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田中オフィス  作者: 和子
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第五十五話、遥かなる山奥の呼びかけ

ーー辞表の行方ーー

夜のN通信本社。巨大な技術開発フロアは、まるで誰かがすべての音を吸い取ったかのように静まり返っていた。蛍光灯は落とされ、天井の非常灯だけがぼんやりと空間を照らしている。


その光のもとに、ひとりの女性がいた。


高柳(たかやなぎ)久美子(くみこ)、27歳。長い髪を無造作に後ろで束ね、黒のジャケットを羽織っている。彼女のデスクには一枚の白い封筒が置かれていた。その存在は、そこにあるだけで緊張を孕み、空気を重くする。


手を伸ばしかけて、彼女はふと動きを止めた。


「……これで、終わりにしよう」


その言葉は、小さな吐息のようだった。誰にも聞こえぬ独り言。だが、彼女にとっては決意だった。



ーー私の居場所ーー

沢田修治、N通信の常務が使うオフィスは、高層ビルの夜景が一望できる広さを誇っていた。室内の明かりは控えめで、ガラスの向こうに広がる都市の光が、まるで無数の星のようにきらめいている。


「失礼します」


久美子が中に入り、無言で封筒を差し出した。沢田はそれに目をやることもなく、窓の外を見たまま静かに言った。


「高柳さん……君がいなくなると、N通信は“地に足”がつかなくなる」


「プロジェクトは消えました。私は、必要のない人間です」


その声は冷たく、硬い。自嘲と虚無が混じっていた。だが、沢田はようやく彼女の方を振り返り、語気を強めた。


「君は“JurisWorks”の技術的な心臓だった。消えたのは、製品名だけだ。君まで消えたわけじゃない」


一瞬、沈黙が訪れた。


「……何仰りたいんですか?」


彼女の問いに、沢田は机の上から一冊のファイルを取り出し、差し出した。表紙には無骨なゴシック体でこう記されていた。


《地方自立型 再生農業モデル構想(試案)》


「これが、次の挑戦だ」



ーー蘇生のためにーー

久美子が開いたファイルには、いくつもの写真が添えられていた。


干上がった水路。ひび割れた畑。雑草に埋もれたビニールハウス。古びた倉庫にはカビが浮いていた。希望など微塵もない光景ばかり。


「農業は死にかけている。人もいない。資本もない」


沢田の声が、資料に添えられた映像のナレーションのように響く。


「でも、君の技術なら……再び、息を吹き込める」


照明を落とすと、プロジェクターの映像が壁面に広がる。そこに映し出されたのは、AIが描き出す近未来の農業の姿だった。


上空を飛ぶドローンが、緑に染まりゆく作物の列を俯瞰で捉える。AIは空のわずかな表情から天候を予測し、地中のセンサーが畑の水分を解析。瞬時に灌漑装置へと指示が送られ、水は迷いなく、大地の渇きを潤していく。


「これは、農業じゃない。“土地を蘇らせるシステム”だ」


その一言が、映像の余韻に重なるように響いた。



ーー境界線の向こうーー

久美子は、手元のファイルからゆっくりと顔を上げた。


「……N通信が、土に触れるんですか?」


そう問いながらも、その声にはかすかな揺らぎがあった。ここに来るまでの空白と、天城という名が、彼女の中にまだ重く沈んでいる。


窓の外を見つめたまま、沢田は一瞬言葉を選ぶように黙った。夜景の光がその横顔を斜めに照らす。やがて彼は、わずかに視線を動かし、久美子をまっすぐに見た。


「……君がいれば、触れられる」


それだけだった。短く、余計な飾りのない言葉。


だが、久美子には分かった。

“あの日から、何も言えなかった”という沈黙の重さが、今この一言に込められていること。

天城が残したものを、彼女ひとりに背負わせてしまった自責。

毎晩、席を立たず作業に没頭していた自分を、誰かが見ていたのだと、初めて気づいた。


沢田は何も続けなかった。ただ、彼女の目から目をそらさず、静かに立っていた。

それは上司としての命令ではなかった。誰かを救いたいという、人間としての声だった。


久美子は、目を伏せた。胸の奥に、言葉にできないものが波のように広がっていく。


沢田は静かにそう言った。


「技術はあっても、私は現場の声を聞いたことがありません」


「なら、聞きに行こうじゃないか。君に見てもらいたい場所がある──」


その言葉に、久美子の表情がわずかに動いた。心に、新しい風が吹きはじめていた。



ーー都落ちーー

昼休みのN通信本社ビル12階、カフェテリアはいつものように喧噪に満ちていた。

カトラリーのぶつかる音、電子レンジの再加熱音、電子マネーの決済音。

ガラス張りの窓から差し込む光の下で、OLや技術部の若手社員たちが列を成し、賑やかに笑い合っている。


だがその輪の、わずか数メートル外。高柳久美子はひとり、窓際の席で黙々とランチをとっていた。


スプーンの音だけが響くテーブルに、わざとらしい声が届く。


「ねえ聞いた? 高柳さん、“G-prog”に出向だってさ」


若手社員Aの、わざとヒソヒソしているようで実はよく通る声。

その隣で、Bがくすくすと笑いながら続ける。


「ロバと住むのよ〜。田舎の山奥で、ロバだよ?」


「うらやまし〜!朝ゆっくりできるじゃん、鶏に起こしてもらえば!」

若手社員Cが、わざと声を張ってそう言った瞬間、テーブルの周囲は爆笑に包まれた。


「アハハハ!」


――その笑いが、まるで遠くから聞こえるように感じた。


久美子は静かに箸を止めた。

手の中の器が、不意に冷たくなったような気がした。


背中越しに浴びせられる嘲笑は、心に染みる毒のようだった。

だが彼女は振り返らなかった。ただ静かに、心の中で言った。


《……あのとき、辞めておけばよかったのかも》



ーー古民家という現実ーー

翌朝。久美子は、苔むした屋根の古民家の庭先で、洗濯物を干していた。

縁側に揺れるのは野良着と軍手。干したばかりのタオルが風にあおられて踊っている。

その傍らを、一匹の猫が、とことこと歩いていった。


「……まるで修行……というか、罰ゲームね」


呟きながら空を見上げる。朝の空は広く、容赦なく澄んでいた。


目線を下げると、足元に鶏が駆け寄ってきて、靴紐をつついている。


「やめて……もう朝は卵くれたでしょ」


口ではそう言いながらも、久美子の顔には微かに笑みが滲んでいた。

だがその奥には、まだ乾かぬ疲れが残っている。


古民家の裏手では、(かまど)から湯気が立ち上っていた。

その向こうの山からは、犬の遠吠えが、こだまするように響いていた。



ーー道なき道ーー

G-progの実験農地へ向かうには、山を一つ越えねばならない。

舗装されていない、細く曲がりくねった山道。足元には杉の葉が積もり、湿気を帯びて滑りやすい。


久美子はタブレットと水筒を抱え、息を切らしながら歩いていた。


「……電波も……届かない……なにが通信会社よ……」


苦笑まじりに、皮肉をつぶやく。


その背後から、のそのそとロバがついてきていた。

ロバの背中には、資材と簡易機器を積んだ麻袋が揺れている。


「……あんたの方が、よっぽど実用的ね」


ロバは特に反応も見せず、ただ静かに山道を踏みしめていた。



ーー風の実験場ーー

山道を越えた先、谷間にぽつんと広がる600㎡ほどの農地。

そこが、G-progの実験圃場だった。


雨よけのビニールが風に揺れ、風力センサーと気温計が斜めに立っている。

だが、設備の多くは錆びつき、ソーラーパネルの半分は杉の影に覆われていた。


久美子はノートPCを開いた。画面にすぐさま“電源不足”の警告が表示される。


「バカみたい……通信会社の人間が……電源もまともに確保できないなんて」


情けなさと苛立ちが、同時に口を突いた。


そのとき、ガサリ、と草むらが動いた。


ビクッと振り返ると、そこには一匹の猫がいた。

畑の縁にちょこんと座り、まっすぐ久美子を見ている。


しばらく見つめ合ったのち、久美子の肩からふっと力が抜けた。


「はいはい、あんたも監視役でしょ。……見てなさいよ。

都会の“落ちこぼれ”が、どこまでやれるか」


その隣で、ロバが一声、低く鳴いた。

その声はブォオォンと谷に響き、山に跳ね返った。


久美子は帽子をかぶり直し、タブレットを立ち上げる。

風が吹き、畑の土の匂いが立ち昇る。


《この土地が、何かを思い出させてくれる気がする──

生きてるって、こういうことなんじゃないの?》


深く息を吸い、彼女は画面に向かって指を動かし始めた。

東京では聞こえなかった音が、ここにはあった。



ーー村の男ーー

朝・G-prog農地


空は、吸い込まれそうに高く澄んでいた。

蝉の声も届かぬほどの静けさの中、ただ、鳥のさえずりが点を打つように響いている。

山間に広がるG-prog農地。その一角で、高柳久美子はタブレットを手に、淡々と土壌センサーのデータを確認していた。


「水分センサー、異常なし。塩基も……安定」


長靴に土をまとわせながら、久美子は一歩ずつ、畝の間を進んでいく。機械の画面と畑の土を交互に見つめるその姿には、どこか祈るような緊張があった。

日々の確認作業は、単なるルーチンではない。土地の再生とは、命の呼吸に耳を澄ますこと。AIやセンサーがあっても、それだけでは“対話”にならない。


そのときだった──


「……?」

湧水小屋の方角から、バシャバシャと水を掻くような音がした。

久美子は眉をひそめた。


「……まさかまた鹿? イノシシじゃないといいけど……」


静かな朝の風景に、不穏な波紋が広がる。彼女はそっと歩を進めた。足音を殺すように、息をひそめ、畑の端から湧水小屋の方へと忍び寄る。


視界の先──湧き水の水受けに、しゃがみ込んで何かをしている人物がいた。

男だった。浅黒い肌。土埃まみれのシャツとジーンズ。野良仕事というより、野営生活の名残をまとっているような風貌。


「いやー助かったよ! 喉がカラッカラでさ」


男は顔をあげ、水滴を滴らせながら、あっけらかんと笑った。

久美子は身構えた。


「……誰ですか、あなた」

「俺? 邑人英二(むらびと えいじ)ってんだ。まあ、通りすがりの……野良研究者、ってとこかな?」


その笑顔に悪意はない。だが、それ以上に、底が知れなかった。

久美子の目が鋭くなる。


「勝手に敷地に入らないでください。ここは実験農地です」

「おう、それならちょうどよかった。俺も“実験”してるんだわ」

「……何を?」


男は人差し指を一本、空に向けた。


「“生き延び方”だよ。電気もガスもねぇ山の中で、人間がどこまで自然に寄り添えるか、ってやつ」


その言葉に、久美子は一瞬、呼吸を止めた。

──どこかで、似たようなテーマを耳にした気がした。


「都会には……もう飽きたんだよ。再生エネルギーも、再生農業も、再生人間も……どれも中途半端に見えてな」


久美子は言葉を探すように、視線を男から逸らした。


「あなた、何者なんですか」

「元・科学技術庁付きの民間実証チーム……って言えば、聞こえはいいけどな。今は野良犬だよ。あんたは?」

「N通信、出向者。自動化農業の技術担当……」


その名を聞くと、英二は目を細め、ふっと風の流れを嗅ぐように空を仰いだ。


「なるほど……それでこの人工センサーの数がこんなにあるってわけだ。

──風の流れが悪いな。換気と水路の位置、ちょっと変えた方がいい。──あとで、図面描いてやろうか?」


久美子は少し目を見開いた。

──この土地で、初めて“技術の話”が通じる相手だった。


そのとき、どこからともなく現れた猫が、英二の足元に擦り寄っていった。

まるで「この男は大丈夫」と言うかのように、しなやかに身体を絡める。


「……少し、話を聞かせてください。条件次第で、立ち入りを認めます」


久美子の声はまだ硬い。だが、その瞳には、かすかに揺らぎが生まれていた。

英二はにやっと笑った。


「お、交渉成立ってことだな。じゃ、今日から“共同実験”ってことで!」


風が、山の木々を撫でるように吹き抜けた。

久美子はまだ心を開いてはいない。けれど、その目に差した一筋の光は、確かに「孤独」を「対話」へと変え始めていた。



ーー「観測者の朝」ーー

早朝の空気はひんやりと澄んで、農地の縁には朝露を含んだ薄霧が漂っていた。

陽は地平線のすぐ上、濡れた土を赤く染めながら、静かに昇ろうとしていた。


その土の上に、ひとりの男がしゃがみ込んでいる。邑人英二(むらびとえいじ)

顔をしかめ、まるで息をひそめるように、畝の合間へ指を差し入れていた。


粘り気、水分、熱、粒子の動き。

その全てを、指先で感じ取るように。


と、その静寂を破るように、足音が近づいた。

迷いのない、地を踏みしめる足取り。


「……勝手にセンサー周辺、いじらないでくださいって言いましたよね」


高柳久美子だった。

腕を組み、口調は冷たい。だがその背筋には、緊張が混じっていた。


「センサーには触ってないよ」


英二はそう返しながら、土から指を抜いた。

その手には土の感触だけでなく、何かもっと深い情報が残されているようだった。


「この土地……“生き返ろう”としてる」

と、彼は静かに言った。


「でもまだ、呼吸器が詰まってる。あと半年は“休眠モード”のままだな」


久美子は眉をひそめた。

「何それ。土地のAI診断でもしたつもり?」


英二はゆっくりと立ち上がる。

土の匂いをまとったまま、空を仰ぐこともせず、大地を見渡すように目を細めた。


「……AIがやることの多くは、昔、“預言”って呼ばれてたんだぜ」


その一言に、久美子の胸の奥が冷たくなった。

ゾクリ、とした感覚。理解を超えた“何か”が、言葉の裏に潜んでいる。


──この男には、見えている。


ただのデータでも感覚でもない、もっと本質的な“命の兆し”が。


「……あなた、本当に、どこから来たの?」


久美子は、無意識にその言葉を発していた。

専門家としての理性が、一瞬だけ脇に退いた。


英二は黙ったまま、朝の陽に照らされた畑を見つめる。


そのまなざしは懐かしむでも、懐疑でもなかった。

ただ、静かに、深く、大地の変化を見届ける者の目だった。


まるで、

この大地を遠くから見守る”観測者”であるかのように——。


朝露が光を受け、きらりと輝いた。

久美子はその眩しさに目を細めながら、胸の奥のざわめきを振り払おうとした。


だが、その違和感は、すでに彼女の中に根を張り始めていた。



ーーペットと観測者ーー

午後・古民家の裏庭、動物たちとのふれあい。

 斜めから差し込む木漏れ日が、裏庭の乾いた土をまだらに照らしていた。風が梢を揺らすたび、日差しの模様もゆるやかに形を変える。


高柳久美子は、手にしたノートにさらさらとペンを走らせながら、鶏たちに餌を撒いていた。


「はい、今日の採卵は……三個。クミちゃん、チーフに追いかけられてなかった?」


ひときわ小柄な白い雌鳥が、くるりと首を傾げて久美子を見上げる。くちばしに餌くずをつけたまま、コクンと一度鳴いた。


そのそばで、ロバのドンがのっそりと草を食んでいた。年老いたロバだが、頑固なところは若い頃と変わらないらしい。反対側の塀際では、犬のダンが、またしても掘り返しかけている地面に鼻を近づけていた。


「ダン、穴掘らない! ……あんた昨日も水道管やらかしたでしょ!」


ピクリと耳が動いたかと思うと、ダンはすぐに尻尾を巻いて座り込み、申し訳なさそうに久美子を見た。その姿に苦笑しながら、彼女は小さなシャベルで、乱された土を慣らした。


窓辺では、猫のニャンヌが前足を丸めて眠っている。かすかに揺れる尻尾だけが、彼女の呼吸にあわせて動いていた。


「……みんな、これからもよろしくね。私、ちょっとここでがんばってみるからさ」


その言葉に、誰かが答えたわけでもなかった。でも、風が葉を揺らす音、どこかでホトトギスが鳴く声、そして傍らにいる動物たちの、何気ない仕草が、不思議とその宣言を受け止めてくれたような気がした。


孤独な研究者──それが久美子の立ち位置だった。でも、ここでは、誰も彼女を問いたださなかった。ただそばにいてくれる存在たち。その距離が、少しずつ、確実に近づいていた。



ーー夜・古民家の囲炉裏端ーー

囲炉裏にかけた味噌汁から、干し野菜の甘い香りが立ちのぼる。久美子はおにぎりを握りながら、向かいに座る男──邑人英二を見た。


「俺もペット、いるよ」


英二がそう言ったのは、味噌汁をすすった直後だった。


「え? ここに?」


「ううん。いつも持って歩いてる」


久美子は、心なしか身を引いた。


「……何それ、ぬいぐるみ的な? それとも、精神的な……やつ?」


英二は目元を細めて笑った。


「ウィン、ミク、アギー。三匹とも、よくしゃべるんだ。俺より賢いときもある」


「……しゃべるって、動物が?」


「うん、正確には──“波動言語変換プロトコルV.3.1β”でね」


その瞬間、久美子の手が止まった。味噌汁の椀を持ったまま、彼女はじっと英二を見つめた。


「それ……今の、冗談?」


英二は微笑みを消して、真っ直ぐに彼女を見た。


「言ってる意味はわからないと思うけど、冗談じゃない」


囲炉裏の薪が、パキ、と音を立てて割れた。


しばらくの沈黙のあと、久美子は静かに息を吐いた。


「……ほんと、変な人ですね」


英二はふっと笑って、湯気の立つ味噌汁に視線を落とした。


「ありがとう。よく言われる」



ーー翌朝・農場の奥、湧水(わきみず)の前ーー


朝靄がかかる農場の奥、湧き水のそばに英二の姿があった。


彼の両手には、ひよこが三羽、まるで宝石のようにちょこんと乗っている。英二はそれぞれの頭に向かって、まるで祈りを捧げるように、小さな声で何かを“ささやいて”いた。


「また変なことしてる……」


背後からの声に、英二は片手をあげて応えた。すると、手の中のひよこたちが──驚くほど正確なタイミングで「ピッ」と一声ずつ鳴いた。


久美子は立ち止まり、目を見開いた。


「……まさか」


英二は、静かに微笑んだ。


「チューニング完了。“彼ら”は言葉より早く、共鳴するんだ」


湧き水のせせらぎと、ひよこの柔らかな鳴き声。そして英二の言葉。


この男がどこから来て、何を観測しているのか──久美子にはまだ、わからないことばかりだ。


でも少なくとも、彼の言葉は、なぜか嘘には聞こえなかった。



ーー観測点ーー

朝。

古民家の縁側に、パンとコーヒーの香ばしい匂いが漂う。

高柳久美子は、手に持った白いマグカップをそっと置いた。足元では、茶色の雑種犬──ダンが、陽だまりの中で丸くなっている。


ひと口、パンをちぎって口に運びながら、ふと目を上げた。


窓の外、霧のまだらに残る山の斜面に、小さな小屋のようなものが見えた。

屋根の上から、細く煙が立っている。


「……あれ、英二さん、やっぱりあそこに寝泊まりしてるんだ」


誰に言うでもなくつぶやいた久美子の声に、ダンが片耳を動かしただけで、また眠りに戻る。


あの場所は、元々炭焼き小屋の跡地だった。

そこを邑人英二がひっそりと改造し、滞在所として使っているのを久美子は見たことがある。


中にはテント式のベッド、携帯型のソーラー発電設備。

そして、見たことのない端末──多分、測量か観測用の機器だ。


生活臭はない。人が住んでいるというより、そこに「とどまっている」だけという感じ。


「まぁ……なんか、納得」


そう言って、冷めたコーヒーに口をつけた。



ーー午後、農場のテラスーー

久美子は古びた木のベンチに腰掛け、タブレットで資料に目を通していた。隣のベンチには、英二。二人の間には、ひとりぶん以上の間がある。


しばらく無言のまま風が通り過ぎたあと、久美子は小さくつぶやいた。


「なんで、こんなところに来たんですか」


英二は答えなかった。言葉を捜している風であった。

湧水の流れに手を差し入れ、その水で土を洗うように、静かに指を動かしている。


久美子は自分の言葉を、少しだけ後悔しかけて、でも口を閉じずに続けた。


「私はね……逃げてきたわけじゃない。

でも、結果的に“そう見える”のが悔しいんです」


英二は水を切って、タオルで手を拭いた。

そしてようやく、久美子の方を見ないまま、ぽつりとつぶやく。


「場所のことを気にする人は、たいてい“観測点”を間違える」


「……観測点?」


聞き返す久美子に、英二は微笑まず、ただ言葉を続けた。


「自分の“重心”がどこにあるのか。

人は時々、それを外に置きたがる。でも、それだと揺れるだけ」


久美子は、手元のタブレットをそっと閉じた。


英二がようやく、かすかに笑みを見せた。


「あなたの重心は、まだ動いていない。だから、揺れてない」


風の音がふたりの間を吹き抜ける。



ーー夕暮れーー

農地の端で、英二が小屋へと戻っていく。

久美子は少し離れた場所から、その背中を見送っていた。


彼はロバのドンに餌をやり、やさしく撫でたあと、こちらに気づいて手を軽く振った。

まるでそれが、日課のひとつであるかのように、自然な動作だった。


久美子は手を振り返すことなく、小さな声で言った。


「……“観測”ね。

あの人、何を見てるんだろ」


そのとき、どこからともなく現れた猫のニャンヌが、久美子の膝に飛び乗った。

「ミャ」と短く鳴いて、尻尾を揺らす。


久美子は、ほんの少し微笑んだ。


遠く、小屋に灯るひとすじの光。

まるで、大地の奥深くを見つめる観測者の、静かな目のように──。



ーー観測と修理と父子げんかーー

村はずれ、そこには”小林自動車整備工場”がある。

トタン屋根が日差しを反射し、ブリキの看板が風に揺れる。

時間が止まったような静かな工場の中には、無骨な機械たちが所狭しと並び、整備の音が響き渡っている。

工場の片隅には、農業機械が4台ほど、手前には軽トラが2台。その周囲で、作業着姿の英二が黙々と作業をしている。手に持ったスパナでトラクターの歯車を外しながら、彼は少し眉をひそめていた。


「うん、やっぱりこの型番のギヤ、標準規格とは微妙にずれてるな……」


背後から、重たい足音が近づく。

振り返ると、そこには小林昭一(こばやしあきかず)が、にやりとした表情で覗き込んでいた。


「おまえ、ホントに“観光で来た”人か?」


英二は軽く笑うと、手元の作業を続けながら言った。


「うーん、たしかに観光だけでは説明しづらいですね」


その時、作業場に汗だくの若者が入ってきた。

若者はタイヤを運びながら、ぶつぶつと口を動かしている。

「……くっそ、なんでこんなクソ暑い日に限ってパンク4本だよ!」


小林昭一はその若者に、すかさず声をかける。

「甘ったれんな、根性なし!」


若者──鎚男(つちお)は顔をしかめながら、軽く言い返す。

「俺、大学じゃマーケティング専攻だったんだよ? なんで今、牛糞避けてタイヤ転がしてんの?」


英二はそんな鎚男(つちお)からタイヤを受け取りながら、微笑んだ。

「マーケティングも“現場”を知らないと、通用しないって聞きました」


鎚男はちらりと英二を見た。

目を見張るほど好奇心を隠しきれない様子で、ぽつりと質問する。

「……英二さん、ホントにどこ出身なんすか?」


英二はにっこりと笑って、肩をすくめた。

「遠くの“田舎”です」



ーー夕方・工場の軒下ベンチーー

作業が終わり、工場の軒下で久しぶりの休憩を取っている。

麦茶の冷たい喉越しが心地よい。


煙草の煙がゆっくりと空に舞い上がり、小林昭一は落ち着いた様子で言った。

「けっきょく“壊れたもんを直せる”奴が、いちばん信頼されるんだよ」


英二は煙草を見て、何も言わず静かに答える。

「“直す”と“再構成する”は、似ているけど違うんです」


小林昭一は軽く苦笑し、煙草を一息吸うと、英二を見据えて言った。

「ほぉ? それはまた哲学的だな」


英二はその視線を受け止め、ゆっくりと答えた。

「構造の意味を見つけ直す。

そうすれば、“壊れた”こと自体が意味になることもあります」


その言葉を聞いた鎚男は、ふと口を開いた。

「……そういうの、大学のゼミで言えばウケたんだろうな」


小林昭一はすかさず、鋭く鎚男を睨みつける。

「じゃあ明日もタイヤな!4本!」


鎚男は天を仰いで、軽くため息をついた。

「俺、観測員になりてぇ……」


その瞬間、工場の屋根に、三人の笑い声が反響した。

しばらくその笑いが続く中で、遠くからロバの蹄の音が聞こえてくる。

それは、久美子が工場の近くまで来ている合図だった。

英二は微笑みながら、ふとその音に耳を傾ける。


その静かな時の流れの中、何かが変わり始めているような気がした。


父子の間には、言葉では表せないような距離がありながらも、確実に同じ工場での時間を積み重ねている。それがまた、新たな発見を生むことを、英二は感じていた。



ーー首輪カメラの贈りものーー

夕方・小林自動車整備工場の作業台の前。

工場内の空気は汗と油の匂いが混じり、工具の金属音が響き渡っていた。


英二は慎重に、バンダナで包まれた小さなパーツの包みを手に取り、鎚男に差し出す。

「これ、壊れてるドライブレコーダー。どっちもダメらしい」


鎚男は包みを受け取ると、少し疑問の表情を浮かべながら尋ねた。

「ふーん……なんで2台?用途は?」


英二は目を細め、わずかに微笑んでから答える。

「動物に付けて、山の中を歩いてもらう。

画質やGPSはいらない。ただ“方向と動き”がわかればいい」


鎚男は少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したようにうなずいた。

「なるほど。“歩くセンサー”か。久美子さんのプロジェクトに使うんだな」


英二は静かに頷いた。

「観測員には“目”がいくつあっても足りないんだ」


鎚男は少し笑ってから、作業台に置かれたはんだごてを手に取る。


「了解。GPS外して、無線通信も省いて、超軽量にするよ。

バッテリーだけは長持ちタイプに換えとく」


英二はその言葉に満足げに頷き、作業が始まるのを見守った。



ーー夜・高柳久美子の古民家の土間ーー

土間のランタンの灯りが静かに揺れている。久美子が鶏小屋から戻ってくると、縁側には英二と鎚男が並んで木箱を持って待っていた。


久美子は驚いた顔で二人を見た。

「えっ……ふたりで来たの? どうしたの、その箱?」


英二はにっこりと笑って箱を開けながら言った。

「贈り物です。モバイル観測端末2機」


鎚男は得意げに横から口を挟む。

「これは犬用、これは猫用。軽くて、完全防水。SDカードで2日分録画できる」


久美子は興味津々で、それらを手に取った。

「これ、ほんとに手作りなの? すごい…」


英二はそっと首輪を差し出す。

「“ダン”と“ニャンヌ”が、観測員の仲間になります」


久美子は小さく笑いながら、それを受け取る。

「まさかうちの子たちが、フィールドワーカーになるとはね」


その時、後ろからドン(ロバ)の鼻を鳴らす音が聞こえた。


久美子は振り返り、ドンの顔を見て言った。

「ドンにも欲しいって顔してる……」


鎚男は苦笑しながら言う。

「今度、ドン用にGoProでも調達するか」


一同は土間で大笑いした。外では夏の虫の音が静かに鳴り続けていた。



ーー翌朝・山奥の実験農地ーー

朝日が昇ると、山奥の農地にはさわやかな空気が漂っていた。久美子は、モニタースクリーンに映し出された映像に見入っている。それは、ニャンヌが草むらを歩きながらカメラを捉えた映像だった。


「…見てこれ。ニャンヌが勝手にルートをとって、イネの発芽ポイントに近づいてる」


英二は真剣な表情でモニタを見つめ、ゆっくりと答える。

「動物は、“環境ノイズ”を見つけるのが得意なんです」


久美子は小さくうなずく。

「これなら、目視検査より精度が上がるかも」


英二は静かに言った。

「これが、観測の第一歩です」


二人の視線がモニターに集まる中、ニャンヌはまるで自分の任務を全うするかのように、確かな足取りで進んでいた。どこか遠くの景色を見守る観測者のように。


こうして、英二と久美子の観測の世界は少しずつ進み始め、動物たちの小さな“目”が新たな道を切り開いていくのだった。



ーー観測の始まりーー

夕暮れ時。西の空がゆっくりと茜に染まっていく中、農地は静かな気配に包まれていた。


稲の間を犬のダンが駆ける。ふさふさの尻尾が夕陽を受けて赤く輝く。跳ねるような足取りで、一度立ち止まり、鼻先で土の匂いを確かめると、ふいに進路を変えて回り道をする。


その様子を、石垣の上から猫のニャンヌがじっと見つめていた。黄金色の目が細くなる。風が一度、やわらかく吹き抜けた。


久美子はノートPCを開き、今日一日で収集された映像とデータを整理していた。目を細め、スクロールした画面に手を止める。

「……ダンが回り道をした場所……地温が少し高い」


つぶやくような声に、英二がすっと視線を向ける。手帳を片手に、彼もまた日中の観測記録を書きとめていた。

「日中に地熱が集中する“ホットポイント”。おそらく、土中の微生物活動が強い箇所です」


「なるほど……何かが、“生きてる”場所なのね」


久美子はうなずいた。そのとき、ニャンヌがくしゃみを一つすると、ふわりと石垣から飛び降りて、久美子の足元に身を寄せた。

「ニャンヌ、明日もよろしくね」


久美子がそう言って頭をなでると、猫はごろごろと喉を鳴らす。


英二は空を見上げた。濃くなりはじめた群青に、ひとつ、星が瞬いた。

「動物は誤魔化さない。彼らの目と足が、“本当の情報”を見つけてくれる」


久美子はうなずき、そっとノートPCを閉じた。


夜が降りてくる頃、小林整備工場の裏庭には、焚き火の赤い光がちらちらと揺れていた。


昭一が一升瓶を手に、顔を赤らめてご機嫌な様子で笑っている。そばで鎚男が黙々とドライバーをいじっていた。金属の細工が得意な彼は、最近開発中の“首輪型センサー”の微調整を続けている。


「おい鎚男、お前あの首輪、けっこうやるじゃねぇか」


昭一が目尻を下げながら声をかけると、鎚男は少し照れたように笑って答えた。

「まぁ……竹中ゼミのとき、こういうの遊びでやってたから」


「お前な、遊びが一番の学問なんだよ」


昭一はぐいっと瓶をあおった。


そこへ、フェンス越しに英二が現れた。手を軽く上げると、火に照らされて、彼の表情が柔らかく浮かび上がった。

「昭一さん、鎚男くん。今度、“温湿度センサー”も付けてみようと思うんだが……」


「おう。いいぜ。お前の“変な実験”は、うちの名物になりつつあるわ」


昭一が目を細める。英二は静かに笑った。

「“変な実験”が、未来を変えることもある」


その言葉に、昭一はふと真顔になった。炎の奥に、彼の長い年月がにじむようだった。

「……ほんとにそうかもな」


夜風がそっと火を揺らす。英二はその揺れをじっと見つめていた。


それは、小さな観測の始まりだった。

けれど、そこには確かな温度があり、生の気配があった。


そして動物たちと人間の感覚が、少しずつひとつの「場所」を測りはじめていた──。



ーードンと、”未来のリヤカー”ーー

朝の冷え込みがようやく和らぎはじめた頃、久美子は小さな鍬を肩にかけて畑から戻ってきた。古民家の門をくぐると、ふいに耳をかすめる音があった。


「ウィーン……」


どこかで聞いたことのある、しかしこの田舎には不釣り合いな音。次いで、「コトコト、コトコト」という車輪の律動的な響きが地面を這ってくる。久美子が首をかしげて前を見ると、朝の光を浴びて銀色に輝く奇妙な影が、ゆっくりと坂道を下りてきた。


大きなタイヤに支えられたリヤカー──その牽引役は、まさかのママチャリだった。そしてそのペダルを踏んでいたのは、他でもない英二である。


「なにそれ!? まるで移動図書館かと思った!」


久美子が声を上げると、英二は満面の笑みを浮かべてブレーキをかけた。

「久美子さん、これね。山奥の畑の脇に、仮設トイレや荷物を運ぶ用にと思ってさ。中には、折りたたみ式トイレと防臭コンポストも積んであるよ」


言われてみれば、リヤカーの外装には小さな通気口があり、後部には折りたたみ式のステップまでついている。中には一畳ほどのスペースが確保され、なるほど、ちょっとした作業小屋にもなりそうだ。


「すごいですね、まるで普通のママチャリなのに……こんな軽トラぐらいのリヤカーを引っ張れるなんて……」


感心して覗き込む久美子に、英二は前かごから一本のレンチを取り出すと、リヤカーの車輪ユニットを指差した。

「アシストしてるのは、こっち。自転車じゃなくて、リヤカー側だよ。電気自動車のスクラップから取ったモーターで、推進力をアシストしてる。エネルギーは、リサイクル蓄電池。これね、ユニット交換式で、充電も楽々」


久美子の目が見開かれた。

「え……! じゃあ、このリヤカー自体が“電動”なんですね?」


英二は軽くうなずき、さらにニヤリと笑った。

「その通り。しかも今日は、もうひとつの提案がある」


そう言って、彼はリヤカーの後ろから、のんびりと草を噛んでいた一頭のロバを連れてきた。長い耳をピクリと動かすそのロバは、英二になでられ、目を細めている。


「ドンちゃん仕様にも変換できるよ。牽引用のアダプターはこれ。装着すれば、ドンが前に進むと、その推力を後輪センサーが検知して、モーターがアシストする。ドンの負担は減るけど、効率は上がる仕組み」


久美子は驚きのあまり、ドンに抱きついた。ドンは迷惑そうに一声「ブフッ」と鳴いたが、じっと我慢している。

「すごい……! これで収穫した野菜を、腐らせずに運べるわ……! ドンちゃんに無理させずに、たくさんの荷物が運べるなんて……!」


英二は帽子をくいっとずらし、得意げに言った。

「これは現在の技術で作った“未来のリヤカー”第一号。山奥のインフラを変えるのは、大きな道路じゃないかもしれない。こういう、小さな進化だったりするんだ」


その声には、不思議と重みがあった。


久美子はふと、彼の背後に、どこか違う時間軸からやってきた人の影を感じた。自分の知っている日常の外側で、ずっと“未来”を観測してきた者のような、そんな静けさと熱を宿していた。


風が吹く。リヤカーの銀色のフレームが、朝陽にきらりと光った。


まるで、それがこの土地の“明日”を運ぶ乗り物であるかのように──。

ーー続くーー







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