当て、長いマント、ブーツ、そして謎の金属製ヘッドピース。
一見、異世界ファンタジーの冒険者ギルド受付嬢そのもの。
「……これ、完全にコスプレ喫茶の制服やないか」
倉持渉は口を押えて笑いをこらえている。
肥後勝弥は咳払いで笑いをごまかし、水野は眉間に皺を寄せながらも口元を緩めた。
会議室の空気は一気に和み、未来の“スタートアップ専門窓口”が、なぜか異世界へ一歩足を踏み入れた瞬間だった。
ーーITの三銃士ーー
会議室の空気が少し和らぎ、倉持が姿勢を正して質問を続けた。
「京都本社では、導入して完全移行まで三年弱かかったそうです。こちらでは、少しは短縮できそうですか?」
その問いに応えたのは、端の席で静かに資料をめくっていた男だった。
「河村と申します」
彼は落ち着いた声で言葉を紡ぎ出す。
「およそ一年と見ています。理由は三つあります。まず、京都本社ではすでに同じシステムが稼働していること。次に、こちらの顧客データは本社の十分の一程度にとどまること。そして何より、操作環境については皆さんがすでに熟知されているという点です」
一同の視線が自然と河村に集まる。
彼は手元の資料から視線を上げ、微笑みを浮かべた。
「さらにこちらには、ラヴィさん、倉持さん、佐藤さんと、かつてシステム開発会社で働かれていた方々がそろっている。つまり、“一からなにもかも”覚えなければならないということはないでしょう。私としても、これほど心強い布陣はありません」
その言葉に、会議室の空気が少し引き締まり、そして、どこか前向きな熱を帯びていった。
ーー分散と集中ーー
ラヴィは穏やかな笑みを浮かべ、軽く首を振った。
「それは買いかぶりというものですよ。ただ……日本の最高のITシステム導入を体験できると思うと、今からワクワクしています」
会議室の空気が、ふっとやわらぐ。そのやり取りに、沢田常務がゆったりと姿勢を正した。
「ありがとうございます。ご期待にそえるよう、弊社は全力を尽くします」
その声音には、控えめながら確かな自信がにじむ。
「実際、田中オフィスさまのように積極的なIT投資を展開されるお客様は、弊社にとって未来を占うモデルケースと位置づけています。最近では、大企業でもオンプレミスのサーバを廃止して、クラウドへ全面移行するケースが増えています。しかし、クラウドが万能というわけではありません」
沢田はゆっくりと言葉を区切り、資料の端に指を置いた。
「重要なのは、企業のビジネスモデルを見直した上で、業務ごとに“クラウド”と“オンプレミス”を使い分けることです。その点、田中オフィスさまでは方針が明確です。法務AIはクラウド契約で運用し、顧客データは自社サーバで管理する――この一線をきちんと引いておられる」
彼の言葉は、単なる説明を超えて、会議室に一本の背骨のような確信を通した。
その瞬間、出席者たちはこのプロジェクトが持つ方向性と、その先にある未来像を、より鮮明に思い描き始めていた。
ーーアウトソーシングのデメリットーー
「アウトソーシングのデメリットについて説明します。
まず一つ目は、"社内にノウハウが蓄積されないこと"です。
外部の専門知識を使えるのは強みですが、任せきりだと社内で業務内容を把握できなくなります。
もし委託先が事業から撤退すれば、代替が難しくなります。
この点を避ける方法として「コ・ソーシング」という、社内と委託先が共同で業務を行う形態があります。
二つ目は、"コスト増加のリスク"です。
効率化できている業務まで外部化すると、逆にコストが膨らむことがあります。
特に自社特有のツールやフローがある場合は標準化しにくく、その分コストがかかります。
三つ目は、"ガバナンスの弱体化"です。
外部委託すると、自社での監視・統制が難しくなります。
結果として品質管理が不十分になったり、情報管理に穴ができるリスクが高まります。
四つ目は、"情報漏洩のリスク"です。
外部委託は情報にアクセスできる人ややり取りの回数が増えます。
特に機密情報や個人情報を扱う場合は、厳重なセキュリティ対策が不可欠です。
五つ目は、"業務のブラックボックス化"です。
委託先に任せきりにすると、業務の中身が見えなくなり、トラブル時や改善時に対応が遅れる恐れがあります。
最後に六つ目、"費用対効果の悪化"です。
BPOなどでも、自社特有の業務や標準化しにくい業務を外部化すると、思ったより成果が出ないことがあります。
委託先選びでは、自社の特殊な業務にも対応できるかを見極める必要があります。
まとめると、アウトソーシングは便利ですが、"丸投げせず、社内で最低限の知識と監督体制を持つこと"が重要です」
約二分ほど、沢田常務の低く落ち着いた声が会議室に響いていた。
佐藤美咲は、指先でタブレットをなぞりながら黙々とメモを取っている。その液晶に映る文字は、なぜか一瞬だけ揺らいで見えた。
沢田が言葉を切った瞬間、水野所長がゆっくりとその続きを引き取った。
「実際、田中オフィス本社では、厳重なセキュリティとシステムの使いやすさを両立する体制が、半田主任の運用設計で確立しています。私は、オフィスTokyoにもそうなってほしい。……しかし」
短い沈黙。
それは言葉を選んでいる間の沈黙ではなく、何かを耳で探っているかのような沈黙だった。
水野の胸の奥には、常に小さな疑念が渦巻いていた。
業務上の困難など、これまで幾度も解決してきた。それでも、この数日続く違和感は、日常の延長線上にあるものではなかった。
まるで、遠い海で起きた嵐の振動が、足元の床を静かに震わせているような——そんな感覚。
「少し、大きな波が来るのかもしれません」
会議机の端で、倉持がわずかに眉をひそめた。
「……それは、目に見えない予感、ということですか?」
水野は、視線を窓の外へ投げた。曇天の向こうで、何かがゆっくりと近づいてくるような気配があった。
「ええ。そういうことは、過去にもありました。今回のシステム導入計画は短期間ですが……“気を引き締めて”取り組まなければならない。そんな気がするんです」
会議室に、妙な静けさが落ちた。
外の風の音だけが、ガラス越しにかすかに響いていた。
ーー錦糸町喫茶店の企みーー
東京、錦糸町演芸場のすぐ近く。
古びた喫茶店のテーブルに、写真入りの企画書が広げられていた。
「これをCMのスポンサーに持っていくわ」
肥後香津沙は強い口調で言った。
「こういうのって、一発で決まることはまずないの。先方の広報部や宣伝部は、なに気取ってんだか『う~ん、これお客様につたわりますかね~』とか『コンセプト、ズレてません?』とか言うのよ」
「東京の食品メーカーは90社以上あるわ。大手は人気タレントを抱えているから、私が東京MTVや関東の地方局で流すCM媒体にあなたたちを使ってもらえるように持っていくからね」
レンチンズの北盛夫がため息混じりに言った。
「20年前やったらな〜、ワシら女子高生に大人気やったのに」
飯野武はたちまちツッコミを入れる。
「過去の栄光にすがるな!」
北は笑いながら返した。
「それ、お前のネタやないか」
三人の笑い声が喫茶店の静かな空気を切り裂く。
しかし、目の前の企画書は軽く見られない確かな未来の兆しを秘めていた。
ーー待ち人来るーー
そこへ、喫茶店の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
「すみません、お待たせしました」
イヴリン・シャルマ。40歳。ラヴィの妻で、浅草橋の天然石店「ミネラルショップKIRAN」のオーナー兼彫金教室の講師だ。日本の美術大学を卒業し、彫金技師としての確かな腕を持つ彼女は、夫の行政書士合格を機に店を開いた。
肥後はにこやかに名刺を差し出す。
「合同会社ヒア・ウイゴー代表の肥後香津沙です」
レンチンズの二人も慣れた手つきで名刺を渡した。
「飯野武です」
「北盛夫です。僕らは漫才コンビ、レンチンズです。ヒア・ウイゴーの社員でもあります」
簡単な自己紹介が済み、肥後はすぐに話を切り出した。
「時間があまりありません。これから私たちと一緒に、ある知財特許事務所に来ていただけますか?」
イヴリンは、夫のラヴィから話の概要を聞いていた。
「イヴリン、君の店を守るために必要なことだ。ぜひ時間を作ってほしい」
法律に精通する夫の言葉に、イヴリンは胸の奥にわずかな胸騒ぎを感じていた。
その胸騒ぎを抱えながら、指定された時間にこの喫茶店を訪れたのだった。
ーーHere we go!(さあ、行こう!)ーー
錦糸町駅北口から西へ、ゆっくりと歩くこと約二十分。
石造りの古いビルが並ぶ一角、その四階に金色のプレートが煌めいていた。
「ネコタ特許知財事務所」――
イヴリン・シャルマは、ゆっくりと自動ドアに一歩足を踏み入れた。
「ふぅ……初めてって、いつだって怖いものですね」
彼女のつぶやきに、背後から温かい声が返ってきた。
「緊張してる顔もきれいですよ、イヴリンさん。でも今日はレンチンズというボディガードも連れてきているから、安心してくださいね」
北盛夫がにやりと笑いながら言った。
「店構えは箔が付きすぎやけど、中見たら拍子抜けするで」
飯野武も続けて、軽妙な関西弁で話す。
「そや、可愛らしくて思わず笑てまうわ」
イヴリンは何も分からないまま、その優しい声と気さくな雰囲気に少しだけ肩の力が抜けていくのを感じていた。
初めての場所への緊張感が、周囲の笑い声に包まれながら少しずつ和らいでいった。
彼女の心には、まだ見ぬ世界への期待と不安が交錯していた。
けれど、今はただ、ここで踏み出した一歩を信じるしかなかった。
ーーネコ先生ーー
ドアの向こうで、チリリと来客ベルが鳴った。
すぐに現れたのは、まるで小さな修道院の司祭のような装いの女性だった。白いシャツに黒いタイトスカート。黒髪にはうっすらとパープルのハイライトが入り、黒縁のメガネ越しに鋭い光が一瞬、訪問者たちを射抜いた。
「ようこそ、ネコタ特許知財事務所へ。猫田洋子ですわ」
声は柔らかいが、どこか芯の通った「戦士の気配」が漂っていた。
イヴリンは思わず直立し、わずかに姿勢を正す。
肥後香津沙はふと、猫田洋子の襟元に結ばれたネッカチーフに目を留めた。
そっと歩み寄り、手を差し出す。
「……リボンが、少しだけ斜めに。直してあげるわね」
迷いのない指先でネッカチーフを整え、微笑みながら言った。
「“第一印象”は、商標と同じくらい大切な要素でしょ?」
猫田洋子は頬をほんのり赤らめ、どぎまぎしながらも礼を述べる。
「香津沙お姉さま……いつもありがとうございます」
応接室に通された四人はソファに腰を下ろした。
猫田は端正な姿勢で自席に座り、手元に書類とタブレットを並べた。
「さて、本日はヒア・ウイゴー様からのご紹介で、『ミネラルショップ・KIRAN』様のロゴおよび看板の商標登録、そして新規タレントであるイヴリン・シャルマ様の知財戦略についてご相談を承ります」
彼女は香津沙に目を向け、小さく頷いた。
肥後香津沙は鋭くも慈愛に満ちた眼差しで応えた。
「この女性の未来は、“ビジネス”だけでは足りない。世界で闘う“権利”を持たせたいの。あなたの、知財の武器を貸してちょうだい。――“ネコ先生”」
猫田洋子は笑った。その瞳は、かつて同人誌を踏みにじられた日から変わらぬ、戦士のそれだった。
「私の爪は、ただの飾りではございません。
“権利”という名の鉤爪で、お守りいたしましょう――イヴリン様」
イヴリンはその言葉に深く凛とした空気を感じた。
世界を生き抜く「舞台裏の闘い」が、ここから始まるのだと。
(これは、私の戦場の始まりなんだ――)
ーー「猫、牙を隠す時」ーー
ネコタ特許知財事務所の応接室に、ジャスミンティーの香りがふんわりと漂った。
その空気を支配していたのは、しなやかに椅子に腰掛ける小柄な女性――猫田洋子だった。
だが、その姿勢は先ほどまでの鋭いビジネス口調とはまるで違っていた。
「ねえ、お姉様〜♡ 久しぶりに直接会えて、うれしいにゃん……♪」
猫田はふにゃりと頬を緩め、まるで飼い猫のように香津沙の隣にぴたりと寄り添った。
「はいはい、ヨーコ。あんた、今日もやる気あるんでしょ?」
「あるある〜!でもまずは、お姉様の香水の香りに癒されてから♡」
甘く舌足らずな声で、指先でそっと香津沙の袖口に触れながら身を寄せる。
ソファの対面に座っていたイヴリンは、明らかにその豹変ぶりに虚を突かれていた。
「な、こんな感じや」
レンチン北がイヴリンに笑いかける。
イヴリンは思わず視線で香津沙に「今の、何?」と問いかけるが、香津沙も苦笑いしながら首をかしげた。
香津沙は苦笑しつつ、猫田の頭を軽く小突いた。
「こら。お客さんの前で“ごろにゃんモード”は控えなさい。
ほら、イヴリンさんも驚いてるじゃないの」
「え〜?だって、お姉様に会うと、自然とスイッチ入っちゃうんだもん♡」
猫田はくすくすと笑いながら、少しだけ姿勢を戻した。
その瞬間だった。
彼女の視線が、タブレットの商標データベースに落ちた途端、場の空気は一変した。
「……さて、“KIRAN”という名称ですが、クラス32に該当する飲料関係か、35の広告・販売支援に該当する業種展開をされますか?」
声のトーンは急に落ち着き、低く澄んだ音色へと変わった。
猫田は指先でタブレットを弾き、瞬時に商標区分リストを表示する。
「“ミネラルショップ・KIRAN”という名前は、現時点で日本国内に第32類での類似出願が2件あります。
どちらも綴りは異なりますが、読みは“キラン”で一致しています。ご確認ください」
イヴリンが覗き込もうとしたその手を、猫田は軽く制した。
「大丈夫です、私が交渉も含めて“抜け道”を見つけます。
――わたくし、こう見えて“他社が怯む文言”の作成は得意ですの」
その言葉は静かに、しかし残酷なほど鋭かった。
先ほどまで甘えていた彼女とはまるで別人だった。
---
隣で黙っていた飯野に、北がそっと囁く。
「……なんか、すごいな。法廷ドラマを間近で見てる感じや」
飯野は眉を動かしてうなずいた。
「体は小さいのに、昭和のツッパリが持っていた“戦う目”をしてるわ。ボディガードで来たけど……ああいう人のほうが怖い」
北は思わず笑った。
「せやな。さっきの“ネッカチーフ直し”の時は、まるで修道女みたいやったのに……」
「豹変やな。あの二面性……まるで、“猫”そのものやで」
飯野の言葉に、北は小さくうなずいた。
---
ふと、猫田の視線が香津沙に戻る。
「あ、そうだお姉様。イヴリンさんの肖像権管理を国際的に整備したいので、例の“サンクション対応リスト”も共有いただけますか?
あ、でなければあとででいいにゃん♡」
声色は再び溶けるように甘くなっていた。
(えええええええ……!)
北と飯野は同時に顔を見合わせ、目をまるくした。
---
香津沙は少し笑いながら言った。
「……ギャップ激しすぎて、みんな困惑してるわよ。ねえ、イヴリンさん?」
イヴリンは顔を少し赤らめながらも笑ってうなずいた。
「はい……でも、なんか、すごく頼りになります」
「でしょう? こう見えて――この子、“大企業相手に勝てる猫”なのよ」
猫田はにやりと笑い、
「お姉様、紹介文に“牙つき”ってつけ加えておいてくださいね♡」
ーーついでのレンチンーー
ネコタ特許知財事務所の応接室で、猫田洋子は穏やかな笑みを浮かべながらタブレットの画面をイヴリンたちに見せた。
「それから、レンチンズの商標についても調べておいたわよ」
香津沙が興味深げに身を乗り出す。
「どこにも引っかからなかったから、すぐに申請を出したの。珍しいわね、“レンチンズ”って、ありそうでなかったんだもの」
北と飯野が顔を見合わせて、ほっと胸をなでおろす。
「先駆者よね!これで安心して東京で勝負できるわね」
猫田の言葉に、レンチンズの二人は新たな自信を胸に刻んだのだった。
猫田洋子がニヤリと笑いながら続けた。
「逆に言えば、これまで誰にも刺さらなかったネーミングとも言えるわね。だから、成功するかどうかはこれからのあなたたち次第ってこと。」
レンチンズの北が思わずツッコミを入れる。
「オイオイ!それ、なんかめっちゃ不安になるやんか!」
飯野も苦笑いを浮かべながら、
「そ、そうだよな。でも、逆に言えばチャンスってことだよな…!」
場の空気が一気に和みつつも、二人の心に新たな決意が芽生えた瞬間だった。
ーー続くーー