第五十七話、白きディスクの伝承
※数値は2015年ころのものを参照しています。最新の数値は政府広報等でご確認ください。
ーー地方局のテレビ番組ーー
京都本社の応接室。
夏の陽射しが窓越しに柔らかく入り込み、古都らしい深い緑の庭が静かに揺れていた。
田中卓造社長は、湯呑みを片手にテレビのリモコンをぽちぽち押しながらぼやいた。
「ほれ、これやこれ。CTV京都でやっとる『突撃!米造り農家』の再放送や。今日は特別ゲストが出るらしいで」
竹中駿也最高顧問は、背筋を伸ばしながら眼鏡をクイッと上げる。
「田中社長は農村番組もお好きなのでか?」
「まあ見とき。今日のゲストは、ワシらがサーバー契約でお世話になっとる、N通信の沢田常務や」
画面の中では、稲穂の海を背景に、フリーアナウンサーの桑島実朗が軽快な進行をしていた。
「さあ本日は、通信業界の雄・N通信から、農業ICT推進のキーマン、沢田修治常務取締役にお越しいただきました!」
竹中顧問が眉を上げた。
「ほう……。IntegrateSphereサーバーの営業責任者が、米造り農家の番組に呼ばれるとは。これは単なるパフォーマンスじゃないでしょうな」
田中社長も感心したようにうなずく。
「せやろ?沢田さんは役員やのに、腰が低くて現場主義。農家のおっちゃんにも、技術の説明を分かる言葉でやっとるんや」
テレビ画面では、沢田常務が穏やかな口調で話している。
「農業は未来のIT産業です。通信インフラと自動化システムが加われば、地方から世界に食を輸出できる。私たちは、その仕組みを作る会社でありたいんです」
竹中顧問の目が光った。
「社長、これは……Integrate Sphereの先に見えるビジョンですな。行動経済学的に言うと、“市場創造の物語”ですよ」
「せやせや。しかも、このプロジェクトにN通信の美人研究者が出向しとるんやで。N通信の天才プログラマーや」
画面の隅に映った、作業着姿の高柳久美子が、田んぼのセンサーを調整していた。
かつて法務統合システム「JurisWorks」を作り上げた敏腕エンジニア。その姿は土にまみれながらも、どこか凛としている。
田中社長は、湯呑みを置いてぽつりと言った。
「竹中先生……これはワシらも、見て、感じておかなあかんプロジェクトやと思わへんか?」
竹中顧問の笑みは、まるで将棋の次の一手を思いついた棋士のようだった。
ーー世界コメ事情ーー
桑島アナウンサーの番組が一段落し、画面には稲穂のアップと、各国の米輸出入量を示すグラフが映し出された。
竹中駿也顧問は、ふと湯呑みを置き、テレビの内容に乗るように語り始めた。
「社長、知ってはりますか?米の生産量・消費量のトップは中国です」
田中卓造社長は、まゆをひそめてテレビを見たまま答える。
「ほう、まあ人口も多いしなあ」
竹中顧問は、昔大学で講義していた時のような口調に切り替えた。
「世界で生産される米は大きく二つ、ジャポニカ米とインディカ米に分かれます。
私たち日本人が普段食べてるのはジャポニカ米ですが、世界で多く消費されているのはインディカ米の方です」
テレビ画面のグラフと、竹中顧問の説明がシンクロする。
「米国農務省の統計では、世界の米の生産量は年間約4億8,000万トン(精米ベース)。
その大半がアジアで作られとります。生産量の第1位は中国で1億4,450万トン、全体の30%。
続くインド、インドネシアを合わせた上位3カ国で、世界全体の約6割を占めるんですわ」
田中社長は「はぁ〜」と感心した声を漏らす。
「日本はどうや?」
「年間781万6,000トンで世界第10位。消費量は796万6,000トンで、生産よりちょっと多いぐらいですな。ただし1人当たりの消費量は年間55.2キロで、アジアの中では圧倒的に少ない。しかも減少傾向です」
顧問はそこで少し声を落とした。
「おまけに中国は生産量世界一やのに輸入量も1位。輸出はインド、タイ、ベトナム、パキスタン、アメリカが上位を占めとります」
「ほう、米の貿易ってもっと盛んかと思たけど」
「ところが、米の貿易率は他の農産物よりもずっと低いんです。国ごとの自給志向や食文化の違いが大きい」
顧問は少し間を置き、にやりと笑った。
「社長、世界一のブランド米をご存知ですか?」
田中社長は胸を張った。
「そら、日本のコシヒカリとちゃうんか?」
顧問は軽く首を振る。
「残念ながら、カリフォルニア産コシヒカリです」
「なんやそれ、アメリカ産が一番ってことかいな」
「そうです。カリフォルニア州のサクラメントバレーで厳選されたコシヒカリ種を栽培し、もちもちとした食感、日本人好みの味、冷めても美味しい。それに寿司やおにぎり、丼物にも合う万能さ。
しかもアメリカだけやなく、ブラジル、香港、シンガポールなど世界各地でブランド展開されてます」
田中社長は思わずテーブルを指でトントン叩いた。
「日本の米が世界一やと思とったわ……情けないなぁ」
顧問は真顔になった。
「日本の生産者さんは大変な努力をされてます。それは社長ご自身、『コメワン』を手がけてよう知ってはるでしょう。すべては過去の農政、減反政策と概算金(仮払金)の支払いを通じて、農家の経営を安定させる名目で縛った結果です」
ーーあゆみを止めるなーー
応接室のテレビ画面では、沢田修治常務がタブレットを片手に、田んぼに設置されたセンサーのデータを解説していた。
画面下には「G-prog:農業ICTによる地域活性化プロジェクト」と字幕が流れている。
竹中駿也顧問は、湯呑みを置くと背もたれから少し前に身を乗り出した。
「社長、見てください。沢田常務の説明……これは日本の農業が一歩進もうとしてる証拠ですわ」
田中社長は顎に手を当てたまま、じっと画面を見ている。
顧問は熱を帯びた声で続けた。
「日本もいよいよ、ICTを使って生産プロセスから市場拡大まで一気通貫で動かそうとしてます。
しかも、海外資本との価格競争や投資競争にも堂々と立ち向かおうとしている。……すばらしい!」
テレビの中で、沢田常務は笑顔を絶やさず、ロケ動画ではレンチンズの二人が、炊立てのご飯を頬ばっている。
「農業はもはや、地域だけのものではありません。国際市場で価値を示せる“産業”なんです」
田中社長は、湯呑みを置きながらぽつりと言った。
「……竹中先生。これ、ワシら、今すぐ動かなあかん案件かもしれんな。地域のコメ農家にICT導入のコンサル・・・まずは話を聞いて回らんとな」
竹中駿也顧問は、テレビ画面を見つめながら声を落とした。
「Juris Works……今は開発を中断してますよね。田中オフィスのIntegrate Sphere以上のシステムと聞いていますけど」
田中卓造社長がうなずく。
「せや、ウチもIntegrate Sphereとどっちいれるか迷ったんやけど、水野くんがこっちに決めよった。ま、結果は正解やったけどな」
顧問はさらに目を細めた。
「ただ、N通信にはまだ“秘密兵器”があるようですよ」
「秘密兵器?」
「ええ。あの高柳久美子という女性研究者です。以前はN通信の開発部門にいて、あのJuris Works開発に携わっていたらしい。今は農業自動化の現場に出向してますが、彼女の技術は、業界でも群を抜いています」
田中社長は、顧問の話に合わせるようにリモコンを手に取った。
「ほれ、聞き上手の桑島アナウンサーが、沢田常務にズバッと切り込むでぇ!続き、見てみましょうや」
画面の中、桑島実朗がマイクを向け、真剣な表情で質問を投げかけた。
「沢田常務、今回のプロジェクトの中核メンバーに、高柳久美子さんという方がいらっしゃいますね。彼女の役割について、ぜひお聞かせいただけますか?」
その瞬間、沢田常務の口元が、ほんのわずかに引き締まった。
スタジオの空気が、テレビ画面の向こう側の熱気と同じ速度で変わっていくのが分かった。
少し前まで穏やかだった沢田修治常務の表情に、ほんのわずかな翳りが走ったのだ。
それを見逃さなかったのは、画面の中の桑島実朗アナウンサーだった。
インタビューの駆け引きの時が来た――。彼はそう直感し、言葉を慎重に選びながら切り込む。
「沢田常務にお伺いします。企業秘密に触れる内容であれば、どうぞご遠慮なくお示しください。
御社のオープンシステムについて、もう少しだけお伺いさせてください」
一拍の沈黙。
沢田はゆっくりと視線を落とし、言葉を組み立てるように呼吸を整えた。
「……そうですね。高性能AIを内包したシステムというのは、非常に大きな可能性を秘めています。
しかし、その一方で“制御”と“透明性”という特有の課題を抱えることがあります。
AIが自律的に学習し、判断を下す能力が高まれば高まるほど、その判断基準や思考プロセスがブラックボックス化しやすくなる。
開発者でさえ、なぜ特定の結論に至ったのか、完全には解明できない場合も少なくないのです」
彼の声は落ち着いていたが、その奥には明らかに重い含みがあった。
「ビジネスの現場では、その判断の妥当性やリスクについて説明責任を負います。
しかし透明性が欠ければ、重大な問題となり得ます。
予期せぬ進化を遂げ、当初の設計思想から逸脱する危険もゼロではない。
特にセキュリティやプライバシーの領域では、外部からの悪意ある干渉や、意図せぬ振る舞いのリスクも考えなければなりません」
桑島は、その説明の奥に何か隠された真実があると確信した。
「高柳さんが取り組まれたこのシステムには、“自ら考える高性能AI”が内包されており、Integrate Sphereには搭載されていないと伺っています。
一見すると、これからの時代はJuris WORKSのようなシステムこそが主流になるのではないか……。
実際、導入済みの天城コンサルティング様では、このシステムをフル活用して海外拠点開設まで成功されたと経済紙で拝見しましたが?」
その瞬間――。
沢田の表情が、先ほどよりもさらに引き締まった。
そして、ほんの一瞬、視線をもって桑島へ「これ以上は踏み込むな」という明確なサインを送った。
桑島は、自らが一線を越えかけたことを悟った。
「……失礼いたしました。承知いたしました。これ以上はお答えできないということですね」
沢田は小さく頷き、柔和な表情を取り戻しながら言った。
「JurisWORKSは米国AIシステム企業とN通信の間で係争中ということもあり、現在は開発を中止しております。
先ほどご紹介いただいた高柳も、中核部分で開発していました。
しかし、この場で話すにはあまりにもデリケートな情報で、誤解を招くわけにはいきません」
一呼吸置き、沢田の声が低く沈んだ。
「ただ……これ以上話せないと言うだけでは、不必要な憶測を招くでしょう。
一点だけ明確にしておきます。JurisWORKSには、技術盗用など一切ございません。我々N通信は、いわれのない訴えに対しては断固として法的に対抗します。これまでに開発資料はすべて裁判所に提出済みで、正当性は必ず証明されると信じています。ただ――」
そこで、沢田は言葉を詰まらせた。
カメラがわずかに寄る。
その表情に、一瞬、深い悲しみがよぎった。
「……その裁判において証人として出廷を求められていた、JurisWORKSの開発主任・天城利綱が、急逝してしまったのです。事故と発表されていますが……」
一瞬、スタジオの空気が凍りつく。
桑島は息をのんだ。
「……天城利綱氏が……。お悔やみ申し上げます。まさか、そのような事情があったとは……」
そして、アナウンサーとしての勘が働く。
「沢田常務、失礼ですが……その天城さんというのは、天城コンサルティングと関係のある方なのですか?」
沢田は静かに頷いた。
「ええ。ごく限られた者しか知らないことですが……彼は天才でした。
入社後、わずか1年半でJuris WORKSをリリースさせたほどの。
そして――天城コンサルティング会長のお孫さんなのです」
スタジオがざわつく。スタッフの動きが急に慌ただしくなり、機材を倒すような音が響いた。
桑島はその混乱を受け流し、プロの笑顔でカメラに向かう。
「ではここでCMです。このあと、レンチンズの稲作チャレンジ――今日は草取り作業です。彼らが繰り広げる蛙や虫との闘いを、お楽しみください」
だが、その目はまだ、沢田常務の奥底に潜む何かを探っていた。
ーー視聴者の観点ーー
田中社長はテレビ画面を見つめながら、にっこり笑った。
「桑島アナウンサー、さすがやな。あんなお笑いバラエティーの30分番組を、経済報道番組みたいにしてしもうた。これは視聴率上がるでぇ」
隣に座る竹中顧問が、感心したように頷いた。
「あの人だからできることですわ。並みのアナウンサーだったら、あのまま番組が終わってしまいますよ」
田中社長は胸を叩きながら笑う。
「そらそうや。桑島は“場を支配する力”が違うんや。あの切り込みは、見とるワシらもハラハラしたわ」
竹中顧問も苦笑いしつつ、「あの緊迫感が、視聴者の心を掴むんでしょうね」と言った。
二人の間に流れる空気は、穏やかでありながらも確かな期待感に満ちていた。
ーー山奥のロケ現場の騒動ーー
深い山間の谷あいに設営されたロケ現場。
ディレクターが忙しくスタッフや出演者に声をかけながら歩き回っている。
「どうもー、おつかれさんしたー!どもども!」
疲れた顔に笑顔を浮かべながら、皆に労いの言葉をかける。
レンチンズの北盛夫は、にこにこと高柳久美子に話しかけた。
「いやー、高柳さん、ほんまに!レンチン感激しましたわ。
生まれて初めてや、こんなおいしいご飯食べたの!」
高柳は控えめに首を振る。
「とんでもないです。こんな山の奥で、煮物ぐらいしかお出しできなくて」
それに飯野武も続ける。
「ちゃいますよ、高柳さん。煮物もいけるけど、ここで炊いたお米ですよ!
山の麓まで行列ができるレベルですわ。でも、売ったらすぐ売り切れちゃいますね」
そんな和やかな会話が流れるなか、突然、遠くの山道から太鼓の音やホイッスルの笛の音が響いてきた。
それに重なるように、大きなシュプレヒコールがこだまする。
「(ドンドン、ピッピ)動物虐待!
(ドンドン)強制労働やーめろ!
(ピッピ)」
レンチンズの二人は顔を見合わせ、声のする方へ振り返った。
山道を勢いよく駆け上がってくるのは、動物愛護団体のメンバーらしい数名の男女。
彼らは「動物愛護」「強制労働反対」などと書かれた襷を肩にかけ、叫びながらやって来た。
「小さなロバにぃ、大きな荷車を引かせて!
動物虐待だ、直ちにロバを自然に返せ!」
レンチンズ北は眉をひそめながらも声を荒げる。
「なんや、あんたら!今ここはテレビのロケが来とるんやで!」
リーダー格と見られる男が、鼻息荒く返した。
「なにが、テレビだ、こうして動物が過酷な労働に使役されている現状を、youtubeやTikTokで全世界に伝えるのが俺たちの仕事や!」
他のメンバーたちは、荷車を引くロバのドンちゃんを囲み、スマホのカメラを次々と向けて写真を撮りはじめる。
同時に高柳久美子やテレビ局スタッフにも向け、シャッター音が鳴り響いた。
それを見て飯野が激怒し、声を張り上げた。
「なに勝手なことやっとんねん!」
現場の空気が一気に張り詰める。
動物愛護団体とロケスタッフたちの間で、緊迫した対峙が始まろうとしていた。
ーーチーム、再生農業ーー
山奥の古民家の窓辺に、小林昭一(65歳)が静かに立っていた。
小林自動車代表。元陸自衛隊の整備班出身で、叩き上げのエンジニアだ。
「見る前にわかる」という感覚派で、自動車から農業機械、草刈り機、さらにはお釜の鋳掛けまで何でもこなす。昔で言うところの村の鍛冶屋のような存在だった。
隣には息子の小林槌男(24歳)がいた。大企業に就職していたが、体調を崩してわずか1年で退職。
今は実家の工場を手伝いながら、京都理工大学の竹中ゼミ出身の知識も活かそうとしている。
そして、彼らの元に、風来坊のようにふらりと居候する青年、邑人英二(30歳)がいた。
彼は正体不明だが、高柳久美子の再生農業の持続可能性を見守りつつ、アドバイザーとして深く関わっている。
三人は静かに外の騒動を見つめていた。
動物愛護団体の声が山間に響き渡る中、ロバのドンちゃんは静かにたたずんでいる。
昭一がぽつりと言った。
「昔から変わらんな、外の騒ぎは。けど、あの連中は電動リヤカーがあることも知らんらしい」
槌男は苦笑いしながら答えた。
「あほやなぁ。今の農業も昔とは違うのに、理解してもらうのは無理だね」
邑人は静かに目を細めて言った。
「この村も、これから大きな転換期に差し掛かってる。高柳さんの技術がその鍵を握っているんだ」
この3人と、ロバ、犬、猫、鶏が、高柳久美子を中心に”チーム再生農業”となっていた。
彼らの視線は揃って、山の麓の広がる田んぼへと向けられた。
ーーロバも食わないーー
山奥のロケ現場、動物愛護団体の女性が手に持ったニンジンを差し出すも、ロバのドンちゃんはそっぽを向いた。
「なによ、こんな山奥までせっかくおいしいニンジンもってきたのに!」と女性活動家は憤慨した。
その時、そばにいた邑人英二が静かに言った。
「食べるかどうか決めるのは、ロバのほうですよ。少し傷んでいるか…農薬の臭いがキツいせいかもね。ここにいる俺でもわかる。」
女性活動家はニンジンの匂いを嗅いで、「そんなの、わかるわけないじゃない!適当なこと言って!」と返した。
高柳久美子が冷静に口を挟む。
「わかるんですよ、この子。腐っているのは気にしないけど、農薬には敏感なんです。」
その間にも、他の活動家の男性がロバに繋がれたリヤカーのアンカーを外そうと必死になっていたが、どうやら無理らしい。
邑人がクスリと笑いながら、「エイトノットは難しかったかな?次は南京結びにしておこう」と冗談を言った。
ロケスタッフの緊張は少し和らぎ、思わず皆も笑顔になる。
山奥の空気に、小さな笑いがふわりと広がった。
ーー山間農場の午後ーー
ディレクターが動物愛護団体のリーダーと真剣に話し込んでいた。
「今日は早く村まで戻らないと、路線バスがもうなくなりますよ」
その言葉を聞くと、活動家たちは慌てて帰り支度を始めた。
一方、スタッフやレンチンズには、山の中腹に留めてあるロケバスがあるので、荷物をまとめてそろそろ下山しなければならない。
そんな中、活動家の一人の女性が靴擦れで足を引きずりながら困った様子でいるのを見て、邑人英二が提案した。
「おれたちと一緒にドンちゃんに乗せてもらおう」
合計7人。邑人、小林親子、活動家たちがリヤカーに乗り込む。
邑人が笑いながら言う。
「ちょっと暑いけど、がまんしなよ」
「道はドンちゃんが知ってる。ロバはこう見えて頭がいいんだ」
リヤカーはロバが前に進む歩調に合わせて、静かに電気モーターで動き出した。
ロバにはほとんど負荷がかからない仕組みだ。
下り坂では、モーターが回生ブレーキとなって電気を節約している。
ゆっくりとした速度だが、ロバに任せて快適に移動できるのだ。
その様子を見ながら、小林昭一が得意げに話し始めた。
「どうだい、このガワはおれが作ったんだぜ」
邑人は笑って答えた。
「ドンちゃんのおかげで山道も苦にならない。山間地農業を可能にするのは、技術とロバの智恵ってわけだな」
リヤカーに乗った7人は、静かな山道を揺られながら、それぞれの思いを胸にゆっくりと村へと向かった。
ーー第2の訪問者ーー
山奥の古民家に、先ほどまでの喧騒が嘘のように静けさが戻っていた。
高柳久美子の家の庭には、いつものようにダンとニャンヌがのんびりと出てきている。
鶏のチーフ・クミの一家も、庭に落ちている食事のかすをついばんでいた。
そんな静かな時間の中、遠くから歩く足音が聞こえた。
見ると、背広を脱ぎ肩にかけ、杖を頼りにゆっくりと上ってくる老人の姿があった。
「こんな山奥に、革靴で来るなんて…」
高柳はそう思いながら、息を切らせてやって来る老人のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか、お怪我は?」
高柳はそっと老人の脇に寄り添い、体を支えた。
老人はゆっくりと目を開けて言った。
「すまない、君は高柳さんかね?私は、天城といいます」
高柳は一瞬言葉を失い、驚きの表情を浮かべた。
「天城さんと…おっしゃいました?」
老人は名乗った。
「私は天城、天城正綱です。天城利綱の祖父です」
老人は麓から10キロもの山道を一人で歩いてきたという。
杖の先端は破損して短くなり、途中で転倒したらしくズボンの膝も破れていた。
「大変です、私の家はすぐそこです。もう少しご辛抱いただけますか?」
高柳は老人の肩を貸しながら、なんとか家の縁側まで連れて行った。
水を持ってきて飲ませると、高柳は慌てて言った。
「すぐ布団をご用意しますので!」
しかし老人は静かに答えた。
「いや、大丈夫です。少しここで休ませてください・・・」
そして、縁側にぐったりと横になった。
静かな山奥の古民家で、止まっていた時が動き出したかのようであった。
ーー
落ち着くまでに、30分ほどかかっただろうか。時計の針はすでに15時を回っていた。
(バスもないし、このままここで泊まっていただくしかないわね……)
高柳は心の中でそう覚悟し、天城老人に優しく申し出た。
「なにもございませんが、よろしければ、今夜はこちらにお泊まりになっては? お風呂もございますし」
天城老人はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「すまない、お言葉に甘えさせていただきます」
そう言うと、正座のまま深く礼をした。
高柳はすぐに男物の浴衣を手渡しながら、微笑みかけた。
「よろしかったら、こちらをお使いください」
天城老人はその浴衣を受け取り、少し頷いた。
静かな山奥の古民家に、二人の時間が静かに流れていった。
天城老人の疲労を気遣い、高柳は早めに床についたほうが良いだろうと考え、風呂を勧めた。
「少し温まれば、お体も楽になるはずです」
老人が湯殿へ向かうのを見届けると、その間に夕餉の支度に取りかかった。
「田舎のものしかありませんが……」
そう前置きしながら、今朝煮ておいた大根と里芋の煮物、浅漬けの御新香、湯気の立つ味噌汁、そして土鍋で炊き上げた白いご飯を膳に並べた。
湯上がりの老人が縁側から戻ってくると、膳の前に正座し、両の手を静かに合わせた。
しばし目を閉じて拝むように祈り、箸を手に取る。
一口、白米を口に運んだ瞬間、天城老人の表情が変わった。
「……これは……こんな旨い飯は食べたことがない」
言葉を探すように間を置き、ふと視線を落とす。
「いや……子供の頃、母がつくってくれた飯が……こんなだったか……」
湯気の向こうで、幼い日の記憶が蘇ったのだろう。
老人の瞳には、かすかな光が宿っていた。
ーー真実の対話ーー
「それでは、こちらの部屋にお布団を敷きましたので……古い家ですから、寝苦しいかもしれませんが」
高柳が襖を開けながら声をかけた。
天城は首を振り、柔らかく笑った。
「とんでもない。わたしの生家も、こんな造りでした。むしろ懐かしく思っております」
そう言うと、少し間を置き、静かに付け加えた。
「……それより少し、この年寄りの話に付き合っていただけませんか?」
座卓を挟み、二人は向かい合った。
天城正綱は、膝の上で指を組み、ゆっくりと話を始める。
「孫の利綱に、とてもよく尽くしてくれたこと……感謝しております。
あなたは、天城コンサルティングのJurisWorksを停止するとき、孫を手伝っておられましたね。
今は、生前の利綱のことを聞けるのは、もうあなたしかいないと思って……不躾ながら、お邪魔した次第です」
高柳は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
利綱の祖父が、遠路はるばる、この山奥まで訪ねてきてくれた――その事実だけで、言葉にできない重みがあった。
「とんでもない。むしろ、こちらからご挨拶に伺うべきでした。こうしてお話しできるなんて……夢にも思いませんでした」
しかし、その温かなやり取りの空気は、天城の表情が変わった瞬間に一変した。
笑みが消え、老いた瞳が鋭く細められる。
「……私は、孫の死の真相を知りたいと思っている」
その声は低く、しかし一切の揺らぎがなかった。
「あなたが知っていることは、すべて話してもらいたい。利綱の亡くなった、その場に――あなたはいましたか?」
高柳は、膝の上で拳を握った。
この老人の前で、どんな嘘をついても無駄だ――直感がそう告げていた。
「……すべてお話しします。天城さま」
高柳はゆっくりと言葉を紡いだ。
「利綱さんは、その日も私と一緒に、システム開発ルームで――」
高柳は、深く息を吸い込むと、静かに言葉を紡ぎ始めた。
ーー終焉の情景ーー
「――最新バージョンとなる JurisWorks の開発を行っておりました。しかし、それは従来の JurisWorks のアーキテクチャを一切利用できない状況での、まさに手探りの作業でした。手がかりは――天城チーフ、利綱さんの記憶に残された理論の断片だけでした。」
天城正綱の目が、暗がりの中でかすかに輝いた。高柳は続けた。
「利綱さんは、そのわずかな記憶の欠片を頼りに、頭脳の中にだけシステムを構築していたのです。図面もノートもほとんど使わず、まるで、目に見えない巨大な設計図を心の奥に抱えているようでした。」
老人はしばらく黙って高柳の言葉を噛みしめていたが、やがて小さく笑みを漏らした。
(……やはり、あの子は私の孫だ。)
若き日の自分も、ほとんど紙を使わずに法律の理論を頭の中で完結させていた。手帳に残るのは、他人には意味不明な詩篇や符号ばかりだった。利綱もまた、同じ道を歩んでいたのだ。
胸の奥が、愛しさで満ちていく。
彼が生きた時間は短かった。だが、その中で確かに受け継がれていた――自分と同じ、あの熱と執念が。
天城老人には、炊事場のかまどの中の赤い残り火が見えていた、邑人と槌男の作ったかまどであったが、その形状は確かに”お竈さん”であった。そして静かに頷いた。
それは、孫を誇りに思う者だけが見せる、深い頷きだった。
ーー
高柳久美子は、ゆっくりと、しかし途切れることなく言葉を紡いだ。
「その日……といっても、もう午前零時を回っていました。ようやく、プログラムの完成が見えたようで……天城チーフは、その喜びを私に伝えてくれたんです。――キスをしてくれました」
その瞬間の温もりが蘇ったのだろう。久美子の声がわずかに震える。
「気がついたら、私は天城チーフの胸で泣いていました」
正綱老人は、しばし黙って彼女を見つめ、それから低く呟いた。
「……孫を、好いていてくれたのですね」
「はい。そのあと、私だけが帰宅しました。彼は、残って作業を片付けると言っていました。――翌朝、早くに開発ルームへ入ると、彼は……もう、事切れていました。検視では心臓発作だったそうです」
「……それが、解せないんだっ!」
天城正綱は、突如として声を張り上げた。その瞳には、疑念と怒りが入り混じっている。
「決して病弱な子ではなかった。死神がついたとでもいうのか……? 一体、何があの子を死に至らしめたのか」
久美子は、深く息を吸い、視線を逸らした。
「……私が、警察にも話していない秘匿事項があります」
そう言うと、彼女は椅子から立ち上がり、隣の部屋へと消えた。
正綱は、足音の一つひとつを逃すまいと耳を澄ませる。
やがて、彼女は戻ってきた。その手には、小さな布製の包み――古びた、しかしどこか威厳を帯びた袱紗が抱えられていた。
正綱の眼は、その袱紗から離れなかった。
「事件現場の証拠品の隠匿で……私は罪を問われるかもしれません。でも、これは彼の遺言なのです」
久美子の指が、袱紗の端をそっと撫でる。
「『天城の人間が尋ねてきたら、これを渡してくれ』……そう言われました。中には、その書付もあります。私は……天城さまが来る日を、ここでお待ちしていたのです」
その言葉に、室内の空気が重く沈んだ。
外では、初秋の風が古い雨戸を鳴らしていた。
ーー手紙とディスクーー
天城老人は、震える手でゆっくりとその包みを解いた。
布の中から現れたのは、白いDVD――その表面には、力強く、しかしどこか急いだ筆跡で「JurisWorks~」と書かれていた。
もうひとつ、小さく折り畳まれた紙片。そこには高柳久美子への、短くも深い言葉が綴られていた。
老人は黙って読み進め、やがてそっと目を閉じた。
「……すまなかった、高柳さん。大きな声をあげたりして。」
その声は、先ほどまでの険しさをすっかり失い、遠い山の雪解けのように柔らかかった。
「このメモには、利綱の……あなたに対する揺るぎない信頼が込められている。
あの子は、自分の運命を知り、受け入れていたのだ。
そして、これを私に渡すという使命を、あなたに託した。」
高柳は、唇を噛みしめたまま、何も言えなかった。
老人は、深く頷きながら続けた。
「あなたは……それを果たしてくれた。無事に。」
――長かった。
あれから、気の遠くなるような月日が過ぎたような気がする。
胸の奥に掛けられていた心の錠前が、ようやく外れた。
封印の石像に変化させられていたかのような、長い長い呪いが解け、今やっと人間に戻れたのだ。
知らぬ間に、頬を伝う涙があった。
高柳がハンカチを出しかけたが、老人はそっと手で拭い、かすかに笑った。
高柳久美子は、笑顔で天城老人に返した「……明日、山を降りて警察に参ります。」
高柳の決意の言葉を、老人は片手を挙げて制した。
「いや――あなたは、私の恩人です。
利綱が信じた女神です。
誰にも、あなたを傷つけさせはしない。
私が生きている限り、あなたをお守りします。」
その言葉は、部屋の空気を包み込むように静かに響き、外では山の夜風がそっと窓を揺らしていた。
---
「孫の残したディスクは確かに受け取りました。でもこの手紙はあなたに宛てられたものだ。――私は利綱の筆跡が愛おしい。しかしこれは私から、あなたに託します」
[手紙全文]
---
「--久美、ごめんね。
いままでほんとうにありがとう。
どうやらボクは、ここまでのようです。
このパッチディスクは、今はきみが預かって。
そしていつか、天城の人間が尋ねてきたら、これを渡してください。
……本当は、もっと一緒に笑っていたかった。
君と見る夕焼けを、まだいくつも覚えていたかった。
たとえ離れても、君の幸せを願う気持ちは、どんな運命にも奪えない。
君が振り返ったとき、そこにボクの笑顔を思い出してくれたら、それでいい。」
---
高柳久美子は、それを始めて読んだときと同じように、胸に押し抱いた。
ーー王国の迎えーー
翌日、山間の開けた空き地に、ローターの爆音を音を轟かせながら一機のヘリコプターが降り立った。天城コンサルティングがチャーターしたもであった。
タラップを降りてきたのは、端正なスーツ姿の男――天城コンサルティング取締役社長、海北利景。
冷静沈着な眼差しの奥に、抑えきれぬ緊張が宿っている。彼は亡き天城利綱の実父であり、天城家の娘婿として迎えられた人物だった。
「会長、お迎えに参りました」
深く一礼し、天城老人の手を握る。
「心配かけたね……そこにいる高柳さんにはたいへんお世話になった」
老人はそう言い、背後の女性に視線を向けた。
海北社長はすぐに歩み寄り、高柳久美子を見据えた。
「天城会長をお守りいただき、心から感謝いたします。これは、その印です」
目配せを受けた女性秘書が、一歩前に出る。深々と頭を下げ、厚みのある封筒を差し出した。
その封筒には、帯封付きの一万円の札束が三つ。
手渡された大金に、高柳は困惑の表情を浮かべていた。
その間にも、海北は老人を伴ってヘリへ向かう。
ブレードが唸りを上げ、風圧が空き地の草を押し倒す。
高柳は首を横に振り、なにかを叫んだ。だが、その声は爆音にかき消される。
同じく、天城老人の「ありがとう!私の気持ちです。お納めください!」という叫びも、彼女に届いたかは分からない。
ヘリはゆっくりと上昇し、やがて青空の彼方へと消えていった。
大金の札束。暗にそれは、口止めの意味を含んだ礼金だった。
「……全てを忘れて、新しい人生を」
それが、天城一族にできる精一杯の別れの言葉であった。
ーー続くーー




