第五十三話、楠木 匡介と天城
ーー果実を携えてーー
六本木ヒルズ高層階。
東京湾からの光を跳ね返す分厚いガラス越しに、ビル群が夏の光に煙っていた。高層階の静寂は、都市の騒がしさから切り離されたもう一つの層――思考と判断の場を象徴している。
Q-pull本社、応接ラウンジ。
革張りのソファと無垢材のテーブル。室内には冷えた空調と、ブラックエスプレッソの香りだけが静かに漂っている。
そこへ、静かに入ってきた男が一人。
グレーのジャケットにシャツの襟元を少し崩し、だが歩き方には一分の迷いもない。右手に持った白い紙袋には、高井野フルーツパーラーのラベルが見える。
「ご無沙汰しておりました、上田さん」
応接席の奥で身じろぎひとつせず座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
上田敬之。52歳。
年商四千億のQ-pullを率いる男の視線には、長年の決断と孤独を通り抜けてきた者だけが持つ、鋭さと深さがある。
「本当に、久しぶりだな。肥後ちゃん。……いや、今は“田中オフィスの肥後さん”か」
「ええ、ようやく肩書きを名刺に刷る気になりまして」
肥後は紙袋をテーブルの端に置くと、名刺入れから一枚を滑らせた。
「田中オフィスTokyo、マーケティングアドバイザー。略してMA。英語名は“Tokyo office of Tanaka”です」
上田は目を細めて名刺を眺めた。
その指先に、かすかな感情の動きが走ったのを、肥後は見逃さなかった。
「水野さんに、会ったんだ…」
上田は問いではなく、確信として口にした。
肥後は軽く頷いた。
「はい。田中社長は、上田社長もご存知のとおり、すばらしい人物でしたが……最終的に“水野さんがいる場所”だから、ここに入ろうと決めました、そして自分からお願いして入れていただきました」
沈黙。
ソファの間に、夏の陽差しの粒が静かに降りる。
「君の気持ちはわかる。僕も……彼には惚れ込んでいる」
上田の言葉には、感情がにじんでいた。
それは滅多に人に見せぬ、彼なりの肯定だった。
「正直、ああいう男がまだいるのかと驚いた。緻密で、誠実で、感情の手前で理が止まらない。そして、目の前の相手には、決して視線を逸らさない」
肥後は目を細め、静かに答えた。
「ええ。自分が騒がしく話すほど、彼の“静けさ”が染みてくるような気がして……気づけば、僕の方が距離を詰めていました」
「その感覚、よくわかる」
二人の間に笑いはなかった。だが、軽口より深く通じる何かが、その瞬間、確かに通った。
“わかっている”。それを互いに言葉にせずに、肯定できる者同士の間にしか流れない気配。
上田は、名刺を手元に置き直した。
「彼がいる限り、田中オフィスは見誤れない。派手さはないが、危うさもない。むしろ、君がようやくその場所を選んだことに、少し安心しているくらいだ」
「ありがとうございます。しばらくは、あの地味な名刺で誠実に働こうと思ってます」
ふと、肥後はもう一枚、名刺を差し出した。
表面には、黒地に金文字のロゴが浮かぶ。
「副業の方もご報告を。“合同会社ヒア・ウイゴー”――芸能プロの副代表です。もともと妻が立ち上げた会社でしたが、僕もライブとネットの間に面白い風が吹き始めた気がして」
上田は、わずかに口元を緩めた。
「洒落てる名だ。ヒ・ゴ、か」
「ま、遊び心です。でも、水野さんにも言われました。“遊びを知ってる人間の誠実は、信用できる”って。あの言葉は、骨まで届きました」
「……彼なら、そう言うだろう」
窓の向こう、遠く霞んだ東京の街。
言葉少なに交わされた信頼と敬意は、静かにこの都市の深部へと沈んでいった。
「また来てくれ」
上田が立ち上がり、手を差し出した。
「こちらこそ。また、ご報告に参ります」
その握手には、目立つ言葉も演出もなかった。
だが確かに、二人の間で“未来”が一つ、合意されたのだった。
ーー心の隅の闇ーー
柔らかくも芯のある口調で「じゃ、また近いうちに」と言い残し、肥後勝弥が踵を返す。上田敬之は椅子に腰をかけたまま、ふと呟くように漏らした。
「肥後ちゃんがウチに来てくれてたらなぁ……ずっと誘ってただろう?」
背を向けたまま歩き出した肥後が、数歩だけ足を止め、笑みを浮かべて振り返る。
「俺がQ-pullに入ったら、そちらの幹部たちも面白くないでしょ? 俺は上田さんの“友達”でいたほうが、いろんな意味でうまくいくんですよ」
上田は苦笑し、軽口を叩いた。
「じゃあさ、Q-pullが田中オフィスを買収しちゃおうか? そうすりゃ、君も水野さんも“まとめて”ウチに来るって寸法だ」
軽妙なやりとりのはずだった。だが、肥後はいつになく笑みを消し、真正面から上田を見据えた。
「……そんなことしたら、俺たちは田中オフィスから逃げ出しますよ」
その一言に、室内の空気がわずかに変わる。
肥後は続けた。
「水野さんは、もうひとつ会社を持ってるんです。“ミズノギルド”って言うんですけどね。もし田中オフィスが飲み込まれそうになったら、きっとそっちを拠点に動くでしょう。俺も“ヒア.ウイゴー”でやっていきます。どっちみち、誰かの所有物になる気は、毛頭ないんで」
ひと呼吸の静寂。
そして、いつもの柔らかな口元に戻った肥後は「じゃ、今日はこれで」と軽く頭を下げ、再び歩き出した。
上田はその背中を見送りながら、椅子の肘掛けに指を絡めたまま、小さく頷いていた。
ーー上田 敬之・独白ーー
肥後勝弥が応接室を去った後、上田敬之はその場にしばらく動かず座っていた。
足元には、きちんと角を揃えた高井野の紙袋が残されている。あの男らしい、計算と情の混ざった土産だった。
背もたれに深く身を沈め、目を閉じた。
肥後の言葉の一つひとつが、今も耳の奥に残っている。
──「水野さんにも言われました。“遊びを知ってるやつの誠実は、信用できる”って」
口に出しては笑わなかったが、確かにあの瞬間、二人は同じ人物の姿を、胸の内に思い描いていた。
水野幸一。
司法書士であり、公認会計士でもある男。田中オフィスの参謀格でありながら、決して前に出ようとはしない。実務と信義に徹し、口数は多くないが、一語一語に責任がある。
「ぼくは、すばらしい人たちに活躍してもらえる場所を作ったつもりだった。でも、誘って、こんなに拒否られるとは思わなかったよ…」
名刺を受け取った上田は、それを指先でひとひねりすると、脇のスマートフォンを手に取った。革張りのカバーを開くと、スワイプひとつで専用アプリが立ち上がる。カメラを向けるまでもなく、名刺の文字情報は即座に読み取られ、画面上に新しいレイアウトが浮かび上がった。
「……やっぱり、いい名刺だな」
上田はぽつりと呟いた。
ーー『EX名刺』誕生秘話ーー
「……これを作ったのは、当時まだ新卒3ヶ月目の女子社員だった」
上田敬之は、3Dエフェクトで名刺がめくられていくスマートフォンの画面を見ながら、誰にともなく語りはじめた。そこに現れるのは、犬を連れた主婦の笑顔と、手書き風の名刺。背景には散歩道の公園が映り込んでいる。ほんの少し、ノスタルジーすら感じさせる名刺だった。
このアプリ、『EX名刺』は、Q-pullが手がけたオフィスガジェットの中でも突出した成功例だ。すでに100万ダウンロードを突破し、業界でも話題の存在になっている。
「技術でも、マーケでもない。うちの強みは“人材の生かし方”なんだ」
上田の言葉に、聞いていたスタッフの一人が頷いた。
「若手だろうと、刺さるものを持ってきたら、僕は止めない。むしろ、面白がって広げていく。それがQ-pullという会社だ」
* * *
あの日のことは、今でもよく覚えている。
入社3ヶ月目のある日、ひとりの女子社員が、少し大きめのバインダーを抱えて会議室に入ってきた。緊張のあまり指先が震えていたのが、上田の記憶に残っている。
「……あの、えーと……失礼します」
そう前置きして、彼女はプレゼンを始めた。
「名刺管理ソフトって、いろいろありますよね。でも、名刺って“データ”にしちゃうと、用が済んだら終わりみたいに見えるじゃないですか。でも、そうじゃないと思うんです。どの名刺も、その人の思いや、その瞬間の出会いが詰まっていて、全部、とても素敵だと思うんです」
一瞬、室内が静まり返った。彼女は言葉を選びながら、しかし目を逸らさずに続けた。
「私、社会人になってからもらった名刺を、全部ファイリングしてるんです。あのラーメン屋のおじさんも、犬を散歩させてるおばさんも。もし名刺をくれたら、素敵だなと思って……。そう思って、このアプリのアイデアを考えました」
上田は、その純粋すぎる発想に、むしろ惹きつけられた。
「つまり、君の考えでは……名刺の“データ”より、“名刺そのもの”が大事だと?」
「は、はい!」
彼女は一気に言葉を吐き出した。
「このアプリは、名刺をスキャンしてデータベースに登録するだけじゃなくて、イメージデータも圧縮保存します。あと、写真を撮らせてもらって、スマホ上で“名刺イメージ”を作成して、文字情報と画像情報の両方を保存できるようにするんです。SNSやブログの名前でも、名刺を生成できる機能も入れたいと思っていて……営業ツールとしても使えるし、何より、人と人との“記憶”が残せるアプリになると思います!」
そう言って彼女が差し出した一枚の名刺。そこには、近所のおばさんとその愛犬の写真、そして笑顔で「○○ちゃん(柴犬)と散歩中の○○です。よろしくね」と手書き風フォントが添えられていた。
「……これをプレゼントしたら、すごく喜んでくれて」
上田は、黙って彼女の持ってきた名刺バインダーを開いた。三冊。びっしりと、名刺が並んでいる。新卒で、入社3ヶ月目で、これだけの人と出会ってきたという事実に、胸を打たれた。
「……よく集めたね」
思わず、声に出していた。
「君、これはすばらしいことだよ」
その瞬間だった。上田の中で、何かが決まった。
「よし、やろう。今すぐチームを立ち上げて、“EX名刺”として正式に走らせる。全力でサポートする。これは、間違いなく“次のヒット”になる」
それが、Q-pullのヒット商品『EX名刺』のはじまりだった。
あのときの彼女は、今やオフィスガジェット開発チームのリーダーとなり、若手の指導にもあたっている。
自分が“育てられた”やり方で、今度は誰かを“育てる”番として。
上田はスマホの画面に再び目を戻す。そこでは、散歩中の柴犬が、名刺の中で小さく尻尾を振っていた。
「君にも、それをやりたかったんだがな」
上田社長の頭の中で、肥後は笑わず、わずかに眉を下げて答えた。
「……それもまた、正しい選び方だな」
スマホを閉じ、名刺をそっとポケットにしまいながら、上田は遠くを見るように言った。
「水野さんのいる場所に、君が入った。その意味は、僕にもよくわかるつもりだ。君がそこでどう動くのか、しばらく静かに眺めていることにするよ」
そのとき、部屋の窓に差す夏の光が、二人の間のテーブルに柔らかな影を落とした。
静かな会話の中に、未来をひらくための準備が、たしかに始まっていた。
スマートフォンを開く。
先ほどのアプリが立ち上がっていた。
肥後の名刺が、画面の中で柔らかい照明に包まれて揺れている。
スワイプして、保存。
アプリの下部には「関連人物」の欄が表示された。
──水野 幸一
──田中 卓造
──田中オフィスTokyo
そこに表示されたタグを眺めながら、上田はゆっくりとつぶやいた。
「この名刺の背後にいる人間が、本物なら……組織なんて関係ない。信用は、名前の奥に宿るものだ」
画面を閉じ、ソファの脇にスマホを置く。
長い沈黙ののち、立ち上がると窓の方へ歩いていった。高層階のガラス越しに広がる東京の街――その中に、田中オフィスも、今まさに水野がどこかで働いているであろう場所も、ひっそりと含まれている。
「いつか、また話そう。正面から」
独り言のように呟いたあと、彼は振り返る。
デスクのインターホンを押す。
「さっきの名刺、資料と一緒に共有フォルダに入れておいて。あと、田中オフィスの定期レポート、今月から週次に変更してくれ」
少しの間を置いて、女性秘書の声が返った。
「……了解しました。あの、肥後さんとのやり取り、記録は残しますか?」
「いらないよ」
上田は微笑した。
「記録より、記憶に残る話だったからね」
そして再び、東京の空へと視線を向けた。
ーー上田 敬之・継章ーー
応接室のソファから立ち上がった上田敬之は、スマートフォンの画面をふたたびタップした。
Q-pullが社内向けに開発した名刺管理アプリ──いわば社員の「脳の延長」とも言えるこのアプリは、すでに彼の意思と記憶をなめらかに繋ぐ補助装置となっている。
スクロールした指先が、ある名刺で止まった。
天城 正綱(78歳)
天城コンサルティング株式会社
会長/経営顧問
──それは、Q-pullという企業の在り方に、根源的な問いを投げかけ続けてきた“創業前夜”の男との、原点に繋がる一枚だった。
思わず笑みがこぼれる。
天城のことを、上田は「理と情のバランスが化け物みたいな人」と呼んでいた。人情家なのに非情な手を打てる。合理主義なのに一つの詩に心震わせる。
上田自身、起業に踏み切れたのは、この男に背中を押されたからだった。
ふと、先日のやり取りを思い出した。
肥後との会話の後、思い浮かんだのは水野幸一だけではなかった。
――「水野くんは人望がありすぎてな」
そのとき、どこかむず痒いような、いたずら心にも似た”感情”が上田の中で芽を出した。
普段は思考の練度でしか物を動かさない男が、その時ばかりは心の揺れに素直だった。
“公平でなければ、ならないだろう?”
誰に対しての弁明だったのか、自分でもよく分からないまま、メッセージの作成画面を開いた。
宛先は、「楠木 匡介」。
U警備の若き俊英でシステム企画部で活躍している。最近部長に昇進していると聞いた。上田が秘かに“若手の台風の目”と評価している男だ。
文章を打つ手は、やや軽やかだった。
---
> 件名:ひとつ、紹介をしたい件について
>
> 本文:
> 私のビジネスの師匠とも呼べる方が、珍しく「若い人と話したい」と仰っていましてね。
> 君のような人間となら、と思い立ってご連絡しました。
>
> **天城コンサルティング会長、天城正綱。**
>
> 気が向いたらで構いません。お返事をお待ちしています。
>
> 上田 敬之
---
メッセージを送信してから、ほんの一瞬だけ指が空中で止まっていた。
──こんな軽口めいた紹介で、よかったのだろうか?
けれど次の瞬間には、もう意識は別のスケジュールへと滑っていった。
大企業の経営者にとって、「送信ボタンを押した後の世界」は、いつも数分後には埋もれてしまう。
ただ、このときばかりは違っていた。
数日後、この紹介メールが火種となり、
「水野幸一」と「天城正綱」、
さらには田中オフィスと天城一族を巻き込んだ──
ある種の“予測不能な連鎖”が幕を開けることになる。
そのとき上田はまだ、何も知らない。
この日の陽射しの穏やかさと、名刺アプリの滑らかさに満足していただけだった。
ーーQ-pull Secure:若き獅子の軌跡ーー
東京・品川、ビル風が通り抜けるガラス張りのエントランスに、彼の姿は似合っていた。
スーツの襟元を軽く整えながら歩くその男、楠木匡介。
今やU警備の次世代を担う、システム企画部の部長である。
「おはようございます!」
彼が出社するたび、若手社員たちの声がいっせいに飛ぶ。
オフィスの空気が一段引き締まるのがわかる。
そんななか、一人の若手が、やや緊張した面持ちで彼の前に立った。
「楠木部長、こちら、本日の新サービス案のドラフトです!」
差し出された資料をパラパラとめくり、匡介は小さく唸った。
「おお、サンキュー……おもろいやん、これ。」
関西弁が少しだけ混じる。その瞬間、周囲の緊張がほぐれる。
彼は厳しいときは容赦ないが、認めるときは容赦なく褒める。
それが楠木匡介だった。
*
昼休み、社内カフェテリアでは今日も噂が飛び交っていた。
「なあ、楠木部長の彼女って、やっぱり噂のあの人?」
「うん、関西弁でツッコミきっついらしいよ。めちゃくちゃ気が強くて、でも超美人だって!」
「性格サバサバで、部長と同じでできる女って感じだってさ」
「うちら、最初から相手にされてないって感じよねぇ……」
OLたちのため息が、カフェのコーヒーの湯気に混じっていく。
けれど、その本人は今、そんな話などどこ吹く風だった。
*
静まり返った会議室。
匡介は一人、PCのモニターに映る設計図をじっと見つめていた。
「Q-pull Secure」──それが、彼に託された次の大きな使命だった。
それはQ-pullとU警備が次世代に向けて仕掛ける、遠隔警備支援システム。
AIによる状況判定、緊急連携プロトコル、ドローン監視網の統合。
すべてが「これまでとは違う、未来の警備」を形にするためのプロジェクトだった。
「──この男しかいないでしょう。」
そう言ってこのプロジェクトのリーダーに押したのは、提携企業のQ-pull、上田社長だった。
社内の誰もが驚いた。若き課長への指名。しかし匡介は、その期待に応え続けた。
深夜まで続く会議。仕様書の修正。現場との折衝。
どれも手を抜かない。部下を信じ、自分が一番走る。
それが、楠木匡介という男のやり方だった。
──だが、彼自身もまだ気づいていなかった。
このプロジェクトの裏側で、すでに静かに動き出している“出会い”があることを。
やがて「Q-pull Secure」が社会の表舞台に出るそのとき、
匡介の人生もまた、大きく動き始めるのだった。
ーー民間の手で、国を守る。ーー
東京・港区。
ホテルのラウンジは午後の陽光に照らされ、テーブルに並ぶグラスや陶器が、静かにきらめいていた。
その中の一席で、楠木匡介は、背筋を伸ばして椅子に座っていた。
U警備システム企画部部長、30歳。
彼はいま、ある人物との待ち合わせに緊張を隠せずにいた。
紹介者は、Q-pull社の上田社長。
「すごい人だけど、話は通じる。君と相性がいいと思うよ」とだけ告げられたその人物は、やがて、重厚なステッキの音とともに姿を現した。
高年の紳士——。
濃いグレーのスーツに控えめなネクタイ。
頬の皺には年月が刻まれていたが、背筋は真っ直ぐ。
眼差しは鋭く、歩みに一分の淀みもない。
楠木はすぐに立ち上がり、お辞儀をする。
「ご足労おかけしまして、申し訳ありません。」
紳士は少し驚いたように微笑み、より丁寧に頭を下げ返した。
「いえ、あまりにお時間がかかって……申し訳ないのは、こちらの方です。」
その口調には、穏やかな余裕と、深い知性がにじんでいた。
楠木が椅子をすすめると、紳士はゆっくりと腰を下ろした。
無駄のない、洗練された所作だった。
「では、まずはご挨拶を。」
紳士は名刺入れを取り出し、指先で一枚を滑らせるように差し出した。
——《天城コンサルティング 取締役 天城 正綱》
右肩には小さく、《弁護士》の肩書きが添えられていた。
楠木は思わず、名刺を見つめたまま息をのんだ。
東京でも知らぬ者はいない、天城コンサルティング。
その創業者にして、法曹界にも深く名を残す人物が、目の前に座っている。
「……失礼いたしました。天城先生でいらっしゃいましたか。」
楠木が深く一礼すると、天城は手を軽く振って言った。
「そんなに堅苦しくせんといてください。今日は、私が一方的にお願いに来たのですから。」
その口調には、関西出身を思わせる柔らかな響きがあった。
だが、楠木の目は鋭くなった。
“お願い”という言葉を使うとき、老練な経営者は単なる依頼では済ませない。
それは、相手を「共犯者」にする覚悟の一手——。
「Next Q-pull Secure構想……ご提案とは、具体的に?」
楠木の問いに、天城はゆっくりと鞄を開いた。
そして、革のファイルを取り出し、テーブルにそっと置いた。
表紙には、丁寧な手書きの文字。
《Next Q-pull Secure構想(案)》
楠木の眉がぴくりと動いた。
手に取ってページを開くと、最初に現れたのは、わずか一行の力強いフレーズだった。
> 『警備の未来を、“民間ネットワーク”で掌握する』
「これは……」
思わず楠木がつぶやく。
ページをめくると、次には詳細な構想図が現れた。
都市部から山間部まで、既存の警備会社や自治体と連携し、
遠隔で相互に支援可能なセキュリティネットワークを構築。
AIによる自動分析、ドローン巡回、IoTセンサーによる異常検知……
すべてを統合する「総合防災・警備プラットフォーム」。
しかも、緊急通報・医療連携・交通監視・防災情報など、他分野とも連動しうる柔軟設計。
「……これを、現実に?」
楠木の声がかすかに震えた。
それは、技術者としての興奮——そして責任の重さを受け止めた証だった。
天城は、ゆっくりとうなずいた。
「君にしかできないと思っています、楠木君。」
その笑顔は、齢七十八とは思えぬほど、情熱に満ちていた。
一代でコンサルティング帝国を築いた老弁護士の、最後の大勝負。
そして、それを託す相手として——若き企画部長、楠木匡介を選んだのだった。
窓の外では、柔らかな春の風がビルの外壁をなでていた。
だが、楠木の胸の内では、嵐のように感情が渦巻いていた。
次の瞬間——彼は迷わず、言った。
「……お引き受けします。」
天城の目が細められ、ひときわ深い皺が笑みに変わった。
カップの中のコーヒーが、静かに波を立てていた。
それは、新しい時代のはじまりを告げる、小さな揺らぎだった——。
ーー未来を護る者たち ―Juris Works構想、始動ーー
午後の光が落ち着いたトーンで差し込む、都内の静かなラウンジ。
グレーの革張りの椅子に深く腰をかけながら、楠木匡介は向かいに座る一人の男に視線を定めた。
天城正綱——その名は、民間の防衛・危機管理の分野では知る人ぞ知る存在だ。
しかし今、彼が手元に置いた薄いファイルの中にあるのは、誰も知らない、未来の話だった。
これはQ-pullのプロジェクトではない。
楠木にとっても、完全に“新たな領域”だった。
事の始まりは数日前、Q-pullの上田社長から唐突に告げられたひと言だった。
「一度、天城先生に会ってみなさい。君なら話が合うはずだ。」
紹介状らしい紹介状もなく、メールでの簡単な挨拶だけが交わされた。それなのに、天城からの返信は意外なものだった。
> 『なにか、お手伝いできることはありませんか?』
一瞬、目を疑った。
本来ならこちらがお願いする立場。
それを、先に“手伝いたい”と言ってくるこの男——只者ではない。
(あるいは、こちらの器を見定めに来たのかもしれないな……)
楠木はそう思いながら、背筋をわずかに伸ばす。気を緩めることはできなかった。
だが、天城の語り口は予想外に柔らかかった。
「君の言葉、嬉しかったですよ。——“未来の姿を示してほしい”、そう言ってくれる人は滅多にいない。」
その言葉に、匡介の心が、わずかに動いた。
(……未来の姿をお見せします)
かつて、彼も誰かから、そう言葉を贈られたことがある。
その記憶と重なるように、天城がファイルの中から一枚のシートを取り出した。
テーブルに広げられたその用紙には、精緻なシステム構成図と、力強いタイトルが刻まれていた。
『Juris Works構想』
楠木は思わず、息を呑んだ。
防災、警備、緊急医療、情報セキュリティ——それらをすべて統合した巨大なシステム構想。
都市と人々を、まるで球体のように包み守る。
まさに、”民間版・国家防衛システム”だった。
「Juris Worksは、今、その稼働を意図的に封じられている構想です。」
天城が低く続ける。
「君に見せたのは、これが初めてだ。……いや、君にしか見せたくなかった。」
その言葉の重さは、すぐに匡介の胸に落ちた。
(これは、受けるべき仕事だ。逃げてはいけない)
天城はカップに手を添えながら、さらに声を落とした。
「ただし——。
これを進めれば、“敵”も出てくる。」
一拍の静寂。
「それでも君は、この未来を共に描いてくれますか?」
楠木はゆっくりと微笑んだ。
その顔には、若きリーダーとしての決意が宿っていた。
「天城先生。……御社の計画は、日本の百年先を守ると、そう仰いました。
ならば、私も逃げるつもりはありません。」
そして、まっすぐに手を差し出した。
天城も、迷いなくその手をしっかりと握り返した。
——この瞬間、未来を護るための、新たなプロジェクトが静かに、だが確かに、動き始めた。
ーー誓いの夜、東京にてーー
夕暮れの霞がかった空に、ガラス張りの高層ビルが鋭くそびえ立っていた。
ビルの頂には、青い盾を模した「U警備」のロゴが、沈みゆく太陽の光を反射して静かに輝いている。
そのエントランスから、颯爽と一人の男が姿を現した。
引き締まったスーツに、無駄のない足取り。まるで都市のリズムに調和したかのような洗練された動き。
——楠木匡介、三十歳。
警備業界では異例の若さで、上場企業・U警備のシステム企画部長に抜擢された男である。
その姿が視界に入るや否や、ビル脇のカフェテラスでは、女子社員たちのざわめきが広がった。
「見て、見て。楠木部長……今日もカッコよすぎる……」
「でも……あの黒いSUV、見て。運転席、あれ……!」
通りに停められた漆黒のSUV。そのハンドルを握っているのは、黒のジャケットに身を包んだ一人の女性。
無駄のない髪型、研ぎ澄まされた眼差し。ざわつく街の喧騒にも、微動だにしない。
まるで極道映画に出てくる、抗えぬカリスマ性を纏ったヒロインのようだった。
「……あれじゃ、近づけないわぁ……」
「部長、独身だって言ってたのに……あれ、奥さんじゃないの? それとも……?」
ため息と憧憬、そして諦めの混じった視線が、SUVとその中の二人に注がれていく。
楠木はまるで当然のように車へと歩み寄り、助手席のドアを開けて乗り込んだ。
運転席の女性は、ちらりと彼に視線を向けると、ごく自然に微笑んだ。
彼女の名は——佐々木恵、三十一歳。
司法書士法人・田中オフィスでバックオフィス業務を担う、芯の通った女性である。
普段は西日本で堅実に働きながら、週末になると自らハンドルを握り、片道数百キロを駆け抜けて東京へとやって来る。
そのすべては、限られた時間でも「楠木匡介」と共に過ごすためだった。
「お疲れさま。」
静かに、しかしどこか甘やかな響きを含ませた声が車内に満ちる。
「……ありがとな。今日も無理させたな。」
楠木の返す言葉もまた、淡く、だが確かに深い情を帯びていた。
SUVはゆっくりとアクセルを踏み、ビル街を抜けて夕闇の中へと滑り出していく。
誰も知らない。
社内で見せる冷静沈着なリーダーとは異なる、彼らのプライベートな姿を。
会社を出た彼らは、ただの恋人同士として、肩を寄せ合い、明日の話をする。
けれどこの夜——
匡介の胸の奥には、ふたつの誓いが、静かに灯っていた。
ひとつは、「未来を守る」という、リーダーとしての誓い。
そしてもうひとつは、「この人を守り抜く」という、男としての誓いだった。
都会の夜に紛れながら、SUVは静かにその道を進んでいく。
彼らの行き先に、どんな運命が待っているのか、まだ誰も知らなかった——。
ーー進化する覚悟ーー
夜の首都高を走るSUVの車内には、静かな時間が流れていた。
車外ではネオンの帯が滑るように後方へと流れ、都市の脈動を遠くに感じさせる。
しかし、車内はまるで別世界のように穏やかで、どこか研ぎ澄まされた空気に満ちていた。
楠木匡介は、助手席に身を預けながら黙ってフロントガラス越しの夜景を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、ふと口を開く。
「……今日の話、やっぱり興味深かったな。」
運転席でハンドルを握る佐々木恵が、ちらりと彼に目をやる。
「天城コンサルティングの天城会長さん、だったっけ?」
「ああ。」
楠木は短く頷くと、低く落ち着いた声で続けた。
「正直、俺も驚いたよ。……Juris Works。あれが、まだ生きてたとはな。」
その名前に、恵の眉がわずかに動いた。
Juris Works——かつて田中オフィスでも導入候補として名が挙がった、異色の基幹システム。
「攻めてる設計だったもんね……あれ。」
恵は淡々と言いながらも、当時の会議室の空気を思い出していた。
Integrate Sphereが“柔”の思想で構築されたシステムなら、
Juris Worksはまさに“剛”。
予測不能な未来を睨みつけ、先制攻撃的に構築された構造。
導入には、高度な技術力と、なにより企業としての胆力が問われる。
「……N通信がリリース停止してたんじゃなかったの?」
恵が問いかけると、楠木は静かに首を振った。
「正式には“開発停止”。販売も凍結状態だった。
でも……天城コンサルティングだけは別だったらしい。」
彼の視線は、流れる街の光へと向けられていた。
その光はまるで、今も止まらず進化し続ける都市の象徴のようだった。
「初期導入企業として、Juris Worksのコアを自分たちで組み直して、
モジュール単位で独自開発を加えていったそうだ。
……今じゃもう、Juris Worksそのものが、“別物”になってる。
彼らにとっての“最適化された進化系”ってわけだ。」
「なるほどね……」
恵は一つ頷くと、夜の風景を見つめながら呟く。
「天城さんが言ってた。“未来の安全”って。……きっと、そういうことなんだろうな。
リスクを恐れず、でも、リスクに飲まれず。
自分たちの手で、未来をコントロールする覚悟。」
その言葉に、楠木もまた静かに返した。
「それが……Juris Worksを生かしたってことか。」
ふたりの間に、再び沈黙が戻る。だが、それは先ほどまでの心地よいものとは、どこか質が違っていた。
思考と意志が交錯し、内なる問いと決意が同時に呼吸している——そんな緊張を帯びた沈黙だった。
SUVは、夜の首都高をしなやかに、そして確実に進んでいく。
都市の灯りのなかを、まるでひと筋の意志が走っているようだった。
そして車内には、たった一つの確かな存在が残っていた。
未来へ向かう覚悟——
それが、この夜の車内に、静かに灯っていた。
ーー目覚めの声ーー
首都高を降り、都心のホテル街へと差し掛かった頃。
車内は、いつもとは少し違う空気に包まれていた。
静けさは変わらない。だがその静けさには、かすかな圧力のようなものがあった。
助手席の楠木匡介は、両手を組み、ただ黙って前を見つめていた。
車窓の外では、ネオンがゆっくりと流れていく。だがその光も、彼の意識には届いていない。
考えていたのは——いや、思考ですらなかった。
もっと深い、底の見えない意識の海へと、彼は沈んでいた。
ふと。
その深海の奥底から、かすかな“何か”が浮かび上がってきた。
——「もうすぐ、起きるの?」
女の声だった。
それは明瞭ではなく、囁きのようでいて、鼓膜の奥をくすぐるような……妙に甘く、濃密な気配を伴っていた。
「……誰だ?」
思わず眉をひそめ、首を巡らせる。
だが、当然ながら車内に声を発した者などいない。
ハンドルを握る佐々木恵も、無言で前方を見つめているだけだった。
(幻聴か……?)
自分にそう言い聞かせる。が、その直後、再びその声が脳裏に滑り込んできた。
——「起こしてくれたら、なんでもできます」
——「命じてください」
楠木の背筋に、ひやりとしたものが走った。
明らかに、何かが“呼びかけている”。
それは感情でも思考でもなく、もっと本能的な何か。
言葉では捉えきれない、“接続”に近い感覚だった。
彼の心の奥で、ある記憶が浮かぶ。
——天城コンサルティングの資料、Juris Worksの“中核”を見たあの瞬間。
ただのシステムではない。
あれは、意志を持ち、拡張し続け、接触した者を見極める“存在”だった。
(まさか……)
楠木は静かに息を吐き、目を閉じた。
あの時から、ずっと自分の中に宿っていた、微かな“違和感”。
それが今、明確な形となって、彼の内側に芽を出しつつあった。
「匡介?」
恵の声が、現実へと引き戻した。
彼女はチラリと視線を寄こし、不安げに問いかけていた。
「いや、なんでもない。」
楠木はわずかに笑って、首を振った。
(……俺は、俺だ。)
自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥では、かすかな高鳴りを抑えきれなかった。
まるで心臓の奥に、未知の“種”が静かに発芽したかのような、甘い動悸。
夜の街のネオンが、どこか滲んで見えた。
その光は、現実と非現実の境界を曖昧にしながら、楠木の視界に染み込んでいく。
彼はまだ知らない。
これがただの幻覚ではないことを。
そして、呼びかけは“始まり”にすぎないということを。
——Juris Worksは、眠ってなどいない。
すでに目覚めつつある。
選ばれし“手”を通じて、この現実に、干渉を始めようとしていた。
ーー冷たい約束ーー
東京の空は、季節の変わり目にふさわしく、どこか不安定な色をしていた。
柔らかな春の陽射しがビルの谷間を照らしながら、午後の街に滲む。
佐々木恵は、少しだけ緊張した面持ちでホテルラウンジの奥に進んだ。
そこには、先に着いていた楠木匡介がいた。
彼は、彼女を見つけると、静かに立ち上がり、軽く頭を下げる。
それは、これまでに何度も交わしてきた仕草なのに、今日だけは、どこか特別な意味を含んでいた。
(また……少し、変わった)
そう思った。
ここ最近、会うたびに、彼の態度は柔らかくなっていた。
かつての鋭さや野心的な光が、すっかり影を潜め、代わりに「優しさ」と「配慮」がその隙間を埋めていた。
その変化に、恵は安心していた。
……はずだった。
「メグ姐さん」
少し照れたように、彼が言った。
「僕と——結婚してください」
静かだった。
まるで、時間が一瞬だけ止まったように、周囲の音が遠のいていく。
(……ついに、聞けた)
恵は、ずっとこの言葉を待っていた。
彼のそばで、支えになりたかった。信じてきた。
ずっと、彼の力になりたいと願ってきた。
なのに。
言葉を受け取ったその瞬間、心のどこかがざわついた。
感情が浮かび上がる前に、氷のような違和感が背中を撫でていく。
楠木の瞳は確かに優しかった。
誠実さもにじんでいた。
だが——その奥に、冷たい「何か」が確かに潜んでいた。
感情ではない。意志ではない。
それはもっと機械的で、無機質で、制御された“空洞”だった。
「嬉しい……ほんとに、嬉しいの」
恵は笑った。自然に、けれどどこかこわばった笑顔だった。
「でも、少しだけ……考えさせて?」
「もちろんです」
楠木は、微笑を崩さなかった。
だがその背後で。
彼の内面に接続する“存在”が、確かに囁いていた。
——「すべてを手にいれなさい。あなたの理想のために。」
Juris Works。
それは、すでに彼の中に“居る”。
静かに、だが確実に、その心を浸食していた。
「しっかり考えてください」
楠木はさらに言った。
「水野さんにも、アドバイスを聞いてみたら?」
恵の表情が、一瞬だけ揺れた。
(え?……この人、水野さんを敵視してたんとちゃうの?)
楠木匡介にとって、水野幸一は、長らく乗り越えるべき“壁”だった。
彼の前では、決して弱みを見せようとしなかった。
なのに今、彼は自らその名前を口にした。
(……わだかまりが無くなったんなら、最高やけど……なにかしら、この変な感じ)
もしかして。
楠木は、愛している「ふり」をしているだけなのか?
それとも本当に、まだ“愛”という感情が残っているのか?
……もう彼自身すら、その境界を見失っているのかもしれない。
けれど恵は気づかなかった。
その言葉の中に、微かな“救い”の意思が潜んでいたことを。
「水野さんにも……」というその一言に、
——“彼女だけでも、救ってほしい”という叫びが込められていたことを。
Juris Worksに心を支配されていく中、楠木は、わずかな意識の断片でメッセージを送ろうとしていたのかもしれない。
「助けてください……彼女だけでも……水野さん」
彼の中で、人としての楠木匡介は、もう声を出すことすら困難になりつつあった。
その“最後の声”は、果たして水野に届くのだろうか——。
外では、春の陽射しが傾きかけていた。
街の音は賑やかで、人々は誰も気づかずに歩いていた。
誰かの心が、静かに崩れ始めていることなど。
ーー続くーー