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田中オフィス  作者: 和子
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第五十四話、魂の継承者

ーー眠りの前にーー

これから話すのは、ある男の物語である。

その男の名は――天城正綱。

齢七十八。法と経営の修羅場をくぐり抜け、いまや企業戦略の頂点に君臨する男。天城コンサルティングの創業者にして会長であり、かつては辣腕の弁護士として名を馳せた。

老いてなお、その眼差しは澄んで深く、誰もが一歩引いて敬意を表する男だった。


その日、天城会長は本社最上階の会長室へ戻っていた。

今日という日は異様なほどに饒舌な一日だった。

「楠木匡介」という若者との対話は予想以上の収穫であり、満足していた。

普段、言葉を惜しむ彼にしては珍しいことだ。


「今日は、少し話し過ぎたか。疲れたな」


天城が呟くと、側に控えていた秘書の若い女性は、安堵の表情を浮かべた。いつになく柔和で上機嫌な彼の様子に、会長の健康状態を注視する役割を持つ彼女の不安は、霧のように消えていた。


「背広を頼む」


天城が脱いだ上着を差し出すと、秘書はそれを受け取り、丁寧にハンガーへ掛ける。

彼はリクライニングシートのボタンを押した。革張りの椅子は静かに可動し、上体が徐々に傾斜を取り、やがて簡易ベッドへと変わる。

秘書はブランケットをそっと掛けた。彼の胸元まで丁寧に包みながら、柔らかく問いかけた。


「会長、今日はなにかいいことでもありましたか?」


一瞬、天城の顔にふっと影が差し、次に、懐かしさと哀しさの混じった微笑が浮かぶ。


「U警備の楠木匡介くんといってね……孫の利綱に、よく似ていた。

あの子を、もっと精悍にしたような感じだったよ。話もよくできて、熱がある。頭もいいし、なにより…心に火がある。日本の未来を託せるような、そういう若者だった」


老いた声に滲んでいたのは、言葉では届かない場所への憧憬だった。

亡き孫・利綱――。その名を天城は、表立って語ることはほとんどなかった。

利綱の死は、あまりにも理不尽だった。事故とされたが、天城だけは信じていなかった。

「あれは、殺された」と。


自らの名を継がせるべく養子縁組まで交わした、その存在が失われた日から――この老将の中で、時間は一部止まっていたのかもしれない。


(いっそ、()()を託してみるか……?)

(私には、孫の魂を蘇らせる力はもうない。だが、あの楠木くんなら……)


まどろみの中で、天城の意識は静かに沈んでいった。

かつて野心の頂点を極めた男が、いまはただ、静かな揺らぎの中にいた。


会長室の机の上には、小さなジュラルミンケースが置かれていた。

誰もその中身を知らない。

だが、天城正綱だけは知っていた。

そこには――亡き孫、天城利綱の“魂”が眠っていた。


記録、資料、計画、そして……一枚のディスク。

それらすべてが詰まった、小さな銀の箱。


その箱を、彼が再び開ける日は近い。

この国の未来の行方と、若き継承者に託される“火種”の行く末を決める、その日が。



ーー俊英の誕生ーー

五十八年前の東京大学法学部――。

安保闘争の終わりが見え始めたころ、戦後の混乱と復興を経てなお、日本の中枢たるべく多くの頭脳がこの場所に集っていた。

例年通り、各地の名門高校から選りすぐりの秀才たちが進学し、まさに法曹界の登竜門として、東大法学部の門は重厚に、そして誇らしげに開かれていた。


だが、その年――

教室、廊下、食堂、そして学生が集う薄暗い喫煙所に至るまで、ある一人の名前が、静かな熱気をもって囁かれていた。


「聞いたか? 今年の一年にヤバいやつがいるらしい」

「いや、もう二年だ。でもさ、司法試験、もう受かったんだってよ」

「マジか? 現役の、二年??」

「しかも、どこの法学研究会にも入ってないって話だぜ。完全に独学らしい」

「天城、天城正綱って名前だったか……」


誰もが信じ難いという顔をしていたが、やがて噂は事実として確定される。

それが司法試験の合格発表によって裏打ちされた時――一部の教授陣すらざわついた。


「私のゼミに、どうにか入ってもらえないだろうか」

「研究室の推薦枠を使って、ぜひ話をしてみたい」

「天城正綱……ふむ、関西出身? 京大を蹴って東大に来たのか……それだけでも面白い」


若き天城の姿は、他の学生と比べて特段目立つわけではなかった。

服装は地味で、流行に敏感でもなく、何より集団を好まなかった。

だが、彼の放つ空気には確かな重みがあった。

講義の最中に教授がふと沈黙したとき、真っ先に手を挙げるのは彼だった。

しかもその問いかけは、講義内容の矛盾を突くような鋭利さを持っていた。


その正確さと洞察の深さに、教授たちは驚き、そして――畏れすら抱いた。


彼はノートを持たない。

記憶する。すべて、脳内で組み立て、整理し、構築していた。

学友たちは、最初は羨望を、次に嫉妬を、そしていつしか尊敬を持つようになった。

そうせざるを得なかった。天城正綱という名は、次第に「伝説」となっていったからだ。


ある日、法学部の旧館で、同期のひとりが彼に声をかけた。

「なあ、天城。どうやって勉強してんだよ」

天城は少し首を傾け、考える素振りを見せたが――


「必要なことだけ、拾って、整理してるだけだ。答えは、講義じゃなくて、法の構造にある」


それは、理解ではなく、確信だった。

彼にとって法とは、“運用されるもの”ではなく、“編まれるべき構造物”だったのだ。


試験に合格するための知識ではなく、世の中の根幹を読み解くための技術として、彼は法を読み、言葉を扱っていた。


そして、誰にも属さず、何にも従わず、しかし決して驕らないその姿勢は、

東大法学部という巨大な権威のなかで、逆説的に最も尊敬を集める存在へと彼を押し上げていく。


のちに彼は弁護士となり、法曹界において異端でありながらも、その実力をもって多くの企業経営者を支える立場に転じる。

だが、その「始まり」は、まぎれもなくこの大学の、薄曇りの午後にあった。


教授のひとりは言った。

「天城正綱……彼は、法を使うのではない。法の上を歩いているような男だ」


若き俊英の名は、静かに、しかし確かに時代に刻まれた。

それが、「天城正綱」という、ひとつの物語のはじまりだった。



ーー孤高の天才のその後ーー

天城正綱という名を、法曹界で知らぬ者はいない。

そして、財界においてもまた、その名は時に畏怖と敬意をもって囁かれる。

だが、彼の歩みは、決して華やかなものから始まったのではなかった。


生まれは関西。

類まれなる頭脳を持ちながらも、常に群れを嫌い、ひとり静かに本を読む少年だった。

進学先にはあえて京都大学を選ばず、東京大学法学部を選ぶ。

理由を問われれば、ただ一言――「首都の中枢を知っておきたかった」とだけ。


大学在学中に、司法試験に合格。

その知らせがキャンパスに広まったとき、学内は静かな衝撃に包まれた。

教授陣は争うようにゼミへ招き、学生たちは彼の言葉に耳を傾けるようになった。

だが正綱は、どこにも属さなかった。群れない。媚びない。ただ、学び続けた。


卒業と同時に弁護士登録を済ませると、彼は迷うことなく海を越えた。

渡米――単身でニューヨークに渡ったその青年は、言葉の壁すら越えて、現地のロースクールにて法学修士号(LL.M.)を取得。

そのまま、ニューヨーク州の弁護士資格すら手中に収めた。

だが彼はそこで止まらなかった。世界最大級のコンサルティングファーム、マッキンゼー・アンド・カンパニーへと進む。


数字、戦略、国際ビジネス、そして「人の動かし方」。

正綱は、法を超えて経済を読み、経済を超えて社会構造を見抜いた。

彼の存在は、社内でも一目置かれるようになり、気がつけばアジア担当の要職を任されるまでになっていた。


だが、正綱の中には常に「帰還」の意志があった。

30歳のとき、日本に帰国し――彼は、自らの会社を設立する。

それが、「天城コンサルティング」である。


最初は、わずか数人の仲間と共に立ち上げた小さな事務所だった。

しかしそのコンサルティングの手腕、法務・財務を統合したその慧眼は、たちまち評判を呼び、やがて大手財閥や上場企業をクライアントに持つまでに至る。

彼は、法と経営の間にあった深い溝を、実務と知性で埋めていった。


---


小さなコンサルティング会社は、幾多の苦難を越えて、やがて安定した成長を遂げた。天城正綱も結婚し、ひとり娘の杏子が生まれた頃には、ようやく人並みの幸福というものに手が届いた気がしていた。


しかし時の流れは早い。杏子は18歳で学生結婚し、正綱はその知らせに戸惑いながらも祝福の言葉を口にした。酒をあおりながら、娘の門出にこっそり涙する夜もあった。人並みの父親らしい姿だった。


婿となった海北利景は、誠実で、非凡な頭脳を持つ男だった。どんな場面でも礼を失わず、理路整然と物事を進めていく。やがて彼は仕事で頭角を現し、正綱の右腕と呼べる存在になっていく。


その後、孫の利綱が生まれた頃には、頑なだった正綱の心も少しずつ解けていた。ふいに笑みを浮かべることも増え、家ではすっかり好々爺の顔を見せるようになった。


利景を天城家に迎えたことで、会社はさらなる躍進を遂げる。知性と人柄を兼ね備えた彼の登場により、天城コンサルティングはかつてない黄金期を迎えた。


だが、正綱の胸には、いつまでも癒えない空洞が残されていた。


それは、最愛の娘・杏子を喪ったことで穿たれた、深く永遠の傷だった。


---


杏子は24歳の若さでこの世を去った。

残されたのは、小さな男の子――利綱。

正綱は、孫であるこの少年を、自らの法的な後継者とすべく正式に養子に迎えた。


「天城利綱」

名を授け、血を継がせ、魂を預けた。


利綱は、祖父の願いに応えるように、また天性の才をもって成長した。

彼が選んだのはプログラミングとAI――未来の言語だった。

N通信に入社した利綱は、開発部門で早くからチーフの座に就き、あるシステムを完成させた。


その名は「JurisWorks」。

AIによる統合的法務支援・意思決定システムである。

それは、試験導入という名目で、祖父の会社――天城コンサルティングに持ち込まれた。


だが、実態は違った。

それは、祖父と実父と孫、そしてN通信が水面下で共同開発した「天城システム」の始動だった。


JurisWorksは驚異的な成果を上げた。

企業戦略の決定、リスク判定、法令順守の支援、あらゆる面で従来の枠組みを超えた革新をもたらし――

天城コンサルティングはついに、世界五大コンサルティングファームの一角へと名を連ねるまでに至る。


正綱は、そのとき確信した。

「これで、すべてが整った」と。


彼の中には明確な未来図があった。

社長に利綱を据え、娘婿の海北を会長に。

自分は相談役として一歩引き、静かに帝国を見守る立場に回る――

それが、天城正綱の描いた最後の布陣だった。


だが、運命はいつも、その完成の直前に牙を剥く。


利綱が、突然この世を去ったのである。


若き天才の死。

それが事故か、病か、他殺か――多くの者は真相を知らない。

だが、天城正綱だけは、確信している。


「……利綱は、殺された」


いま、彼の机の上には、ひとつのジュラルミンケースが置かれている。

その中には、利綱が残したプロトコル、未公開コード、そして祖父への遺言に近いメモが詰まっていた。

天城正綱が、人生をかけて築いた帝国。

その未来は今、再び誰かに託されようとしていた――。


そして彼は思う。

「あの若者、楠木匡介。あれは……利綱の魂を継げるかもしれん」



ーーJuris、沈黙すーー

それは、ひとりの天才が未来に託した夢だった。

そして、もうひとりの静かな天才が、それを支えた。


天城利綱――

天城コンサルティング創業者・天城正綱の孫であり、その遺志と才能を最も色濃く継いだ男。

彼の築いたAI統合法務システム「JurisWorks」は、企業コンサルティングの在り方を根底から覆す革命となった。


だが、その成功の裏には、もうひとつの才能の存在があった。


高柳久美子。

N通信の開発部門に所属する、地味で無口なエンジニア。

だが、彼女の能力は並ではなかった。

利綱が紡ぐ、難解な理論と構造――多くの技術者が「意味がわからない」と首をかしげる中、彼女だけが黙ってコードを解析し、実装を終わらせていった。


言葉は少なくとも、その手は雄弁だった。

ふたりの作業は、まるで対話そのものだった。


「君がいなかったら、Jurisはここまで来られなかった」

利綱がそう言ったとき、高柳は小さく微笑んだだけだった。


天城一族の全面的支援のもと、N通信が世界に放ったこのシステムは、見事に天城コンサルティングの飛躍を後押しし、その名を世界五大ファームのひとつにまで押し上げた。

すべては、完璧な未来に見えた。


だが、その夢は突然崩れる。


ある日、アメリカの巨大コンピューター企業が、N通信に対して訴えを起こした。「JurisWorksのアルゴリズムには、当社の特許技術が盗用されている」と。


訴訟は国際的な舞台へと発展する可能性があった。N通信はリスク回避のため、JurisWorksの開発を凍結。そして、代替案として統合型システム「IntegrateSphere」への移行を、天城コンサルティングに提案した。


だが、正綱は断固としてそれを拒絶した。孫の才能の結晶を否定するなど、男として、祖父として、決して許せることではなかった。


その時、冷静な男が動いた。天城コンサルティングの社長、海北利景である。会社の安定性と将来を優先すべきだと、正綱に説得を試みた。そしてついに、正綱は決断を下す。苦渋に満ちた決断だった。


「JurisWorksを、停止する。」


利綱はその晩、久美子とともにバックアップ作業を行った。ユーティリティソフトやドライバを除けば、データはわずかブルーレイディスク1枚に収まった。それは、いくつかのドキュメントと一緒に、銀色のジュラルミンケースに収められた。


JurisWorksの棺とも呼ぶべきそのジュラルミンケースを携え、それを祖父、天城正綱に手渡すと、天城利綱は、ただ一言こう言った。

「Jurisは、その時が来るまで眠ります。」



ーー別れと遺言ーー

JurisWorksの封印後、利綱はN通信に戻り、別のAIシステム開発に取り組んだ。

だが、かつてのようにはいかなかった。


Jurisのアーキテクチャ――彼自身の構造思想を用いることが禁じられたことで、彼の指はかすれ、心もまたすり減っていった。その後も彼は、IntegrateSphereのアーキテクチャを分析し、新たな方向性を模索し続けた。


日々、言葉は少なくなり、食事も睡眠も忘れ、彼はキーボードに向かい続けた。


高柳久美子は、陰ながら支え続けた。

食事を差し入れ、ミスを発見し、時に休息を促した。

彼が一言も返さなくても、それでも彼女は隣にいた。


ある夜、ふたりの作業は深夜を回っていた。

いつものように、久美子が帰り支度をしていると、利綱がふいに、明るい声を出した。


「Jurisのバージョンアップのパッチができた!」

「今夜中に整理して、バックアップと一緒にお爺様に渡せる。……久美、君のおかげだ」


その言葉は、彼にとってはひとつの「完結」だったのかもしれない。

久美子は、こらえきれず、彼の胸に顔を埋めて泣いた。


それが、彼との最後の会話となった。


翌朝。

高柳久美子が出社して最初に見たのは、椅子にもたれ、キーボードの前で静かに眠る――冷たくなった利綱の姿だった。


机の上には、白いディスクが一枚。

ラベルには、彼の手書きの文字があった。


「JurisWorks – Revive Patch / for AMAGI」


しかし、天城利綱の遺作となったそのディスクの行方はわからなくなってしまった。


その日、N通信には静かな衝撃が走った。

そして天城正綱は、知らせを受け、立ち上がることができなかった。


「JurisWorks」の入ったジュラルミンケース、利綱が戻ったとき渡すその日まで、

天城老人は、命に代えても守るつもりでいたが、もう渡すことはできない。


だが、利綱が最後に残した未来は、まだ終わってはいなかった。



ーー預かり人ーー

あまりにも静かすぎる朝だった。

蝉の鳴き声も、窓の外の雑踏も、すべてが遠くに感じられた。


N通信開発室――

天城利綱が座っていた椅子の背もたれに、まるで眠っているかのように、彼の身体は少し傾いでいた。


机の上には、最後まで使われていたキーボードとマウス、そして、手書き文字が記された白いディスク。

その横に、一枚のメモ用紙が伏せられていた。


高柳久美子が、その紙を裏返したとき、彼女の目には一瞬、何が書かれているのかわからなかった。

だが、すぐに――彼女は、震える手でそれを抱きしめた。


そこには、利綱の筆跡でこう綴られていた。


---


「--久美、ごめんね。

いままでほんとうにありがとう。

どうやらボクは、ここまでのようです。


このパッチディスクは、今はきみが預かって。

そしていつか、天城の人間が尋ねてきたら、これを渡してください。」


---


「なんで……なんで、そんな……」


こらえようとした涙は、紙の上にぽつりと落ちた。

久美子はそれをぬぐわず、しばらく動けなかった。

利綱が“自分の死”を予感していたこと。

そして、最後に“託す”相手として自分を選んでくれたこと。


彼女は静かに周囲を見回した。

まだ誰も出社していない。警備員も気づいていない。

警察が来れば、メモもディスクもすべて押収される。

そうなれば、彼の遺志は「手続き」の中で消えていく。

AIでは拾えない魂の重さが、この場所で無為に風化してしまう――それだけは、どうしても許せなかった。


久美子は、そっとディスクを手に取り、自分のバッグの内ポケットに滑り込ませた。

そして、もう一度、メモを折り畳み、同じように深く隠した。


その直後、彼女は警備員を呼び、静かに言った。


「……天城さんが、倒れています」


まもなく、警察と救急隊が駆けつけた。

社内は騒然となり、彼の死をめぐる検証が始まる。


検視の結果は「急性の心臓発作」。

外傷は一切なく、遺体にも暴力の痕跡は見られなかった。

過労とストレス、それに気づかれぬ持病が引き起こした突然死――それが、医師と警察の出した結論だった。


だが、久美子には、それだけでは終わらせられなかった。


彼の目に、言葉に、最後の声に――未来が宿っていた。

この命のかけらのようなディスクと、折れた筆跡の紙切れ。

これは単なるデータやメモではない。

魂の火を宿した遺書であり、遺志だった。


高柳久美子は、それからの日々を変えた。

表向きには通常通り仕事をこなし、必要以上のことは語らず、だがずっと、その“白いディスク”を守り続けた。


いつか――

天城の名を持つ誰かが、ここに現れるその日まで。


> 「Jurisは、その時が来るまで眠ります」


そう言い残した利綱の声が、いまもどこかで、微かに響いていた。



ーー再起動の兆しーー

数年後。


Q-pull上田社長の紹介で、U警備の若きシステム企画部長、楠木匡介が、初めて天城正綱を訪ねた日。この老人は、少し場違いな話を切り出した。


「亡くなった孫のブログなんだがね、JurisWorksについて何か参考になるかもしれん。初対面の人間に死者のブログを読めとは、なんとも気味の悪い話だと思うだろうが。」


楠木は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。貴重なお孫さんの書き残されたものを、私なんかに…!」


スマホに表示されたそのサイト。日付順に並ぶ記事は、専門的な論文の羅列ではなかった。ラーメンの写真、コードを挟んだ雑談、電車の中での気づき──まるで、日記帳のような内容だった。


「…このなにげない日常に見せかけて、このシステムの重要なヒントが隠されているに違いない。」


楠木の読みは的中していた。ラーメン屋の写真に見せかけたリンクからは、C言語のソースコード。日記の一文からは、契約アルゴリズムの発想メモ。そう、これは一種の”暗号化された設計書”だったのだ。


「…これは、解析に時間がかかりそうだな…」


終業時刻が近づくのも忘れて、楠木は死者のブログを読み、あちらこちらをタップしてJurisWorksの手がかりを漁り続けた。



ーーJurisWorks:胎動する意思ーー

夜の帳が降りたU警備の開発フロアは、いつもより静かだった。コンピュータのファンの音だけが、密やかに機械の呼吸のように続いている。楠木匡介は、正綱から伝えられたあのURLのブログを再び開いていた。


「……こいつ、まさか……」


何度目かのタップを繰り返すうち、画面の奥から、奇妙な“温度”のようなものを感じた。HTMLのソースコードの片隅に埋め込まれた謎のスクリプト。無造作に置かれたGIF画像に忍ばせた起動トリガー。そして、C言語の断片的な記述。


それらは、すべて「偶然」ではなく、「意図」だった。


突然、スマホ全面がブラックアウトし、液晶画面に白い点がひとつ浮かび上がる。楠木は息をのんだ。


「……おい……これは……」


点は波紋のように広がり、やがて形となって文字を描いた。


> Welcome back,

> Juris Lite Booting...


冷や汗が背筋を伝う。JurisWorks――利綱の遺作。その“断片”が、彼の操作で目を覚ましたのだ。


画面にはまるでチャットウィンドウのようなUIが現れ、不可思議な問いかけが表示された。


> 【Query】あなたのもっとも強い願いは、なんですか?


楠木は無意識にキーボードを叩いた。


「……正義を証明したい」


すると、ウィンドウがゆらめいたかと思うと、まるで誰かの声が耳の奥に響いた。


> “それでは、あなたの正義を代行しましょう。”


その瞬間、彼の脳内に焼き付くような光が走った。視界が一瞬ぐらつき、そして再び戻ったとき、全身から力が抜け落ちるような感覚があった。


時計を見ると、数分しか経っていないはずなのに、心には妙な充足感と疲労感が同時に残っていた。


そして気づく――スマホ画面は、以前と変わっていなかった。ブラウザの履歴すら、ない。だが、楠木にはわかっていた。何かが、自分の中に「入り込んだ」ことを。


「……やっちまった、のか……」


それは、ただのアーカイブではなかった。

JurisWorksは、情報ではなく。意志となって楠木の精神に侵入した。


彼が最後に見たウィンドウには、こう記されていた。


> 【JurisWorks Ver0.91】

> 心理制御領域へのアクセスを開始しました。

> ※このバージョンは不完全です。慎重に使用してください。

> できること:

> ・思考の補正

> ・感情の抑制

> ・動機の再設計


「たいした力はありませんよ」

あの声が、頭のどこかで囁いた気がした。

「ええ、人の心に侵入して支配するぐらいしかできません」


なにか悪夢をみているような感じだった。


そのとき、スマホのスケジュールアラームが鳴った。

「いけない!メグ姐さんが迎えに来るんだった!」


慌てて、彼はU警備開発部のゲートを抜け、駐車場へと向かった。そこには、エンジンをかけながら待つ一台の車。そして、助手席には、腕を組んでこちらを睨むように見つめる女性、”佐々木恵”の姿があった。


次のページをめくるように──

かつて止まった夢が、再び動き出そうとしていた。

ーー続くーー

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